NPBにおける受難の時代 by ICHILAU&MB Da Kidd

    第21回 NPBにおける受難の時代 読売史観は適切か? 〜その5〜 MB Da Kidd

    第22回 NPBにおける受難の時代 読売史観は適切か? 〜その6〜 MB Da Kidd

    第23回 NPBにおける受難の時代 読売史観は適切か? 〜その7〜 MB Da Kidd

    第24回 NPBにおける受難の時代 読売史観は適切か? 〜その8〜 MB Da Kidd

    第25回 NPBにおける受難の時代 読売史観は適切か? 〜その9〜 MB Da Kidd

    第26回 NPBにおける受難の時代 読売史観は適切か? 〜その10〜 MB Da Kidd

    第27回 NPBにおける受難の時代 読売史観は適切か? 〜その11〜 MB Da Kidd



     第21回 NPBにおける受難の時代 読売史観は適切か? 〜その5〜 MB Da Kidd


     【その5:メジャーリーグ戦国時代 〜その3〜】

     さて、前回は岩隈問題を緊急に取り上げた関係上、オールドメジャーリーグの話ができませんでしたが、今回はその続きです。

     1880年代の回において、私がひとつ、書き忘れたことがあります。それは、アメリカ球史における、はじめてのワールドシリーズが行われたことです。
     前回私は、ナショナル・リーグとアメリカン・アソシエーションが友好的なライバル関係を保ちながら共存共栄していったことについては書きましたが、両者の間で選手権シリーズが行われたことについては書いておりません。したがってここに、これについて紹介しておきます。

     球史初のワールドシリーズが行われたのは1884年。プロヴィデンス・グレイズ(ナショナル・リーグ1位)とニューヨーク・メトロポリタンズ(アメリカン・アソシエーション1位)との間で行われ、グレイズが3連勝でメトロポリタンズを下しております。ただ、この当時のワールドシリーズはエキシビジョン的要素が強く、いわゆる日米野球やオープン戦のような、レギュラーシーズンの延長上とはかけ離れた、真剣勝負とは少々性格が異なるものであったようです。1903年以降に行われている近代ワールドシリーズに比べ、その運営方法はかなりルーズで、双方のチームのオーナー同士で試合数・球場・入場料の配分等を勝手に決めていて、たとえば1887年には、デトロイト・ウルヴァリンズ(ナショナル・リーグ1位)とセントルイス・ブラウンズ(アメリカン・アソシエーション1位)との間で15試合も行われていたり(結果はウルヴァリンズの10勝5敗)、あるいは決着がつかずに3勝3敗1引き分けといったシリーズ結果になった1885年(シカゴ・ホワイトストッキングズ[ナショナル・リーグ1位]対セントルイス・ブラウンズ[アメリカン・アソシエーション1位])や1890年(ブルックリン・ブリッジグルームズ[ナショナル・リーグ1位]対ルイヴィル・コロネルズ[アメリカン・アソシエーション1位])のワールドシリーズがあったりしました。

     が、1890年、突然この2大リーグ連立時代に変化が訪れます。プレーヤーズ・リーグの誕生です。プレーヤーズ・リーグは、年俸上限制度や罰金制度、ならびに保留条項といった2大リーグの運営のやり方に不満を持つ、*1ブラザーフッド・オヴ・ベースボール・プレーヤーズという球史初の選手組合のメンバーによって結成され、ボストン・レッズ、ブルックリン・ワンダーズ、ニューヨーク・ジャイアンツ、シカゴ・パイレーツ、フィラデルフィア・クエーカーズ、ピッツバーグ・バーガーズ、クリーヴランド・インファンツ、バッファロー・バイソンズが参加しました。
     しかし、このプレーヤーズ・リーグは資金が不足していたこと、組織がしっかりしていなかったこと、ならびに、2大リーグの妨害に遭ったことで、1891年の開幕を前に頓挫してしまいます。

    *1 ブラザーフッド・オヴ・ベースボール・プレーヤーズ

     ジョン・モントゴメリー・ワード、ならびにニューヨーク・ジャイアンツのチームメイトたちによって1885年に結成された、球史初の選手組合。選手の権利の保護と向上を目指し、保留条項ならびに年俸上限の撤廃を目指した。プレーヤーズ・リーグ創設の動きはその運動の一環。


     そして、このプレーヤーズ・リーグ創設の動きは、思わぬ結果をもたらしました。アメリカン・アソシエーションの崩壊です。

     アメリカン・アソシエーションはナショナル・リーグの助言に従い、プレーヤーズ・リーグ創設の動きを妨害するため、リーグに参加するチームの数を1890年に12にまで増やしました。が、この急拡大がリーグを疲弊させ、運営を困難なものにしたのです。
     その結果、アメリカン・アソシエーションは、1891年のシーズン終了後、ナショナル・リーグに統合されました。

     次回は、アメリカン・リーグ創設とその台頭のお話です。

    【参考資料・web】

    ・針ヶ谷 純吉著 『ベースボールの生い立ち』 2004年 アメリカ野球學曾日本支部発表資料
    ・針ヶ谷 純吉著 『メジャーリーグの昔を知ろう!!』 2004年 アメリカ野球學曾日本支部発表資料
    ・Paul Dickson The New Dickson Baseball Dictionary 1989, 1999 edition Harcourt Brace
    Baseball Library Com.
    Baseball Reference Com.



