COOLTALK過去投稿分 その1

    ●審判制度にVTRを導入することの是非
    *DATE: 05月08日(月)01時03分07秒 TITLE: 遅くなりました NAME:あわむら


    ●甲子園球場における応援団の実際
    *DATE: 05月15日(月)16時58分03秒 TITLE: 応援団について・・・。 NAME:あゆこ


    ●日本野球のルーツ
    *DATE: 4月2日(火)22時35分25秒 TITLE: 押川氏の7か条 NAME:九時星
    *DATE: 4月3日(水)00時45分31秒 TITLE: 正直、私にとってはかなり難解な本です(^_^;) NAME:九時星

    *DATE: 4月3日(水)15時05分26秒 TITLE: >九時星さん NAME:てっちん

    *DATE: 4月4日(木)23時14分47秒 TITLE: 歴史分析 NAME:九時星

    *DATE: 4月6日(土)22時05分54秒 TITLE: 飛田穂洲 NAME:九時星

    *DATE: 4月7日(日)06時07分19秒 TITLE: ボールを打つスポーツ NAME:fahta

    *DATE: 4月8日(月)22時47分38秒 TITLE: 野球人気 NAME:九時星

    *DATE: 4月9日(火)01時07分55秒 TITLE: 野球が広まったことの主因のひとつ:学生がヒマだったから NAME:fahta

    *DATE: 4月9日(火)11時28分03秒 TITLE: 1930年代について NAME:てっちん

    *DATE: 4月11日(木)00時07分10秒 TITLE: 野球人気 NAME:九時星

    *DATE: 4月12日(金)00時05分43秒 TITLE: 私の勘のまとめ NAME:fahta



    ●審判制度にVTRを導入することの是非

    *DATE: 05月08日(月)01時03分07秒 TITLE: 遅くなりました NAME: あわむら


     MBさん、どーも遅くなりまして申し訳ないです。今日も審判しに行ってて昼間いなかったものですから。

    #さっきようやくぴろさんとこにもちょっと書き込みしたんですけど、なんかあまり参加したくない感じではあります。感情的な意見が多いもんだから、ぼくもなんかつまんないこと書いちゃったなあ……

     さてところで、僕は甲子園球場のポジショニング事件は観ていないし、ナゴヤの三振→暴行事件はとくに言うことがないので、そういう具体的な話ではなく、一般論としてのVTR導入についてだけ意見を述べさせていただくことにします。(あんまり「ご教授」とか言わないでくださいよ(^^;プレッシャーかかるから)

     高原会長の見解は、基本的に僕の意見と一緒なので、ほかに言うことはありません。

     ……では意味がないので、もう少し突っ込んだ話もしましょうか。

     確かに費用対効果の問題はあるんですが、結局目の錯覚も利用したスポーツなので、VTR入れちゃうと人間の目で行った判定が全部覆っちゃうんですよね。だけど、打者走者が一塁ベースの手前1メートルのところにいて、内野ゴロが一塁に転送された、「セーフ!」なんつったら、ビデオで見直して判定を覆せ、これは目の錯覚うんぬんの話じゃないだろう、という意見に賛同できないではないです。(ちなみにこの話は実話です。1985年のワールドシリーズで起きた「世紀の大誤審」です)

     だけど、そんなことだけのためにVTR導入して大きな意味がありますか?ミスジャッジも含めて野球だ、と声高には言えませんが、まあ実際にはそういうもんです。守備妨害や打撃妨害の判断なんてフィフティ・フィフティな部分が大いにありますよ。微妙なタッグプレーの判定だって、勢いも大事です。バッドアングルが引き起こす誤審もありますが、そういう審判は淘汰されていくし、めったやたらと起こるものでもないです。

     長文になりそうで申し訳ないんですが、ちょっと脱線してストライクゾーンの話をします。

     現在の形のホームベースが出来たのは1900年だそうです。それまでは球審は打者の横にいて、「今のは見逃したけど打てそうな球だったからストライク」なんてやってたわけです。
     「投手は打者の打ちやすい球を投げる」なんていうルールだったニッカーボッカーベースボールクラブの時代からプロリーグが出来る時代になって、さすがにそれじゃあまずいっていうことで、ホームベースとストライクゾーンを作ったのが1900年だとすれば、まさに近代野球の芽生えからちょうど100年経ったわけです。その間にストライクゾーンの規定が変更されること20数回。打者有利、投手有利の是正なんていいながら、実際には大リーグのオーナーのきまぐれで変わっていったと言っても過言ではないと富澤翁は言ってました。

     もともとストライクゾーンというもの自体が、何インチかける何インチの長方形というものでない以上、VTRの導入なんてナンセンスだと思うんです。それはタッグプレーの判定にしたって、タッグアップ(リタッチ)の判定にしたってそうです。ジャッジの位置が悪くて誤審することがないではないですが、それは審判の努力によって克服できることであって、VTRを導入しなければ克服できないことではないはずです。それとも、選手のスパイクとグラブとベースにセンサーをつけておいて、いざっていうときには音が鳴るようにしますか? とても出来ないですよね。

