Bay Area Watch 20XX by 小女子

    第1回 「冬:2004−05」

    第2回 「Athleticsのオーナー達その1」

    第3回 「Athleticsのオーナー達その2」

    第4回 「Athleticsのオーナー達その3」

    第5回 「19世紀の野球を行う〜ヴィンテージ・ベース・ボール」



     第1回 「冬:2004−05」


     皆様、はじめまして、こんにちわ、小女子といいます。この度、ぼーる通信での連載を行なうことになりました。
     現在、San Francisco Bay Areaの南に住み、スポーツづけの毎日を送る、元スポーツ嫌いです。
     どうぞ、よろしくお願いいたします。


     San Francisco Bay Areaの説明を少し。
     通常Bay Areaと呼ばれるこの地域は、西側のSan Francisco市、南のSan Jose市、東のOakland市を中心として、San Francisco湾を囲む、北カリフォルニアの商業地域のことを指します。スポーツ好きには、San Francisco Giants、Oakland Atheltics(MLB)、San francisco 49ers、Oakland Raiders(NFL)、Golden State Warriors(NBA)、San Jose Sharks(NHL)のチームがある地域といえば、なるほどと思われるかもしれません。コンピューター産業に詳しい方なら、Silicon Valley(シリコン・バレー)という名を、耳にしたことがあることでしょう。


     本題です。
     この冬は、たぶん、この後ず〜と、悲しい冬として覚えているにことになるでしょう。


     アイス・ホッケーの試合を見るのが大好きです。
     あまりにも好きなので、地元のプロ・チームのSan Jose Sharksのシーズン・チケットまで購入している始末です。
     10月から4月の初めにかけて、約6ヶ月ほどの間に、レギュラー・シーズン82試合が行なわれます。シーズン・チケット・ホルダーなので、もちろん、ホームの試合全41試合を見に出かけるのです。一ヶ月に、5〜7試合、チームがロードに出ているときはホームの試合が無い週も有りますが、多いときに週3試合アリーナに通うこともあります。アウェイの試合は、TVまたは、ラジオで補います。
     今季、2004−05・シーズンだって、自動的に更新していましたが...
     肝心の、ホッケーの試合が、アリーナで行なわれていないのです!!
     2004−05・シーズン、未だ一度も、Sharksのフェイス・オフを見ていません。


     Sharksの所属するプロフェッショナル・リーグは、アメリカとカナダで行なわれているNational Hockey League(NHL)です。そのNHLのチーム全てが、2004−05シーズン、一試合も試合を行なっていません。
     去年、2004年の9月15日に、今までのオーナー側と選手会側との間にある労使協定が切れました。そして、あまりにもお互いの言い分がかけ離れており(リーグの金銭システムが主)、その上、お互い歩み寄る努力も見せずに、オーナー側が選手を締め出すロック・アウトを実行したのです。
     その後も、合意が得られる様子が微塵もなく、先月、2月の16日にオーナー側であるリーグが、シーズンの残りを全てキャンセルすることを正式に発表しました。


     ということで、この冬、Sharksのホームの試合を行なっているアリーナ、HP Pavilionには、殆ど足を運んでません。同じアリーナをホームとしている、室内フットボール(アメフト)、室内ラクロスなどの試合を数回、観戦した程度です。
     先日、久しぶりにアリーナに行き、試合(室内フットボール)そのものは、充分に楽しんだのですが、何故か深いため息が出ました。


     生観戦が、あまりにも足りないので、アリーナでの他スポーツを見たり、大学ホッケーやインライン・ホッケーを見に行ったり、いろいろ試みました。(バスケットとアメフトは、まだ興味が少ないです。これから増えるかは、わかりませんが。)
     けれども、あまりにも今まで、Sharksというチームに、どっぷり浸った冬を送っていたので、その穴を埋めることは出来ませんでした。
     2004年から2005年かけての冬は、とても×無限大、悲しく寂しいBay Areaでの冬でした。


    2005年3月




     第2回 「Athleticsのオーナー達その1」


     4月です!野球の季節がやってきました。ホッケーの無い寂しい冬も終わって、昼間の日差しがポカポカを通り越して肌に刺さるようになってきたBay Areaから、こんにちわ。