     第22回 NPBにおける受難の時代 読売史観は適切か? 〜その6〜 MB Da Kidd


     【その6:メジャーリーグ戦国時代 〜その4〜】

     さて前回は、プレーヤーズ・リーグの登場とそれの影響によるアメリカン・アソシエーションの崩壊の話をしましたが、今回は、その後に台頭してきた現アメリカン・リーグの話をしていきます。

     1891年、アメリカン・アソシエーションはナショナル・リーグに吸収され、アメリカでメジャーリーグと呼べるリーグは、ナショナル・リーグひとつだけになってしまいました。
     しかしながら、メジャーリーグと呼べるリーグはたとえひとつになっても、そのほかに、マイナーリーグと呼べるリーグは、いくつもありました。そのうちのいくつかは、鰻谷さんの連載でも紹介されている独立リーグとして残っているのもあれば、現メジャーリーグと契約を結んでいるマイナーチームが所属しているリーグがあったりしますが、このうちのひとつに、ウェスタン・リーグというものがありました。

     このウェスタン・リーグは1893年11月20日に設立されました。当時の参加チームはグランド・ラピッズ、ミルウォーキー、デトロイト、カンサスシティ、トレド、インディアナポリス、ミネアポリス、そしてシズ・シティで、1894年には、シカゴ・コマーシャル・ガゼット紙の記者であったバン・ジョンソンを会長に迎えました。
     同時にウェスタン・リーグは、シンシナティ・レッズ監督時代からジョンソンの盟友であり、低迷期のアメリカン・アソシエーションの1885年から1888年にかけ、4年連続でセントルイス・ブラウンズを4回優勝へと導いたチャールズ・コミスキーをも、シズ・シティのオーナーとして迎えています。コミスキーはシズ・シティを前オーナーのH.H.ドレイルから買収し、これを直ちにセントポールへと移しました。セントポール・セインツの誕生です。

     コミスキーは、陰に陽にジョンソンを助け、またミルウォーキーの経営陣にもコニー・マックが加わって活気づいた結果、ウェスタン・リーグは急速に発展し、最強のマイナーリーグと呼ばれるようになりました。そこで1899年10月11日、ウェスタン・リーグはシカゴの会議にて、アメリカン・リーグへと改称します。またこれに伴い、1900年3月21日、センントポール・セインツはシカゴに移ることとなり、シカゴ・ホワイトストッキングと改称されることが決まります。そして1901年、アメリカン・リーグはついにメジャーリーグとして宣言をし、ナショナル・リーグの対抗馬として名乗りを挙げました。
     ジョンソンはナショナル・リーグの保留条項に挑戦し、2,400ドルに抑えられていた選手の年俸を引き上げ、サイ・ヤング、ジョン・マグロー、ウィリー・キーラー、ナポレオン・ラジョイ、エド・デラハンティ、ジェシー・バケットといったスター選手たちと次々に契約を成立させました。特にミルウォーキーから離れ、1901年からフィラデルフィア・アスレチックスのオーナーとなったコニー・マックは、年俸6,000ドルでナップ・ラジョイと契約し、ラジョイは打率.422、125打点、14本塁打というすばらしい成績を残し、アメリカン・リーグの三冠王に輝いています。

     次回はアメリカン・リーグとナショナル・リーグの和解と協調、そして、ワールドシリーズの開始と、20世紀初頭のメジャーリーグの話です。

    【参考資料・web】

    ・針ヶ谷 純吉著 『ベースボールの生い立ち』 2004年 アメリカ野球學曾日本支部発表資料
    Baseball Library Com.
    Baseball Reference Com.
    Chicago White Sox History
    Ban Johnson And The Birth of American League