     話を1985年のワールドシリーズ、デンキンガー審判の世紀の大誤審に戻しますが、この事件に類するようなミスは時々起こります。デンキンガーに関しては、優秀な審判員をこのようなミスひとつで失うべきではないという判断でコミッショナーが護り通したそうですが、たとえば去年セ・リーグの田中審判部長が誤審から職を追われました(実際お会いしたら結構いいかげんな人っぽかったので仕方ないかなと思ったということは余談ですが)。ポジショニングを含めて上手い下手というのは専門家には分かりますから、下手な仕事をしたら職を追われる、これは当然のことです。そして、プロ・アマを問わず、心から審判という職を愛している人間は、ゆめゆめそのようなミスを起こして選手に迷惑をかけないようにと思って努力しているはずで、その努力で解決することに無理に金をかけなくてもいいんじゃないかと思うんです。

     僕はVTRの導入に100パーセント反対の人間ですが、導入しろという意見を完全に説き伏せるだけの理屈は持ち合わせていないです。なのでこの書き込みも長い割には説得力に欠けるような気がしてなりません。ただ、最後に結論めいたことを言えば、導入したところで使い方はきわめて難しいし、ほかに金をかけるべきところはまだまだあるんだといえば、結局MBさんやぴろさんの意見と同じなんですけどね。

     とりあえず以上です。なんかよく分からないとか、反論があるとか、そういうご意見があればもう少し議論してもいいんですが、抽象論だけ書くのは疲れるのでこの辺にさせてください。


    ●甲子園球場における応援団の実際

    *DATE: 05月15日(月)16時58分03秒 TITLE: 応援団について・・・。 NAME:あゆこ


     どうもこんにちは。二度目の書き込みになります。Kiddさん、来ましたよー。

     応援団・・・私はタイガースファンなので、猛虎会のことになってしまいますが。昨日友人とT−G戦を見に行ってきたんです。ご存知の通り、阪神は負けてしまったのですが・・・確か8回裏だったと思います。桧山選手だったかの打球を高橋由選手がキャッチしました。その前のイニングに逆転されて機嫌の悪かった阪神ファンは、高橋・松井両選手に向かってメガホン等を投げ込んだんです。松井選手は、ビールを被ったようにも見えました。私はライト側にいたので、レフトではどうだったか分かりませんが・・・。

     その時、「やめましょう!」と声をかけていたのは、前の方で応援を取り仕切っていた応援団の方でした。野次るのは、まぁ酷すぎない限り構わないでしょうが(実際、私も活気があって好きなんです。自分でも野次りますし・・・)物をグラウンドに投げ込むと言う行為はファンとして最低だと思いますし、格好悪い。
     本当の所、応援団の方ってそういった行為を奨励はしても、止めることはないだろうと思っていたんです。試合前の野次なんかを見ていても。でも、そんなことは無かった。応援団の人は本当にチームを、野球を愛しているんだと感じました。物を投げ込んだ人を掴まえて「何してんねん!」って怒鳴りつけてるのを見て、ああ、これが本当の「応援団」なんだなぁ、って感じましたね。

     正直、前に甲子園に行った時、応援団の人に席を追い出されたことがあって(席取るからどいてくれ、と言われて後ろにやられた)感じ悪いなぁ、と思っていたんですが・・・。その団によるのかもしれませんね。少なくとも東京ドームで問題になってる、あんな情けない人たちと、私が昨日見た応援団の方は一緒じゃないと思います。偏見かもしれませんが、「猛虎会」の方はマナーがあるように感じるのですが・・・。(席を無理に取ったり、物を投げ込むようなことをするのは規模の小さい応援団に多いような。)

     そんなに球場に通い詰めたりしてる訳じゃないので、偉そうなことは言えませんが。応援団がいることで楽しんでいる部分も大きいです。応援歌のこととか色々と教えてもらえますし、親切な方も多い。まだまだ駆け出しの私みたいなファンにとっては憧れです。
     でも、応援団とか、常連という名に甘んじて最低の行為を行う人も少なくないのは事実ですね。本当に情けない。だから、日本の野球の質が低下するんです。

     質ということでついでにもうひとつ。自分が出したゴミくらい捨てて帰ろう!!ってこと。出口の側にゴミ箱あるんだから、ちょっと持っていくだけ。その辺りが出来なくちゃ、球場で観戦する資格なんかないと思う・・・。あなた達の何分の一かしか生きてない私にもわかるのにね。

     うーん。わけわかんなくなっちゃいました。
     Kiddさん、ご期待に添えなくてごめんなさい・・・(え、ハナから期待なんかしてない?/涙)

     ・・・星野監督がしたことって、やっぱりいけないことなんですよね?それを理解できない「大人」や「ファン」の何と多いことか。誤審と暴力は別問題、ですよね。あーあ。
     「星野監督はやっぱあかんことしたから、反省しないと」って言った私「じゃあもう誤審に文句言うな」とか抜かした”オールド・ファン”。あんたらみたいなのが偉そうに応援団なんて組織するから、問題になるんやで。