     さてさて、MLBがはじまったのですが、Bay Areaを見てみると、なんと、MLBの開幕直前に、オークランド・アスレチックスのオーナーが変っています。
     そこで、突然、アメリカン・リーグの設立当初から参加しているオークランド・アスレチックスのオーナー達を振り返ってみよう!を勝手に企画してみました。スポーツ・チームのオーナー達は、その時代を反映してるビジネスで成功しているものです。そういうものを見ていくのは、なかなか面白いなあと思っています。ちょうどよいので、今回オーナーが変ったA'sを例えに見てみたいと思います。
     それでは、はじまります。100年以上続いているチーム、誰が最初のオーナーだったのでしょう?


    ・1901〜1912年:ベンジャミン[ベン]・F・シブ(Benjamin[Ben] F. Shibe)


     1901年に、プロフェッショナル野球を独占していたナショナル・リーグに真っ向勝負でメジャー宣言したのは、アメリカン・リーグです。当時のフィラデルフィアは、ニューヨーク、ボストンに次ぐ大都市で、そのチームの財力のバックアップと運営は、ベン・シブという人物が担当しました。実際は複数人で所有されており、監督のコニー・マックを初め、地元の新聞記者などが数名他にもいましたが、ここでは筆頭オーナーを中心にみていきます。


     ところで、野球という新しいスポーツが全米に広まっていく段階で必要だったものは何だったのでしょうか?それは、ボールを初めとしたバット、後に使われるようになるグローブなどの野球道具です。ナショナル・リーグ全体とシカゴのチームを率いていたアルバート(アル)・スポルディングが始めたのも、最初のプロチームの監督だったハリー・ライトとその弟ジョージ・ライトがボストン、ニューヨークで営んでいたのも、野球道具の製造販売会社でした。そして、フィラデルフィアで野球道具の販売をしていたのが、このベン・シブがビジネス・パートナーだったA.J.リーチ&カンパニーだったのです。この会社の創設者でシブのパートナーのアルバート・ジェイムズ・リーチは、ナショナル・リーグが始まる以前の野球選手であり、フィリーズのオーナーでもあり、19世紀後半のフィラデルフィアの野球業界を支配している人物でした。
     つまり、アスレチックス最初のオーナーは、野球が発達するに合わせて市場が広がった、スポーツ道具の製造販売で成功した人物の一人だったのでした。そして、シブをアメリカン・リーグのチームのオーナーに迎えたということで、リーグは、彼の工場の(会社名はA.J. Reach&Co.)ボールを公式ボールと使っていたのです。


    ・1913〜1921年:ベンジャミン・F・シブ、コニー・マック(Connie Mack)
    ・1922〜1954年:コニー・マック


     この時期は、当時シブ一族もマック一族も家族のビジネスとしてチームの所有と運営に関わっていました。けれども、1922年にベン・シブが亡くなると、所有の大半がシブ一族からマック一族にうつされます。
     コニー・マックは、元選手であり、アスレチックスの当初から監督でした。監督在籍期間が半世紀と大変長く、多くの有名な逸話がある人物なのですが、チームの所有者でもありました。


     当時は、マックの他にも、元選手で監督を経て、あるいは監督兼任でオーナーというのは何人か存在します。そしてアスレチックスについては、アメリカン・リーグの創設者でリーグを支配していたバン・ジョンソンが、マックにチームを与えたのでした。シカゴ・ホワイトソックスのチャーリー・コミスキー、ワシントン・セネターズのクラーク・グリフィスも、バン・ジョンソンがチームを与えた、元選手を経た監督達です。また、ニューヨーク・ジャイアンツのジョン・マグロウも監督兼オーナーだったことで有名です。


     野球は他のスポーツと違い、監督をManagerと呼びます。それは、野球が始まった頃はManagerが本当にチーム全体をManage(管理)していたからと言われています。現在のフロント・オフィスが行なってるような、選手との契約、給料の支払い管理、試合のスケジュール管理などを全て、監督が行なっていたのです。
     つまり、当時の監督には、今の分業された監督よりも、経営能力が必要とされたのです。そのために、監督からチームの経営側に回ることも多かったのでした。ちなみにアル・スポルディンングもやはり選手、監督を経たオーナーの一人です。


