COOLTALK過去分 その2

    ●ドン・ブレイザーについての説明
    *DATE:12月29日(金)08時05分23秒 TITLE:ブレイザーのこと NAME:じん

    *DATE:12月30日(土)01時18分26秒 TITLE:ブレイザーのこと(その2) NAME:じん


    ●川上野球についての説明
    *DATE: 6月24日(日)19時14分34秒 TITLE:「川上野球」の評価 NAME: OGI


    ●ブラックソックス事件シリーズ(1998年)
    ・Black Sox Scandals No.1. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月21日(月)15時25分20秒

    ・Black Sox Scandals No.2. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月23日(水)02時43分02秒

    ・Black Sox Scandals No.3. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月23日(水)14時30分04秒

    ・Black Sox Scandals No.4. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月25日(金)21時17分46秒

    ・Black Sox Scandals No.5. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月25日(金)22時21分43秒

    ・Black Sox Scandals No.6. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月26日(土)13時13分25秒

    ・Black Sox Scandals No.7. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月26日(土)13時51分05秒

    ・Black Sox Scandals No.8. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月27日(日)01時39分16秒

    ・Black Sox Scandals No.9. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月27日(日)02時28分51秒



    ●ドン・ブレイザーについての説明

    *DATE:12月29日(金)08時05分23秒 TITLE:ブレイザーのこと NAME:じん


     MBさんから、うちの掲示板でリクエストがあったので、やってきました。川尻の件は、掲示板の返信に書いたので、そちらで・・・。

     というわけで、ブレイザーの件なのですが、うちのコラムで詳しく書いたことはないのですが、野村監督就任が決まるか決まらないかという時点で2〜3行ほど触れています(1998.10.16の文章)

     そもそも、ブレイザーの標榜していた「シンキング・ベースボール」は、野村監督の「ID野球」の原点だと思います。野村監督自身、ブレイザーに出会って「こういう野球もあるのか」とIDに目覚めたというようなコメントを読んだことがあります。

     1978年、球団史上初めて最下位に終わったタイガースはチーム再建にためにホークスで野村監督とともに「考える野球」を実践していたブレイザーを監督に迎え入れました。私自身、理系人間ですので、理詰めで作戦を立てて行く野球というものに期待も大きかった記憶があります。この年のタイガースは大きな転換点でして、田淵、古沢−真弓、若菜、竹之内、竹田の大型トレード、江川事件に伴う小林の獲得、また専用の練習グランド(浜田グラウンド)ができるなど小津社長の精力的なチーム改革が進んでいきました。
     ブレイザー自身は、やはり言葉の壁というものはあったものの、前年とは全く違った野球を我々に見せてくれたと思います。

     さて、問題は翌年ですね。いま、私が野村監督をとにかく擁護しているのは、このときの悔恨の思いが多分に含まれいると思います。もちろん、当時も私はブレイザー擁護(^^;)でしたが、マスコミとファンがブレイザー退団に追い込んだことは明白です。あのとき、ブレイザーに十分に監督として手腕を振るってもらえていれば、タイガースの歴史も変わっていたでしょう。正直、いまの野村バッシングなんて可愛いものです。(カツノリ起用等に関する一部のヒステリックな反応がブレイザーのときと同じ感覚を憶えますが、あのときほどの大きな波にはなっていませんね)

     新人の岡田起用を巡っての、いろいろな圧力がきっかけだったわけですが、ブレイザーはヒルトンを優先起用しました。岡田を見たいというファンが結果の出ないヒルトンと起用し続けるブレイザーを非難し続けたわけです。ヒルトンにしても、あれだけのプレッシャーが掛かれば、実力を発揮することも難しいでしょう。ヒルトンに関しては、一ファンとして本当に申し訳ないと思います。また、ブレイザーが岡田を控えに置いた理由、「まだ基礎作りの段階」というのも、私は納得していましたが、当時のマスコミ、ファンはほとんど、それを聞こうとはしていなかったと思いました。

     もちろん、ブレイザー、ヒルトン退団後、中西監督になってから、岡田はレギュラーを獲得し、.290、18本塁打で新人王を獲得します。オールスターにも出場して活躍もしました。ただ、岡田の選手生活の晩年を見ると、やはりブレイザーの判断は決して間違いではなかったのではないかと思うわけです。岡田は才能だけで選手生活を送ってしまった。才能だけで、あれだけできたのは凄いことだと思うのですが、新人のときにブレイザー構想通りに鍛えておけば、さらに凄い選手になっていたのではないかという思いがあります。いまとなっては、それを確認することはできないし、100%ブレイザーが正しかったかどうかも闇の中ですが、少なくともチームの監督がやろうとしていることをマスコミ、ファンが捻じ曲げる様子は異常としか思えませんでした。