     わけわかんないです。場にそぐわなかったらすみません。それでは、この辺りで・・・。



    ●日本野球のルーツ

    *DATE: 4月2日(火)22時35分25秒 TITLE: 押川氏の7か条 NAME:九時星


      ちょっと横レスですが、「押川氏の7か条」についてご説明を…

     日本初のプロ野球チーム「日本運動協会」が初の大陸遠征に出たとき(大正11年)に監督の押川清氏が選手たちに課した条文です。なおこの時の協会チームのメンバーは20歳以下のものも多く、現在でいうプロ野球チームのイメージとは違うことをご考慮ください。
    1.試合中、審判者の宣告には、規則に関する以外、絶対に服従し、万一われに不利の宣告ありたる時といえども、言論はもちろん、動作においても、決して不平がましき態度をなすべからざること。

    2.規則に関する事といえども、主将を通じてのみ交渉すべきこと。

    3.われ守備にあるときは、見方を激励する言葉以外、敵方を愚弄、軽蔑するがごとき言は決して口外せざること。

    4.われ攻撃にあるとき、コーチャーは味方の走者を補導なす事に全心をつくし、敵方を揶揄するがごとき事は言わざること。

    5.毎回交代の際は、直ちに駆歩をもって、迅速にその位置につき、またベンチに帰り来るべきこと。(交代のたびごとに、いちいち評議をなし、あるいは攻撃時の好機に会し、種々相談をなすがごときは、心得ある戦士の恥ずべきところ、軍議は前もって決し置き、戦いに臨みては、充分の自信と余裕をもって事に当るべく心掛くべきなり)

    6.旅行中は、各自単独行動(例えば地方友人等の招待などのごとき)は絶対に禁ず。団体の招待等は監督者の命に従うべし。

    7.酒類の飲用厳禁。(今回の旅行に限らず、本協会へ入会当時の誓約なるも、特に注意す。この禁を犯し、または運動協会選手として且つ運動家として恥ずべき品性上の問題を起こせるものあらば、即座に除名せらるるものと覚悟せよ)

     引用元は「もうひとつのプロ野球」佐藤光房・著、朝日新聞社・刊(1986.1.20)

     なお、私のサイトの中の「日本プロ野球史」第二章・日本運動協会〜第二項・芝浦球場にて、時代背景を記載しております。



    *DATE: 4月 3日(水)00時45分31秒 TITLE: 正直、私にとってはかなり難解な本です(^_^;) NAME: 九時星


     ベースボールが日本の持つ精神風土の元で独自の発展を遂げた、という意味では坂上氏も従来の研究者の説も同じなんですが、従来、日本の野球の中に主体的に日本精神が内包されていたとする説に対して、坂上氏は日本の精神風土を外的要因と捉えたところが大きな違いでしょうね。例えば文明開化の嵐の後の国粋主義の揺り戻しや野球害毒論、野球統制令、野球用語の日本語化、戦後民主主義などが野球に与えた影響は大きく、一高野球、早稲田野球、甲子園野球などもそれらの影響下で生まれたものであるという説には同感です。

     しかし士族の数によって江戸時代から続く士族的風土の連続性を否定するのもどうかと思うのです。坂上氏がターニングポイントにあげている1890ですが、一高が全寮制を敷いて10年、日清戦争に勝利して6年ですから、私は士族的風土が全寮制によって一高の校風となり明治も33年に至って徴兵制の実施(明治6年)で軍隊に行った人たちの子供達が入学年齢に達し、士族以外のエリートや精神的「武士」の登場が一般的になった結果ではないかと考えます。

     私は日本人には「正々堂々」を最善、「卑怯」を最悪とする風土があると思っています。例えば「弱虫」「卑怯者」「間抜け」などの侮辱語の中でも「卑怯」がもっとも嫌われるのではないでしょうか?「ずるい」は「卑怯」の一歩手前ですから本来は嫌われる行為ですが現在では「ルールの範囲内」であり「チームのため」である限り非難されませんね。これは「正々堂々」=「義」をもっとも重視していた時代から「滅私奉公」=「忠」をもっとも重視する時代に変化したためだと思います。これは外敵に対する軍隊の必要性からの変化でしょう。従って士族の減少によって士族的風土が途切れたのではなく外的環境によって変化したということじゃないでしょうか。

     日本の野球自身が本質的に持っている武士道的性質によって特殊な日本野球が出来上がったという意見には賛成しかねますが、日本的風土によって野球が定着したということは否定出来ないと思います。というか坂上氏の研究の中でも否定されていないと思います。『1対1の勝負』を士族的風土の賜物だとすると、明らかに野球は士族的風土によって日本に定着したといえるでしょう。

    (坂上氏の本)
    にっぽん野球の系譜学 / 坂上康博著<ニッポン ヤキュウ ノ ケイフガク>--
    (BA52842998)
    東京 : 青弓社, 2001.7
    241p ; 19cm. -- (青弓社ライブラリー ; 15)
    ISBN: 4787231871
    著者標目: 坂上, 康博(1959-)<サカウエ, ヤスヒロ>
    分類: NDC8 : 783.7 ; NDC9 : 783.7 ; NDLC : FS35
    件名: 野球 -- 歴史