     また、チームの資産価値が現在とは比べ物にならないくらい安かったのです。傘下の施設の数、球場、土地の値段、選手の年俸、職員の数、TVやラジオの収入などなどまったく違います。元選手がチームのオーナーになるのは、今よりもハードルが低かったのです。
     さらに、スポーツ選手自体が、新しいビジネスの成功者だったという見方も出来るかもしれません。


    ・1955〜1960年:アーノルド・M・ジョンソン(Arnold M. Johnson)


     マック一族のゴタゴタによって、チームはアーノルド・ジョンソンというシカゴのビジネスマンに売られ、なんとカンサスシティに移動してしまいます。
     アーノルド・ジョンソンは、1954年の終わりにA'sのオーナーになりますが、1960年に亡くなってしまいます。A'sを所有していたのは短い期間ですが、彼が何をやっていたかというと、シカゴの自動販売機製造会社の重役であり、不動産業も営んでいました。
     ジョンソンの会社というのは、1929年に設立され、現在でもCANTEENというブランド名が残る、Automatic Canteen Co. of Americaという食品の自動販売機製造販売会社です。この会社は、他の産業で従業員サービスの向上が進んだときに、工場や会社内の休憩所への自動販売機設置が一気に増えたことで、1940年代に飛躍的に成長をしています。会社の急成長とともにジョンソンも成功したのでした。
     当時の新聞記事に「How To Buy a Ballclub For Peanuts」という見出しがあり、ジョンソンの会社の自動販売機で扱っているピーナッツを指しているのが面白いです。


     不動産業のほうですが、アスレチックスを手に入れる前に購入していたのがなんと、ヤンキースタジアムとカンザスシティにあるヤンキースのマイナーチームの球場です。カンザスシティへチームが引っ越してきた理由がここに関係します。さらに、この時代のA'sが弱かったことと、A'sがヤンキースのファーム・チームと呼ばれていたことも関係があるのですが、これはまた別の話です。


    ・1961〜1980 : チャールズ・O・フィンリー(Charles O. Finley)


     さて、次は、変わり者のオーナーとして必ず名前が上がる人物です。彼が行なったことは、現在まで続くDH制の導入やカラフルなユニホームの導入などから、取り入れらなかったものなど、さまざまです。ここでは全てをあげることが出来ません。また、当初から他のオーナー達との仲が悪かったり、選手にも給料をケチって反発されたり、コミッショナーとも真っ向から対立したりといろいろありました。


     そのチャールズ・フィンリー、何をしていたかというと、前オーナー同様、シカゴのビジネスマンをしていました。生命保険業で起業して成功したのです。保険業も第二次世界大戦後、急速にいろいろな方向に広がり伸びていった業種の一つです。そして、フィンリーのフィンリーらしいところは、ここでも新しい発想を取り入れていたところでしょう。
     なんと、彼は、医師に対して傷害保険をあつかうことを始めたのです。一種の隙間産業で、彼はこの市場を独占したのでした。結核を煩い、サナトリウムで18ヶ月過ごしたときに思いついたそうです。野球チームを持つ以前から新しい考えが豊富で、普通の人とは違った感覚の持ち主だったことが伺えます。


     そして、フィンリーがオーナーの間に、MLB全体でもチームの移動や増加などの動きが有り、アスレチックスもなんだかんだで1968年に、カンザスシティから、西海岸のオークランドに移動します。やっと、A'sがBay Areaにたどり着きました。けれども、残念ですが、オークランドにやってきた後のオーナー達の話は、次回になります。
     100年以上続くチームです。なかなか現代までたどり着けませんね。

    2005年3月




     第3回 「Athleticsのオーナー達その2」


     NHL、NBAのプレイ・オフもなく、MLBの2チームも苦戦中のスポーツの明るい話題が少ないベイエリアから、こんにちわです。


     引き続き、アスレチックスのオーナー達が何のビジネスをしていたかを探る話です。前回までは、かなり古い話で、あまり身近に感じないオーナー達でしたが、ここからは一気に現在の出来事にかかわる人たちが出てきます。それでは、オークランド時代のアスレチックスのオーナーたちの紹介をいたします。



