プロ野球事件簿 by アトムフライヤー

    第5回 藤波行雄選手トレード拒否事件シリーズ 〜その1〜

    第6回 藤波行雄選手トレード拒否事件シリーズ 〜その2〜

    第7回 藤波行雄選手トレード拒否事件シリーズ 〜その3〜



     第5回 藤波行雄選手トレード拒否事件シリーズ 〜その1〜


     読者のみなさまこんばんは。今回からは、藤波行雄選手のトレード拒否事件シリーズについて書いてみたいと思います。
     ちなみにこのトレード拒否事件とは、新人王に輝いた実績もある、当時若手の藤波行雄選手が、所属していた中日ドラゴンズから、黒い霧事件以降何かとゴタゴタ続きだったクラウンライターへのトレードを通告されるとこれを拒否、強行するなら引退する、とゴネたため、このトレードがご破算になった、というものです。
     では、この事件について詳しく見ていきましょう。


     藤波選手は、静岡県出身、左打ちの外野手で、静岡商業−中央大学を経て、1974年にドラフト1位で中日ドラゴンズに入団しました。静岡商業では夏の甲子園にて準優勝とベスト8を経験し、中央大学では当時の通算安打の大学記録をマーク、そして、入団した1974年には新人王を獲得し、中日ドラゴンズの優勝に貢献しています。同球団の本拠地の近郊出身なので、地元の人気も高く、まさに順風満帆の野球人生でした。しかし、レギュラーを確保することはできず、いまひとつ伸び悩んでいました。
     そこでドラゴンズは、当時ゴタゴタ続きですっかり弱体化していたクラウンライターに、この藤波選手を交換要員として、基満男二塁手とのトレードを持ちかけます。伸び悩んでいる藤波選手を左の外野手の欲しいクラウンにトレードする代わりに、衰えはじめた高木守道選手の補充要員として、基選手を獲得するという考えでした。そしてクラウン側もこれを了承し、他ひとりずつ、2対2でトレードは、球団フロントレベルでは成立しました。1976年のシーズンオフのことです。


     ところがこのトレードについては、両球団フロントにとって思わぬ事態が発生します。基選手は了承したものの、藤波選手は、「私は中日ドラゴンズの選手でありたい、もしも私をクラウンライターに移籍させるなら引退する。」と移籍を拒否したのです。
     ちなみに藤波選手の移籍拒否の背景ですが、相手がクラウンライターというのが問題でした。クラウンライターは、経営難の西鉄から球団を買い取った福岡野球株式会社が親会社で、クラウンライターを球団名とする、いわゆる*看板方式を取っていましたが、経営難で常に倒産が噂されており、ドラフトで指名されたくない球団のトップだったのです。そして選手間でも、「クラウンだけには行きたくない。」という声があがっていました。


    *看板方式
     いわゆるネーミングライツのこと。球場名やスタジアム名に企業の名前を被せるのは有名だが、クラウンライターの場合は、球団の名前に企業名を入れた、という形になっていた。


     その経営難の状態は、今一部の巨人ファンから「貧乏球団」と揶揄されているオリックス・バファローズや広島東洋カープの比ではありませんでした。なにしろ、“合宿所の食費が払えない”、“破れたボールを職員が再生して使用している”といった噂話が頻繁に流れ、いつ倒産してもおかしくないと思われていたのです。そして、同球団に所属する選手からも、他の球団でプレーしたい、という声がしばしばあがっており、藤波選手が移籍を嫌がったのも無理のないことではあったのです。


     中日ドラゴンズのフロント側はこの移籍拒否に驚きますが、当時の常識では、フロントレベルで一度成立したトレード話を一選手の勝手な都合や主張でご破算にするわけにはいかなかったので、今度は藤波選手に対し、移籍勧告を行いました。しかし、藤波選手の答えは変わりません。
     一方クラウン側からは、「移籍の成立を急いでほしい。」と催促が来ます。また、トレード相手である基選手からも、「引っ越しの都合があるから、移籍するなら早く決めて欲しい。」とのコメントが出され、それが新聞に掲載されます。そしてセ・リーグ会長からも、「選手の心情を配慮し、早急に移籍を決めるように。」と勧告が出されます。そこでドラゴンズのフロントは焦りますが、藤波選手の答えは変わりません。


