「考える野球」を考える きんぐ@安威川

     特別投稿:「考える野球」を考える きんぐ@安威川

     「日本のbaseballは『野球』という名の別のスポーツだ!」

     日本プロ野球に在籍したことがあるアメリカ人選手の言葉です。
     いや、多くのアメリカ人選手がそう思っているのではないでしょうか。
     実際には同じルールの元でプレーし、同じ道具を使っているのですから、そんなことはありえないのですが。

     ではなぜ、彼らは日本の野球に対してそんな感想を持つのでしょう。
     曰く、

    「サインが多い」
    「犠牲バントが多い」
    「練習時間が長い」
    「試合時間が長い」

     などです。

     おそらくこれらの「日本野球の特徴」が表れたのは昭和40年代、巨人V9の頃でしょう。川上哲治監督は、選手を自らの意のままに操るという「管理野球」を完成させて、九連覇という空前絶後の記録を打ち立てます。
     同じ頃、パ・リーグでは南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の野村克也捕手兼監督(現・東北楽天監督)がシンキング・ベースボールを提唱し、これが「スパイ野球」に繋がっていきます。

    では、これらの野球は日本独自のものでしょうか?

     答は否で、川上野球の元は「ドジャース戦法」だし、シンキング・ベースボールを伝えたのは元メジャーリーガーのドン・ブレイザー(ドナルド・ブラシンゲーム)です。つまり、いずれもアメリカ生まれの理論なのです。

     それではなぜ、日本に来たアメリカ人選手たちは自分達が生み出した戦法を「日本的」だと思うのでしょうか?

     ドジャース戦法とブレイザーの野球には、共通点があります。
     当時、ドジャースは打力に乏しく、コーファックス、ドライスデールという二大エースを中心に守り勝つ野球をせざるを得ませんでした。そのため、打者は徹底したダウンスイングに徹し、ゴロで走者を進める攻撃パターンを採用したのです。これを川上はメジャー最新理論と思い込み、ダウンスイングこそ正道と捉え、二大エースを王、長嶋という二大打者に置き換えてアレンジしたのが川上野球だったのです。
     一方のブレイザーもメジャーリーガーとしては非力だったため、メジャーで生き残るには頭脳プレーはもちろん、小技や待球戦法を使うしかありませんでした。ブレイザーが南海に来た時、野村は今まで日本の野球にはなかった理論に驚き、シンキング・ベースボールに心酔したのです。
     また、この二つの理論は日本人の感性にあったものでした。

     プロ野球が職業野球と呼ばれていた頃は学生野球に比べて人気もなく、蔑視されていました。そのせいか、職業野球には無頼派が多く、ただ単に投げて打つだけの個人野球でした。そして、その個人プレーに一番走っていたのが川上だと言われています。
     学生野球は監督に絶対服従の上、バント、バントで走者を進める全体野球でした。

     ドジャース戦法のチームプレー、ブレイザーの連係プレーはまさしく日本人観に合致し、本場アメリカの理論の最新理論なのだから間違いない、としたのです。
     しかし、これがトンだ誤解でした。
     ドジャース戦法は数ある中の一つの戦法に過ぎないのに、それを日本人は金科玉条とし、我も我もと同じような野球に走ったのです。
     なにしろ盟主巨人がメジャーの最新理論でV9を達成したのだから、これが唯一無二の正しい戦法だと無批判に受け入れたのです。
     こういうのを「ノー・シンキング・ベースボール」というのでしょう。

     ブレイザーの持ち込んだ「シンキング・ベースボール」はたしかに画期的なものでした。さっきも書いたように、当時の日本の野球は単に投げて打つだけで、ブレイザーの目には非常にレベルの低いものに映ったでしょう。
     ブレイザーはベンチで相手投手がモーションに入ったときに次々と球種を言い当て、南海の選手をビックリさせました。相手のクセを見抜き、逆に自分のクセは相手にバレないようにする、そこまでやらないとプロの選手とは言えないヨ、とブレイザーは諭しました。当時の選手はまだまだプロとしての心構えに乏しい選手が大勢いたのです。つまりブレイザーはプレーだけでなくプロとしての手本も示しました。
     やがてこのことが他チームにも伝わり、なかなかクセが見抜けなくなりました。
     その意味ではレベルが上がったのですが、クセを見抜けなくなった次にやったのが「サイン覗き」です。はじめはグラウンドレベルのものでしたが、サインが複雑になってそれも難しくなり、やがてはグラウンド外の人間を使ってサイン盗みをするようになりました。
     「スパイ野球」の誕生です。
     これによりサインは一層複雑になり、「乱数表」なるものも登場して、試合時間は百年戦争のように長くなりました。

     やがてパ・リーグで生まれたスパイ野球は古葉竹識(南海→広島)の手によってセ・リーグに伝えられ、セ・リーグに登場した管理野球は広岡達郎(ヤクルト→西武)によってパ・リーグでも実行されました。
     昭和50年代、ここに日本野球は「スパイ管理野球」全盛期を迎えるのです。
     しかしそれは、本来の野球とはかけ離れたものでした。
     試合時間は延び、観客無視のダラダラプレーで時間を引き延ばして引き分けを狙うという、大凡プロとは思えない戦術も横行しました。
     これを私は「将棋野球」と呼んでいます。