    ・1980〜1995年:ウォルター・A・ハース・ジュニア


     1968年に、当時のアスレチックスのオーナー、チャールズ・O・フィンリーがチームをカンサスシティから西海岸のオークランドに移すと、チームは直ぐにワールド・シリーズ3連覇を成し遂げます。けれども、時代おくれなチーム運営、本格的フリー・エージェント(FA)の導入、私生活のトラブルなどで、フィンリーはチームを手放さなくてはならなくなります。ただこのとき、ベイエリアの外の買い手にチームを売ろうとしたフィンリーですが、リーグと球場の所有者のオークランド市およびアラメダカウンティーに阻まれます。そして、あらためて地元で探したところ、フィンリーの目に留まったのは、湾向こうのサンフランシスコの裕福なビジネスマン、ウォルター・A・ハース・ジュニアでした。


     ハースの名前はベイエリア以外ではさほど知名度がありませんが、彼の一族が所有する会社は世界的にも知られています。ジーンズの代名詞・ リーバイスのブランド名が有名なLevi Strauss & Coです。ウォルター・A・ハース・ジュニアは、創業者リーヴァイ・ストラウスの姉の曾孫に当たり、当時彼は、Levi Strauss & Coの最高責任者(CEO、Chief Executive Officer、日本では一般的に代表権のある取締役)であり社長でした。


     ところで、ウォルター・A・ハース・ジュニアが、伝統のある衣料製造業の社長だったからお金があったのかと言うと、そうではありませんでした。1939年に大学を卒業したハースが入った会社は、まだ西海岸の家族経営の衣料業者のひとつに過ぎませんでした。第二次世界大戦後に会社は、東海岸への進出を進めます。この時に、マーケティング担当のハースは,映画や新しいメディアのTV、雑誌広告を利用し、若者をターゲットにジーンズを宣伝しました。当時のヒッピーなどに代表される若者のポップカルチャーや黒人運動、農業労働者運動、女性の社会進出などの社会の変化に、ハースのこの戦略が上手く合い、リーバイスの名前は全米に広がります。また、豊かなアメリカ文化の象徴としてジーンズを紹介することで、海外にもその名前が知れ渡るようになり、リーバイスというジーンズは沢山売れたのでした。1971年には、会社が株式上場され(現在は、またプライベートな会社に戻っています)、日本にも進出しています。


     ゴールド・ラッシュ時代から作業服に過ぎなかったジーンズを、巧みなマーケティング戦略により、若者の流行服から多くの人の普段着にまでしたのが、ウォルター・A・ハース・ジュニアでした。そしてその成功により、彼は野球チームを所有することができたのでした。


    ・1995〜2005年:スティーヴ・ショット、ケン・ホフマン


     1995年にウォルター・A・ハース・ジュニアが亡くなると、ハース一族は、アスレチックスを売りに出します。買い手は、スティーヴ・ショットとケン・ホフマンという地元のビジネスマン2人組です。ハース時代は、有り余るお金をチームに注いでいたのですが、今度のコンビは、そこまで余裕がなく、チームは貧乏チームと呼ばれるようになります。


     ショットとホフマンは、別々の会社を所有していましたが、同じ業種、住宅土地開発および販売業を営んでいます。日本だと、ハウス・メーカーと呼ばれるものに近いかもしれません。住宅販売業でメジャー・スポーツのチームを所有できるのか?という疑問が湧きますが、彼らには出来たのでした。そのカギは、ベイエリアという土地にあります。


     第二次大戦後から、軍事産業や宇宙産業などの政府の研究機関やスタンフォード大学などの研究機関の存在により、ハイテク産業があらゆる方向でベイエリアで発達しはじめます。1970年代になると、スタンフォード大学から湾の南地域にかけて、シリコンヴァレーの名がつき、半導体、コンピューターソフト・ウェアーなどの多くのハイテク関連企業が起業したり、集まったりしました。そして1850年代のゴールド・ラッシュのように、世界中から人々が集まったのです。1990年までにベイエリアの人口は1950年代の人口の2倍に、シリコンヴァレーだけをみれば1960年からの20年だけで、2倍に増えました。ショットとホフマンの会社は、ここで大きく成長します。人が集まると必要になってくるものがありますが、それが住宅だったのです。
     ショットとホフマンのコンビは、ベイエリア自体の発達のために成功した人たちだったのでした(次回につづく)。