     第23回 NPBにおける受難の時代 読売史観は適切か? 〜その7〜 MB Da Kidd


     【その7:メジャーリーグ戦国時代 〜その5〜】

     前回の後半でも触れたとおり、アメリカン・リーグはナショナル・リーグの対抗馬として名乗りを上げた関係上、最初はナショナル・リーグと競争関係にありました。

     チャールズ・コミスキーが1901年、セントポール・セインツをシカゴに移してホワイトストッキングスを名乗らせたとき、シカゴにはナショナル・リーグの創設者、ウィリアム.A.ハルバートが1876年に創設したオルファンズがありました(1902年にカブスと改名)。つまりアメリカン・リーグは、ナショナル・リーグと競争するつもりで、オルファンズにホワイトストッキングスをぶつけてきたのです。
     そしてアメリカン・リーグは何もシカゴだけでなく、ほかのナショナル・リーグのフランチャイズにも対抗馬をぶつけてきました。同1901年、ボストンにおいてはビーニーターズ(のちのアトランタ・ブレーブス)に対してソーマーセッツ(のちのピルグリムス→レッドソックス)、フィラデルフィアにおいてはフィリーズに対してアスレチックス。1902年にはミルウォーキーにあったブリュワーズをセントルイスに移し、カーディナルスにぶつけてきたのです。
     アメリカン・リーグはナショナル・リーグに対して、過去のどのライバルよりも組織として整っており、財政的基盤もしっかりしていて、指揮命令系統がちゃんとしていることを示そうとしたのでした。その結果、最初はアメリカン・リーグを格下扱いしていたナショナル・リーグもこれを認めざるを得なくなり、1902年には両リーグ会長を協議委員とするナショナル・コミッションが設立されます。そして1903年には両者のリーグチャンピオン間で9回戦制度のワールドシリーズが行われました。ちなみにこのときは、アメリカン・リーグのボストン・ピルグリムズがナショナル・リーグのピッツバーグ・パイレーツを5勝3敗で下しております。

     が、翌1904年のワールドシリーズは行われませんでした。というのも、ナショナル・リーグ優勝チーム、ニューヨーク・ジャイアンツ監督のジョン・マグローがこれを拒否したからです。マグローはアメリカン・リーグ会長のバン・ジョンソンとは不仲でした。
     2人の対立は1901年にさかのぼります。マグローは1900年、ナショナル・リーグにおけるボルティモア・オリオールズの消滅を受け、セントルイス・カーディナルスに移ることとなりましたが、ボルティモアの地にこだわったのか、『事前に通告なくチームが消滅した場合、選手は保留条項の対象とならない』というナショナル・リーグの保留条項の抜け穴を使って、アメリカン・リーグのボルティモア・オリオールズ(NYハイランダーズ→現NYヤンキース)へと移籍します。
     ところがマグローは、アメリカン・リーグでたびたび規律違反を起こして会長のバン・ジョンソンと対立した結果、1902年半ばにニューヨーク・ジャイアンツへと移籍し、このチームを1904年には106勝を挙げるほどの強豪へと変貌させたのでした。そしてこの1904年、このニューヨーク・ジャイアンツのオーナーに就任したばかりのバン・ジョンソンの仇敵、ジョン・T・ブラッシュとともに、ワールドシリーズ開催に応じることを拒否したのです。

     しかし1905年、1903年のワールドシリーズが好評だったことを受け、ナショナル・コミッションは正式にワールドシリーズの開催を決定し、7回戦制度も定めました。これが現ワールドシリーズで、1994年のストライキによる中止を除き、毎年開催されています。

     次回は1910年代半ば、このナショナル・リーグとアメリカン・リーグの2リーグ制に挑戦してきたリーグのお話です。

    【参考図書・web】

    Major League Baseball Franchise History
    BaseballLibrary.com
    the Baseballpage.com(Chicago Cubs)
    Chicago Cubs History(The Official Site of Chicago Cubs)



     第24回 NPBにおける受難の時代 読売史観は適切か? 〜その8〜 MB Da Kidd


     【その8:メジャーリーグ戦国時代 〜その6〜】

     前回はナショナル・リーグがアメリカン・リーグの存在を自らと同等のものとして認め、いくつかのトラブルはあったものの、協調路線へと方向を転換し、20世紀におけるメジャーリーグ・ベースボール発展の基盤を着々と築きつつあったことの話は、しました。そして、ナショナル・コミッションの設立によって、両リーグが利害を一致させることになり、ワールドシリーズの正式開催までもっていったところまで説明しました。

     このように20世紀初期のアメリカでは、もともとルーツの異なる2つのリーグが協調路線をとることで今日の発展の礎を築いているわけですが、その象徴となったのが、B_windさんがお取り上げになった、両リーグの会長制度の廃止です。

     日本のプロ野球の場合ですと、もともと1リーグだったものが50年ほど前に分裂し、分裂する際には新規参入球団をめぐって対立が起こった結果、新規参入に賛成組がパ・リーグに、反対組がセ・リーグにと分裂してしまった経緯が知られていますが、その後、以前にも紹介した昭和29年通達『職業野球団に対して支出した広告宣伝費等の取扱について』の影響もあって、

