NPBにおける受難の時代 by ICHILAU&MB Da Kidd

    第6回 NPBにおける受難の時代 〜その6〜 MB Da Kidd

    第7回 NPBにおける受難の時代 〜その7〜 MB Da Kidd

    第8回 NPBにおける受難の時代 〜その8〜 MB Da Kidd

    第9回 NPBにおける受難の時代 〜その9〜 MB Da Kidd

    第10回 NPBにおける受難の時代 〜その10〜 MB Da Kidd



     第6回 NPBにおける受難の時代 〜その6〜 MB Da Kidd


     さて、前回は、資本主義の国々における、一般的な企業のあり方についての説明を行いましたが、今回は、戦後日本における、いわゆる『日本株式会社』に属する企業群についての説明を行い、これがどう企業スポーツのあり方に影響したのか、ということについてコメントしていきます。

     戦後の日本企業群は、一般的な資本主義国の企業のあり方とはまるで違う、ということはよく言われます。そしてそれは、戦後、GHQが日本における財閥を解体したこと、ならびに、大蔵省(現・財務省+金融庁)の銀行行政のあり方というものが、そのルーツになっています。

     GHQは財閥を解体すると、解散させた財閥本社から大企業の株式を取り上げましたが、占領が終わると、法人の株式所有が可能になったので、旧財閥系企業はお互いに再び結合し、株式の相互持ち合いが進みました。また、それらの企業だけでなく、旧財閥系以外の企業も含めた日本中の大企業たちが、1964年の日本のOECD加盟による資本自由化策に伴い、外国企業からの乗っ取りを防止するため、安定株主工作を行いました。そこで、企業集団グループが出来上がり、日本は高度成長時代に入りました。
     また、大蔵省も、メインバンクを通じて企業融資を行わせ、間接的に企業を支配するようになります。

     そこで、『法人資本主義』に基づく『日本株式会社』が誕生したのです。そして企業は、お互いに株式を持ち合うことで、利益を配当することをお互いに避け、得た利益は会社にため込み、これを新たな事業拡大の資金として使いました。というのも、年功序列・終身雇用・企業内労働組合という3つの特色を持つ日本企業は、単なる『働く場所』、あるいは『株式投資をして儲ける場所』ではなく、従業員とお金を抱え込む、『生活の場』としての『企業村』になったからです。

     また、村同士での交流を進め、村長さん(社長)同士がつながりを深める役割を、株式の相互持ち合いは果たしました。日本の国内ビジネスはコネビジネスだと欧米諸国からは揶揄されることが多いのは、読者のみなさんの中でも御存じの方は多いと思いますが、それは、こういったものがルーツになっているわけです。

     日本の企業スポーツの原点は、ここにあります。つまり、日本の企業スポーツは、

    1.企業村住民たる従業員の福利・厚生のため、『スポーツをやること』を通じて連帯感を高め、健康維持に邁進させることを目的とした。
    2.企業村住民たる従業員の心の象徴・拠り所として、働く意欲を湧かせることを目的とした。
    3.企業村が安定した利益を得て、従業員を守れるように、広告・宣伝の役割を担い、会社が社会にいいイメージをアピールできることを目的とした。
    4.企業村がより多くの利益を得て、その勢力を拡大し、大きく発展できるように、営業の手段として利用することを目的とした。

     これらの目的の上に成り立っているわけです。

     ところが、この『法人資本主義』には、大きな欠陥がありました。そしてそのことが、現在危機と言われている日本の企業スポーツのあり方に大きく影響しているわけですが、それについては、次回に説明を回したいと思います。

    【参考文献】

     会社本位主義は崩れるか 奥村宏著 岩波新書 1992年
     企業・スポーツ・自然 〜株式会社ニッポンのスポーツ〜 等々力賢治著 大修館書店 1993年
     スポーツイベントの経済学 〜メガイベントとホームチームが都市を変える〜 原田宗彦著 平凡社新書 2002年



     第7回 NPBにおける受難の時代 〜その7〜 MB Da Kidd


     前回は『日本株式会社』の企業群の特徴とその影響を受けた企業スポーツの話をしましたが、今回は、その『日本株式会社』の基礎となっている『法人資本主義』の欠陥を指摘し、それが現在の日本の企業スポーツに、どういうマイナスの効果をもたらしているのかを検証していきます。

