Bay Area Watch 20XX by 小女子

    第11回 「NHLを楽しむ〜その4:オリンピック」

    第12回 「オリンピックと番狂わせと奇跡」

    第13回 「アリーナとアイスホッケー」

    第14回 「NHLプレイオフ」

    第15回 「スタンレー・カップ」



     第11回 「NHLを楽しむ〜その4:オリンピック」


     Bay Areaのスポーツチームがさっぱりです。もしかしたら数十年ぶりに、6つある4大スポーツのチームのすべてがプレイ・オフに出場できないという状況になりそうです。
     ということで、大変がっかりな感じで2006年がはじまったBay Areaからこんにちわ。


     新しい年です。題名も2006に変わりますが、やっぱり話題はあまりBay Areaじゃない「Bay Area Watch」。今回は、オリンピックが近づいたのであわてて、NHLを楽しもう!のオリンピック編です。
     各国々のメンバーが誰で各国の戦力がなどという言う話は、他のところでもありそうなので、NHL選手のオリンピックへ全面参加への道を取り上げます。


    それでは、オリンピックにおけるアイス・ホッケ−のNHL選手参加の歴史、簡単版です。
     アイス・ホッケー(以下ホッケー)は、夏季と冬季に開催時期が分かれた1924年からオリンピックで行われています。まだまだ国際大会はアマチュア主義が幅を利かせている時代です。ホッケーも各国のトップのアマチュアなクラブがオリンピックなどの大会には参加していました。近代ホッケーのルールを築いたカナダやそれが広がった欧州の国々が参加していました。

     第二次世界大戦が起こり、世の中の仕組みが変わるようにスポーツの世界も変わります。共産主義国々で、スポーツの英才教育なプログラムが行われ、世界の大会のトップを支配していきます。ホッケーの世界でもまずチェコ・スロバキアが、そして1950年代後半には真打のソビエト連邦が、オリンピックをはじめとした国際大会に登場します。生活を政府に後ろ盾してもらい、1年中トレーニングを積んでスポーツに専念している選手で構成されているチームです。勝たないはずがありません、各大会でブイブイです。

     いつの時代でもどこでも、競争バランスが崩れると文句を言う人たちが出てきます。唯一プロ・リーグのNHLを持ちトップクラスの選手が全部プロ選手というカナダです。「ソ連の選手がアマチュアだというならうちもNHL選手を出したいの、認めてよ!」と言う具合です。1969年に、NHL選手の参加が実行されかけましたが、プロ・リーグを持たない国々から反対に合います。するとカナダは、オリンピックをはじめとした国際大会をボイコットししまうのです。
     カナダのボイコットは1970年から2度のオリンピックを含めた7年間行われます。さらに、カナダは、ソ連と交渉して、こっちが世界最高の大会だといわんばかりに、NHL選手が参加可能な大会を独自に開催しまうのです。これは現在NHLが主催するワールド・カップ・オブ・ホッケーに繋がります。

     この時期は、ちょうど他のスポーツでも、ラジオやTVの発達などで、「スポーツは神聖で、アマチュアで行うもの」という神話がゆらぎはじめます。共産主義国のような英才教育プログラム、学校の奨学金、スポーツ・メーカーの個人あるいはチームへのスポンサー、トレーナーなどの専門家の登場、プロ・リーグの拡大などなど盛りだくさんです。

     そして、1970年代後半から1980年代にかけて、国際大会を取り仕切るオリンピックやホッケーのIIHFの責任者が続々とプロフェッショナルやスポンサーシップに寛容な人物に変わります。国際大会でのプロ選手の参加がゆるくなり始まるのです。
     ホッケーでは、まずIIHFの責任者が変わると、1876年に世界選手権がカナダの参加の復活とともにプロ選手の参加が認められます。オリンピックは、1984年NHL選手以外のプロ選手、そして1988年からNHL選手の参加が可能になりました。