     サッカーやラグビーは野球と違い、「間(ま)」が殆どないので、ゲームが常に動いています。つまり、インプレー中に次のプレーを瞬時に判断しなければいけません。もちろん、サインプレーもあるのですが、それはセットプレーからのみ有効で、ルーズプレーからはできないのです。もちろん、選手同士が合図を送ることもありますが、それだって瞬時の判断によるものです。
     また、敵は当然こちらの攻撃を阻止しようとするので作戦が上手くいかないことの方が多く、その上手くいかなかったときにボールキャリアが瞬時に判断し、その判断に他のプレーヤーが即座に反応する、これをチームプレーというのです。
     それに比べると、野球のようにベンチからのサイン通り送りバントを決めることを「チームプレー」と呼ぶのは随分レベルの低いものに思えます。
     それはチームプレーではなく、ただの「自己犠牲」です。

     野球の場合は一球一球に間があるので、そのたびにサイン交換があります。
     ピッチャーは何を投げてくるのか、バッターは何を狙っているのか、ベンチの作戦はどうなのか、守備隊形はどうするのか。
     こういうのはサッカーやラグビーには絶対にない野球の醍醐味です。
     しかし、それが悪用されてしまった感があります。
     バッテリーはダラダラとサイン交換し、迷った打者は意味なくバッターボックスをはずし、ベンチは決断するまで選手を勝手に動かさない。
     これが「将棋野球」と呼ぶ所以です。
     監督は将棋の駒のように選手を操り、一手にやたら時間をかける。
     でも野球は本来「将棋型」ではなく「麻雀型」のスポーツだと思います。
     麻雀でも将棋のように一手一手を考えることはできるのですが、牌をツモってきたら瞬時に切る牌を選ばなければなりません。
     将棋では一手に1時間や2時間かけることもあります。テレビ将棋では時間制限がありますが、持ち時間が無くなっても30秒は考えることができます。
     麻雀では制限時間などありませんが、牌をツモってきてから捨てるまでの時間はせいぜい2,3秒でしょう。10秒も考えたら長考とされ、マナー違反になります。麻雀では1にスピード、2にスピード、3,4がなくて5にもスピードなのです。

     将棋は偶然性が殆どないので一手に時間をかけて徹底的に考え、それがいい手を産むこともありますが、麻雀では「下手な考え休むに似たり」として、長考は他の対局者に迷惑をかける行為だとされます。
     将棋は自分の駒を操ることはできますが、麻雀では自分の欲しい牌を操ることは不可能です。そんな牌が山のどこに眠っているかなんてわかりませんし、他家が持っているかもわかりません。
     麻雀ではいくら考えていい手を思いついても、裏目の牌をツモってきたり、他家に振り込んだりすることはしょっちゅうです。
     野球でいえば、バント、バントで作戦通りやっとこ1点取っても、2ラン打たれてアッサリ逆転されることなんてよくあるでしょう。
     監督が選手を操ろうとするのは、将棋の駒ではなく、どこに眠っているかわからない牌を操ろうとしているようなものです。
     野球とは機械ではなく、所詮人間がやるものだということを忘れているのでしょうか。

     野球は本来、スピーディにプレーするものです。
     日本の野球はいつの間にかそれを忘れてしまいました。
     長すぎるサインの交換や無意味なタイム、管理野球による選手の締め付けは、野球本来の醍醐味であるダイナミックさ、エキサイティングさ、緻密なプレーにおける選手の判断力を全て奪ったのです。
     そして、日本の野球のレベルを上げるべく本場アメリカから輸入した「シンキング・ベースボール」は日本上陸後、奇妙な進化を遂げ、ベンチに言われるがままの「考えない(考えさせない)野球」あるいは複雑なサインを覚えるための「暗記野球」に成り下がったのです。
     こういうのを「本末転倒」というのでしょう。

     卑しくも「プロ」選手がサラリーマンのような「指示待ち族」では話になりません。ましてやスパイからの情報がなければ打てないようでは、そんな情報が望めないような試合で打てるのでしょうか。特に、国際大会などでは一発勝負で未知の相手と対戦しなければなりません。
     プロならば瞬時の判断能力とプレーに対する感性、嗅覚を磨かなければなりません。管理野球、スパイ野球はその根本を選手から奪い取ったような気がします。
     何よりも問題なのは、そんな野球はファンからお金を貰って見せる野球ではない、ということです。
     ファンからお金を貰って最高のプレーを魅せる、そんなプロスポーツの大原則を日本のプロ野球は忘れてしまったような気がしてなりません。
     「ファンあってのプロ野球」という当たり前の言葉を認識させたのが、2004年に勃発した球団削減騒動だったというのは、皮肉といえば皮肉でした。

     ドジャース戦法やシンキング・ベースボールを生み出したアメリカの野球になぜスパイ野球が横行しなかったのか?メジャーリーグでは日本よりさらに激しい生存競争があるのですから、そんな野球が横行しても不思議ではありません。
     それはおそらく、そんなことをすると、自らの首を絞めることになるのがわかっていたからだろうと思われます。そんな野球をするとファンにソッポを向かれ、オマンマの食い上げになります。
     アメリカでは野球は一種のショーであり、ファン第一という考え方が根底にあるのでしょう。
     マイナー球団ですら独立採算制を採り、客からの入場料とペアレント・チームにいい選手を送り込むことで球団経営を成り立たせているくらいですから、この段階でただの練習場扱いの日本の二軍とはプロ意識が全然違うのです。
     さらに一軍でも、地域フランチャイズがしっかりと確立されているメジャーリーグと違い、日本では親会社優先ですから、ファンがないがしろにされるのも頷けます。

     アメリカ生まれの緻密な野球が、日本では違う方向に行ってしまった秘密がここらあたりにもありそうです。―完―


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