    *DATE: 4月3日(水)15時05分26秒 TITLE: >九時星さん NAME:てっちん


     現在社会学の潮流の中に、構築主義というものがあります。これは簡単に言えば、社会的な事実や人々の性質とされているものは、歴史的・社会的・文化的に作り出されてきた、とみなす考え方です。構築主義の反対が本質主義と呼ばれるもので、特定の社会的属性を持つ人々には、共通した自然的、非歴史的な特性を見出すことができる、と考えるものです。つまり、現在の日本では「男が働いて、女が家事をしている」ということを説明する際に、「古代から、男は狩猟をして、女は家で料理をしていたから」と説明するのは本質主義で、「民法や教育制度の影響」と考えるのが構築主義だと言えます(かなり乱暴なんですが)。

     で、坂上氏の研究は、これまでの日本で行われてきた野球が、武士道的なのは、日本がかつて武士の国だったから、という本質主義的な説明に対する構築主義の立場からの批判だと私は思います。江戸時代まで確かに武士は存在したわけですが、それは人口比で言えば、たかだか5〜10%にすぎないわけで、百姓や町人が90%くらいいたわけですから、武士の文化のほうが、その後の日本文化に大きな影響を与えた、ということはいえないのではないか、と思うのです。

     しかし、ではなぜ明治時代に「武士道」(新渡戸稲造に代表される)が流行したのかといえば、19世紀の国際社会に参入する際に国家として必要とされたものは、西洋的な制度・法と価値観(人権)と、各国個別の文化という特殊性の両方だったため、それが日本の特殊性を代表するものと考えられたからです。「武士的」な素養が、日本人には必要だとされたのです(九時星さんがいう「精神的武士」の登場というものは、この文脈のなかで理解できると思います)。そのため、学校で行われる野球は、武士道的に行われなければならないとされ、それにのっとった言説がちりばめられることになった、というのが坂上氏の研究で明らかになったのではないか、と私は思うのです。そのため、日本に野球が定着した際の説明として、九時星さんがおっしゃるように、「日本的風土に適合したため野球が定着した」という説明は、逆転されるわけで、むしろ何らかの理由によって定着した野球を正当化するために持ち出されたのが、「武士道」的な価値観だった、といえるのではないでしょうか。


    *DATE: 4月4日(木)23時14分47秒 TITLE: 歴史分析 NAME: 九時星


     私は歴史の事実をありのまま受け止めそこから見えてくるものを分析するのがあるべき姿だと思っていますので、あるマニュアル、あるいは計算式といったほうがいいかも知れませんが、そういうものに沿って歴史が動いていくということはありえないと考えます。
     そういう意味では、

    > 社会的な事実や人々の性質とされているものは、歴史的・社会的・文化的に作り出されてきた、とみなす考え方

    であろうと

    > 特定の社会的属性を持つ人々には、共通した自然的、非歴史的な特性を見出すことができる、と考えるもの

     であろうと、型にはまった考え方に歴史を押し込めようとするものです。歴史はそんなに単純ではなく、どちらかの考え方が100%正しいということはありえません。ですからてっちんさんのご説明の「本質主義」「構築主義」どちらも理解出来ないんですよね。

     坂上氏の著書が難解と感じる理由なんですが、R・ホワイティング氏の著書『菊とバット』に対する反論という宣言でスタートしていますが、結論がわからない…。てっちんさんの仰る「本質主義的」なものへの批判として考えると、圧倒的な資料をもって説得力のある文章といえますが、「構築主義」を主張するということならば説得力に欠ける資料分析に思えます。

     一高以降にいわゆる「武士道野球」が登場する内的要因はその中に士族文化が色濃く反映しているからです。外的要因は明治国粋主義の揺り戻し、野球害毒論に代表される野球批判でしょう。どちらか一方だけということはないですよ。

     人口比で言えば、たかだか5〜10%にすぎないわけで、百姓や町人が90%くらいいたわけですから、武士の文化のほうが、その後の日本文化に大きな影響を与えた、ということはいえないのではないか

     全体の人口比より文化を発信する層がどこにあるかが重要ですよ。そして野球文化発信の中心に一高野球部があり、それが圧倒的に士族が多ければ士族文化が色濃く反映するのが当然です。

    >「日本的風土に適合したため野球が定着した」という説明は、逆転されるわけで、むしろ何らかの理由によって定着した野球を正当化するために持ち出されたのが、「武士道」的な価値観

     サッカーでもラグビーでもなく野球がもっとも日本人に受け入れられたことと、中国やフィリピンなどのアジア諸国やヨーロッパに比べ遥かに野球が盛んなことを考え合わせると『何らかの理由』が『日本的風土に適合』と捉えるのがもっとも自然なんですよね。

     ただ、いわゆる「武士道野球」が「日本的風土」というつもりはありません。一高野球は前述のような理由で「武士道野球」に変質していくわけですが、それ以前に野球が日本に定着した要因として「日本的風土」を持ち出しているわけで、それは『1対1の勝負』を好むということです。これが士族的風土の賜物だとしても、いわゆる「武士道」とは違うと思うのです。


    *DATE: 4月6日(土)22時05分54秒 TITLE: 飛田穂洲 NAME: 九時星


    >もともとスポーツというものが欧米からやってきたときというのは、その『知育』の面が強調されていて、『青少年の健全な肉体と精神の形成』という大義名分は守られていたはずですが、飛田らがこれを武士道と勝手にくっつけ、捻じ曲げた