     しかし、オリンピックが良いよと言っても、各国の代表がNHL選手で埋まったわけではありません。ホッケーは、NHLのシーズンとオリンピックの開催時期が重なるのです。この期間に出たのは、元NHL選手やNHL経験数試合の若者などです。オリンピック側とリーグと選手会との合意が必要になってきます。
     このころちょうどNHLが海外へのマーケット拡大を狙っていたこともあり、話し合いを進めて1994に合意がでます。1998年の長野オリンピックから、NHLはリーグを中断をして、選手のオリンピックへの参加が認めるようになったのです。そして、今回のトリノの大会も、NHLと選手会の新しい労使協定が昨年合意されたので、NHLの選手が各国の代表として沢山参加するのでした。

     このように、ホッケーは早い段階からプロ参加の国際大会が盛んです。また、NHLに多くの欧州からの選手が参加していることもあり、他の北米スポーツと違って、選手がオリンピックへ参加することに対して誇りとやる気を持っています。したがって、オリンピックのホッケーは、出ている選手のレベルが高く、試合展開もあがっていて、面白いものになっています。日本でも放送があると思うので、是非楽しんでくださいね。




     第12回 「オリンピックと番狂わせと奇跡」


     ”Mirakel”と言うのはスウェーデン語で”奇跡”、英語の”Miracle”にあたります。今回のオリンピックで、スウェーデンがアメリカを破った女子ホッケー準決勝の試合後に選手が口にした言葉であり、ホッケーを題材にしたアメリカ映画のスウェーデン語タイトルです。

     オリンピックが終わりました。期間中は、まったく地元のスポーツイベントに目を向けずに、つけっぱなしにするTVのチャンネルがかわってしまった小女子です。アラレが降ったりカンカン照りの日が続いたりと奇妙の春のBay Areaから、こんにちわです。
     今回もちっともBay Areaの話題に触れない「Bay Area Watch」、オリンピックのアイス・ホッケーに起こった番狂わせの話です。

     ”番狂わせ(英語で"upset")”というのはオリンピックなどの短期一発何でもありのスポーツ大会で起こりやすい現象で、人々が大好きな出来事です。世界のあちこちから一箇所にいろんな競技のいろんな人々があつまり、普段と違う環境、違うプレッシャーで予想できないことが起こりまくりのオリンピックは、実は番狂わせの見本市なのじゃないかと個人的にひっそり思ってます。そして今回のアイス・ホッケーでもありました、大きな番狂わせ。

     トリノ・オリンピックの女子ホッケー、スウェーデンとアメリカの準決勝は、アメリカが先に得点したものの、スウェーデンが追いつき、レギュラー・タイム、オーバー・タイム2対2の引き分けで終了。シュート・アウト(サッカーのPKのようなもの)で勝敗を決めるのですが、スウェーデンが得点して決勝に進むことになりました。
     1980年代から国際大会がはじまった女子ホッケー、カナダの独壇場で対抗できるのが唯一アメリカという時代が続いています。大会は、上の2カ国による1位の争いと、残りの国々による3位争いという二重構造が大前提なくらいの実力差です。いつも2位のアメリカですら、カナダ以外の国に今まで負けたことがないという成績です。
     ということで、今回のスウェーデンの勝利は、女子ホッケー界史上一番の番狂わせになったのでした。

     冒頭の「Mirakel!」という言葉が試合後に、スウェーデンの選手からでたのは、今まで勝ったことのない相手に勝ったから信じられなくて出てきたというものではありません。実は、彼女達は試合の前に繰り返し繰り返しみた映画があり、そのスウェーデン語のタイトルが「Mirakel!」だったのです。この試合で、彼女達は映画の登場人物になりきっていたのです。

     2004年に公開されたこの映画の英語のタイトルはそのまま「Miracle」で、日本では「ミラクル」という題名でDVDが売られています。1980年、オリンピックのホッケーの準決勝で、世界最強のソビエト連邦のチームを破り、決勝も勝ち金メダルを獲得したアメリカのチームを題材にした映画です。大ヒットはしませんでしたが、作り手の思いがうっとしいくらいの熱い映画です。冷戦時代が舞台でナショナル・チームをあつかっているので戸惑う場面もあるかもしれませんが、監督と選手の描き方は、これぞスポ根!というもので、スポーツ映画が好きな人にはお勧めです。観終わると、スウェーデンの選手同様、必ず登場人物になりきりたくなるはずです。