     するとそのうちに、藤波選手の地元のファンや後援会が騒ぎ出し、「我々の地元の人気選手をあんなつぶれそうな球団に移籍させるとはけしからん。」と集団で球団に抗議が来ます。また、そのほかのドラゴンズファンからも、街頭にて「藤波選手をクラウンに移籍させないで。」という署名運動が行われるようになり、抗議電話が中日球団の事務所にかかってくるようになりました。
     この抗議の背景には、当時のドラゴンズが与那嶺監督になってから、チームの活性化という名目で次々と生え抜き選手をトレードに出しているということがありました。しかも、与那嶺監督が画策したトレードのほとんどが成功したとは言い難く、結果として、地元の人気選手を失う一方でチームの成績があがらなかったため、ファンの目から見ると、与那嶺監督が気に入らない選手を追い出しているようにしか見えなかったのです。そして、ドラゴンズのフロントがこの騒ぎを収拾しようとすればするほど、騒ぎはどんどん大きくなっていったのです。


     次回は、藤波選手側の事情から、話を進めていきます。



     第6回 藤波行雄選手トレード拒否事件シリーズ 〜その2〜


     読者のみなさまこんばんは。前回は、藤波選手がクラウンライターへのトレード話を拒否した背景とそのアクションの顛末について書きましたが、今回は、藤波選手側の事情ならびに、このトレード拒否事件と、前シリーズの江川事件との比較をしてみたいと思います。


     前回、地元後援会やファン、あるいはドラゴンズファン全体から、この藤波選手トレード拒否事件に対して球団フロント側に抗議が殺到したことは説明しましたが、はたしてこの騒ぎは、どうやって起こったのでしょうか。そしてその大きくなった騒ぎに、はたして藤波選手は関与していたのでしょうか。
     私が確認したところ、藤波選手から後援会に頼んだという事実の証拠をつかむことはできませんでしたが、後援会の運動を止めようとしたという証拠も確認していません。したがって、読者のみなさまに対しては奥歯にモノがはさまったような言い方で大変申し訳ないのですが、どうも藤波選手自身からは、移籍を拒否して引退すると言えば後援会が動く、と計算していた様子が私の目から見ると、伺えるのです。また、このまま引退しても関係者のコネで、母校中大の監督に就任可能と読んでいた面も伝えられています。どちらにしろ、相当なしたたかさが私には感じられるのです。


     一方後援会は、「移籍をやめなければ中日新聞を買わないようにするぞ」と中日新聞の不買運動をけしかけます。さらに、当時の日刊ゲンダイや夕刊フジの記事を確認してみると、後援会は政治家にまで手を回し、「新聞の不買運動を名古屋まで広げる」と球団を脅したとされています。またこの件については、地元の財界人にも行き過ぎたトレードを快く思っていない人が多くいたため、効果は絶大だったようです。
     そして、ついにこういった脅しに屈した中日ドラゴンズのフロントは、藤波選手と基選手のトレードをご破算にし、竹田和史投手と松林省吾選手の1対1のトレードに切り替えました。その結果、選手による移籍拒否によってトレードが不成立という前代未聞の事態となってしまったのです。
     これは完全な中日ドラゴンズのフロント側の敗北で、その不手際の結果、世間に恥をさらす形となって事件は終わり、中日ドラゴンズ球団は、藤波選手に1977年のキャンプの自費参加と背番号3の剥奪というきわめて軽い処分しか課しませんでした。


     さて、この事件は一般新聞においてはベタ記事扱いで、地元以外ではほとんど知られていませんが、実は、2年後に起きる「江川事件」以上にプロ野球の組織を破壊する重大な違法行為だと私は考えています。そこで、まずこの事件を「江川事件」と比べてみます。


     まず、世間一般で「江川事件」の問題点とされるのは、以下の数々ではないでしょうか。


    1.入団するにあたり、ルールを破って入団した。
    2.ルール破りをリーグ脱退をちらつかせ、コミッショナーに認めさせた。
    3.ルール破りの背景に政治家とのつながりが明らかだった。
    4.小林投手を他球団に無理矢理トレードするという形で犠牲者を出した。
    5.引退後も事件の反省を述べずにテレビに出演している。