    2005年4月




     第4回 「Athleticsのオーナー達その3」


    ・2005年〜:ルイス・ウルフ、ジョン・フィッシャー


     ショットとホフマンは、当初から自分たちは、アスレチックスのよりよいオーナーが見つかるまでの繋ぎだと言い、常に買い手を探していました。また、2003年に新球場の土地を見つけるために、ロサンゼルスの土地開発業者ルイス・ウルフをコミッショナーのバド・セリグから紹介されます。この時に2人は、ウルフをその任務の長を任せると同時に、チームの所有のオプションをつけたのでした。そして、ウルフが他の出資パートナーを見つけると、今年の春に、正式にチームを売り渡しました。


     新オーナーのグループには沢山の出資者がいますが、その代表を務めるのがルイス・ウルフとなります。ちなみにウルフは、球場の土地探しを任されたことからもわかるように、土地開発業を営んでいるわけですが、ここ数年で彼の名前が全国区で知られるようになったのは、高級ホテルの投資によってです。
     1960年代に、土地開発コンサルタント業をLAで起業したウルフが最初にかかわったのは、ベイエリアの南にあるサンノゼのダウンタウン開発です。まだ、シリコンバレーの名がつく前のことで、新しい企業のためのオフィスが必要だった頃です。この時にウルフは、オフィス・ビルディングの幾つかとビジネス・ホテルを安く購入し、その後の土地の値段の高騰で、後の事業のための資金を得ます。また、1970年代初には、映画会社の20世紀フォックスが撮影所の拡大のために、ウルフを短期間ですが、そのトップに任命します。ここでウルフは、彼のビジネスのパートナーとなる有名人の多くと知り合うことになります。その後も、サンノゼのスポーツ施設を含む再開発、現在のロサンゼルスのダウンタウン再開発などカリフォルニアを中心に、多くの土地開発にかかわります。


     そして、ホテル投資です。1980年代後半のアメリカ経済の停滞で、多くの高級ホテルの経営が苦しくなります。このとき、ウルフは、大都市の立地の良い場所への新たなホテルの建設が無理なことと、伝統のある高級ホテルには、人々がそのサービスに対して、景気あまり左右されずに、お金を払うことに目をつけます。大都市の高級ホテルを対象にして、ホテル自身の所有と、その資産価値を下げないように運営する会社への投資を思いつくのでした。そして1994年、ウルフの出身地であるセントルイスのリッツ・カールトンが経営不振で売りに出されると、地元で旅行業や企業向けインセンティブ産業に精通する裕福なマリッツ一族のフィリップ・マリッツを誘い、Maritz Wolff, & Co.という高級ホテル専門の投資会社を設立します。そして二人の会社は短期間に、サンフランシスコのフェアモント、ニューヨークのカーライルなど多くの高級ホテルを買収します。
     また、経営の苦しくなっていたローズウッド・ホテルズ・アンド・リゾーツ(日本では、ホテル西洋銀座を運営)やフェアモント・ホテルズ・アンド・リゾーツなどの名門のホテルを運営する会社にも、ビジネス・パートナーとして投資して、所有するホテルの運営を任せています。2001年までには、プライベート会社としては、アメリカ最大の高級ホテル投資会社として知られるようになったのでした。


     ウルフが成功してる要因のひとつに、彼自身の投資額は少ないけれど、お金を出せるビジネス・パートナーを見つけるのが大変上手いということがあります。土地開発事業でも常に地元に精通した裕福なパートナーを見つけています。また、ホテル投資事業でも、TV俳優、アラブの王子、石油王の娘をはじめ多くの億万長者たちとビジネス・パートナーとして組んでいます。今回のアスレチックスの場合も同様でした。ルイス・ウルフは、自身のビジネスの成功というよりは、ビジネス・パートナーを見つける才能によって、高額になった野球チームを所有することが出来たのでした。


