NPBにおける受難の時代 by ICHILAU&MB Da Kidd

    第16回 NPBにおける受難の時代 〜その16〜 MB Da Kidd

    第17回 NPBにおける受難の時代 〜読売史観は適切か?1〜 MB Da Kidd

    第18回 NPBにおける受難の時代 〜読売史観は適切か?2〜 MB Da Kidd

    第19回 NPBにおける受難の時代 〜読売史観は適切か?3〜 MB Da Kidd

    第20回 NPBにおける受難の時代 〜読売史観は適切か?4〜 MB Da Kidd



     第16回 NPBにおける受難の時代 〜その16〜 MB Da Kidd


     さて、前回は小久保トレード事件についての特別版を緊急に書きましたが、今回からまた、話をセリエA事情に戻していきます。

     前々回ではフィオレンティーナの破綻とラツィオの財政危機の話をして、これらの財政破綻・危機の原因が日本のプロ野球のカイシャフランチャイズ制度と非常に似通っている部分によるものだと指摘しましたが、もうひとつ、日本のプロ野球と似た構造になっているところを指摘します。今回は、イタリアの放映権事情の話です。

     2002年になると、それまでの放映権の高騰に耐えられずに数々のメディア企業が倒産したことから、この影響を受けて、イタリアでも放映権バブルの崩壊は始まりました。

     よりチームを強くし、よりよい選手を集め、注目を浴びて広告効果を高めるためにクラブ側がどんどん値段を吊り上げた結果、高騰しきった放映権料。そして、そのクラブ側の足元を見て選手の年俸を吊り上げる代理人の働きで、さらに高騰する選手の年俸。その高騰した選手の年俸を支払うためのさらなる放映権の吊り上げ。しかしながら、この高騰のスパイラルためにキルヒやカナル・プリュスなどのメディア企業が倒産したのはみなさまのご記憶にもあることかと思いますが、その結果、この高騰のスパイラルに歯止めがかかったのです。

     1990年代、イタリアには2つの有料テレビチャンネルが登場しました。ひとつはルパート・マードック傘下のストリーム。もうひとつはカナル・プリュスが資本を持つテレビューです。そして、この2社の競合もあって、セリエAの放映権はどんどん吊り上がっていきました。
     ところが先にも書いたとおり、カナル・プリュスが倒産した結果、デレビューはストリームに買収され、スカイ・イタリアとして統合されたのです。

     すると、これまで放映権バブルの波に乗ってこの恩恵を受けてきた、資金が潤沢な6クラブ(このシリーズのその13でも指摘したユヴェントス、ACミラン、インテル、ASローマ、パルマ、ラツィオ)以外のチームには、採算に見合わないからという理由で、放映権の値下げ圧力がかかりました。一方でこの資金が潤沢=強豪6クラブの放映権は上昇し続けているのです。つまりセリエAは日本のプロ野球と同じで、各クラブチームが個別で放映権料を交渉できるために、弱小クラブはどんどん切り捨てられる一方で、強いクラブにますます富が集まる構造になっているのです。

     そこで値下げ圧力を受けたこの6クラブ以外のクラブは、連合して、2002-2003シーズンの開幕を2週間遅らせるという挙に出ました。その結果、6クラブがこれら以外のクラブへの資金援助に出たのです。

     しかしこれはよく考えてみると、おかしな話です。もともとリーグ戦スポーツというものはリーグ戦興行体なんであって、収入は興行体全体で、均等に分けるべきものなのです。こういうやり方にすべき理由は、この興行が本来持っている構造と、その成り立ちによります。ひとつのチームが強いからといって、そのチームに試合相手がいなければその強いチームは興行を行えないわけですから、収入は均等に分けなくてはおかしいのです。この問題を語る際には資本主義とか共産主義などという組織の経済システムの問題で語ることは完全に論点からずれており、たとえば放映権収入を全国もローカルも均等に分けるアメリカのNFLを、共産主義だ、と揶揄した読売新聞社社主の渡辺恒雄氏の発言は、経済素人としての無知をさらけ出したに過ぎないのです。