    一方、藤波選手のケースについて上記と同様に考えると、以下のような問題点が出てきます。


    1.プロ入りのときに交わした契約条件を破って移籍拒否をした。
    2.ルール破りの背景に後援会と政治家とのつながりが明らかだった。
    3.移籍予定の基選手の立場を悪化させた。
    4.引退後も事件の反省を述べずにローカル放送でマスコミに登場している。


     では、上記の藤波選手の事件の問題点について説明していきましょう。
     まず1についてですが、選手の保有権は球団にあります。というのも、日本プロフェッショナル野球機構統一契約書様式の第21条【契約の譲渡】にて、

    ●第21条【契約の譲渡】
     選手は球団が選手契約による球団による権利譲渡のため、日本プロフェッショナル野球協約に従い本契約を参稼期間中および契約保留期間中、日本プロフェッショナル野球組織に属するいずれかの球団へ譲渡できることを承諾する。

     と明記されておりますので、契約した以上、藤波選手はそれを承知でプロ入りしたことになります。しかもこの当時は「10年選手の権利」も「フリーエージェント」も認められていませんから、選手自ら保有権の解除はできません。つまり、

     “ひとつの球団から他球団への保有権の移転=トレード”

     を拒否することはできないのです。


     これは戦後、南海ホークスから読売ジャイアンツに引き抜かれた別所毅彦投手の騒動の例にもあるとおり(この事件については後日取り上げます)、引き抜き合戦が横行すると、選手の年俸の無定見な暴騰が発生し、球団の存続が危うくなるからです。これについては編集長のMBさんの過去の初期メジャーリーグについての連載、あるいはニグロリーグの連載でも出てきますが、選手がカネを求めて“ジャンプ(球団を渡り歩くこと)を繰り返した結果、球団の存続自体が危うくなった、という例は日本のみならずアメリカでもあったことで、枚挙に暇がありません。したがってこの教訓から1951年に統一契約書様式が発効となり、選手の保有権は契約した球団にアリ、ということになっていました。そしてこれ以後、トレードでの感情的なもつれこそいくつかありましたが、藤波選手の事件に至るまで、移籍拒否は一切なかったのです。


     次回は、巨人で数々の“問題行動”を起こした選手たちの例を挙げながら、実際に“藤波事件”とは何だったのかということを述べ、このシリーズの総括としたいと思います。



     第7回 藤波行雄選手トレード拒否事件シリーズ 〜その3〜


     読者のみなさまこんばんは。今回は前回の予告どおり、巨人で数々の“問題行動”を起こした選手たちの例を挙げながら、実際に“藤波事件”とは何だったのかということを述べ、このシリーズの総括にしたいと思います。


     さて、前回は統一契約書様式によれば球団側には保有権があるため、選手のみなさんはトレードを拒むことができないという話をしましたが、実は、選手のみなさんの側にこれについての自らの権利がない、というわけではありません。
     それは、球団との契約の解除を申し出る権利です。したがって、選手がこれを申し出れば、選手の立場はフリーになります。しかしながら、日本プロフェッショナル機構の行う興行についていえば、保有権は球団側にあるので、プロ野球選手として日本プロフェッショナル野球機構に所属するチームにて野球を行う、あるいは、これと提携している*1アメリカ・メジャーリーグ機構や*2韓国プロフェッショナル野球機構に属する他球団へ移籍し、プレイするといったことはできません。つまり、移籍拒否=引退という方法は確かに存在しますが、プロフェッショナルとしてスポットライトの当たる場所で野球をやっていくことは、できなくなるのです。


    *1アメリカ・メジャーリーグとは保有権の折り合いについて、1962年10月の日米プロ野球機構のコミッショナー会談にて合意済。
    *2韓国プロフェッショナル野球機構の発足は1983年より。