    1.球団を『広告宣伝物』として扱い、球団維持のための業務をすべて外にお願いしてしてしまったために、経営努力の余地をほとんどなくしてしまった親会社

     と、

    2.球団を自企業の重要なコンテンツとして位置づけ、利益を稼ぎ出すためのマシンにしてしまった親会社

     との間で収入に格差が生じてしまったことにより、日本のプロ野球のオーナー会議は、そのままだと永遠に利害が一致しない、複雑なモザイク体制になってしまいました。
     その結果、『単なるカイシャの気まぐれな道楽』として位置づけられた日本のプロ野球はそれを今日まで引きずってしまい、2004年には、オーナー同士の利害が大きく対立して二進も三進もいかなくなった状況を何とか打開するために、『妥協の産物』としての1リーグ制度へと流れを傾けようとしたわけです。しかしながらこれは所詮、一部カイシャ側のエゴにすぎず、メディアを通じて大きく世の中に影響を与えるプロ野球の公共性を無視した暴挙であったことは、以前にも指摘しました。その結果は、読者のみなさまもよくご存知のとおりです。

     これに対し、メジャーリーグは逆に、フィールド上では2リーグに分かれて盛り上げる一方、両リーグのビジネス上の利害対立を極力なくし、次第に協調していく路線をとることで、両リーグ全体の利益の底上げを図ったわけです。まさに、『フィールド上は2リーグ、ビジネス上は1リーグ』体制の形成です。そして、こういう違いが生まれた大きな要因は、日米の税金のシステムの違いに起因するわけですが、これについてはいずれ、特別編にて読者のみなさまにも説明してまいりましょう。

     では、小難しい話が続いてしまって申し訳ありませんでしたが、20世紀初頭のアメリカのベースボール事情へと話を戻します。

     1905年にワールドシリーズがきちんとはじまってからは、ナショナル・リーグとアメリカン・リーグとの間には、特にこれといった大きな事件もなく、両者は平和裏に共存共栄していきました。
     が、1913年、突如、シカゴ出身の起業家、ジョン.T.パワーズが、同じ起業家仲間を集め、リーグ立ち上げを宣言します。フェデラル・リーグ、21世紀現在も『第3のメジャーリーグ』と呼ばれているリーグの誕生です。

     フェデラル・リーグはもともと、地方のリーグでのセミプロの選手やマイナーリーグの選手、あるいは、盛りをすぎたメジャーの選手によって構成されていたリーグでした。シカゴ、クリーヴランド、インディアナポリス、ピッツバーグ、セントルイス、ケンタッキー州コヴィントン(のちにミズーリ州カンザスシティ)の6都市をフランチャイズとし、これらのチームの監督は、クリーヴランドを率いていたサイ・ヤングをはじめ、いずれも元メジャーリーガーでしたが、1913年当時はパワーズの下、従来のナショナル・リーグならびにアメリカン・リーグとの選手の契約を尊重していたのです。
     しかし、1913シーズン後にチームがひとつ潰れると、危機感を持ったオーナーたちはパワーズの姿勢を弱腰だと突き上げ、この動きに懸念を表明したパワーズを会長から解任し、同じシカゴのチームのオーナーの一人だったジェイムス・ギルモアを会長に選びます。そして、翌年から1915年にかけては、シカゴ、インディアナのような中部から、ブルックリンやニューアークなどの東部にかけてフランチャイズを拡大、以下の8チームとなります。

    ●シカゴ・ホエールズ
    ●ボルティモア・テラピンズ
    ●バッファロー・ブルース
    ●ブルックリン・ティップトップス
    ●カンザスシティ・パッカーズ
    ●ピッツバーグ・レベルズ
    ●セントルイス・テリアズ
    ●インディアナ・フーズィアーズ(1914シーズンのみ)
    ●ニューアーク・ペパーズ(1915シーズンのみ)

    *アメリカの地図はこちらをご参照ください。

     体面上フェデラル・リーグはナショナル・リーグやアメリカン・リーグと選手との契約を尊重していましたが、彼らの契約内容が次第にナ・リーグやア・リーグに拘束されるものになってくるにつれ、ナ・リーグやア・リーグとの対決姿勢が鮮明になってきます。ア・リーグならびにナ・リーグとフェデラル・リーグとの間には引き抜き合戦が起こり、フェデラル・リーグは接戦のペナントレースによる大量の観客動員という背景もあって、急速にその力を伸ばしていきます。

     次回は、このフェデラル・リーグがたどった運命、ならびに、その運命を決定づけた人物があの有名なブラックソックス事件にて果たした役割について説明し、メジャーリーグのシリーズに終止符を打ちたいと思います。