     1980年のアメリカの番狂わせは、当時のTV実況者が「あなたは奇跡を信じますか?もちろん!」と言ったこともあり”氷上の奇跡(Miracle on ice)”と呼ばれます。そしてアイス・ホッケー自体の人気は他のスポーツに劣るものの、アメリカのスポーツ史上でも1,2位の人気の出来事です。
     そういえば、2004年のMLBのプレイ・オフでBoston Red SoxがYankeesにシリーズ0勝3敗から勝った後に、Red SoxのGMが自分達の状況を例えたのもこの”氷上の奇跡”でした。
     またこの奇跡は後にいろいろ影響を与えました。当時はほとんどカナダ人で占めていたNHLに、より多くのアメリカ人の選手や監督、コーチなどの人材が入るようになりました。アメリカでの競技人口や施設、あるいはプロ・チームが増加です。そして、アメリカのチーム・スポーツでは珍しく、若者に国の代表でオリンピックに出場したいと思わせました。

     女子のこの準決勝のTV放送、実況者の最後の言葉は映画からの引用でした。
     「十回戦えば、たぶん九回は向こうが勝つだろう。でもこの試合じゃない。今夜じゃない。」
     アンダードックなチームの監督なら一度は言って見たい台詞ですね。


    <おまけ>
     男子のオリンピック・ホッケーは、この女子の勢いも手伝って、スウェーデン・チームが金メダルとりました。4年前に男子ホッケーで、オリンピック初出場だったベラルーシのチームが準決勝に進出という番狂わせがありました。実はその時に負けたチームがこのスウェーデンのチームだったのです。今回のオリンピック、スウェーデンのチームは気迫があり、番狂わせで負けたチームのその後を見た気がしました。


    <リンク>
    映画「ミラクル」DVDの情報(ブエナ・ビスタ・ジャパン)
    映画「Miracle」の情報(IMDb、英語)
    Sports Illustrated誌の1980年当時の記事(英語)




     第13回 「アリーナとアイスホッケー」


     日付はとっくに春なのですが寒い日や雨降りの日が続いて、どうも今年は天気がおかしいBay Areaからこんにちわです。


     ところで、アメリカにやってきてアイスホッケーを見るようになると、ある疑問が起こります。
     「アメリカやカナダには、どうしてアイスリンクがあるアリーナが多いのだろう?」
     ということで今回は、アリーナにまつわる話をちょこっとです。


     北米で見世物としてのスポーツやほかのエンターテーメントが行われ、大人数が一度に集まることができて、天井が被われている建物を一般的に、アリーナと呼びます。固有名詞としては、ガーデン、センター、フォーラム、パビリオンといろいろありますが、ここではアリーナに統一します。


     そして現在NBAの30チームがホームとして使用している29のアリーナのうち、21のアリーナがホッケーチームのホームです。NHLと共有しているNBAのチームが12チーム、NHL以外のホッケーチームとの共有が9チームです。
     メジャーのNHLと一緒のものも多いですが、それより気になるのは、マイナーリーグやメジャー・ジュニア(15〜20歳の子供のホッケー・リーグ)です。これらが一緒であることには、ちょっと驚きです。


     ここで少し歴史を振り返ります。
     北米のアリーナ建築は、19世紀の終わりごろ、鉄道の車両倉庫や駅そのものなどの大空間を有する施設を改造することにはじまり、このような場所は当時の室内エンターテイメントの中心、サーカス、ボクシング、自転車レースなどに使われるようになります。そして、そういった場所に氷を人工的に作る技術が発達してくると、アイス上でのサーカスやダンスが始まります。
     また19世紀の終わりは、野球を契機として、人々がスポーツを行い、それを観戦する文化が広がった時期でもあります。そしてこれらスポーツの中には、アイスホッケーやその類似のスポーツもありました。特にアイスホッケーはカナダやアメリカの北部、北東部にて人気が出てきたのです。
     そして、20世紀の最初には、人工リンクを作る技術が発達した結果、あちこちのアリーナでホッケーの試合が行われるようになり、数多くのリーグやチームが誕生します。