     リーグ戦スポーツ興行においては、クラブやチームを強くするためのノウハウを発展させる競争は行われて当然ですが、強い選手を集めるため、その獲得資金の大きさを競うような競争が行われては、スポーツ興行の根幹が風化してしまうのではないかと私は考えています。つまり、クラブやチームを強くするためのノウハウではなく、いかにして資金を調達するかというスポーツ以外の部分での競争が行われるために、スポーツそのものの発展ではなく、表面的にその場だけ儲ければいいという娯楽性と商売性の発展だけに目が向けられてしまうのではないか、ということです。
     強豪クラブ、ならびにチームに、チームを強くするためのノウハウが結集することは当然の競争原理ですが、資金の競争までそこに付随して、その結果、資金のない『弱小』と呼ばれるチームが切り捨てられていくことは、母体となるスポーツ興行の幅を狭めるので、この衰退をもたらすのです。つまり、リーグ戦興行体においては、エクスパンション(チーム・クラブの増設)はスポーツ全体を潤わせ、発展させる可能性を拓きますが、コントラクション(チーム・クラブの削減)は必ず衰退への途をつけてしまいます。

    【参考文献】
     Sportiva8月号 P.41下段 『Italia マードック VS カルチョの構図』



     第17回 NPBにおける受難の時代 〜読売史観は適切か?1〜 MB Da Kidd


     【その1:読売史観って?】

     読者のみなさまこんばんは。アフリカ野球特集は随時適宜入れていくこととして、実は私のHP、Ballpark In Salvadorの掲示板、COOLTALKにて最近出てきた話題に、読売史観というものがあります。この読売史観は歴史上さまざまな論議を巻き起こしており、日本のプロ野球の世界では非常に大きな問題ですので、今回から十数回にわたって、その特集を行っていきます。

     そもそも読売史観とは何でしょう。それは、日本で一番最初のプロ野球チームが読売ジャイアンツであるとする球史の見方です。しかしこの読売史観には異議を唱える者が多く、当メールマガジンでも『にっぽん野球昔ばなし』を連載されている九時星さんが、

     ”宝塚運動協会が解散したのが昭和4年7月、その5年後、昭和9年8月の読売新聞に、「日本最初の職業野球団 いよいよ近く誕生」という記事が出ますが、芝浦・宝塚から巨人軍で選手だった山本栄一郎氏のスクラップしている新聞には手書きで「正式には4番目なり!!」という書き込みがされています。(「もうひとつのプロ野球」、佐藤光房・著より)

     当時はまだ宝塚協会の記憶も新しく、そこで活躍した選手や対戦した選手がいわゆる職業野球リーグに数多く参加してますから、野球人にとって巨人軍が最初のプロチームでなかったことはほとんど常識だったでしょう。”

     という当時の事情について説明され、読売新聞社社主だった正力松太郎さんをプロ野球の父と呼ぶことが多い中、誤解がまかり通っているのではないかと指摘されました。そこで、今回のこのシリーズの連載をすることに、私は決めたわけです。
     上記の九時星さんの説明にもありますとおり、読売史観とは異なる常識を持っておられる方々は、芝浦運動協会を日本初のプロ野球チームと考え、さらに宝塚運動協会や天勝野球団を続くプロ野球チームと考えています。
     ところでプロ野球チーム、いや、プロスポーツチームとは何でしょう。それは、定期的に興行を繰り返し行い、儲けることをその興行の目的にしている団体のことをいいます。したがって、いくら定期的に興行をやっていても、儲けることを目的にしていない学生スポーツや社会人スポーツは、プロスポーツではありません。レクリエーションや福利厚生のための課外活動の一環でスポーツをやっている場合、それらはすべてアマチュアです。
     ですが、学生スポーツや社会人スポーツではなく、個人の趣味でやっているクラブチームの場合はどうでしょうか。果たしてアマチュアといえるのでしょうか。
     人によってはアマチュアだと呼ぶ人がいるかもしれません。規模だとか、世の中に知れ渡っている度合いがそれぞれ小さかったり低かったりすれば、プロとはいえないと判断する人たちです。しかし一方で、いやそうではない、1円でも儲ける意思で興行をやっているんだったら、これはプロチームなんだ、と主張される方々もいるでしょう。そこで本連載では、読者のみなさまに読売史観について考えていただく材料を提供するため、比較として、世界各地のスポーツリーグ、チームの例を紹介していきたいと思います。