     個人的に岡田をミスタータイガースだったと言うのには抵抗があって、やはり掛布が(現時点では)最後のミスタータイガースでしょう。掛布以降、チームの中心を継承することができなくなってしまったチームを立て直すのは、なかなか難しいし、かなりのエネルギーが必要だと思います。岡田がもう少し進化していれば、年代的に新庄あたりと重なってチームの状況も変わってきたように思います。ブレイザーを志半ばで退団に追いやったことは、結局タイガースにとって大きな不幸になったと思いますし、いまでも残念な気持ちで一杯なのです。



    *DATE:12月30日(土)01時18分26秒 TITLE:ブレイザーのこと(その2) NAME:じん


     ブレイザーの経歴ですね。とりあえず、わかる範囲で書いてみます。(補足があれば、どなたでも、よろしくお願いします)

     ブレイザーは、鳴り物入りで南海に入団してきたと聞いています。ちょっと調べてみたのですが、大リーグではカージナルスでの12年間を初め3球団で1400試合以上の出場があり通算で.258、21本塁打とのこと。1967年に南海ホークスに入って3年間で打率.274、15本塁打の結果を残しています。3年連続オールスター出場、2年連続ニ塁手としてのベストナイン受賞がありますから、実際にプレーを見たことがありませんけど、打撃よりも守備で結果を残してきたのでしょうか?

     1970年の野村兼任監督の誕生と同時に、参謀役としてヘッドコーチに就任しています。ブレイザーの「考える野球」が野村兼任監督を大いにサポートして優勝にも貢献。当時のホークスは野村野球というよりは、ブレイザー野球と言った方が正しかったようですし、実際にそういう評価がされていたみたいです。

     コーチとして実績を残したブレイザーを監督として迎えたのが、前述の通り1979年のタイガース。前年初の最下位を経験したタイガースを4位ながら勝率5割以上を残す大健闘でしたが、翌年は例の事件で途中退団(この年、タイガースは5位に後退)。それでも、翌1981年から2年間、これまた大きな戦力ダウンで苦闘を続ける南海ホークスの監督を務めています。戦力的に苦しいホークスでは結果が出ず、最終的に最下位でチームを去ることになってしまいます。(この辺り、タイガースでのノムさんとダブってしまうのは、ちと不安・・・)

     監督としては決して成果を形として残せたわけではありませんが、少なくともその後の日本のプロ野球のひとつの流れを示したという意味で、もっと評価されて然るべき人物だと思います。



    ●川上野球についての説明

    *DATE: 6月24日(日)19時14分34秒 TITLE:「川上野球」の評価 NAME: OGI


     川上野球に対する評価について、私はMAKIさんとは多少違う考えを持っています。ちょっと長くなりますが、一度書きたかったことなので、ここでまとめてみます。

     ONのいたチームの野球が面白くなかったはずはないのですが、川上野球に対する批判の多くは、「ONがいるのにコセコセしている」というものだったと思います。つまり、絶対評価として「面白くない」というのではなく、「ONがいる割には豪快さがない」ということです。

     ともかく9連覇という結果を残している以上、「勝つための野球」として失敗という評価はあり得ませんが、もっと豪快さを強調した戦略でも勝てたという可能性はあります。そのほうが(仮にそれによって1シーズンか2シーズン優勝を逸したとしても)野球の魅力をよりいっそうファンに伝えられたのではないかと考えれば、川上戦術そのものの評価はマイナスということもあり得るでしょう。

     「川上野球」をONの存在と切り離さずに考えれば、「面白い野球であり、かつ、強い野球であった」という評価ができるでしょう。しかし、「ONがいたから勝てた」という部分と、「川上戦術だから勝てた」という部分とを分けて考えるとすれば、決定的なのは前者の要素であり後者はそれほど重要ではなかった、という見方もできます。

     そもそも川上野球が模範にしたと称するドジャース戦法というのは、投手力抜群・打力貧弱という60年代ドジャースのチーム事情(たとえば、ワールドシリーズを制した1965年は、コーファックス26勝、ドライスデール23勝でチーム防御率リーグ1位、総得点は10チーム中8位で、チーム最多本塁打が12)を反映したもので、ルース・ゲーリック時代のヤンキースに似たON時代の巨人の戦力に適合したものだったのかどうか、いささか疑問があります。
     ドジャース戦法を取り入れるべきは、むしろ当時のチーム事情がよく似た阪神だったのではないかと思います。