     1910年代から20年代にかけて、鉄鋼とガラスとコンクリートの製造のさらなる発達で、大型建築のブームが起こります。野球でも新しい球場が次々と建てられましたし、多くの大都市で、アイスリンクを有する新しいアリーナが次々と建てられました。この時代から1960年代までのメジャーなホッケー・リーグはNHLだけですが、この時代、野球と同様に、ホッケーにもマイナーや独立リーグのチームが数多く存在しました。
     New Yorkにある有名なアリーナMadison Square Garden(MSG)の三代目の建物が、1925年に建てられます。するとまず、プロリーグとして落ち着いたばかりのNHLのカナダのチームが、移転します。そしてすぐにMSGの運営者は、チームにアリーナを貸すよりも自前のチームを持つほうが有利と考え、1926年に、今も残るニューヨーク・レンジャーズを設立するのです。
     一定期間試合を行い沢山の観客が呼べる出し物は、アリーナの運営者には大変魅力です。こうして各都市で新しいアリーナのオープニングと同時に、ホッケーチームも所有するのでした。
     このMSGがその後のアリーナ運営の手本になります。MSGは元々ボクシングの興行をしていました。そのために、今も多くのアリーナがボクシングや他の格闘技のツアーを呼んだり、イベントを主催したりしています。


     また、音楽産業の発達でジャズ、ポップス、ロックなどのコンサートもアリーナで行われるようになります。現在も多くの音楽イベントがプロスポーツチームのホームのアリーナにて行われています。
     さらに、MSGの運営者はアリーナの空きを埋めようと大学のバスケットボールのトーナメントを行ったり、プロフェッショナルなバスケットボールのリーグやチームを作りました。NBAの誕生は、それまで小都市で行われ人気のなかったプロフェショナルなバスケットボールのチームを大都市にも採用しようとMSGや他の都市のアリーナの所有者(つまりホッケーチームの所有者)が作ったものです。といわけで、1946年当時のNBAの前身、バスケットボール・アソシエイション・オヴ・アメリカ(BAA)のチームのアリーナは、すべてNHLか、あるいはマイナーであるAHLに所属するホッケーチームのホームです。
     この後もアリーナの運営者は、多く新しい室内スポーツ、そしてリーグやチームを生み出します。アリーナ・フットボール、室内ラクロス、室内サッカー(フットサルとは別物)、インライン・ホッケーなどです。アイスのリンクや客席の形状をそのまま使用するものが多いのが特徴です。


     それからのちに、1960年代からのTVの放送の発達でNBAに人気が出ます。またこのころから、アリーナの建設資金や所有に公共団体が入るようになります。次第にアリーナの運営や所有とホッケーチームの所有が同じではないものも出てきます。
     しかし、ホッケーには、カナダを中心にアメリカ西海岸に北部にもある、大人並の興行成績をあげるメジャー・ジュニア・リーグの存在、また、メジャーのNHLと同じ長い歴史があり、それ以上に多くのチーム数を有するマイナーリーグの存在があります。実は野球と同じくらい北米でプロチームの数が多いのがホッケーなのです。ですので、バスケットチームの所有者がアリーナと同じ場合でも、テナントにホッケーチームを抱えたり、エキシビションの試合を行うのも自然な流れです。Bay Areaにも3つの大型アリーナがあります。このすべてのアリーナがアイスリンクを持ち、ホッケーチームのホームの経験があります。
     こうして、アリーナの運営のいきさつとアイス・ホッケーの歴史の長さがわかると、北米にアイスリンクを持ったアリーナが多いという事実に納得がいくのでした。


    ・おまけ情報
     最初のアリーナ運営の手本がニューヨークの有名なマディソン・スクエア・ガーデンですが、現在一番勢いがあるのは、石油で財を成して多くの業種に投資を行っているフィリップ・アンシャッツが設立したアンシャッツ・エンタテインメント・グループ(AEG)です。有名ミュージシャンのツアー興行から、アメリカ最大の映画館チェーンの所有、アメリカやイギリス、ドイツのアリーナとスタジアムの所有と運営、そしてアメリカとヨーロッパでのスポーツチームの複数所有をしています。アメリカのサッカーリーグ、ロサンゼルス市のダウンタウンの再開発、ワールドカップサッカーからオリンピックまで、この会社が関わるものは多岐にわたっています。