     第25回 NPBにおける受難の時代 読売史観は適切か? 〜その9〜 MB Da Kidd


     【その9:メジャーリーグ戦国時代 〜その7〜】

     前回はフェデラル・リーグ誕生の経緯、ならびに、現メジャーリーグとの対立が勃発したところまで話を進めました。
     今回はこの続きで、前回のおさらいとこの対立の経緯について見ていくことにします。なお、今回でメジャーリーグシリーズ最終回と前回の最後に申し上げましたが、まだこれに続く事件その他が多々ありますので、もうすこしお話を続けさせていただくことをお許しください。

     ギルモア新会長の下、それまではマイナーリーグとしてのリーグ運営を行っていたフェデラル・リーグは、1914年からは8チームに拡大し、メジャーリーグとしてのリーグ運営を開始します。そして、これを契機に両者の間では選手の引き抜き合戦が起こり、ときとして、それは裁判沙汰にまで発展することがありました。

     象徴的なのは、”投げる蒸気機関車”といわれた横手投げのタフマンピッチャー、ウォルター・ジョンソンの契約をめぐる駆け引きです。生涯成績417勝のすべてをワシントン・セネターズで挙げ、この1915年当時は最多勝と最多奪三振のタイトルを連続でとっている最中で、まさにキャリアの絶頂にあったこの投手と、フェデラル・リーグのシカゴ・ホエールズは契約することに成功したのです。しかもジョンソンは、当時としては破格の6,000ドルを契約ボーナスとして受け取っていました。
     しかしセネタースのオーナー、クラーク・グリフィスは強硬措置に出て、この契約を破棄させ、年俸を上げ、契約ボーナスをホエールズに返却させる段取りまでつけました。そしてグリフィスは、大スターの流出を防ぎ、アメリカン・リーグの人気を守るのにはこの処置は絶対に必要だったということで、このときにかかったお金を、同会長のバン・ジョンソンに請求しようとしたのです。
     ところがバン・ジョンソンはこれを却下しました。そこでグリフィスは、シカゴ・ホワイトソックスのオーナー、チャールズ・コミスキーの説得に乗り出します。そして、最初はコミスキーもグリフィスの主張をうるさがっていたのですが、グリフィスが、ウォルター・ジョンソンが球場に呼ぶお客さんのことを考えれば、ウォルターがどれだけホワイトソックスの収益に貢献しているか考えてみろ、というとグウの音も出なくなり、渋々お金を出し、ウォルターはセネタース、ひいてはアメリカン・リーグに残ることになり、再び最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得したのでした。

     一方、接戦で盛り上がるフェデラル・リーグは、深刻な財政難に直面していました。アメリカン・リーグならびにナショナル・リーグから数多くの訴訟を起こされ、大抵のケースでは勝利をおさめたものの、訴訟のための費用が莫大な額に膨れ上がっていたのです。これは、アメリカン・リーグやナショナル・リーグが仕掛けた焦土作戦とでも言うべきものでした。つまり、訴訟によってリーグの財政を消耗させ、その支援者を撤退させることで、フェデラル・リーグを解散に追い込もうとしたのです。

     そこでフェデラル・リーグ側は賭けに出ます。1915年1月、アメリカン・リーグならびにナショナル・リーグの保留条項は独占禁止法違反である、という訴訟を起こし、独占に対して厳しい判決を出すことで知られ、”大岡越前”的にアメリカ国民の間で人気を博していたケネソー・マウンテン・ランディス判事のもとにこれを持ち込んだのです。フェデラル・リーグの狙いはひとつ。この結果出た判決を水戸黄門の印籠よろしく振りかざし、保留条項は無効だ、と主張することで、訴訟による焦土作戦をやめさせようというものでした。

     次回はこの判決、ならびに、その後のブラックソックス事件について触れていきます。

    【参考web】

    BaseballLibrary.com
    Baseball's Third Major League : Federal League(1914-1915)



     第26回 NPBにおける受難の時代 読売史観は適切か? 〜その10〜 MB Da Kidd


     【その10:メジャーリーグ戦国時代 〜その8〜】

     読者のみなさまこんばんは。前回は、フェデラル・リーグが既存のナショナル・リーグやアメリカン・リーグ相手に訴訟を起こし、その中で保留条項は独占禁止法違反だ、と主張したこと、そして、その裁判を担当する判事が、独占に対して厳しい判決を出すことで知られ、”大岡越前”的にアメリカ国民の間で人気を博していたケネソー・マウンテン・ランディス判事であったことまで話を進めました。
     今回は、この裁判の結末と、この結果決まったフェデラル・リーグの運命、そしてケネソー・ランディス判事のその後についてです。