     これは違うと思いますよ。こういうストレートな武士道野球批判に対する反論が坂上氏の著書であり、この部分については私も坂上氏の主張に共感しています。『楽しむ野球』に対するのは『苦痛の野球』であると思いますが、この当時、『ちやほやされる野球』があり、それに対する『ストイックな野球』が飛田穂洲らが目指したものです。『楽しむ野球』は決して『ちやほやされる野球』ではないのですが、これを混同すると飛田氏が『苦痛の野球』の元凶と捉えられるのだと思います。飛田らにとって『ストイックな野球』と『楽しむ野球』は両立するものだったのです。

     ですから、

    >監督が『オレはこういう野球をやりたい、だからお前をレギュラーだと考えている』という選手を特別視することは然るべきだと思うし、競争なんか、クソ喰らえだ

     という考えに飛田氏が『甘っちょろいことを言うな!』というとは思えません。ただしタレントまがいのTV出演やグラウンドのカンチョーごっこを見ると卒倒するでしょうね(^_^;)

     この時の時代背景に、野球選手というだけで人気に溺れ、学生としての本分から本末顛倒してしまう選手が現れてきたということがあります。『野球害毒論』という逆風に立ち向かった安部磯雄とその教え子の河野安通志、押川清、飛田穂洲らはこの風潮に危機感を持っていたわけです。野球自身の荒廃が『害毒論』のような外圧を呼び、野球の発展に大きな障害になると考えたのです。この問題に対する答えが河野、押川らの『日本運動協会』であり、飛田の『早稲田野球』です。

     飛田氏が『早稲田野球』の手本にしたのが『一高野球』です。そこに士族的風土が根付いていましたから『早稲田野球』にも士族的風土が色濃く反映しました。彼らの『楽しみ』とは、自らを鍛え、精神的崇高さを保ち、利己を廃してチームのために貢献し、試合に勝利するという目的に一丸となることで得られるものでした。飛田氏はこれを『無私道(ぶしどう)精神』と呼びます。

     戦前の野球を取り巻く環境の中では、国粋主義者の批判から野球を守る為の理論武装であり、実践でした。このあたりの坂上氏の著書における主張は私も大きく同意できる部分です。しかし坂上氏が一高以前から存在する日本的風土の存在を認めているのかどうかがよくわからないので坂上氏の主張が『難解』だなと思うのです。そして敗戦によって価値観が一変し、飛田氏の主張の敵となっていた『権威である国粋主義』がなくなったことにより飛田氏の主張自身が『権威』になってしまったのだと思います。ですからてっちんさんの仰る

    >戦前のほうが、近年よりもスポーツの娯楽性は強く肯定されていたのかもしれません。もちろん、弊害もあることは確かなのですが。飛田穂洲さんのイデオロギーは、戦後に影響力を強めたのかもしれません。

     ということはそういう意味あいじゃないかと思うのです。


    *DATE: 4月7日(日)06時07分19秒 TITLE: ボールを打つスポーツ NAME:fahta


     坂上さんの本、面白そうですね。読んでみよう。

    というのも、私は、かつて佐山和夫氏の「ベースボールと日本野球」を読んで違和感を感じたからです。「ベースボール=打つゲーム」「日本野球=守るゲーム」と図式化しているんですけど、日本で野球が人気を得ているという事実の探求という観点からは、なんとなく感覚が合わないんですよね。

     ベースボールが打つゲームであることは確かだと思うんですけど、日本でも草野球レベルではやっぱり打つゲームのはずなんです。少なくとも、自分達がガキのころやってた野球は打つゲームだったですよ。見逃しストライクのルールすら廃止されてましたから(^^;)。

     ただ、確かに、アメリカでは草野球がそのまま大リーグ等のベースボールにつながるのに対して、日本では草野球とプロ野球(及びその予備軍としてのアマチュア野球)との間にある種の断絶があるのは事実だと思います。後者(特に学生野球)は守る野球に近い。

     私はその主たる理由は日本では地域スポーツクラブが発展しなくて、スポーツの場が学校にしかなかったことじゃないかなと思っています。しかし、学生野球の影響が日本の草野球又は市井の野球ファンに逆流しているとも思えません。日本の場合、野球が定着した理由として複合的な要因が絡まっていると思います。例えば、・草野球、・少年野球、・高校野球、・大学野球、・社会人野球、・プロ野球とカテゴリーに分けてみると、時代によって注目度に変遷があると思いますし、支持層も微妙に違うと思います。・から・まで全部好きという人は意外に少ないんじゃないでしょうか。

     そんな中で共通項を見出すべく、野球というゲームが日本人に受けた理由ですが、私は『1v1の勝負』という格闘技のアナロジーの要素よりも『道具を使ってボールを打つ』という要素にあったんじゃないかなあと思ってます。ちょっと前まで日本人のプロ選手って、野球・ゴルフ・テニスという『道具を使ってポール打つ』スポーツが主流でしたし(除く、格闘技)。という訳で、前述の佐山氏の本からの引用。

    >ともあれ、私たちがバットを手にするとき、何やら不思議な安心感を得ると同時に遠く根源的な男性性に立ち返った気分になることは否定できない。そんな男性古来の本能にベースボールは根ざしていたものだろうか。