     ちなみに次回は、アメリカ・メジャーリーグ以前の時代を振り返っていきます。この野球の草創期、どういうチームが誕生し、どういうリーグが創設され、果たしてそれらがプロといえるのかどうか。また、日本の野球事情と比べた場合、どうなのか。これらの事柄について、読者のみなさまに紹介していきたいと思います。



     第18回 NPBにおける受難の時代 〜読売史観は適切か?2〜 MB Da Kidd


     【その2:野球の草創期〜メジャーリーグ成立まで】

     読者のみなさまこんばんは。前回は、読売史観は何ぞやということでこの連載をスタートすると宣言したわけですが、今回は、ベースボールの成立からアメリカ・メジャーリーグ草創期の話です。

     まだ数々のスポーツの源流となっているイギリスから独立して間もない19世紀初頭、イギリスの影響が色濃く残っていたアメリカ社会でよく行われていたスポーツに、タウンボールというものがありました。これは、クリケットとラウンダーズというイギリスの2つのスポーツから派生して、アメリカで誕生したものです。クリケットからは審判制度とイニング制度、ラウンダーズからはスティックとボールを使うという形式を、それぞれ採り入れています。ちなみにクリケットとラウンダーズの影響を受けて派生したこのスポーツには、タウンボールのほかに、goal ball、sting ball、soak ballなどさまざまな形式があり、ルールも統一されておりませんでしたが、一番ポピュラーな形式がタウンボールだったのです。タウンボールは独立戦争の兵士たちや南部奴隷の子供たち、あるいは街中の一般庶民によって楽しまれていました。
     そんな時代背景の中、1834年にはこのスポーツについて"The Book Of Sports"という本にてはじめてベースボールという言葉が出てきます。これが、このスポーツの呼称の運命を決定づけたのでしょうか。

     そして1839年、ニューヨーク州クーパースタウンにて、オステゴ・アカデミーとグリーンズ・セレクト・スクールとの間で、ベースボールの原型となるスポーツの試合が行われました。

     その後、1845年9月23日、アレクサンダー・J・カートライトによって、自分のチームのニッカボッカーズにルールブックが配られます。これが俗にカートライト・ルール、あるいはニッカボッカーズ・ルールといわれるもので、このルールに基づき、1846年6月19日にはじめての『正式な』ベースボールの試合が行われています。

     この日以後、ベースボールは急速な発展の時代を迎えます。20年の間にニューヨークでは数々のチームが生まれ、特にブルックリンでは数多くのチームが生まれたために『ベースボールクラブの街』と呼ばれるようになりました。1856年にはマンハッタンにて50近くのチームがあったといいます。またこの1856年から2年以内に、ファッション・レース・コースからロングアイランドという路線で汽車が走り、入場料50セントで試合を観客に見せています。
     そこでこういう動きを受け、1857年、ニッカボッカーズを中心に、ナショナル・アソシエーション・オヴ・ベースボール・プレーヤーズというリーグが誕生します。カートライト・ルールは20の成文から成立していたルールブックでしたが、このリーグ機構はさらに細かくルールを整理・体系化しました。そしてフィールドでプレイする人数を9人とし、内野を四角形と定め、その塁間を90フィート(約27メートル)とし、審判にストライクコールの権限を与えましたが、ひとつ、非常に重大な決定を行っています。それは、

     『ベースボールはアマチュアとしての試合しか行わない。試合に参加する選手は、いかなる報酬もこの試合によって受け取らない。』

     という決定です。したがって、このニッカボッカーズを中心としたナショナル・アソシエーション・オヴ・ベースボールは野球史上最初に成立したリーグではありますが、プロフェッショナルなリーグではなかったのです。