     保留条項とはフリーエージェント制度が日本に導入されるにあたって問題にもなったとおり、選手との契約を独占する権利のことです。これはその選手の全選手生命期間にわたり、その期間中、球団は選手を自由にトレードしたりすることができるわけです。この際、選手の意思その他は一切関係がありません。
     そして当時のアメリカ球界には、レフティ・オドウルやテッド・ウィリアムス、あるいはジョー・ディマジオを輩出したパシフィック・コースト・リーグ、トリ・ステート・リーグ、あるいはカリフォルニア・ステート・リーグのような有力なマイナーリーグがありましたが、これらのリーグはいずれもナショナル・リーグやアメリカン・リーグの保留条項を尊重し、公然と挑戦することはなかったのです。
     しかしフェデラル・リーグはこれに真っ向勝負を挑み、2005年現在となっては当たり前、当時としては新鮮だった選手契約の方法をとっています。契約金を支払い、年5%の定期昇給を定め、10年でフリーエージェントになるような制度をつくったのです。契約の権利を資産と定め、これを10年という期間で区切るやり方は、ビジネス的に極めて合理的で、のちの時代にも通じるコンセプトだったのでした。ちなみに契約が定まっていない選手について、フェデラル・リーグは、ナショナル・リーグやアメリカン・リーグの選手に手を出しておりません。契約期間の残っている選手に手を出すことは、自らのリーグ運営の契約ポリシーに反したからです。

     さて、そんな先進的な考え方でリーグ運営をしようとしていたフェデラル・リーグではありますが、選手契約における個々の訴訟にかかる費用がバカにならない額に膨れ上がり、リーグの運営は危機的状況に陥っていたのです。そこでフェデラル・リーグのオーナーたちはランディス判事のもとに、『現行のナショナル・リーグならびにアメリカン・リーグにおける保留条項は独占禁止法違反だ』という訴訟を持ち込んだのですが、彼らがわかっていなかったことがありました。
     ランディス判事は、熱狂的な現行メジャーリーグのファンだったのです。そして、裁判所におけるランディス判事の以下の発言は、彼らをひどく驚かせるものでした。

     『本法廷においては、ベースボールと名のつくいかなるものに対する挑戦も、国家制度に対する挑戦と同等と見なす。』

     確かに、ベースボール、つまり野球は、アメリカ庶民のタウンミーティングの中から生まれてきた遊びであり、スポーツであり、公共性の高い興行ではありました。したがって、そこに自由競争のコンセプトを持ち込み、選手が自らの野球の技術、あるいは人気を元手にして高い年俸を獲得し、それをどんどん吊り上げていく、というやり方は馴染みにくいものではありますし、その点、ナショナル・リーグが生まれたときに導入された保留条項は、年俸の無制限な暴騰を抑える、という意味では効果があったでしょう。現に、この判決が出た時期、フェデラル・リーグの挑戦によって、スター選手の年俸は、飛躍的に上昇しています。
     しかし、よりよいリーグの運営を考えたとき、リーグ同士の競争を廃することは、結果的に独占を招き、二進も三進もいかない状況をつくってしまうのは、読者のみなさんもよくご存知のとおりです。日本のプロ野球が過去に受けたリーグ挑戦で有名なのは国民リーグぐらいですし、これもすぐに頓挫してしまいましたし、それに加えて資本の競争、つまりオーナー会議の自由競争を極度に廃した結果、行き過ぎた民放・巨人依存体質になってしまい、渡邊恒雄主筆の無定見なチーム作りによる失敗のこともあり、巨人の崩壊・凋落とともに日本のプロ野球が大きな曲がり角を迎えてしまったということもあります。つまりフェデラル・リーグの挑戦は、こういう事態を防ぐためには避けて通れない運命でしたし、フェデラル・リーグのコンセプトやポリシー自体には、見るべきものが多々あったのです。ところがランディス判事は、これを否定してしまいました。
     このランディス判事の判決の結果、メジャーリーグ・ベースボールにフリーエージェントのコンセプトが持ち込まれるのは、50年以上も遅れてしまいました。50年!その間に、より選手自身の権利と保留権との相克を解決できる方法が確立されていたかもしれないし、また、挑戦者を受け入れ、どんな挑戦があってもそれを呑み込んで成長していくのが、アメリカという国の強さでもあるのですが、ランディスは結果的に、これを否定してしまった。実は、このランディスの判断こそが、アメリカという国の制度、あるいはこの国の社会の根本に対する重大な挑戦であり、背信行為ではなかったのでしょうか。
     したがって、これはあくまで私見ではありますが、ランディスは、自らの感情によって結果的に野球を私物化し、そのスポーツビジネスとしての発展の芽を、摘んでしまったのです。もしもこのとき、保留権のあり方が大幅に改善していれば、今日における、FA権がきっかけとなった選手の人件費問題もとっくに解決されていたし、時代はマネーボールに出ている球団経営のあり方よりもはるか先に進んでいたはずだった、と私は思っているのです。わざわざサラリーキャップなどという、市場原理に反した中途半端で場当たり的な方法を使わなくても、選手のサラリーの暴騰はおさえられたはずだった、ということです。現在のこの選手のサラリーのあり方の間違いは、ナショナル・アソシエーション創立のときから、何も変わっていません。130年以上も放置され、誰も解決できていない問題なのですが、もしもこのときにランディス判事が間違った判断を下さなければ...と思うと、私にはそのことが歯がゆくてならないのです。
     のちに、アメリカのほかのプロスポーツリーグのあり方についてこの連載の中で紹介していきますが、この判決が、いかにまずい結果を後世にもたらしてしまったか、ということを読者のみなさんにも理解できるようにしていくつもりではありますので、しばらくお待ちいただきたいと思います。