     ここで、もう一人のオーナーを紹介しておきます。通常、複数人のチームの所有時には、出資額の多い人物が筆頭として代表を務めることが多いのですが、今回のアスレチックスの場合は違っています。一番お金を出しているのは、まだ一度も表に出てこないジョン・フィッシャーという、43歳の人物です。
     ジョン・フィッシャー自身は何も新しいことや自身の会社で成功してることは特にありませんが、ここ数年フォーブス誌の億万長者番付に登場しています。彼は、両親のビジネスの成功から多くの資産を受け継いるのです。成功した両親とは、1969年にサンフランシスコで、リーバイスのジーンズとレコードを小売する一店舗からはじめて、中間業者を省いて独自の衣類を製造から直売まで行うことで全米一の衣類販売会社になった、Gap,incの創設者夫婦、ドナルド・フィッシャーとドリス・フィッシャーです。ジョン・フィッシャーは彼らの3番目、つまり一番末の息子で、現在、一族の資産を管理運営する会社を任されています。そして、サンフランシスコのフェアモントホテルの買収時に知り合ったウルフの今回のビジネス・パートナーとなったのでした。


     余談ですが、フィッシャー一族はジョンの提案により、1990年代初めにサンフランシスコ・ジャイアンツがフロリダへの移転が噂されたときに、ジャイアンツを地元に残そうとするグループに加わりました。なんと、ジャイアンツのマイノリティー・オーナーだったのです。ただし、現在のMLBではオーナーのリーグ内の複数チームの所有を認めていないので、今回の件で、事前にジャイアンツの持分はすべて手放しています。


     プロフェッショナル・スポーツ・チームのオーナーの職業を見ていくと、その時代の経済状況や文化が垣間見られて面白いと思うので、オークランド・アスレチックスを例に挙げてみましたが、いかがだったでしょうか?好評でしたら、湾向こうのジャイアンツやベイエリアの他のチームも...?


     オーナーは、オーナー自身が競技を行うわけではないので、直接は毎回のスポーツの試合結果には関係しません。けれども、チームはオーナーの所有物であり、その考えは、チームの移転、運営方針、球場の新築または改築計画、あるいは現在のNHLのロックアウトにみられるように興行自体の中止など、スポーツを見る側に、直接、間接的に大きな影響を与えます。ベイエリアでも、2002年にNHLのサンノゼ・シャークスのオーナーが個人オーナーからグループ・オーナーに代わり、少し方向変わりました。スター選手の放出、監督、GM解雇など、一気に出て戸惑う変化が起こったのです。また、NFLのサンフランシスコ・フォーティナイナーズは、オーナー一族のトラブルがここ数年、チームの運営、さらに成績にまで支障をきたしています。今回のオークランド・アスレチックスのオーナーの変更も、新球場の建設やそれに伴う移転の可能性など、まだまだ先の様子ははっきりしません。チームの毎日の成績とあわせて、ちょっと心配なのでありました。

    2005年4月




     第5回 「19世紀の野球を行う〜ヴィンテージ・ベース・ボール」


     アメリカであちこちで花火をあげる独立記念日が終わって、MLBはオールスターゲームも終わって後半戦に入るというその直前に、1シーズンを丸ごとロックアウトしてファンをがっくりさせていたNHLと選手会(NHLPA、National Hockey League Players' Association)がやっと合意にたどり着いたといううれしいニュースが入ってきた7月です。
     日中太陽がギラギラで毎日が暑いベイエリアからこんにちわです。
     うれしくてNHLの話をしようと思ったのですが、今回は先日近所の小さな公園で行われていた風変わりなアマチュア野球のお話です。


     髭を生やして黒いスーツを着て背の高い帽子をかぶった紳士が、だぶだぶのズボンに紐で前を止めてるシャツを着て重そうなバットを持った打者に対して、丁寧にこう尋ねます。

    「どういう風なものを希望しますか?」

     すると打者は、

    「高めのストライクでお願いします。」


     高く盛られた土がない平らなところから投手は下投げで投げて、薄っぺらの胸当てと簡単なつくりのマスクをかぶってシンガードも無く、軍手みたいな皮のグローブを構えている捕手が、ボールを捕ります。判定はボール。
     1塁には走者がいます、投手は1塁に投げ真似をしてすぐに、打者にボールを投げます。判定はボール。え?ボークじゃないの??
     投手は、上から投げたり横から投げたりして、ストライクが2つ続いて、またボール。そしてさらにボール。あれ?4つ目のボールで一塁に進めるのじゃ????
     バットに当たって、ボールがショート・ストップの方にバウンドしていきます。ダブル・プレーかな?と思ったら、親指と人差し指の間に網の無いグローブのショート・ストップの選手が体の正面で慎重に時間をかけつつボールを捕り、そのボールを2塁に投げます。しかし、2塁の選手はこれを捕れません。ボールはあさっての方向に。あらっと言う間に、走者がずんずん走ってホームにたどり着いちゃってます。1点です。


