プレイボールとゲームセットの間に by 粟村哲志

    第21回 「ゲームコントロール」

    第22回 「審判を育てる抗議」

    第23回 「耳を使って判定する」

    第24回 「デビュー戦」

    第25回 「49分間の中断」について



     第21回 「ゲームコントロール」


     このコラムでも何度か触れたことがあるが、審判員の一番大事な役割は、試合をコントロールすることである。試合を円滑に最初から最後まで無事滞りなく終わらせることが大事なのであって、そのためにはプレイヤーも審判員に従ってくれなくてはならないし、同時に審判員も皆に従ってもらえるような存在であろうと努力しなければならない。

     先日のある試合で私は球審を務めていたが、その日は自分自身でも納得のいくジャッジができ、調子が良かったと言える試合だった。序盤から自信にあふれた態度で判定を下し続けたし、それを適切にアピールすることができた。具体的に言えば、適切な場面で自信を持ってボークを宣告し、正しい処置を行うことができた。ごく当たり前のことのように思われるかもしれないが、ここぞという場面でそれができなければ試合は崩れていくものだ。
     しかし、その試合の途中で、とんでもないトラブルが起きた。誰もプレイの判定をしない塁が発生してしまうというチョンボをやらかしてしまったのである。結果的には一塁塁審と二塁塁審が上手く連携できなかったことが原因なのだが、ともかく際どいプレイで誰も判定を下さないという気まずい静寂が流れてしまった。
     責任審判だった私はすかさずタイムをかけ、塁審を集めて協議した。幸い私が遠くからだったがしっかりとプレイを見ていたので、自信を持って判定を「アウト」として発表した。選手もすぐに納得してくれたし、攻撃側のベンチにはお詫びかたがた説明に行ったが、監督さんもにこやかに説明を受け入れてくださった。

     手前味噌だが、やはりこれは試合序盤から適切なゲームコントロールができていて、グラウンドにいる選手・監督が私たち審判団を信用してくれていたからこそ、大きなミスに対しても咎め立てすることなく私たちに従ってくれたのだと思う。もちろん私にも何度もゲームコントロールが上手くいかなくて苦い思いをした経験がある。それはアマチュア野球でもプロ野球でも一緒だと思う。ともかくその信頼関係ができていなければ、試合など楽しくできるものではない。
     大リーグの審判を見ていて感じるのは、ここぞという時のジャッジのアクションが実に自信にあふれていることだ。ボーク、守備妨害、走塁妨害といった難しい判断を要求され、かつ塁を進めたり、逆に走者をアウトにしたりしなければならないという大事な場面で、臆することがない。いつにもまして大きなアクションでタイムをかけ、そして大声で判定を宣告して力強く指示を出す。見習うべき点だと思う。

     審判員はゲームの指揮者("The conductor of the game")だといわれる。立派な指揮者となり、グラウンドの中ではあらゆる人に尊敬され、信頼され、そして全てを任せてもらえる存在にならねばならないと、強く感じている。



     第22回 「審判を育てる抗議」


     今年もリトルシニア(中学生硬式野球)の全国大会が神宮球場をメイン会場として開催されている(8月2日開幕、7日決勝)。私も初日から3日間にわたって審判を務めてきた。昨年もこのコラムでこの大会のことを書き、そのときは選手の意図的な妨害プレイについて書いた。今年は監督とのやりとりを書いてみたい。

     私が球審を務めた試合でのこと。片方のチームの監督さんは60歳を越える大ベテランで、しかも審判に激しく抗議をすることで有名な人だった。そのチームが守っていたある回で、走者一塁から打者が左翼に大飛球を放った。きわめて難しい打球だったが左翼手はこれを好捕した。ところが一塁走者は打球が抜けると判断してスタートしており、二塁を回って三塁に到達しようかという勢いであった。三塁塁審の「キャッチ」のコールを聞いた走者は慌てて一塁に戻り、間一髪でセーフとなった。