     ただし、過去にこの権利を行使した者は何人か、います。
     一番有名なケースは、巨人の定岡正二選手の例です。近鉄バファローズとのトレードを拒否して引退、タレントとなりました。これについてはアンチ巨人のみなさんから、巨人以外でプレーしたくないなどとはプロ野球選手の恥と揶揄され、軽蔑の対象となっていますが、この人の場合、単に自分自身の権利を行使しただけなので、ルール上は何の問題はありませんし、他人のことを考えていないのではないか、あるいはモラル的にどうなのかという意見があるのは百も承知で言いますが、所詮は本人の問題であるにすぎません。
     したがってこのケースと藤波選手の移籍拒否事件とを比べた場合、藤波選手も引退すればルール上問題なかったのですが、中日ドラゴンズへの残留を主張したのが間違い、ということになります。


     次に「江川事件」の陰に政治家がいたことは最初のシリーズでも説明したとおりですが、これについては、江川選手の周辺の人間が政治家を使って不正に巨人入団を画策し、日本プロフェッショナル野球機構に圧力をかけたのが批判される理由のひとつになっていることは、間違いのないところでしょう。
     そこでこれを藤波選手のケースと比較した場合、政治家とのつながりの信憑性こそ夕刊紙がネタ元になっているため、疑問がありますが、後援会の人たちが新聞の不買運動を煽ったり、球団事務所の電話がマヒするほど抗議の電話をかけ続けて、日本プロフェッショナル野球機構に属する中日ドラゴンズ球団を脅したのは、事実です。江川事件にしても藤波事件にしても、ルールの元に圧力をかけた、という点でまったく違いはありません。
     また、私がこのケースについて江川事件よりもある意味で嫌なものを感じているのは、藤波選手が、このトレードについて後援会に圧力をかけてほしいと頼んでいるかどうかこそ不明瞭なのですが、これを身体を張って止めようとしていたことも確認されていない点です。私としては、もうプロである程度の年数をこなしている大人なのですから、身体を張ってでも止めに入るのが筋だと思うのですが、読者のみなさんはどうお考えになるでしょうか。


     続いて、移籍の相手となった選手について江川事件と藤波事件とを比較してみると、江川事件では小林投手を阪神にトレードしておりますので、実績充分の選手と新人選手との交換で阪神に行かざる得なかった小林投手は、確かに犠牲者といえます。
     一方、藤波選手のトレード相手となった基選手の場合は、テストからはい上がってきた叩き上げの選手であったため、プレーを評価してくれればどこへでも行く、という考えではありましたが、トレードが決まったときに「早く、中日でプレーしたい。セリーグの方がやりがいがある。」と発言してしまったため、この藤波事件の煽りで一転残留となってしまってからは、同僚やファンから「球団に愛着はないのか」と白い目で見られ、プレーがやりにくかったそうです。翌年に基選手は大洋ホエールズへとトレードされますが、のちに「トレードされるなら前年に行きたかった。」と言っていますので、迷惑をかけたということでは小林投手の例とかわらないでしょう。


     そして、二人とも「事件の“反省”もせずにマスコミに出ている」という点では同じです。江川さんの方が全国放送で出演回数が多いでしょうが、藤波さんもフジテレビのプロ野球ニュースやすぽると!に出ていましたので、2人とも日の当たる場所で引退後も活躍している、という点では変わりません。


     というわけで、いままで4点から二つの事件について比較してみましたが、私の見方では双方の事件とも、悪質性について考察すれば、大して違いはないということになります。
     唯一違うのは「江川事件」がコミッショナーを脅して裁定を変えたさせたことですが、藤波選手もセリーグ会長の勧告を無視したということで、“ルール”を無視し、日本プロフェッショナル野球機構の存在をないがしろにしたということでは、双方の事件とも、悪質さではまったく変わりません。


     また、誤解している方が多いようですが、「江川事件」でコミッショナーが乗り出してまで裁定を行ったのは、巨人の行動が悪質だったからではなく、過去に前例がないケースだったためにそうしただけです。藤波選手の場合、過去の前例は決まっていますし、引退以外認めたケースがなかったために、コミッショナーが自ら裁定を下す必要がなかっただけにすぎません。リーグ会長の勧告無視よりもコミッショナーの裁定無視の方が罪が重いじゃないか、という主張をされる方がおられるのは百も承知で言いますが、ルールのあり方、あるいは日本プロフェッショナル機構のあり方という点から考えれば、リーグ会長の勧告無視はコミッショナーの裁定無視と同じであることは自明の理でしょう。両者に軽重の違いはないのです。