     いつも見ている野球と違うこの日に見た野球は、ヴィンテージ・ベース・ボール(Vintage Base Ball)呼ばれる野球でした。今年からはじまったベイエリア・ヴィンテージ・ベース・ボール(Bay Area Vintage Base Ball、BAVBB)というアマチュアのリーグに所属するサンノゼ・デュークスとサウスカウンティ・ジャスパーズの試合だったのです。


     ヴィンテージ・ベース・ボールとは?
     その名が示すとおり、古い野球です。まだ野球が、"baseball"と一つに綴られずに"base ball"と2つの語で綴られた、19世紀の頃のルールと習慣で行う野球のことです。
     1996年に、Ohio州で同じように19世紀の野球に興味があるクラブが集まり、ビンテージ・ベース・ボールを行いそれを広めるためにヴィンテージ・ベース・ボール・アソシエーション(Vintage Base Ball Association、VBBA)というアマチュアの団体が結成されました。当初は五大湖周辺のミッドウェストと呼ばれる地域を中心として行われていたものが、現在は、アメリカ11州とカナダ1州の地域で約40のリーグが所属しています。


     VBAAでの野球は、1850、1860、1880年代それぞのれ年に発行されているルールを各地域のリーグがどれか一つを決めてそれにのっとって行われています。
     たとえば、今回見に行ったベイエリアのリーグでは、1886年のナショナル・リーグ・オヴ・プロフェッショナル・ベース・ボール・クラブス(National League of Professional Base Ball Clubs、今のナショナル・リーグ)で行われていた「スポルディングズ・オフィシャル・ベース・ボール・ガイド」に定められているルールをもとにやっています。
     全部を載せることは出来ないので、面白いものや、今と大分違うルールを幾つか紹介します。


    ・審判は一人
    ・7ボール=ウォーク(一塁へ進む)、3ストライク=ストライク・アウト(三振)
    ・ファール・ボールはストライクにカウントしない
    ・ボールは隠して相手をだましても良い
    ・道具や服装は、19世紀に使用されていたものを使う
    使用出来ないもの:バッティング・ヘルメット、サングラス、ユニホームの背番号と名前、体を守る道具(捕手を除く)
    ・禁止されるエチケット:ハイ・ファイブとロー・ファイブ、相手選手への罵倒、帽子のつばを後ろに向けること
    ・許可されるエチケット:握手、相手選手の良いプレーを褒めること
    ・選手は、スポーツマン・シップにのっとり、紳士的な姿勢で試合を行うこと


     VBBAは、自身を”動く歴史の本”あるいは”屋外で動くのを目にすることが出来る博物館”と位置づけています。小さな住宅街の公園で少ない観客の中で行われていたこのアマチュアの野球を見ていると、以前読んだ野球の歴史の本にあった、「初期の野球は、9人の守備対打者と走者のゲームだった。」という一文を思い出します。網のない素手に近い薄いグローブで守る守備は今のものよりも打たれたボールを取る方法が違い、走者が走る機会が沢山ありました。また外野フェンスのない公園(Park)では、ホームラン(Home run)は、”inside-the-park home run(インサイド・ザ・パーク・ホームラン、日本語でいうランニング・ホームランのこと)”でした。そして、ゲーム自体は、塁(Base)をグルグル走りまわる(Run)するものだったのだなと実感しました。本当に歴史の本を目の前で見ているような素敵な体験でした。
     歴史に興味のある皆さんも、もし機会があったら是非、現代野球の元になるヴィンテージ・ベース・ボールを見に行ってみてくださいね。


     参考リンク:

    ・「Vintage Base Ball Association」のHP
     ルールをはじめ,道具や習慣などの歴史の記事が沢山あります。
     また,試合の写真も豊富にあり,どんな風に行っているのかをみることができます。


    ・「Bay Area Vintage Base Ball」のHP


     第6回〜はこちら


現連載

過去の連載

リンク