     Anschutz Entertainment Group

    ・お役立ちリンク

     Ballparks By Munsey & Suppes(個人サイト、英語)
     野球場に限らず北米にある各スポーツの興行施設についての情報が集めてあるサイト。個人サイトなので、情報が古い部分間違った部分があるので注意は必要です。




     第14回 「NHLプレイオフ」


     約百年ぶりぐらいの珍しい雨つづきの春が終わったと思ったら、いつもの天候にもどったBay Areaからこんにちわ。
     そう太陽がサンサンで、人々がビーチ・サンダル+短パン、そしてTシャツになる季節、野球の季節!!!といいたいところですが、Bay Areaの南ではまだまだホッケー・シーズンです。

     それは、プレイオフ!プレイオフ!プレイオフ!!
     一年で一番熱い季節です。
     レギュラー・シーズンを勝ち抜かないと達成できない第二のシーズンです!!

     ということで、今回は北米で一番熱いプレイオフ、NHLのスタンレー・カップ・プレイオフのお話です。


     上で堂々と北米で一番熱いと書きました。
     スポーツの人気は、NFLでその次が大学スポーツ(フットボール&バスケットボール)、そしてMLB、NBAの順で、昨シーズンにロックアウトしてるようなスポーツのプレイオフがそんなに熱いのか?という疑問がありそうですが、熱いのです。

     街中がバーナーを掲げ、地元TVや新聞ラジオもそわそわしてくるNHLのチャンピオンを決めるプレイオフ、スタンレー・カップ・プレイオフスとは??



    ●閉じた建物で大盛りあがり

     NHLの試合を行う建物、アリーナは、平均二万人が収容されます。オープニング時と味方チームの得点時に、この閉じた空間で物凄い熱狂振りを見せます。
     NFL、MLBで四〜五万人のスタジアムでも、得点時や逆転が起こったときなどはスタジアムが一体感があります。これもすばらしいものがあるのですが、閉じた空間はより簡単にその熱狂が空間を蔓延するのです。建物の構造的なアドバンテージです。
     NBAも同じ建物を使っていますが、1試合に何点も入るので、1回のスコアシーンの熱狂振りは、やはり点数が少ないNHLの方が盛り上がります。



    ●サドンデスのオーバータイム

     どのスポーツもプレイオフでの、オーバータイム(延長)は盛り上がります。しかしNFLとNBAは時間で行うので、レギュラータイムと同じような戦いぶりで、また殆ど2回目のオーバータイムには行きません。ホッケーは、サドンデスと呼ばれる、1点決めた時点で終わるものです。どちらのチームも決めてがない場合は延々と続きます。3回目のオーバータイムというのもNHLでは珍しくも無く、夜に始まる試合が多いホッケーですので試合終了が翌日と言うのもあります。
     MLBの延長戦の特にホーム・チームによるサヨナラ勝ちは、NHLのオーバータイムと勝ちと同じような興奮があります。



    ●同じチームに7戦

     MLBは、その古い歴史から同じチームと3戦行うのが基本です。ホーム&アウェーの連戦がある場合は、同じチームと6連戦というのもレギュラー・シーズン中から珍しくありません。
     ところがNHLでは、同じチームとはシーズン中にホーム&アウェーの2試合連続があるくらいです。NHLのプレイオフは、すべてのラウンドがベスト・オブ・セブン(4勝先制)で、最低4試合最大7試合行われるので、毎試合同じチームと当たるというシーズン中とはちがう雰囲気になります。
     さらにホッケーはサッカーやNFLと同じで、戦術と言うものが非常に重要になります。チャンピオンシップで1試合できまる、NFLやサッカーと違い、ホッケーは4勝するまで戦術を毎回変えたりと対応が必要になるのです。1試合目で攻撃のプレッシャーをバンバンかけたものが、2試合目ではガラッと変わってトラップがぎっちり、というまったく違った試合をするなどということは珍しくありません。実はこの部分が大変面白かったりします。