     さて、最後にこのシリーズのもっとも大事な部分について述べて、締めにしようと思います。まず、

    ●不正入団は、各球団の戦力均衡を崩し、興業の成立を阻害する悪質行為である
    ●移籍拒否による保有権の侵害は、各球団間の移籍を阻害し、選手の引き抜き合戦につながり、興業の成立を阻害する悪質行為である

     というのが、江川事件と藤波事件を比較したときの大筋になります。そこでこの両者を比較すると、プロ野球興行の成立を阻害する悪質行為という点ではまったく変わりません。世間に対する認知度についていえば、天と地ほどの差があるのですが。


     ただ、これら双方の事件の最大のポイントは、ここではないというのが私の考えです。ですから私は、藤波さんの移籍拒否という行為について、一方的に非難するだけにとどまろうとは思いません。


     問題は、選手を物扱いする奴隷制度のような保有権が、当時の球団に認められていたということです。
     私は、当時「フリーエージェント」は知りませんでしたが、「10年選手の権利」は知っていました。「荒川事件」を筆頭に入団や移籍でもめごとが起こるたびに、なぜ「10年選手の権利」を復活させないのか、と疑問に思っていました。
     これは、球団側に都合のよいルールは変えたくないという12球団一致の考えであるかのように、私には見えます。この事件といい「江川事件」といい、球団保有権の解除について考える絶好の機会だったにもかかわらず、マスコミのみなさんもプロ野球ファンのみなさんも、何も考えませんでした。
     結局インパクトが強く、売れる事件でなければ取り上げないし、考えないということなのでしょう。球団保有権の解除は1993年の「フリーエージェント」導入まで、待たなければなりませんでした。


     また、この事件が中日ドラゴンズの地元以外でほとんど知られていないのは、当時は選手の保有権を球団が持っていることについて、世間に対する認知度が低かったためでしょう。そのために世間一般ではルール違反の認識が乏しく、問題にされなかったのではないかと私は考えています。


     そしてドラゴンズ以外の各球団についていえば、保有権のある種“奴隷的”なあり方というのが表に出ると困ってしまうので、静観を決め込んだのではないかと私は考えています。のちの江川事件の際にこれが大いに問題とされたのは前回のシリーズでも述べたとおりですので、おそらく各球団とも、この保有権の問題を認識していたのではないでしょうか。


     あとは人気選手に甘い球団の態度も明らかです。巨人とどこがちがうのでしょうか。巨人の対応のことを問題にするのなら、中日ドラゴンズのこの事件への対応についても、マスコミのみなさんやプロ野球ファンのみなさんはもっと問題にしてもいいはずです。事件の性質を考えれば。


     この事件の後日談についてですが、藤波選手は残留後、中日ドラゴンズで選手生活を終え、今は地元のローカル放送局で解説者をしています。また、クラウンライターに移籍した竹田選手は、翌年クラウンが球団を西武に売ってして西武ライオンズが誕生すると、阪神タイガースへとトレードされています。
     そして竹田選手はのちに、「西武に身売りしたとたんに冷遇され、追い出されるように阪神に行かされた。こんなことならゴネてでも中日に残ればよかった。」と言っています。藤波選手はゴネ得だったということです。


     したがって、この事件を追っていくと、よくドラフト礼賛論者が唱える「プロ野球ならどの球団に行っても同じ」という主張が、極めてしらじらしく見えます。今後のプロ野球の健全化を唱えるなら、制度を採り入れれば公平が保たれるという幻想は捨てた方がよいでしょう。というのも、この事件の裏にあるのは、球団の待遇の格差だからです。
     球団、選手、ファンが一体となって考えていかなければならない問題のような気がします。


     【参考文献】
     ベースボールマガジン社 「プロ野球新・トレード史 1936−1998」
     新潮文庫 近藤唯之著 「プロ野球 トレード光と陰」


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