     そういったセクスやジェンダーに関連づけることが妥当かどうかは別として、ここでいわれる不思議な安心感という感覚的なものはナイスなポイントだと思うのです。ついでですが、その直後の一文は、

    >>そのあたりの研究は専門の方にお任せするとして・・・・

     惜しい、実に惜しい。そこをつっこんでくれれば・・(笑)。


    *DATE: 4月8日(月)22時47分38秒 TITLE: 野球人気 NAME:九時星


    >確かに明治時代にも野球が大きな文化として根付きつつあった、ということは確かなのですが、それよりも大きなものとなったのは、大正の終わりから昭和にかけての時期だと考えています。

     うーん、私は野球人気の最初のピークが明治39年の早慶戦だと思うのですが…お互いの地元商店街まで巻きこんでの熱中ぶりはまさに『野球狂時代』と呼べるんじゃないでしょうか。あまりの熱中ぶりに以降19年もの間早慶戦が中止されたままだったわけですし。

    >国際関係の上で米・英との関係が悪化すると、野球は敵国スポーツと考えられて、多くの批判にさらされることになったのではないでしょうか。

     これは違うんじゃないでしょうか?敵国スポーツというのはまさに第二次大戦開戦以降のお話だと思います。ベーブ・ルースが日本人に大歓迎された1934年は五・一五事件の2年後です。今に続くプロ野球の1リーグ時代がはじまったのが1936年ですから、二・二六事件の年です。1941年12月8日、日米開戦しても野球は続けられていました。野球用語が日本語化するのは開戦から1年以上経ってからです。

     『野球害毒論』が出るのが明治44年ですから、逆説的に言えば大マスコミがキャンペーンを張ってまで批判するほど野球には人気があったといえるんじゃないでしょうか。日英同盟の時代ですよ。
     大正4年、今でいう夏の甲子園大会が豊中球場で始まり、大正13年選抜大会、昭和2年都市対抗野球大会と全国規模の大会が相次いで始まりますが、そういう大会を開こうという発想が起きること自体、当時の野球人気の底辺の広さが感じられると思うのです。従って大正デモクラシー以前に野球は全国的、普遍的人気を得ていたと考えるべきではないでしょうか?

     明治5年にはじめて野球が日本に登場して以来、加速度的に人気を得、一高全盛時代を経て早慶拮抗時代に至るわけですが、なぜ明治初頭に数多くやってきた欧米のスポーツのうち、野球にもっとも人気が行ったのか?これが坂上氏の著書ではよくわからないんですよ。武士道野球が日本野球のルーツであるという説を否定しても、士族的風土が一高野球を作ったということは否定出来ないんですよね。では一高野球以前はどうなのか、というと士族的風土ではなかったのかもしれない…けれど日本的風土には違いないんじゃないだろうか?と考えているんです。何が野球に一番近いか、と考えると将棋だったりします。チームプレーでありながら1対1の局地戦もあり、それぞれの個性を生かし、駒の強さが実際の勝負の勝ち負けにつながるとはかぎらない、とか。

     或いは、安易な仮説ですが、狩猟民族にとってのスポーツは本業のトレーニングであったのに対し、農耕民族のそれは全くの娯楽であったこと。狩猟民族は本業の合間が非常に長いのに対し、農耕民族は本業から気を抜ける時間が非常に少ないこと。結果として長時間に渡り体を鍛える為に狩猟民族のスポーツは娯楽性が強くなったのに対し、農耕民族のそれはすぐ結果の出る対決型のスポーツに興味が行ったんじゃないか、とか(^_^;)

     fahtaさんのご意見、『道具を使ってボールを打つ』という要素は考えてみなかったですね。なるほど…しかしテニスも『1対1』といえるんじゃないでしょうか?あるいは他の人気スポーツ、漕艇も『1対1』ではなくても対決スポーツですし、陸上競技もそう…ゴルフは…よくわかりませんね(^_^;)

     ご紹介の佐山氏の、

    >>ともあれ、私たちがバットを手にするとき、何やら不思議な安心感を得ると同時に遠く根源的な男性性に立ち返った気分になることは否定できない。そんな男性古来の本能にベースボールは根ざしていたものだろうか。

     この感情は日本人独特のものなのか、人類一般のものなのか…
     なぜヨーロッパでは野球、クリケットよりサッカー、ラグビーなのか…

    > 惜しい、実に惜しい。そこをつっこんでくれれば・・(笑)。

     いやあ、同感です(笑)


    *DATE: 4月9日(火)01時07分55秒 TITLE: 野球が広まったことの主因のひとつ:学生がヒマだったから NAME:fahta


     非常に断片的な記述なのですが、国民新聞運動部編『日本野球史』の創始時代の項はそれなりに示唆的というか面白いなあと思います。

     まず、輸入当時、野球は必ずしも9人で行われるものではなくて、三角ベースのノリで楽しまれたとあります。投手は下手投げだとか、ボールをカウントしないとか、結構、自分達がガキの頃に楽しんだ草野球ノリに近いものが感じられて、リアリティを覚えたりします。対決の要素はそこにもありますが、それは「投v打」ではなくてあくまで「打v打」じゃないのかなと思うのです。58対37とか途方もないスコアが引用されてますし(^^;)。