     さて、この判決ののちのことですが、これによってフェデラル・リーグはその存立基盤が犯され、観客数が激減し、リーグ運営が立ち行かなくなります。そしてこの年に解散します。また、ランディスはこのときの”活躍”がきっかけで、のちにメジャーリーグ初のコミッショナーとなり、ブラックソックス事件を裁くのですが、このブラックソックス事件の不合理については、次回に説明を回します。

    【参考資料・web】

    BaseballLibrary.com
    ・Legal Bases - Baseball And The Law - Roger I. Abrams著 Temple University Press, 1998



     第27回 NPBにおける受難の時代 読売史観は適切か? 〜その11〜 MB Da Kidd


     【その11:メジャーリーグ戦国時代 〜その9〜】

     読者のみなさまこんばんは。前回は、ケネソー・マウンテン・ランディス判事の判決により、フェデラル・リーグが解散にまで追い込まれた経緯をお話しましたが、今回はその後のブラックソックス事件にて、ランディス判事が再び”活躍”する経緯についてお話いたしましょう。

     フェデラル・リーグの挑戦を退けたメジャーリーグは、ウォルター・ジョンソンやタイ・カッブ、”シューレス”・ジョー・ジャクソン、トリス・スピーカーなどの大スターを抱え、ますます盛り上がりを見せていました。しかしそういう状況がある一方で、各チームのオーナーたちの発言力がますます高まってきていました。オーナーたちは大金を投じ、スター選手を集め、チームを強くすることで、リーグの盛り上がりを大きく演出していたからです。そのひとつの表れが、ナショナル・リーグならびにアメリカン・リーグそれぞれのリーグ会長による協議機関、ナショナル・コミッションの弱体化です。

     また、オーナーの発言力の増大は、盟友であったアメリカン・リーグの会長のバン・ジョンソンと、シカゴ・ホワイトソックスのオーナーのチャールズ・コミスキーとの間に距離をつくり、次第にその対立を顕在化させていきます。当時のホワイトソックスはMLBの中でも一番儲かっているチームといわれており、”シューレス”・ジョー・ジャクソンというスターを抱え、人気は絶大だったこともあり、チャールズ・コミスキーは栄華を楽しんでいたのですが、リーグ会長だったバン・ジョンソンにはこのことが目障りでなりませんでした。こうして、バン・ジョンソンとチャールズ・コミスキーの権力争いがはじまったのです。

     そんな最中、突然起こったのが、ブラックソックス事件でした。
     当時のメジャーリーグは、急速に台頭してきた人気プロスポーツということもあり、常にその興行の影には、マフィアの影が絶えませんでした。八百長も、バレさえしなければいいのだと言わんばかりに日常的に行われていたのは、この時代のことについて描いたアメリカ映画をご覧のみなさまにはおなじみのことと思います。オーナー側としても、イメージダウンや規制によってせっかくの野球興行の盛り上がりに水を差すようなことはしたくなかったので、騒ぎが大きくならないように、臭いモノには蓋をしたがったのです。
     ブラックソックス事件は、そんな時代背景を反映した典型的な事件でありました。