     個人的には上記のように、V9時代の巨人は、ドジャース戦法で勝ったというよりも、ONで勝ったという部分が多かったのではないかと考えています。川上戦術をV9の最大の要因とする見方が広まったことは、球界全体に戦術の緻密化をもたらしたというプラス面の一方で、「細かい野球でないと勝てない」という固定観念をはびこらせ、監督の能力評価の基準として選手育成よりも試合での采配を重視しすぎる傾向を生じさせたというマイナス面もあったように思います。

     私は、バント戦術を好むという監督の心理傾向は、選手育成の局面ではマイナスに働く場合が多いのではないか、という仮説を持っています。

     バント戦術は、その回の得点の確率は高まりそうですが、2点以上取れる可能性はかなり低くなります。昔の高校野球のようにもともと点の入りにくい野球では有効性が高そうですが、現在のように点が比較的よく入る野球で大量得点の可能性を減らすことがプラスなのかどうかには、かなり疑問が生じます。
     それでもバント戦術を好むというのは、無得点で終わった場合に「バントしてれば点が取れたのではないか」という結果論のほうを、バントして点が取れなかった場合に「バントでなければ点が取れたかもしれない」という結果論よりも重視するということだと考えられます。バントしなかったことの失敗というのは、そのあとで安打が出たりすればはっきりしますが、バントしたことによるチャンスの喪失というのは目に見えにくいのです。そのために結果として作戦ミスが認識されにくい戦術のほうを選ぶという心理があるように思えます。

     これを選手育成の局面に置き換えると、「ある無名選手を抜擢すれば主力に育つかもしれないというチャンスを捨てる」というリスク(これは結果としてはハッキリ見えない)よりも、「計算のできる選手を使わずに不確実な選手を育てようとして失敗する」というリスク(これは結果がハッキリ出る)のほうを重く見るという態度になりそうです。

     もちろん、個々のゲームの采配と選手育成の局面とで頭のスイッチが切り替わる監督なら問題ないわけですし、実際にチームの得点力が不足していてバントを多用したほうが合理的だろうと思われるケースもあります。そういう例外はあるにしても、バントを多用するという心理と、新人よりも計算できる選手に頼るという心理とはどこか共通するものがありそうな気がするのです。



    ●ブラックソックス事件シリーズ(1998年)

    ★Black Sox Scandals No.1. 投稿者:MB Da Kidd 投稿:12月21日(月)15時25分20秒


    >みなさま

     では、お約束どおり、『ブラックソックス事件』の説明を始めましょう。
     この事件は、『エイトメン・アウト』という映画にもなっているとおり、1919年のワールドシリーズ、対シンシナティ・レッズ戦で8人の選手が八百長を賭博の元締から依頼され、金を受け取ったとされる事件です。そしてその8人の中で、『黒い霧事件』の池永正明さんのような立場にあったのが"Shoeless" Joe Jacksonという、球史に名高いプレーヤーです。

     このジョー・ジャクソンという選手は、大リーグ通算打率.356という記録を持っています。そしてこの記録は、歴代記録の3位になっています。
     しかし、これほど偉大なプレーヤーでありながら、このジョー・ジャクソンという人は、野球殿堂には入っていません。それは彼が、私がこれから説明を始める『ブラックソックス事件』に関わったとされているからです。
     ただその前に、このジョー・ジャクソンという人のパーソナリティについて、簡単に説明しておかなければなりません。

     彼については様々な説が飛び交っていて、

     『無学の田舎者』

     とか、

     『粗雑で乱暴な人間』

     などという話が出ているのですが、私が推測したトコロによれば、いずれもうさん臭いレッテルです。

     彼自身が野球が好きで、人の自分に対する評価については無頓着だったとか、文盲で純朴なアメリカ南部気質を持っている人間だったというのは事実でしょうけれども、だからといって簡単にコレらのレッテルを貼ることのできた人物だったとはとても思えません。まあ雑な言い方をすれば、彼は頭のいい天才肌の人間だったがために、彼自身が不必要だと思ったことはやらなかったのだとか、自分のことをわかってくれようともしない人間は極力避けていた、というのはあるでしょうね。中田選手や伊良部選手がそうであるように。

     しかしかつて豊田さんがイチロー選手を批判していらしたように、だからといって自分のことをわかってくれようともしない人間は相手にしないよ、というんじゃあダメですよね。まあその点、最近のイチロー選手は大分態度が改善されたみたいですけどね。

     でも、不器用な人っていうのはそういうことができないのは事実でして、そういう意味でこのジョー・ジャクソンという人がかなり損をしていたというのはあります。(マスコミ受けが悪かった、ということで。)