     その後、イギリスの貿易商アーサーさんなる人が現れて「なんで君達は野球なんかしてるの? サッカーの方が面白いじゃん!」と野球に興じる学生に問い掛けるに至ったそうです。そのときの反応は「唯ボールを蹴ってゴールに運ぶだけのものが何ゆえに面白いのでしょうか」というものだったとか。

    野球:ボールを打つ
    蹴球:ボールを蹴る

     剣のアナロジーでもいいんですが、もうちょっと広めに道具(又は道具を利用した技巧)に対する信仰って日本人って結構熱いんじゃないかなあと感じます。因みに、同著では「東洋の小帝国をあくまで自分の型にはめようとしたアメリカがイギリスに勝ったのだ」と書いていますが、これはこれで面白い。

     さて、この本、かなりいい線ついているんじゃないかと思うんですけど「野球は新橋に始まり、徐々にクラブチームから学生チームに移っていった」みたいな記述があるんですが、考えてみると当たり前ですよね。だって「日本の学生はヒマ」ですから。カーブに苦心する酒屋のオヤジの記述もあるんですけど、やっぱり商売の方が大事だし(そうじゃねえと困るし)、学生は勉学しないのが潔しなあんて風潮もあったでしょうからね。そうすると、どうしても練習時間に余裕のある学生の方が強くなっちゃう。因みに、酒屋のオヤジはどうしてもカーブが投げられずにおよよと泣き崩れると(笑)。

     いったん、野球が学生の手に渡ると、今度は「源平合戦」ノリです。「一高 vs 三高」等に始まって「早慶戦」に至ります。この辺で、観客が誕生して、応援団が結成されたんじゃないかなと思います。こうなると、野球のスポーツとしての面白みに止まらずに、単純に源平合戦応援のノリで盛り上がって、挙句の果ては野球そのものが消えてしまいます。よくある話です。そして、この「日本野球史」は応援合戦のヒートアップした早慶戦中止を以って完結します。

     その後「群雄割拠」ノリの甲子園大会が日本中を熱くするに至るわけですね。そういう意味で、サムライごっこノリというのが野球熱を高めたことは否定できないのかなと思います。


    *DATE: 4月9日(火)11時28分03秒 TITLE: 1930年代について NAME:てっちん


     九時星さんの、「坂上氏の研究では、なぜ日本で(テニスではなく)野球が人気を得たのかがよくわからない」というご指摘は、まさしくそのとおりだと思います。そして、野球以外の多くのスポーツでも「1対1」の武士道的比喩は成立する、というのもそのとおりだと思います。なのになぜ野球か、と言うのはまだまだこれからの課題だと思います。(野球が伝えられた時期が比較的ほかのスポーツよりも早かった、ということが重要なのだとは思いますが)

    >敵国スポーツというのはまさに第二次大戦開戦以降のお話だと思います。ベーブ・ルースが日本人に大歓迎された1934年は五・一五事件の2年後です。今に続くプロ野球の1リーグ時代がはじまったのが1936年ですから、二・二六事件の年です。1941年12月8日、日米開戦しても野球は続けられていました。野球用語が日本語化するのは開戦から1年以上経ってからです。

    >当時は国際連盟も脱退した後で、確かに以前ほど米英との関係が良好でなかったのは確かです。だから、日米野球も、両国の友好化を図ろうとする外交的側面があったことはまちがいありません。しかし、一般に15年戦争といわれてる時期でも、ずっと対米英感情が悪かった、ということはありません。対米英戦争が現実味を帯びてくるのは、1937年に日中戦争が始まってからです。これ以後の対米関係悪化と、ドイツ・イタリアとの三国同盟が決定的だったわけですが、野球批判も私の考えでは、1939年ぐらいから強まりを見せたといえると思います。
    >もちろん、その後も野球は続けられます。特にプロ野球は、ひとつの商業行為ですから、国家といえども簡単に廃止をさせることはできません。しかし、人気を基盤とする商業行為ですから、「アメリカ的なのはけしからん」という批判に対しては、「野球用語の日本語化」「チーム名の日本語化」などの名称上の変更をとおして、「日本の野球はアメリカ色をなくして日本化した」ということをアピールしたのだと私は思います。

     明治時代後期の早慶戦の熱狂は私も承知しておりますが、全国的とまではいえなかったと思います。東京と、ナンバースクールがあるような地方の中心都市くらいだと思います。飛田穂洲も自伝のなかで、水戸では野球をやるようなやつは不良だと見られてた、というようなことを書いていましたし。ただ、このあたりの評価は私の中では整理しきれていないのも確かなので、あまり大きな事もかけません。観衆との関係は難しいのですが、選手ということに関していえば、fahtaさんの意見のように、学生がヒマだった、そして野球がなんか面白かった、という単純な意見でいいのではないか、と思うのですが・・・・。でもこれじゃ理由にもなっていないような気もします…。