     その後、1861年から始まった南北戦争によって、一時リーグ創設の動きは途絶えます。ですがベースボール人気はその後も続きました。

     そんな中、野球史上におけるはじめての人気チーム、そしてスターが生まれます。ブルックリン・エクセルシオールズとジェイムズ・クレイトンです。のちに大選手兼大興行師となったアル・スポルディングはエクセルシオールズの人気ぶりを振り返り、このチームが1860年代、非常な勢いで全米の若者を魅了していったと述べています。エクセルシオールズの勝利の電報は全米中を駆け巡り、野球というスポーツはあっという間に広がっていきました。またクレイトンははじめて『スピードボール=速球』を投げ、観客を魅了しました。

     ですが、エクセルシオールズのような人気チームやクレイトンのようなスターの誕生は、野球熱を煽る一方で、表面的にはアマチュアルールを掲げていたベースボールのあり方を変質させていったのです。能力のある選手を裏金で獲得することが横行し、アマチュアルールはすっかり形骸化してしまいました。また、ベースボールは賭けの対象となり、違法な報酬が支払われることになったため、選手の素行にも影響が出てきました。”高潔な”アマチュア精神はすっかりないがしろにされてしまったのです。

     そして1869年には、球史における初のプロフェッショナルチームが誕生します。シンシナティ・レッドストッキングスです。選手に野球による報酬を支払っていたチームは数々ありましたが、全米に公式に報酬を支払うことを宣言したチームは、このチームが最初でした。
     レッドストッキングスにはオハイオ州の投資家グループが出資し、監督にはハリー・ライトが就任して、試合中はニッカポッカのユニフォームを選手に着用させることでよりプレイのスピードアップを図り、同時に選手の素行もきちんと正しました。ライトは自分たちに出資してくれるひとたちを納得させるために、あるいは劇場で公演される見世物のように支払う価値のある興行であると人々に理解させるために、このようなことを行ったのです。

     ちなみにレッドストッキングスに参加していた選手のうち、地元シンシナティ出身者はただ一人でした。残りは帽子屋さん、保険屋さん、計理屋さんなどの本業をほかに持ち、さまざまなチームにて名を馳せてきたニューヨーカーたち。彼らは一人あたり$1,500あまりの報酬を受け取り、65連勝という記録を引っ提げて、当時できたばかりの大陸横断鉄道に乗り、カリフォルニア遠征を行って、200,000人の観客を動員しました。

     そこでこの動きを受け、2年後の1871年3月17日のセント・パトリック・デイという休日に、ナショナル・アソシエーション・オヴ・ベースボール・プレーヤーズは、アマチュア部門とプロフェッショナル部門とに分離し、ここに球史はじめてのプロフェッショナル・ベースボール・リーグが誕生します。
     参加したのは、シンシナティよりライトがレッドストッキングスをボストンに連れてきて成立したボストン・レッドストッキングス、シカゴ・ホワイトストッキングス、フィラデルフィア・アスレチックス、ニューヨーク・ミューチュアルズ、ワシントン・オリンピックス、トロイ(ニューヨーク)・ヘイメイカーズ、フォートウェイン(インディアナ)・ケキオンガス、クリーヴランド・フォレストシティーズ、ロックフォード(イリノイ)・フォレストシティーズの9チームでした。

     次回はこの続きで、メジャーリーグ戦国時代です。

     【参考Web】

    Baseball in the Nineteenth Century(長くてめんどくさいですが、非常におもしろい)
    Baseball Almanac -Famous Firsts in 19th Century Era
    Baseball Almanac -Nickerbocker Baseball Rules
    Steve Dimitry's Old Time Baseball Web Page



     第19回 NPBにおける受難の時代 〜読売史観は適切か?3〜 MB Da Kidd


     【その3:メジャーリーグ戦国時代 〜その1〜】

     読者のみなさまこんばんは。いろいろと大きな動きが続いている球界ですが、私としては、東北の新球団のことはB_windさんに任せ四国の独立リーグの話は一豊さんに任せて、粛々とアメリカのプロ野球草創期の話を続けていきたいと思います。
     前回は球史初のプロフェッショナルチーム、シンシナティ・レッドストッキングスの誕生と、その2年後に生まれたプロフェッショナルリーグ、ナショナル・アソシエーション・オヴ・プロフェッショナル・ベースボール・プレーヤーズの話をしましたが、今回は、その後に続々と誕生したリーグ、ならびにそれに所属したリーグの話をいたしましょう。