     その後、攻撃側の監督が代打を告げたので私はタイムをかけてこれを通告し、さあプレイ再開だと思ったら、件のベテラン監督がゆっくり歩み寄ってくる。どうしたのかと思ったら、「いま一塁に戻った走者は二塁を踏まずに戻ったですよ! ねえ、踏んでないですよ!」と大きな声で叫びながら近付いてきた。私は「今、代打の通告でタイムをかけてしまいましたから、プレイ再開したらアピールするよう投手に言ってもらって結構ですよ」と慌てることなく答えることができた。ちなみにアピールはそのように行われたが、二塁塁審の判定はセーフであった。
     しかし、あれほど自信満々に出てきたのに、その判定を聞いても監督は悠然としている。「もしかして試されたかな?」との思いが頭をよぎったが、とりあえず気にしないことにした。

     さらに試合が進んで、やはりそのチームの守備の際、走者一塁・三塁から打者が投前バントを試みた。三塁走者は投手が一塁に送球するのを見てから猛然とスタート、打者走者をアウトにした一塁手が本塁に送球するのと際どいタイミングになりそうだと思い待ちかまえていたが、この送球が高投となってそのまま三塁ベンチに飛び込んでしまった。三塁走者の本塁到達はすでに確認していた私はすかさず「タイム」を宣告して一塁走者を見たところ、走者はすでに三塁に到達していた。
     ここで問題となるのは、一塁手の送球が手を離れた瞬間にこの走者がどこにいたかということである。もし二塁を回っていれば二塁を基点として2個の進塁が許されるから得点となるが、まだ二塁に到達していなかったのであれば一塁を基点として2個の進塁となるので三塁に留めなければならない。常識的にはプレイのタイミングから言って二塁は回っていたと思われるが、私はスクイズのことやボールデッドの確認等で一塁走者は全く見ていなかったため、塁審に確認をしたところ3塁審とも二塁を回っていたとアドバイスをくれたため、三塁に留めておいた走者に得点を認めた。
     今度は予感があったのでベンチを見ると、監督がまた近付いてくる。一応話を聞くと「今のは内野手じゃないですか?」と言ってきたので、私は「今のプレイは一塁手がボールを投げた瞬間に一塁走者が二塁を回っていたことを審判全員で確認しましたから2個の進塁で得点ですよ」と返事をした。
     すると監督は「それはそうでしょうけれども、それは外野手の話でしょ?内野手は違うんじゃないですか?」と言ってきた。よくある勘違いなので、「いいえ、内野手の最初のプレイだけは特別で投手の投球当時が基点となりますが、2番目のプレイ以後は内野も外野も関係ありません」と答えたところ、突然監督の顔が「にやり」と崩れ、私の尻をポンポンと叩いてベンチに下がっていった。適切なたとえかどうか分からないが、まるで孫と遊んでいるおじいちゃん、とでもいったような柔和な表情だった。

     私は「やっぱり試されたんだ」と思ったが、嫌な気持ちはしなかった。野球界の先輩であるベテラン監督に、こうやって審判が育てられていくことは良いことだと思う。こういう抗議なら、私は大歓迎である。



     第23回 「耳を使って判定する」


     私は、耳を使って判定するのが非常に下手な審判だと自分で思っている。今のところ、最大の弱点だといってもいいかもしれない。「耳を使って」判定するとはどういうことかと訝しがられる向きもあるかもしれないが、審判は目だけでなく耳もフルに使って判定を下しているのである。

     たとえば、内野ゴロからの一塁でのフォースプレイを判定する場合。判断基準は、打者走者が一塁ベースを踏むのと、一塁手が送球されてきたボールをつかむのと、どちらが早いかということになる。ボールが早ければアウトだし、足が早い、あるいは同時ならセーフである。その両方を同時に目だけで見ようとするのではなく、ここで我々は「音」を利用する。つまり、視点はベースに集中しておいて、目は主に打者走者の触塁を見る。
     そして、捕球のタイミングは、ボールがミットに収まる音を耳で聞いて判断するわけである。もちろん、送球が通常の「良い」送球のときにしか使えないテクニックだし(悪送球であるならボールから目を離すのは危険である)、捕球は音で聞いているので判定を下す前に必ず視点をボールに移して確保を確認しなければならないとか、いろいろと細かい考え方はあるのだが、ともかくこういったときに耳を利用する。