     戦後の日本企業が、単なる『働く場所』、あるいは『株式投資をして儲ける場所』ではなく、従業員とお金を抱え込む、『生活の場』としての『企業村』になったことは、前回指摘しました。したがって、そういった日本企業には当然のことながら、『仲間内の寄合所帯』独特の欠点があります。

     『仲間内の寄合所帯』には、内部での厳しい統制と強い連帯感はあっても、外部に対する配慮はもともとありません。したがって、『法人資本主義』に立脚した戦後日本企業にも、当然、そういうところがあります。
     また、『仲間内の寄合所帯』同士がさらに、株式をお互いに持ち合って、大連合企業村を形成しているわけですから、寄合所帯間には、れっきとした『暗黙のルール』が存在します。

     それは、お互いに利益配当を減らすということです。そして、減らした利益配当を、新たに事業を増やしたり、大きくしたりするための資金に回す。
     これは前回でも指摘しました。

     では、こうやって新たに事業を増やしたり、大きくしたりすることで、どういったメリットが『企業村』にはあるのでしょうか?

     それは、村の規模が大きくなり、村に多くのカネと人が集まって、村が栄え、村民がみな、うるおうということです。したがって、村が栄えるために、その村民たる従業員は、必死になって、会社のため、仲間のため、自分自身や自分の家族のため、働くのです。

     ところがこの『企業村』の特色というのは、名目上でも利益を追求することをその存在意義としている、お互いが独立した組織であることです。しかも企業ですから、競争している部分も、大いにあります。したがって、一度勢力拡大のドライヴがかかると、歯止めが利かなくなります。
     また深刻なのは、このドライヴが一度かかると、企業村の村民たちはお互いにこの動きを止められなくなり、自分たちのことを、自分たちの意思でコントロールすることが、非常に困難になってくることで、それと同時に、個人の意思が集団暴走の波に呑み込まれ、これが抹殺されてしまうことです。
     これが、日本企業独特の『集団主義』です。

     『集団主義』の下では、『会社のため』という名目で、『企業村のエゴ』が、その『企業村』の中ではすべて美化されてしまいます。所詮『企業村』の中では、企業の都合しか優先されないのです。
     したがって日本の企業スポーツというものは、企業の都合によってその命運が全て決まってしまうし、それだけでなく、企業と運命を共にしてしまうというぜい弱さをも持つのです。つまり、日本の企業スポーツというカテゴリーの中では、企業>スポーツという関係は、変えようがないだけではなく、スポーツが企業という枠を超えて動き出すことはありえない、ということです。
     たとえば2002年9月23日号の週刊ベースボールP.78〜79で紹介されている、デイリースポーツの改発博明さんの話によれば、

     『(阪神タイガースの)オーナーは野球を愛していない。球団は関連会社のひとつだと思っているし、選手のことは従業員だと思っている。』

     ということですが、これは、NPBが企業スポーツの枠内にある限りでは当たり前の話ですから、阪神タイガースファンの私としては非常に腹が立つ話ではあるのですが、黙って涙を呑んで、こらえるしかないのです。

     近年の日本は経済不況が続いており、これに伴い、さまざまな社会人スポーツが急速に消えていっています。特に、投資した割には効果が薄い集団スポーツが消えており、有名どころでいえば、社会人野球の名門・熊谷組野球部などが廃部に追いやられていますが、こういった現象が起きているのは、上記の理由があるからです。

     また、これを観るスポーツにあてはめた場合、スポーツ興行で利益を挙げることよりも、会社にとっては、その勢力拡大に貢献できるかどうかということが優先されます。したがって、野放図に選手の年俸や契約金を上げ、人件費のコストが上がっても、それ以上の自社の勢力拡大が望めれば、企業スポーツは会社にとって充分投資するだけの価値があるので、企業はそこに、際限なくカネをつぎ込むのです。

     では、次回は、企業が自らの都合にしたがって際限なくカネをつぎ込むことによって発生する、マイナス効果について考察していきます。

    【参考文献】

     会社本位主義は崩れるか 奥村宏著 岩波新書 1992年
     企業・スポーツ・自然 〜株式会社ニッポンのスポーツ〜 等々力賢治著 大修館書店 1993年



     第8回 NPBにおける受難の時代 〜その8〜 MB Da Kidd


     前回は、企業村のエゴがもたらす欠陥の話をしましたが、今回は、企業が自らの都合にしたがって際限なくカネをつぎ込むことによって発生する、マイナス効果について考察していきます。