     ナショナル・アソシエーション・オヴ・プロフェッショナル・ベースボール・プレーヤーズに参加したのが、ボストン・レッドストッキングス、シカゴ・ホワイトストッキングス、フィラデルフィア・アスレチックス、ニューヨーク・ミューチュアルズ、ワシントン・オリンピックス、トロイ(ニューヨーク)・ヘイメイカーズ、フォートウェイン(インディアナ)・ケキオンガス、クリーヴランド・フォレストシティーズ、ロックフォード(イリノイ)・フォレストシティーズの9チームだったことは前回述べたとおりですが、これらプロフェッショナルチームの興行は大きな人気を博しました。
     しかしながら、1873年の不況により観客動員は落ち込み、優秀な選手たちはよりよい報酬と安定した活躍の場を求め、チームを渡り歩いていったのです。すると、高い報酬を払えない、小さな町をフランチャイズにしているチームは、どんどん弱体化していきました。試合の日程を各チーム同士で勝手に組んでしまうこともたびたびで、各チームがお互い、シーズン5試合を組めばよい、ということが決められていただけの極めてルーズな運営だったこともあります。また、ファンは観客席で暴れる酔っ払いに文句を言い、選手は賭博師のために八百長を重ねたのです。

     そして1876年、この球史初のプロフェッショナルリーグに問題が持ち上がります。石炭採掘によって財をなしたシカゴ・ホワイトストッキングスのオーナー、ウィリアム・ハルバートが、チームのリーグ脱退を表明したのです。秘密裏にリーグのトップ5の選手を自チームに呼び寄せ、リーグ機構の怒りを買うことを承知で、ほかの7チームとともに新たなプロフェッショナルリーグ、ナショナル・リーグ・オヴ・プロフェッショナル・ベースボール・プレーヤーズ(現ナショナル・リーグ)を立ち上げました。各チームのフランチャイズ都市は、ボストン、シカゴ、シンシナティ、セントルイス、ハートフォード、ニューヨーク、フィラデルフィア、そしてルイヴィルで、それぞれが75,000人の観客を呼べるポテンシャルを持っていたのです。
     この新たなナショナル・リーグでは、以前のナショナル・アソシエーションに寄せられていた不平不満を改善する形で、いろいろと規定を設けました。選手の試合中の飲酒を禁じ、賭博師をフィールドから追放し、日曜日に試合をやらないことを決め、球場でビールを売らないことにしたのです。試合の日程はすべてリーグが決定し、管理・運営を行い、ナショナル・アソシエーションに比べ、よりリーグ戦興行体としての体裁を整えた堅実経営を行っています。
     そして最も大事なポイントは、選手にではなく、オーナーに権限を集中させたことです。各チームのトップ5の選手はそのチームのみのためにプレイすることが求められ(当時はチームの掛け持ちが多かったが、これを禁止した)、しかもその独占が、その選手の全選手生命期間に及ぶことになりました。このいわゆる『保留条項』は後々、カート・フラッドのケースのときに問題になってきますが、自由放任になって半ば無秩序になっていたプロフェッショナル・ベースボールのあり方に一石を投じたのです。最初選手たちは不平不満を言っていましたが、このことは、選手の労働者としての地位を定め、ベースボール興行をビジネスとすることを決定づけました。