     では、次は当時のシカゴ・ホワイトソックスの辣腕オーナー、チャールズ・コミスキーという人物のパーソナリティ、あるいはそれに対する周囲の人々の評価について触れていきましょう。



    ★Black Sox Scandals No.2. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月23日(水)02時43分02秒


    >ナポさん

    > 純朴なカントリーボーイというイメージで見ていたもので・・・

     まあフツーはそうですよね。でも彼は本質はそうだったようですけれども、途中からは『洗練された都会人』を演じていたようですし、またビジネスマンとしても成功しているし、MLBから追放されてからの方が一時期は収入も多かった。だから、必ずしもそうだとはいえないんですよ。

     しかしながらホワイトソックス側の人間に追い詰められていく過程とかを見ていると、表面的にはそうなっていてもナポさんのおっしゃるトコロの本質は変えようがないので、MLBから追放されてしまったんですけどね。

    > 彼は八百長をしたというWシリーズで打率3割を残しているんですよね。

     それどころか、シリーズ最高打率.375、最多の12本のヒット、6打点、5得点、16刺殺、1捕殺、無失策という記録を残しているんです。コレは誰が見てもワールドシリーズのMVPになりそうな成績。
     しかしながら彼は、

    > それでも「八百長がなければ4割は打てた」なんて理由で殿堂入りを認めない人もいるそうです。

     このように思われていた『天才』だったので(あの野球王、カッブですら彼のことをマネしていたそうですから)、『八百長』をやったということが『真実』だと思われてしまう。
     『天才』というのはそういうモノなのですよ。

     では、前回の続き、いきましょう。

     チャールズ・コミスキーは、一選手の身からオーナーになった人物で、彼自身はそのことを

     『自力で生き抜いてきた人間』

     と自称し、また自慢のタネにしていました。

     そんなことを最初に書かれると、ああ、そういう現場叩き上げの人間ならきっと選手のタイヘンさなんかもわかってくれる立派な人物なんだろうなあと推測される方もいらっしゃるでしょうが、とんでもない。
     彼は、実は人の目を非常に気にする臆病者だったのです。ですから彼は、たとえば新聞記者のご機嫌伺いが達者だったりしたのです。チーム担当の記者を気前よくもてなして、上等な料理とかをふるまったりしていた。従って新聞記者たちは、彼の父親が実はシカゴ地域社会の大物であるという事実には触れようともしませんでした。その事実に触れると彼がイヤがるのを知っていたので。そして彼はそうやって、メディアの力をまず握っていたわけです。

     その一方で彼は、選手相手のビジネスとなると人が変わってしまうのでした。無学な人間に対しては実に高圧的な態度に出る。野球選手をやめるか、それとも今現在の低い年棒を呑むか、と。ですから、大学出のエディ・コリンズという選手に対しては、彼が野球選手をやめても充分稼げそうだということで、年俸交渉でも決してそのような態度に出なかった。ちなみに、コリンズ以外の最高給の選手だったジョー・ジャクソンの年棒が$6,000だったのに対し、コリンズの年棒は$15,000で、しかも5年契約だったと言われています。そうやって選手の足元を見て、カネをケチったわけです。(この事実は有名ですね。)
     このような事情で、当時のホワイトソックスはMLBの中でも最も利益を上げているチームだったのにもかかわらず、選手の年棒の総額は一番低かったのだと言われていました。

     そういう話になってくると、選手の間の仲は、『貧すれば貪する』とのことわざどおり、嫌悪なものになると同時に、選手のコミスキーに対する感情というものも、当然嫌悪なものになっていきました。

     次回は、今度はブラックソックス事件前夜におけるチーム状況と、できればジョー・ジャクソンがどのようにして八百長に誘われたのかを次はご説明いたしましょう。



    ★Black Sox Scandals No.3. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月23日(水)14時30分04秒


     では、今度は『ブラックソックス事件』前夜におけるホワイトソックス内のチーム事情について触れていきましょう。

     1918年、アメリカが第1次世界大戦に参加した影響でMLBの選手たちの大部分は徴兵に応じるか、強制労働に就かなければなりませんでした。その結果、MLBの試合の質は落ち、観客は40%も減少したので、コミスキーのケチケチぶりにますます拍車がかかりました。