     このときのことの経緯については、筆者が1998年末にCOOLTALKに書き込んだ一連の投稿をご確認いただければと思いますが、このときチャールズ・コミスキーは、ジョー・ジャクソンをさんざん利用したくせに、ジョー・ジャクソンをスケープゴートにすべく、彼をハメて、八百長のためのお金をキープさせ、キープさせたことにつき言い訳のできない状況をつくっておいてから、彼をコミッショナーの手に委ね、永久追放処分に追いやったのです。
     この点が、いくら先輩選手等の人間関係があったからとはいえ、”自主的に”八百長のお金をキープしていた元西鉄ライオンズの池永投手と異なるところです。池永さんの場合は、その毅然とできなかったところが問題で、本人が悪いのだと指摘する人がいる一方、それはやむを得なかったから彼を責めるのはかわいそうだとする人がおり、当時の球界永久追放処分については賛否両論に分かれますが、ジョー・ジャクソンの場合は明らかに、チャールズ・コミスキーのやり方が悪辣だったという一言で片づけられる問題です。

     ちょっと脱線したので、話をバン・ジョンソンとチャールズ・コミスキーの権力争いへと戻しましょう。

     当時球界における権力を失いつつあったバン・ジョンソンは、この事件を自らの復権の好機だと見なしました。そこで、このブラックソックス事件の情報をリークして、大陪審の手をコミスキーに仕向け、権力の弱体化を図ったのです。
     ですがコミスキーは、コミッショナー職を創設し、これを両リーグの会長よりも上のポジションにつけ、これにすべてを委ねてこの状況を乗り切ることで、逆にバン・ジョンソンの権力を封じ込めようとしました。そして、そのコミスキーの期待に応えるべく登場したのが、ケネソー・マウンテン・ランディスだったのです。

     ランディスはコミスキーの期待どおりの働きをしました。コミスキーがスケープゴートへと仕立て上げたジョー・ジャクソンを、コミスキーの狙いどおり、以下の言葉とともに、球界永久追放処分としたのです。

     『陪審の評決とは関わりなく、八百長を行う選手、八百長を請け負い、また約束する選手、八百長の方法、手段を共謀、討議するところにいて、不正選手および賭博者との会合に同席しながら、そのことを球団に直ちに告げない選手は、以降プロ野球界から永久に追放する』

     ところが、この言葉には大きな問題点があります。陪審の評決に関わりなくと言い切ってしまっていることで、国の法律ならびに制度を軽視していることを明言してしまったのです。
     確かに、不正や賭博は法律違反でしょうし、それから距離を置くということは当然のことです。しかしながら、このように高圧的な態度で、『疑わしき者はすべて罰する』というやり方は、果たして適切なやり方といえるのでしょうか。ある意味、ヨーロッパ中世における魔女狩り裁判と同じ愚を犯していることにはならないでしょうか。

     また、このときの判断の後世への影響は、ある人物をいま現在になっても苦しめております。いうまでもなく、MLB史上最多のヒットを放ったピート・ローズ氏のことです。確かにピート・ローズ氏の球界永久追放処分後の復権を求める自らの行動は、正直言って見るに耐えない、潔くない部分が多々見受けられ、私としても見てて決して愉快ではありませんが、永久追放という処分のあり方が彼をこのような行為に走らせていることは、決して否定できません。つまり、この1920年にランディスコミッショナーが、のべつまくなしにホワイットソックスの8選手を高圧的に永久追放としたことで、この種類の不正に関わった人物の復権のチャンスが認められなかったり、あるいは、その人物の人生を破壊したりすることもあるのではないか、と私は言いたいわけです。

     罪というものは、その重大性に比例して、処分ならびに贖罪が行われなければなりません。確かに八百長というのは興行の根幹を揺るがす最大の裏切りではありますが、だからといって、その人物が興行に対して為してきた貢献を否定するのはいかがなものでしょうか。もっと責任が重大な、人の命を預かる医者、あるいは国民の命ならびに社会のあり方を預かる国家元首と異なり、たかだか興行の中における罪なのですから、処分ならびに贖罪は、もっと柔軟なものであってもいいはずではないかと私は思うのです。
     これはあくまで私見にすぎませんが、ランディスのこの判断の間違いは、その後にも八百長のうわさが絶えなかったり、あるいはマフィアの影がちらついていた時代が続いたメジャーリーグのその後のあり方を見ていると、何も意味がなかったどころか、むしろ、ジョー・ジャクソンという一人の選手の野球の才能の発揮場所を奪うことで、多くの人々の楽しみを奪ってしまったと私は思うわけです。また、初代コミッショナーがランディスでさえなければ、八百長の件についても、もっと柔軟で適切、かつ効果的な防止法と処分のあり方が確立していたのではないかと思うと、私にはそのことが、非常に残念でならないのです。

     これで、この連載におけるメジャーリーグのシリーズは終わりです。なお、次のシリーズはニグロリーグにしようかと考えておりますが、その前に、ICHILAUさんの上記の連載を私の連載の代わりに入れますので、私はしばらく連載をお休みし、編集ならびに校正という編集長職に専念しようと考えております。
     では、しばらく次のシリーズの開始をお待ちください。


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