    *DATE: 4月11日(木)00時07分10秒 TITLE: 野球人気 NAME:九時星


     飛田穂洲氏は1886年生まれなので野球害毒論当時は25歳前後、終戦時は60歳前後ですね。害毒論への反論は安部磯雄氏や河野安通志氏が中心でした。

    > 日米野球も、両国の友好化を図ろうとする外交的側面

     大リーグチームだけに限っても大正2年、大正9年、大正11年、昭和6年、昭和9年に来日しています。昭和の2回が読売新聞社の招聘です。佐野眞一氏の『巨怪伝』によると正力松太郎氏は交渉にあたって「アメリカから野球チームを呼ぶのは、読売新聞を宣伝して、もっと売れる新聞にしたいからだ。もう一つは、日米親善に役立てるためだ。」と言ったとされています。外交的側面がないとは言えませんがアメリカの野球チームを呼ぶことは宣伝になると考えられていたようです。

    > 「野球用語の日本語化」「チーム名の日本語化」

     これはともにプロ野球だけの出来事です。自主規制ですね。学生野球はそういうことはしていなかったと思います。東京に初の空爆がされるのが1942年4月、東京六大学野球が解散するのが1943年4月、同年10月に学徒出陣壮行早慶戦が行なわれています。これは野球人気の証明であり、敵性スポーツというより「戦時中に遊ぶな」という批判じゃないだろうかと考えます。

    > 水戸では野球をやるようなやつは不良だ

     これがまさに水戸でも野球人気が盛り上がっていた証拠だと思うのですが…新しいものが人気になるとこのような批判が出るものですから。人気がなければ「野球って何?」という反応になるんじゃないですか?

     明治末期から大正初頭の各地の野球事情について、大和球士氏の『真説日本野球史・大正編』から簡単に抜粋します。

    ・北海道地方・応援団騒ぎが原因で公立中学校は野球が禁止されていた(大正9年まで)
    ・東北地方・明治44年、二高主催の近隣大会が開催された。
    ・北陸地方・明治44年から四高主催の北陸関西大会が行なわれた。
    ・山陰地方・明治39年、松江にて山陰野球大会が開かれた。
    ・中国地方・明治40年から六高主催の近県連合大会が行なわれた。
    ・関西地方・明治34年から三高主催の近県連合野球大会が行われた(四国からも参加記録あり)。
    ・東海地方・明治35年から愛知一中の呼びかけで東海5県連合大会が行なわれた。
    ・関東地方・明治43年から東京府下中学野球大会が行われた。
    ・九州地方・明治36年から五高主催の九州中学大会が行なわれた。

     これらの内、『害毒論』の影響で中止されたり、規模が縮小されたり、主催者が代わったものもあるようです。また北海道以外にも野球禁止の県がいくつかあったようです。

    > 国民新聞運動部編『日本野球史』の創始時代の項はそれなりに示唆的というか面白い

     おおっ、私の「ぼーる通信」のネタ本が!(笑)

    > 「源平合戦」ノリ

     これ、すごくわかりやすいです。「やあやあ我こそは…」の世界ですね。『1対1』よりしっくり来ます。講談調っていいますか。町民文化の中にも例えば歌舞伎や講談、浪曲なんかで、合戦ものや仇討ち、任侠ものなど、武士やそれに近い世界を描いているものが多いですしね。武士文化への憧れより『血湧き肉踊る世界』、武士道よりも『立川文庫(真田十勇士など)』の世界ですね。選手たちはヒーローになろうとし、観客は『擬似合戦もの』を楽しんだのでしょうか。この環境が日本独自のものであったか、さらに野球独自のものであったかを検証できれば有力な説になるんじゃないでしょうか。そのあたりの研究は

    >> 専門の方にお任せするとして・・・・

     (笑)いや、ちょっと時間がかかりそうですがやってみましょうかね。面白いかも知れません。


    *DATE: 4月12日(金)00時05分43秒 TITLE: 私の勘のまとめ NAME: fahta


     野球の広まりのことですが、

    1.東京・横浜の草野球(クラブ)レベルでの盛り上がり
    2.東京・横浜地域での草野球から学生野球への移相
    3.東京での学生が先生となって地方に分散して野球を伝道
    4.地方における野球の盛り上がり

     これくらいはなんとなく共通認識のような気がしますが、どうでしょう。

     1の盛り上がりについては「打つ」の要素が強かろうというのが私の勘です。従って、サッカーよりも野球だったと。

     2の移相については「ヒマ」の要素が強かろうというのが私の勘です。従って、野球がクラブから学校に場を移していったと。

     3は私の勘というよりも多分事実です(てっちんさんのおっしゃる通り、地方によって濃淡はあるかと思いますが)。『西洋的なもの』というよりも、もっと卑近に『東京で流行っているもの』ぐらいのセンスなんじゃないかなとも思います。

     4についてですが「打つ」という要素もさることながら「(学校対抗の)源平合戦ノリ」の方が推進力になってただろうなあというのが私の勘です。従って、変な話ですが、東京・横浜で先にサッカーが盛り上がっていれば歴史は変わっていただろうなと想像します。

     源平合戦ノリになると、勝つための鍛錬として武士道チックなものが導入されることは、想像に難くないところです(昭和の世でも真剣ふってホームラン王になる訳でして)。従って、試合そのものというよりも鍛錬を通じて武士道的なものが醸成されて、格闘技又は合戦の代替物として野球が盛り上がっていた部分もありうべきことでしょう。


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