白球の情熱 by あま

    第1回 野球との出会い

    第2回 中学・高校野球



     第1回 野球との出会い


     読者のみなさんはじめまして。あまと申します。これから第5週木曜日に寄稿させていただくことになりました。よろしくお願いします。

     僕は風疹障害者として生まれました。まだ僕が母の胎内にいたころ、運悪く母が風疹にかかってしまったのです。
     そして僕は3重の障害者となり、これらの障害はー生治らないと医師から宣告されました。母は初めてこの宣告を受けたときに泣きましたが、その宣告を行った優秀な医師は、私にはどうにもならないのだよ、申し訳ないと言って母をなぐさめてくれました。

     僕の背負った障害は難聴・左半身麻痺・歩行障害の3つです。そこで僕は、リハビリ訓練をはじめました。見ることはできたが、耳は聞こえないし、歩くことが出来なかったからです。

     僕は家の近くの川に遊びに行き、よく石を投げていました。投げてみたかったのです。もちろん投げたあと、川のせせらぎも波の音も聞こえないし、石が川のなかにちゃぽんと落ちた音も聞こえません。でも、見ることだけはできました。川はきらきらと輝いていて、きれいだった。石が落ちると飛沫が跳ねる。これもきれいだった。そして、そこから見えた花や山もきれいだった。僕には耳は聞こえないけれど、その分、目からいろいろと感じることが多かったのです。
     これは、神様から僕への贈り物だったのでしょうか。

     そのうちに、僕は学校に行くようになりました。そしてある日、学校の先生が僕をグラウンドに連れ出し、グラヴを貸してくれました。
     先生は、僕にクリーム色の軟式ボールを渡し、これを投げてごらんなさいと言いました。そこで僕は、そのボールを投げました。すると先生は、そのボールを捕り、また僕にやさしく投げ返してくれました。
     これが、僕にとっての初めてのキャッチボールであり、野球との出会いでした。とても楽しかったのです。

     その日、僕が家に帰って父にその話をすると、父はとても喜んでくれました。そして父は早速ボールとグラヴだけでなく、バットまで買ってきてくれて、早速キャッチボールをしました。とても楽しかった。また、バットの振り方も教えてくれました。野球は9人でやるスポーツですが、父と2人で野球遊びをするだけでも、僕には充分楽しかったのです。
     ただ、そのうちに、いつか大勢で野球をやってみたい、という願望が僕の中に生まれてきました。

     ある日のことでした。僕は学校から家に帰る途中、家の近くの公園広場にて子供たちが野球をやっているのを見つけたので、すぐ、グラヴをとりに帰り、仲間に入れて欲しいと彼らに言いました。すると彼らは、お前は身体が不自由だからからだめ、お断りだと言ったのです。僕は悔しくて、涙をぽろぽろこぼしながら家に帰りました。
     そして僕が家に帰ると、泣いている僕を見た母は、『どうしたの?』と僕に尋ねました。そこで僕が公園での出来事を話すと、母は怒って『あなたのことを馬鹿にする人たちは、絶対に許せない。一緒に公園までいらっしゃい。』と言い、公園まで僕を連れていくと、その場で僕を仲間に入れてくれなかった子供たちに向かって怒鳴りつけたのです。

     このことは、近所の人たちの間でも問題になりました。そこで、近所の人たちがみな、近くの公民館に集まることになり、母はほかの子供たちのお母さんたちへ、こう訴えたのです。

     『私の息子は障害を持っています。でも、障害を持っているというだけで、みなさんのお子さんたちと何ら変わりはありません。
     お願いです。仲間はずれにしないで、仲良くしてやってください。キャッチボールの相手だけにでもなってやってください。仲間はずれにされてしまったら、息子がかわいそうです。どうかお願いします。』

     すると近所の人たちも申し訳なかったと言ってくれて、僕は晴れて近所の子供たちの野球遊びに加えてもらえるようになりました。少年野球チームにも入れてもらい、僕はマネジャーとして毎日毎日ボールをたくさんに箱につめ、スコアをつけ、活躍するようになっていったのです。