     さらに、もっと直接的に「音」を判断材料にすることがある。球審をしていると、バットにかすったかどうか、捕手がワンバウンドで捕球したか直接捕球したか、自打球が当たったかどうかなど、いろいろと死角になって見えなかったりするプレイが意外と多いものである。「あんな近くにいて見えないのか」とベンチから嘲笑されたこともあるが、近すぎて見えないということはあるもので、本当に分からなかったときに塁審にアドバイスを求めたりすることは実際に何度もある。しかし、そういうことにならないよう、目で見えなくとも「音」で判断することは多い。
     私の場合、一塁フォースプレイの方はそれほど苦手でもないのだが、本塁付近での「音」の聴き分けがきわめて下手で、過去に何度かベンチから不信感をもたれたり、塁審に集まってもらって協議したり、判定を変更したりしたことがある。
     最近でも、打者が打ちにいったら捕手のミットがバットに触れてしまうというタイプの打撃妨害に立て続けに出くわし、そのときも判定が遅れたりしてスムーズでなかったことが何度もあった。「あれ? 今ミットを叩いた音がしたような……」とは思うのだが確証がないからプレイが流れてしまい、アピールを受けてから仕方なく塁審に集まってもらうことになるので、あまり格好がつかない。判定変更ということになったら、それを発表しなければならないのだが、あまりやりたいことではない。
     そういうケースに出くわすたびに、音にも敏感でなくてはならないと思うのだが、なぜかなかなかできない。間違った判定を押し通すよりは、とできるだけ協議するようにしているのだが、自分自身でしっかり判定できなくてはと反省しきりのプレイである。



     第24回 「デビュー戦」


     先日リトルシニアの公式戦で、とある審判員の「デビュー戦」に立ち会った。その人はチームのコーチから審判員に転身するのだそうで、その日が初めての公式戦だということであった。その人は三塁塁審として、私は球審として同じクルーを組むことになったのである。
     私もリトルシニアで本格的な審判キャリアをスタートさせたとき、やはり三塁塁審を務めて「デビュー」したことを今でも鮮明に覚えている。アウトもセーフも1度も言わず、ただ何度かフェアとファウルを宣告しただけの試合だったが、無事1試合を終えられたときの満足感と、試合後のミーティングで褒められたことが記憶に残っている。

     その後、「球審デビュー」したときはストライクゾーンに苦しんで散々な思いをした。自分でもひどい出来だったと憔悴して引き上げようとしたときに、敗戦チームの監督さんが「ご苦労様でした」と深々とお辞儀をされたのが今でも忘れられず、思い出すたびに涙がこぼれそうになる。

     「全国大会デビュー」したのは大田スタジアムで一塁塁審だったが、初めての人工芝、初めての本格的な球場でベースからの距離が分からなくなってしまい、試合開始当初は一塁ベースから10メートル以上後方に位置をとっていた(通常は6メートル前後)。最初のプレイが簡単な内野ゴロで、一塁の判定をしようと思ったときにようやく距離が遠すぎることに気付いたような状態で、緊張していないつもりだったが、やはり気負いがあったのだろうと思う。
     そういった話を笑い話として語れる現在があることを、とても有り難いことだと思っている。ただ一心に上手くなりたいと思って無我夢中で練習してきた時期、少し上手くなったと思って天狗になりかけた時期、自分がまだまだ未熟であると気付き切磋琢磨しなければと思い直した時期、様々な経験を経て現在の私があると思っている。しかし、その原点には「野球の審判になりたいなあ」と思った小学生時代の純粋な気持ちと、あの河川敷のグラウンドで三塁塁審としてデビューした日の記憶とが色濃く残っていると思う。
     冒頭で紹介した審判の人は、私と違って三塁で格好良くアウトのコールも決めたし、動きも沢山あった。もちろんまだまだ物足りない点は多くあったし、審判として合格点だったとは言えない。しかし、彼の思い出に残るデビュー戦になるようにと願いつつ、フォローできる点はフォローし、必要なアドバイスをすることができたと思う。