     しかしながら、このナショナル・リーグの運営には、問題も出てきました。シーズンを全うすることのできないチームが次から次へと生まれたのです。もともとこのナショナル・リーグは上にも軽く説明したとおり、75,000人の観客動員を見込めるポテンシャルのある大都市をフランチャイズにしている8チームでスタートし、観客動員のポテンシャルの低い小都市をフランチャイズにしているチームを意識的に排除していたわけですが、ビッグチームが試合を行う相手をリーグに加入させざるを得なくなったのです。そこでリーグはシラキュース、トロイ、プロヴィデンス、ウォチェスター、インディアナポリス、ミルウォーキー、そしてバッファローをフランチャイズに置くチームを加入させました。すると、ボストンやシカゴのような大都市を本拠とするチームですら、儲からなくなったのです。また、20世紀初頭に至るまで一部の有力チームだけがペナントを独占し、国民的スポーツであるはずのベースボールが、一部有力都市の市民たちだけのものになってしまいました。しかも観客が、低所得層の一部民族連中や肉体労働者だけになってしまい、彼らは観戦のために景気よくお金を使う連中ではなかったのです。特に不景気で、賃金が下がるときには。

     次回は、そんなジリ貧に陥っているナショナル・リーグを後目に、新たに台頭してきたリーグのお話です。

    【参考文献・web】

     針ヶ谷 純吉著 『ベースボールの生い立ち』 2004年 アメリカ野球學曾日本支部発表資料
     Baseball in the Nineteenth Century




     第20回 NPBにおける受難の時代 〜読売史観は適切か?4〜 MB Da Kidd


     【その4:メジャーリーグ戦国時代 〜その2〜】

     今年のワールドシリーズは、古豪セントルイス・カーディナルスが力を発揮できないままに涙を呑んだので、闘いの醍醐味を味わうことのできないままにワールドシリーズが終わってしまって、すこし勿体なかったような気がします。もちろん、私としては、ボストン・レッドソックスのワールドシリーズ進出と制覇を条件つきで予想していましたから、彼らが86年ぶりに勝ったのはちょっとうれしくもあるんですが、それにしても圧倒的すぎて、あまりにもあっさりしすぎた展開でしたね。そのボストン・レッドソックスとニューヨーク・ヤンキースとのアメリカン・リーグ・チャンピオンシップの闘いが伝説的な凄いものだったので、余計にその感を深くしております。
     ということで、今日は少々勿体ないという気持ちをこめて、セントルイス・カーディナルスの前身となったセントルイス・ブラウンズを中心とした、アメリカン・アソシエーション、ならびに、次々と勃興していったその周辺のリーグの話です。

     前回は、ナショナル・リーグがジリ貧に陥っているという話をさせていただきました。ちなみに私は、ナショナル・リーグがこうなってしまったのは、ナショナル・アソシエーションに寄せられていた不平不満を改善する形でいろいろと規定を設けたことが仇になり、自由度が減ってしまったことで、堅実経営が行き過ぎてしまったからなのではないか?と思っております。
     ナショナル・リーグは、選手の試合中の飲酒を禁じ、賭博師をフィールドから追放し、日曜日に試合をやらない、球場でビールを売らないと決めたことで、ボールパークやリーグの規律は保てたかもしれませんが、ゲームの『余裕』を奪ってしまったのではないでしょうか。賭博師を追放することや、選手の悪いマナーや観客の暴力をやめさせることは当然であるにしろ、ゲームをゆったりと楽しめなければ、観客のみなさんとしては満足しないわけですから、商売としてのリーグのあり方を考えたときに、この『余裕』は大事になってきます。そして、その『余裕』を生むもの・・・それこそがアルコールや、キリスト教上の安息日である日曜日に試合を観ることだったのではないでしょうか。したがって、ビール、あるいは日曜日という名前の潤滑油は、野球観戦には切っても切り離せなかったのではないかと私は考えています。いまの時代、日曜日に神宮球場あたりに観戦に行って、球場でビールを売り歩く売り子さんたちを見ていると、つくづくそう思うのです。