     またコミスキーはこの時期、ジョー・ジャクソンに対して現在では考えられないようなひどいことをやっています。それは1917年、アメリカが第1次世界大戦に参加した当時、ジャクソンが頑強な身体を持っているのに徴兵に応じず、強制労働を選択し、アメリカ国内に残って工場勤務のかたわらアマの試合やチャリティの試合に出ていた時に、地元シカゴの新聞が彼のことを社説で非難すると、すぐにそのことに同調し、ついでに他の兵役忌避をした選手たちも『臆病者!』と非難したのです。しかし1919年に彼がフィールドに戻ってきて観衆の声援を浴びるようになると、それまでの態度をコロッと変え、

     『兵役を忌避したジョーをチームに入れるな、といった批判家たちの言葉に耳を貸さなくてよかったよ』

     などとほざいてくれたそうです。まったくもって天晴れな『偽善者』ぶりですね。自分が普段つるんでいたマスコミ連中を正面きって批判できなかった、という事情はあるのかもしれませんが。

     まあここで話を元に戻しますと、前述のとおり、選手同士の軋轢、ならびに選手とコミスキーとの不和がコミスキーのケチケチぶりによって起こっていたわけですが、1919年にはそれが外から見ていてもハッキリとわかるほどにまでひどくなっていました。選手は賃上げを要求して、監督のキッド・グリースンに仲裁に入ってくれるように頼んでいたわけですが、コミスキーは話し合いに応じるようなことすらせず、その結果、選手の不満はますます高まりました。
     そのような状況の中で、シカゴ・ホワイトソックスはアメリカン・リーグを制覇しました。しかしその時に、あのジョー・ジャクソンが突然コミスキーに、

     『自分をワールドシリーズのメンバーから外してくれ』

     と直訴したのです。

     次回は、ジョー・ジャクソンがそんな行動を取った背景というヤツについて次回はご説明いたしましょう。



    ★Black Sox Scandals No.4. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月25日(金)21時17分46秒


     1919シーズンにジョー・ジャクソンはチーム1の打率.351を上げ、全ての面において文句のつけようのない成績を残し、天才打者としての面目躍如を遂げました。従って、ワールドシリーズ前の新聞記者たちは、このジョー・ジャクソンがおそらくワールドシリーズのヒーローになるだろうと予言したのです。(彼がそれにふさわしい活躍を遂げたことはもう既に前述したとおり)

     しかしながら彼は、そのワールドシリーズが始まる前に、コミスキーに、自分をワールドシリーズのメンバーから外してくれと直訴します。そしてコレはあくまで私の推測に過ぎないのですが、彼はコミスキーに、八百長が必ず行われることになり、自分が強迫によって強制的に加担させられることになりそうなので、外してくれと言ったんだと思います。

     しかしながら、ジョーのこの願いは届きませんでした。というのは、

    1.観衆がジョーを見に試合観戦に来るのがわかっていた。そのお目当てのジョーをメンバーから外すと、観客が激減する怖れがあった。
    2.野球賭博が行われている、という事実をオーナーたちは隠す必要があった。というのは、オーナーたちが野球賭博を取り締まるという行動に出ると、公式に野球賭博の存在を認めてしまうこととなり、一般の何も知らないファンにもその事実を知られてしまうことになるので、そのことが『野球はフェアプレーの精神の下で行われている』というファンの幻想をブチ壊し、その足を球場から遠のかせてしまうことを怖れた。

     従ってコミスキーとしては、ジョーの願いを聞き入れるわけには行かなかったのです。

     ではこれに続いて、八百長が行われた経緯、それから当時の野球賭博について、それからできたら、コミスキーがジョーに対して取ったひどい態度などについて次の投稿で説明いたしましょう。



    ★Black Sox Scandals No.5. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月25日(金)22時21分43秒


     当時の大リーグには、常に八百長のウワサが絶えませんでした。というのは、当時のオーナーたちがそれを野放しにしていたからです。そしてその理由は前述した理由に加え、さらに野球場に人が来ることにつながるからということがありました。ですから大リーガーたちにとっては、ブラックソックス事件当時は、八百長への誘いはさほど珍しいものでもなかったのです。そして、例えば1908年のナショナル・リーグの優勝決定戦では、八百長が告発されたことがあったりしたのです。ちなみにどうして八百長への誘いががこれほどまでに頻繁だったのかといえば、もちろん野球賭博の場合、コレしか儲ける手段がなかったからです。
     そしてこの1919シーズンのワールドシリーズもその例外ではありませんでした。

     ホワイトソックスのシーズン最後の遠征の時のこと。フェンウェイ・パーク(ボストン・レッドソックスの本拠地)の近くの広場を歩いていたジョー・ジャクソンは、普段はあまり仲良くないチャック・ギャンディル(1塁手)というチームメイトから話を持ちかけられます。