     先日、読売新聞社主にして読売巨人軍オーナーの渡辺恒雄氏が、相変わらずのワンパターンで、『企業努力』と『自由競争』の球界における大切さを主張され、これに制限をかけるやり方を『社会主義』だと揶揄されていました。ですがこの場合にいう『自由競争』とは一体何でしょうか?同じプロ野球に属する球団間の競争でしょうか、それとも他スポーツ、あるいは他エンターテインメントとの競争でしょうか?
     もしもこれを、同じプロ野球の球団間の競争と仮定した場合、渡辺氏はこういった自由競争が、典型的な『市場の失敗』例であることには言及しておらず、所詮は経済素人の発言の域を出ていません。

     ではさらに、私がここでいう、『市場の失敗』というものは一体何でしょうか?

     『市場の失敗』とは、モノやサーヴィスを『神の見えざる手』によって自然にうまく社会に配分する、『自由市場』というものがうまく働かない場合のことをいいます。具体的には、

    1.外部性
     市場で競争する以外に、消費者や生産者が経済活動を行っている場合、それが市場に影響を与え、競争のあり方をゆがめること。

    2.公共財
     国防・警察、あるいは社会資本整備(郵便・道路等)のように、社会の構成員の全員がこれを消費し、それに対してカネを払わないヤツを排除できなくて、しかも、カネを払ったからといって、そのサーヴィス内容に格差をつけることが難しいサーヴィス。

    3.不確実性
     マーケットに参加しているヤツに予測できないことが起きるとき、あるいは予測しても、意味がないことが起こるとき。

    4.収穫逓減
     カネをかけても、効果が上がらなくなることで、費用対効果が下がること。

     こういったものがありますが、NPBはこれらの中でも、1の典型的な好例といえます。

     カイシャフランチャイズは、外部性と密接に関連しています。会社の都合がまず優先され、外部性なくして成り立たないので、適正な競争が市場で行われることは、まずありえません。したがって、球団を単なる広告・宣伝のための手段と考えている一般企業と、これを大きなコンテンツとしたり、あるいは自社の営業拡販手段としている企業とでは、かけられるお金の額が異なってきますから、たとえば有名選手を獲得する際、マネーゲームが発生して契約条件の競争が起こると、勝負の行く末は最初から見えてしまいます。当然のことながら、球団にお金をかけることがイコール、新聞のネタ提供、ならびに新聞の拡販につながり、最大の資金をかけられる読売新聞社をバックに持つ巨人の、1人勝ちということになります。

     では1人勝ちが発生すると、具体的にはどういった不都合が起こるのでしょうか。

     それは、強者がマーケットを独占してしまうことです。ですが、この『独占』とは一体何か、あるいは『独占』の弊害とは一体何か、ということについては、次回に説明を回したいと思います。



     第9回 NPBにおける受難の時代 〜その9〜 MB Da Kidd


     前回は、企業が自らの都合にしたがって際限なくカネをつぎ込むことによって発生する『独占』について紹介しましたが、今回はこの『独占』についてさらに詳しく見ていきます。

     『独占』とは一体何でしょうか。独占禁止法第1・2条にはその定義がいろいろと載っていますが、具体的には、

     『私的独占ならびに、不当な取引制限および不公正な取引方法による、事業者の市場における、事業支配力の行き過ぎた集中』

     ということになります。そして、さらに『私的独占』とは、

     『事業者が、単独に、あるいは他の事業者と結合・通謀し、それ以外の事業者の事情活動を排除・支配することによって、公共の利益に反し、一定の取引分野における競争を実質的に制限すること』

     です。そこで、これを現状のNPBにあてはめますと、たとえば選手の獲得競争という分野に限って考えてみた場合、

     『巨人が(正確には巨人のオーナーたる、読売新聞社社主・渡辺恒雄氏が)、単独に、あるいは他の球団と結合・通謀し、それ以外の球団の選手獲得のための活動を排除・支配することによって、球団間の戦力均衡を達成し、緊迫した試合を数多くおこなうことでプロ野球興行全体を活性化させる、という球界公共の利益に反し、球界における選手獲得競争を実質的に制限している』

     ことになるわけです。したがって、巨人は自由競争を広げるどころか、これを大きく制限して、球界全体の公共の利益を損ねていることになっているのです。渡辺恒雄氏は『自由競争』という言葉をよく使いますが、彼が読売新聞社社主として、大金を投じて、陰に陽に、節操なく選手を獲得しようとする姿勢は、まさに自由競争を破壊するものであり、彼の持論は、最初から崩壊しているのです。