     さて、前置きはこれぐらいにして、本題に入りましょう。

     ナショナル・リーグは球場でビールを売ることを禁止し、日曜日には試合をやりませんでした。そこで、このことに不満を持ったアメリカ中西部のクラブチームが寄り集まり、1881年11月2日、『皆に自由を』という掛け声のもと発足したのが、アメリカン・アソシエーションです。参加したのは、セントルイス、シンシナティ、ルイビル、アルガーニー、アスレティック、そしてアトランティックで、その翌日にはリーグ会長としてH.D.マクナイトを選出しましたが、中心になっていたのはセントルイス・ブラウンズで、オーナーはクリス・フォン・ダール・アイという有名なビール醸造業者でした。1882年3月11日には、ナショナル・リーグから追放された選手の参加を、一定の審査を経たのちなら認めるという抜け穴を作り、ナショナル・リーグにて試合中の飲酒その他の理由によりブラックリストに載った選手たちを獲得、ナショナル・リーグの半分の25セントという入場料をとり、ナショナル・リーグでは禁止されたビール販売と日曜日の試合を認め、大いに盛り上がりました。
     このアメリカン・アソシエーションは、ナショナル・リーグを補完するという性格が強かったために、ナショナル・リーグとは友好的なライバル関係を保ち、共存共栄していきました。よって、1880年代はナショナル・リーグとこのアメリカン・アソシエーションの2大リーグが分立する時代になります。
     この2大リーグの関係を表す出来事は、たとえば1886年3月2日、アメリカン・アソシエーションが、それまでピッチャーには6ボールまで認められていたのを5ボールにまで制限し(現在のルールではもちろん3ボールですが)、*ピッチャーズボックスを1フィート(約30センチ)深くして、盗塁規定を認めるというルール改正を行いましたが、ナショナル・リーグもこれにならい、同年3月4日に同様のルール改正を行っています。
     ただし、ナショナル・リーグは7ボールから6ボールへの変更は拒否し、従来どおりの7ボールのままでしたが。

    *ピッチャーズボックス

     現在はマウンド上にピッチャーズプレートがあって、ピッチャーはそこから投球を行うわけだが、当時はピッチャーズボックスという枠の中から投げていた。これは現在の感覚でいうバッターボックスのような、約1.8メートル四方の四角形の枠である。これを約2.1メートルの奥行きまで認めたのが1886年のルール改正。ちなみにこのとき、現在59フィート(約18メートル)の本塁までの距離は50フィート(約15メートル)しかなく、1858年当時の45フィート(約13.5メートル)よりは距離が伸びているが、ピッチャーが現在よりはもっとバッターに近いところから投げていた。なお、ピッチャーズボックスが廃止される代わりにピッチャーズプレートが登場したのは1893年からで、マウンドという呼称が使われるようになったのは1949年からである。


     また1883年9月にはユニオン・アソシエーションというリーグが発足し、ナショナル・リーグやアメリカン・アソシエーションの保留条項に対して不満を持つ選手の獲得を目指しました。参加したのは、リーグ会長のヘンリー・V・ルーカスがオーナーになっているセントルイス(・マルーンズ)、ミルウォーキー、シンシナティ(・アウトロー・レッズ)、ボルティモア、ボストン(・レッズ)、シカゴ/ピッツバーグ、ワシントン、フィラデルフィア、セントポール、アルトゥーナ、カンサスシティ、ウィルミントンでしたが、人気選手をほとんど獲得できなかった結果、ファンをほとんど球場に呼べなかったために、財政的に立ち行かなくなり、1884シーズン、8割3分2厘という圧倒的な勝率で優勝したセントルイスがナショナル・リーグへと逃げ出してしまった結果(マルーンズはのち2年で消滅)、翌1885年1月15日のミルウォーキーにおける会議にはミルウォーキーとカンサスシティの代表しか来ないという惨状に陥り、たった1年半で解散してしまいました。
     なお、この選手引き抜きの際には、ナショナル・リーグとアメリカン・アソシエーションが猛烈な反対運動を行ったといわれています。

     次回はこの続きで、1890年代から20世紀にかけてのメジャーリーグです。

    【参考文献・Web】

    ・針ヶ谷 純吉著 『ベースボールの生い立ち』 2004年 アメリカ野球學曾日本支部発表資料
    ・Paul Dickson The New Dickson Baseball Dictionary 1989, 1999 edition Harcourt Brace
    ・公認野球規則1999年版
    Baseball Library Com.
    Union Association(UA) Statistics And Awards
    Historic Baseball Com.


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