     第2回 中学・高校野球


     前回までは少年野球で僕がマネージャーをやるまでの話をしましたが、今回はその後の話です。

     中学・高校でも僕はマネージャーを続けていました。試合のときはベンチにも入り、背番号11の入ったユニフォームを着て、スコアをつけていました。

     ただ、耳の聞こえない僕は、練習中でもナインとコミュニケーションをとるとき、いつも手話です。もちろん打球の音も聞こえないし、ピッチャーの投げた球がキャッチャーミットの中に納まる瞬間の、パシーンという音も聞こえない。監督からの指示も聞こえない。風の音も聞こえないし、川や波の音も聞こえません。ただ、打球が間違ってガラスを壊してしまった瞬間のイヤな音が聞こえない、というのは幸いでしょうか(笑)
     だから、僕にとっての野球は、音のない世界での野球なのです。

     しかし僕には、目があります。僕は、選手のみなさんのプレイを隅々まで観察します。耳が聞こえない分、注意深く目で観察するのです。その分、僕はボールの動きや選手の動きに敏感になりました。

     また、目の野球を通じて、僕はアイコンタクトが巧みになりました。目と目をあわせることで、その人の気持ち、その人の考えていることがわかるようになった。
     だから、チームの面々とアイコンタクトでお互いに気持ちを通わせ合い、チームの一員として一丸となって勝利に向かう喜びがわかるようになったのです。そして、お互いの気持ちを通わせ合うことで、友情がそこに生まれてきました。
     僕がキャッチボールをするとき、僕は目で相手に合図をします。すると相手も、目で合図を返してきます。これを繰り返すことで、お互いの考えていることがわかってくるようになるのです。

     それからチームプレイの話ですが、野球のルールとやり方の基本は同じですから、監督は練習のとき、手話で指示を送ります。そして、実際に自分でやってみたり、僕たちにやらせてみたりします。たとえ耳が聞こえなくても、実際に見ていれば、守備のとき、どう動いたらいいのかがわかります。また、内外野の各ポジションにいる選手の動きもわかるのです。
     一方、連携プレイのときは、打った際、誰が捕るかをアイコンタクトで確認し、監督から手話を通じて指示を受け、捕る選手は大きく手を上げ、近くにいる選手はカヴァーに入ります。

     監督は猛練習で我々を鍛えてくれました。心を鬼にして、激しくノックを行い、我々も苦しく厳しい練習に耐えました。すると我々もそのうちにうまくなり、ボールがバットに当たる位置や角度によって打球の方向が予測できるようになりました。耳の聞こえない我々には、敏感にそれがわかるのです。
     また、どの方向の打球で誰が捕るか、アイコンタクトでお互いの意思を確認して、うまく捕れるようにもなりました。ボールがバットに当たる位置と角度で、瞬時にそれが判断できるようになったのです。
     猛練習で我々は自信がつきました。監督は、『健常者チームとの対戦で何とか一勝できるよう、一生懸命努力してがんばろう』と我々を励まし続けてくれました。

     そんな中、我々は、軟式野球・全国高校野球選手権大会の出場を目指しました。そして全国大会を兼ねた九州地区予選では準決勝まで進みましたが、強豪の大津高校との試合に負け、残念ながら、軟式の全国高校野球選手権大会に出場するという目標は断たれてしまいました。
     しかし試合後、監督からは我々に向けて、最後のねぎらいの言葉があったのです。

     『残念ながら全国大会出場の夢はかなわなかったけど、みんな高校3年間にわたってよくがんばってくれた。とうとうここまでやったね。みんなありがとう。』

     この言葉を聞いて、みんな苦しかったけど楽しかった日々のことを思い出し、泣きました。爽やかな感動でした。

     卒業式の日、野球部ではお別れ会をやりました。みんな親御さんと一緒に出席して、僕は監督から贈り物と花束を受け取りました。
     これは本当にうれしかったです。僕はぽろぽろと涙をこぼして泣きました。自分にとっては、一生の想い出の出来事です。


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