     そういえば、と思う。私は他の人からはどのように見えていたのだろうか。あの日は随分褒めてもらったけど、それは本当だったのだろうか。そんなことを考えながら今までの数百試合を思い返してみた。



     第25回 「49分間の中断」について


     今年の日本シリーズを審判の目から総括すれば、やはりなんと言ってもあの49分間の中断劇が最初にして最大のハイライトだったと言わざるを得ない。論じるということになると大変に難しい問題ではあるが、少しだけ私見を述べさせて頂こうと思う。

     まず一番最初に言いたいことは、あの判定を巡って49分間もの中断という結果になったことは非常に不可解なことであるということだ。1死走者一塁から打者が捕手前にバント。球審は打者走者にタッグアウトを宣告したが、ボールが転送された二塁ではすでに解除されているはずのフォースアウトが宣告されてしまった。ただそれだけのプレイである。
     中日・落合監督の抗議はきわめて正しい。審判団はルールの適用を誤っている。それを正すことに何の躊躇もいらない。二塁はフォースアウトではなくタッグアウトの状態だから、二塁でアウトを宣告したのは間違っている。2死二塁から試合を再開するべき場面である。それに対して、新聞報道等で発言を確認する限り、西武・伊東監督の抗議は感情論に過ぎない。「向こう(中日)に言われたことを、そのまま伝えてくるなんておかしい」(10月17日付サンケイスポーツ)。

     また、伊東監督をはじめとする西武ベンチは「ミスを認めて謝罪しろ」と強硬に主張したという。結局審判団は計6度にも及ぶ場内放送の中で、入れ替わり立ち替わり審判員がマイクを握って状況を説明し、何度か謝罪の言葉を口にした。これもまた異常な事態である。審判にも多かれ少なかれミスはある。結果的に真実とは違うジャッジを下してしまうこともある。アウト・セーフやストライク・ボールの判定などは特にそうだ。それをいちいちベンチに指摘されて謝罪を要求されるようなら、審判の権威などどこにあるのか。試合の進行を審判員にゆだねる気持ちが微塵もないことを如実に示した要求であったと言わざるを得ない。

     球審と二塁塁審の間の伝達ミスということに関して言えば、これは非常に難しいプレイであった。球審はフェア・ファウルの判定と、それに引き続いて行われる打者走者に対するタッグプレイとをほぼ同時に処理するために、あの位置以外の位置取りをすることはほぼできない。フェアの宣告もアウトの宣告もしっかり行っている。二塁の方は本当に難しいプレイだが、先行するプレイの結果をきちんと見定めなかったことに違いはないから、ミスといえば唯一ここがミスだと言うほかない。

     ひとつだけルール適用とは違う観点からの話題がある。本塁前で捕手が打者走者に行ったタッグが空タッグだったというものである。しかし、このことは議論の対象にするべきではない。たとえ100%タッグが打者走者の身体に触れていなかったのだとしても、それを見た球審が、タッグは成立したと見てアウトを宣告した以上、そのように処理されなければならない。野球とはそのようなスポーツであり、その点は覆してはならないのである。

     ともかく、ルール適用の誤りを訂正して試合を再開しようとした審判団の処置に対して、感情論でそれを妨害した伊東監督はすみやかに退場処分とし、きちんと試合を再開すべきであった。ましてや謝罪要求に応じて場内に謝罪する必要など全くなかった。49分間もの中断だけでもかなりの不手際だが、あの謝罪放送が悪しき前例として残らないことを願うばかりである。

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