     『なあ、あることをデッチ上げて$10,000手に入れる気はないか。』

     そしてギャンディルは、もう既に自分も含めて7人の仲間がいると告白します。しかしながらジョーはそれを断ります。そしてもう一度話を持ちかけられた時に、

     『引き受けるかどうかはお前の勝手だが、八百長は必ず行われるぞ』

     と言われてしまいます。
     ちなみにギャンディルが何でここまでしつこくジョーに迫ったのかというと、彼が賭博師たちに、ジョーがもう仲間に入っていると言ってしまっていたからです。
     が、ジョーはその時には何も言いませんでした。

     その後のジョーは、前述したとおり、ワールドシリーズのMVPになるほどの活躍を見せました。しかしながらチームは3勝5敗とシリーズに負けてしまいます。
     ちなみにその負け方はあまりにもわざとらしかったと言われています。しかも打ち合わせが不充分だったので、そのわざとらしさが余計に目についたと言われているのです。

     シリーズ終了後、普段は仲良くしているウィリアムズという先発ピッチャーが、ホテルのジョーの部屋にまでやって来て、ムリヤリ金の入った封筒を渡そうとします。そこでジョーとウィリアムズは怒鳴り合いのケンカをし、ジョーはコミスキーに言い付けてやるという捨てゼリフを吐いて、部屋を出ていきます。
     しかしながらジョーが部屋に戻ると、封筒が置いてありました。そこでジョーは翌日、コミスキーの事務所にその封筒を持って出かけるのですが、この続きは次回にしましょう。明日の昼あたりに書き込みます。ではまた。



    ★Black Sox Scandals No.6. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月26日(土)13時13分25秒


     ジョーはウィリアムズとのゴタゴタがあった次の日、コミスキーの事務所へと出かけました。そして、扉をノックすると、秘書で球団の非公式のGMだったグラヴィナーという人物が出てきました。そこでジョーは封筒を見せて、どうしてもコミスキーと話をせねばならない、と強く言いました。ところがグラヴィナーの答えはこうでした。

     『帰りたまえ。君が何を言いたいのかはよくわかっている。あの方は今忙しくて、誰にも会う時間がないのだ。』

     そして、ジョーの目の前で扉をガチャリと閉めたのでした。

     しかしながら皆様お気付きのとおり、コミスキーはジョーに会う時間がなかったのではなくて、単に考えをまとめたかっただけなのです。
     ジョーが告発にやって来る前にも、実は八百長を臭わすような出来事はコミスキーの周りでありました。まずは、有名な賭博師が、八百長が行われているとホワイトソックス側に伝えに来たのです。そして、第2戦が終わると、監督のキッド・グリースンが、何人かの選手がわざと負けるようにプレーしている(素人目にもそのやり方がバレバレなぐらい幼稚だったというのは前述したとおり)と告発しに来ました。そこでコミスキーも野球の総元締であるナショナル・コミッションに出向き、チームの試合のやり方がどこかヘンだと告げていました。
     コミスキーは迷いました。でも、このまま黙っていれば、いつものように、噂が立ち消えになるだろうと思い、それまで見たり聞いたりしたことは一切忘れたフリをしていれば何とかなるだろうと考えたわけです。
     しかしワールドシリーズが終わった次の日の新聞には、当時最もネームヴァリューのあったヒュー・フラートンという野球記者が、このことについての決定的な告発を書いてしまっていました。
     当時の野球界ではこのように、権威ある人間が告発をしない限り、不正は見逃されるというのが通例でしたから、この告発は球界関係者に大きなショックを与えました。そこでコミスキーも知らんぷりを決め込むことはできなくなってしまい、もう自分のホームタウンに戻っていたジョーに手紙を送りました。

     『頼む。シカゴに戻ってきて、ワールドシリーズで何があったのかを全て話してほしい。』

     これを読んだジョーは怒りを覚えました。自分が告発に訪れたときには無視したクセに、事態が大きくなってきてから話してくれとは一体何事だ。そこでジョーは、何回かの手紙のやりとりで、もうシカゴに戻る気はないと伝えました。

     しかしコミスキーの狙いは、ジョーに八百長のことについて話してもらうということにはなく、実はその手紙のやりとりをすることにあったのです。そして例のグラヴィナーがシーズンオフにジョーの元を訪れ、

     『君がギャンディルと八百長について話し合ったり、$5,000を受け取ったりしているということはもうバレている。』

     と言いました。

     まったくもってひどい話ですが、コミスキーの狙いとグラヴィナーのこの言葉に対するジョーの対応については、次の投稿で触れましょう。



    ★Black Sox Scandals No.7. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月26日(土)13時51分05秒