     また、公共の利益ということでいえば、巨人がマネーゲームを通じて選手のためにかける資金を吊り上げることで、巨人自身だけでなく、それ以外の球団の運営側の安易なチケット料金値上げや視聴料金値上げに、絶好の口実を与えることになるので、これを観戦するファンとしてみれば、巨人ファンであろうとなかろうと、大きくそのフトコロを直撃されることになります。したがって、渡辺氏の行動は、大きく公共の利益に反する行為、ということになるわけです。

     ですが、こういったビッグクラブのエゴは、何もNPBにおける巨人に限ったことではありません。次回は、MLBやサッカーの世界における、ビッグクラブのエゴについて、見ていきたいと思います。




     第10回 NPBにおける受難の時代 〜その10〜 MB Da Kidd


     前回は巨人のNPBにおける人材独占を例に、独占の弊害を指摘しましたが、今回以降は、NPBだけでなく、MLBやヨーロッパサッカーのビッグクラブ一般の独占の弊害についても、指摘していきたいと思います。

     NPBの独占の背景にあるものはカイシャフランチャイズ特有の外部性であることは、その8で指摘し、その9ではさらに、それが具体的にどういった結果を招くのかということを説明させていただきました。そこで今回は、弊害の対極にある、『公共の利益』とは一体何であるかということをまずは指摘します。

     前回取り上げた、『私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)』第1条の後段には、このような記述があります。

     『不当な制限その他一切の事業活動の不当な拘束を排除することにより、

    ・公正かつ自由な競争を促進し、
    ・事業者の創意を発揮させ、
    ・事業活動を盛んにし、
    ・雇傭及び国民実所得の水準を高め、

     以て、一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進することを目的とする。』

     つまり、独占禁止法の最大の目的は、資本主義における『強者のエゴ』を抑え、競争を促し、自由競争を守ることであり、この結果、『一般消費者の利益』が確保され、『国民経済の民主的で健全な発達』が促進されるのです。したがって、これこそが『公共の利益』であり、『強者のエゴ』を振りかざして競争を制限することは、この『公共の利益』に大きく反することです。こういう独占による競争制限を認めてしまうのは、事業者の創意を喪失させることによる企業努力の排除であるため、非常に社会主義的・共産主義的であり、その意味からも、渡辺恒雄氏の『社会主義』発言は、極めて本末転倒的、かつ無意味な感情的発言と指摘せざるを得ません。

     ではここで、カイシャフランチャイズと比べて地域フランチャイズでは、果たして、市場の失敗による影響はないのか、ということについて考えてみましょう。

     たとえばMLBでは典型的なアメリカ式の地域フランチャイズ制度をとっていますが、地域フランチャイズ制度は一定地域における観客獲得を制限する制度ですから、地域フランチャイズの持つ特性によって、営業収益の幅が限定されてしまいます。つまり、地域の持つ人口、広告効果、野球の持つ地位、そしてブランドによって、最初から営業収益の幅が限定されてしまい、事業者の創意を制限してしまうのです。

     この証拠を示す数字としては、プレジデント2003.5.19号のP.124〜129に掲載されている、福井盛太さんが書かれた『「金持ち球団」ヤンキースの経営学』という特集のP.126に、Street & Smith's sports Business Journal出典の、2001年度MLB球団別収支表が載っています。この収支表によれば、最高の営業収入を誇るニューヨーク・ヤンキースが$242,208,000、最低の営業収入しか得られないモントリオール・エクスポズが$34,171,000で、その格差は7倍強。しかもこの特集のP.127の記述によれば、ヤンキースの場合、自らの親会社、ヤンキーネッツが所有するケーブルテレビ会社、YESから支払われた放映権料、$171,000,000(2002年度)は損益計算書に載っていないということですから、さらなる格差があることが予想されます。

     したがってこの地域フランチャイズ制度を維持し、公共の利益を守って自由競争の余地を残すためには、どうしても営業収益を再分配する必要が出てきます。そこでMLBでは、年俸の総額が一定額を超えた場合、課徴金を課すことになりました。これがラグジュアリー・タックス(ぜいたく税)です。

     次回は、ヨーロッパにおけるサッカーのビッグクラブ事情について見ていきます。


現連載

過去の連載

リンク