     では、コミスキーの狙いとは一体何だったのでしょう。
     それは、ジョーとの手紙のやりとりを残しておくことによって、自分が八百長については知らなかったという『創られた事実』を確かなモノにすることでした。ジョーとのやりとりによって、その証拠を残しておくことにあったのです。
     ジョーはそんなことなぞ露も知るはずがありませんから、先述のグラヴィナーの言葉に怒り狂い、思わずこう叫びました。

     『オレが話し合いを求めてきた時にアンタは拒否したじゃないか!全く耳を貸そうともせずに。』

     そして、自分の身の潔白を主張しました。するとグラヴィナーはこう言いました。

     『それなら、そういうことにしておこう。まあでも、キミはとにかく、ウィリアムズから受け取った$5,000はそのままにしているんだな。』

     そこでジョーはそうだと答えた上で、この金をどうすべきなんだろうとグラヴィナーに尋ねました。するとグラヴィナーはこう答えました。

     『かまうもんかい。そのまま黙って君のカネにすりゃあいいじゃないか。』

     そこでジョーはその話題についてはそれ以上口を出すのをやめ、1920シーズンの契約書にサインしました。

     そして1920シーズン、ジョーは自分の存在証明をするかのごとくにバットの鬼と化しました。この年はあのベーブ・ルースが54本のホームランを放ったので、ジョーの活躍は今現在ではそれほど話題になっていませんが、ジョーは黒い噂と闘いながら、大リーグデビュー当時のような素晴らしい成績を残していったのです。
     まるで、命が燃え尽きる前に一瞬だけ輝く人間のように...

     しかし球界にはついにメスが入り、腐敗の噂が現実に一つのスキャンダルとなりました。ナ・リーグのフィリーズ対カブスの試合に賭博師が関係していることが明らかになったのです。
     そしてついにこの事件を調査した大陪審は、1919年のワールドシリーズにまでその手を伸ばしました。するとアメリカ中の新聞がこのことを取り上げて、

     『八百長ワールドシリーズ発覚!』

     との大見出しを打ちました。そして、八百長に関係したとされる選手たちのリストにジョーの名前を載せたのです。
     するとジョーは各球場でブーイングの嵐を浴びました。また一方では野球ファンたちから、

     『ジョー、アレはホントじゃないんだよな!』

     と球場を後にする時に言われました。しかしジョーにはホントのことは言えなかったのです。というのは、カネがまだ手元にあったので。そこで黙って、球場をうつむきながら後にしました。そして野球ファンはみんな彼の後について行ったといいます。

     そのさ中、ある一人のケチな賭博師が新聞記者の取材に応じて、このスキャンダルの実態について報告します。そこで今現在よく知れ渡っているこのスキャンダルの概要が明らかになります。
     次回は、それを受けてコミスキーが取った行動についてご説明いたしましょう。



    ★Black Sox Scandals No.8. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月27日(日)01時39分16秒


     コミスキーという人の偽善ぶりについてはこれまでさんざん説明してきましたが、この投稿ではその偽善ここに極まれり、ということについて説明しましょう。

     コミスキーという人がこれまで『知らぬ存ぜぬ』を通してきたのは、選手が八百長に関わってきたことがバレると、チームの主力選手がゴッソリ抜けたり、チームのイメージがダウンすることで、チームの観客動員数が大きく減少することを怖れたからでした。従って彼は、八百長の情報についてはしっかりと把握する一方で、『何も知らない善良なオーナー』を熱演したというわけです。
     コミスキーが一番怖れたのは、大衆に自分が『偽善者』であることがバレてしまうことでした。

     従ってコミスキーは、新聞では、自分を『無実の被害者』に仕立て上げる一方で、選手の出場停止を発表し、首謀格の選手の一人、ベテランのエディ・シコット投手を呼んで、事情を聴取することにしました。そして、大陪審で罪を認め、おとなしくしていろ、と説得しました。そこで、シコットはその忠告に従ったのです。
     シコットはベテランでしたから、それまでのオーナーたちがそうだったように、選手が不正を起こした際にはコミスキーも自分たちを守ってくれるもの、と信じていました。そしてコミスキーはそういったシコットの足元を見つめて、それをうまく利用したのです。罪は選手たちに完全にかぶせ、自分がそのことについて知っていた、という事実を包み隠し、責任をかぶらないように。

     それから他の選手たちもコミスキーは個別に呼んで、同じことを大陪審でさせました。そしてその際に選手たちは、『仲間としてジョーも加わっていた』という証言をしてしまいます。
     さて、ここで鋭い方はもうお気付きでしょうが、コミスキーはそうやって外堀を埋め、ジョー・ジャクソンが真実を語れない状態にしておいてからジョーの説得に入りました。

     『君が真実を言うのはかまわないが、これだけ多くの人間が証言してしまっている。だから君の言うことはおそらく誰からも信じてもらえないだろう。
     こうなってしまった以上、君の取るべき道は、潔く罪を認めて、黙って引き下がることしかない。だから、そうするのだ。』

     するとジョーは、その言葉に従ってしまいます。

     そしてジョーが大陪審の証言を終えて出てきた日のこと。その様子を例の権威ある新聞記者のフラートンがこんなドラマチックな場面に仕立て上げます。

     「そのとき、裁判所の証言を終えて出てきたジョーに向かって、ある子供がつかつかと近寄ってきて、言います。

     『違うよね、ジョー?ウソだと言ってよ!』

     しかしジョーは、

     『いや、これは残念ながら本当のことなんだ』

     と言いました。」

     この話は後でジョー本人が否定している上にあまりにも出来すぎた話なので、フラートンの作り話である可能性もあるのですが、この場面は『エイトメン・アウト』という映画のハイライトシーンの一つにもなっていますよね。

     ということで、大陪審でのジョーの証言についてまで書いたらスペースがなくなってしまったので、ランディスについては次の投稿で述べて、この一連の投稿を終わりにしたいと思います。



    ★Black Sox Scandals No.9. 投稿者:MB Da Kidd 投稿日:12月27日(日)02時28分51秒


     当時のコミスキーが見事な『偽善者』だったことはもうたっぷりと説明させていただきましたけれども、実はそのコミスキーの偽善ぶりにウンザリしていた人間もいたのです。
     それが初代ア・リーグ会長、バン・ジョンソンでした。

     ジョンソンは非常に独善的な人間だったので、あのナベツネさんのようにその強力パワー(笑)ぶりを発揮して、周りの人間をことごとく抑え込んでいました。従って、同じく自己主張が強いコミスキーとはウマが合わず、常に対立状態にあったのです。
     従ってそういう流れの中で、先述した大陪審の調査の手をホワイトソックスに向けさせたのは、実はそのジョンソンだったのです。選手の八百長をバラすことによってホワイトソックスの勢力を弱め、コミスキーの発言力をも弱めようとした(このことが露見するとどういうダメージがホワイトソックス側に出るのかは、No.8の投稿の最初の部分で説明させていただいたとおりです)。

     そこでコミスキーは、ジョンソンの力を抑えるために、あることをやります。それは、一人のコミッショナーを設けることで、ジョンソンの権威を失墜させることです。コミスキーはそうやって、コミッショナーの誕生のために積極的に動きました。
     おまけに世間では、選手が堕落しているので、コミッショナーを誕生させることによって球界を『浄化』しなければならないという風潮が高まっていました。
     その中で誕生したのが、ケネソー・マウンテン・ランディスコミッショナーだったのです。
     ランディスという人は、それまで、あるイミでの『遠山金四郎』的な判決を下す判事として、一定の評価のあった人でした。従って大衆は、彼に期待したのです。(註:遠山金四郎というのは、あの遠山の金さんのことです)
     しかしどうでしょうか。私のような『悪ガキ』にしてみれば、ランディスというのは、実は単なる甘ったれのような感じがするのです。というのは、彼は所詮、世の中の『常識』や『道徳』にすがり、『ミョーな正義感』を振りかざして、自分のストレスをそれを利用して発散していただけで、忍耐を重ねて緻密な作業を繰り返すことなく、特定の人間を『罰する』ことに生きがいを感じているだけの人間だったことが彼の記録からは読み取れるからです。

     ここで話を当時の社会情勢に戻すと、コミスキーや大衆から支持されて、『正義感』あふれるランディスが張り切っていたことは想像に難くありません。そして、ランディスのようなガチガチ頭の人間が考えていることはただひとつ、

     『社会の敵を抹殺すべし!』

     ということでした。
     従って彼は拙速にも、大陪審の結論が出た直後に、球史に残る『暴挙』(あえてこう呼ばせていただきます)をやってくれちゃいます。

     『陪審の評決とは関わりなく、八百長を行う選手、八百長を請け負い、また約束する選手、八百長の方法、手段を共謀、討議するところにいて、不正選手および賭博者との会合に同席しながら、そのことを球団に直ちに告げない選手は、以降プロ野球界から永久に追放する』

     こう言って、8人の選手を追放したのでした。

     以上、ブラックソックス事件のあらましでした。いつの時代にも偽善者はいる、ということがよくわかる事件といえます。


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