    ●期間が長い

     上に関連しますが、NHLのプレイオフは、決勝までの道のりが大変長いです。
     NHLは、全体の30チーム中成績上位の16チームがプレイオフに参加でき、全部ベスト・オブ・セブン(4勝先制)で、4ラウンドがあります。野球のように3連戦と言うものがで体力的に不可能なこと、またホームとロードが2-2-1-1-1というパターンを取るために移動が多いという理由から、1つのラウンドが2週間かかります。4ラウンドすべてを勝ち抜くには約2ヶ月かかるのです。負けたら後がなくなるというチャンピオンシップな状況を選手もファンも、2ヶ月も過ごすというのは普通ではありません。カップ・クレージーと呼ばれる理由がここにもあります。



    ●北米プレイオフ・システムの原点

     期間の長さや対戦相手の決め方、出場チーム数などNBAと同じなのですが、北米のこのプレイオフ・システムの原点はNHLにあります。NBA自体の始まりがNHLのチームをもつアリーナの運営者によって始められたものなので、リーグのシステムはNHLに似ていて、プレイオフのシステムも同じなのです。
     NHLは、初期の頃から既にレギュラー・シーズンの成績一位のチームがチャンピオンという考えがありません。チャンピオンはレギュラー・シーズンでチャンピオン・シリーズの出場を勝ち取りさらに、チャンピオン・シリーズで勝ち抜くものという長い伝統があります。NHLのプレイオフの面白いところは、NHLの成り立ちよりも、スタンレー・カップを目指すチャンピオンシップの方が歴史が長いというところです。MLBのワールド・シリーズよりもその歴史は古いのでした。



     おまけ、
     盛り上がりをわかりやすくするなら、カナダの都市ではサッカーのワールドカップの参加国と同じ状況になります。
     プレイオフに残っている都市にいないと、なかなかこの雰囲気はつたえられません。




     第15回 「スタンレー・カップ」


     すっかり夏っぽくなってきました。けれども今年の夏もスタンレー・カップをパレードで見ることは出来ません。そう、NHLのプレイオフ、San Jose Sharksは、2ラウンドであっさりと負けました。ふっとまわりを見渡せば野球の両チームともがしょんぼりです。とってもがっかりなBay Areaから、こんにちは。
     前回NHLのプレイオフの話だったので、今回はスタンレー・カップとはなんだろう?という話です。


     近年はすっかりNHLの年間の勝者を決めるトーナメントの名前ですが、スタンレー・カップというのは、その優勝チームに送るトロフィーの名前でもあります。
     北米で現在まで続く一番古いスポーツへのトロフィーであり、アイス・ホッケーに携わる世界中の人々があこがれる銀色のまぶしい物体、それがスタンレー・カップです。
     ということで、その歴史の複雑さや存在のユニークさを簡単に紹介します。


     19世紀の終わりにイギリス王室から命ぜられ、カナダの総督として送り込まれたスタンレー卿とその子供達が夢中になったものが、アイス・ホッケーです。そして、このスタンレー卿は、当時のイギリスで盛んだった争いに勝ったチームにカップを贈り、次回からはそのカップを争ってまた勝者を決めるシステムの採用をカナダのホッケーの団体に提案します。これがスタンレー・カップというチャンピオンシップのはじまりです。
     プロフェッショナルという考えがまだはじまったばかりの時代、スタンレー・カップは、最初はアマチュアの大会の優勝カップでした。しかし、アメリカで野球の二つのプロ・リーグが競い合い成功するようになると、陸続きのカナダやその国境付近で行われていたホッケーは、このプロ化の影響を受けます。プロフェッショナルなチームやリーグが出てきて、スタンレー・カップを争うようになるのです。終いには、とうとうカップの所有がプロフェッショナルだけのリーグ、NHLのものになります。そして、スタンレー・カップというチャンピオンシップの名前がNHLのチャンピオンシップの名前と同一になり現在に至っています。

     歴史も複雑なら、その形が複雑なのもスタンレー・カップの特徴です。
     スタンレー卿が与えたのは、高さ19cm、椀の直径29cmほどのちょっと大きいくらいの銀のボールでした。ところが現在、高さ約90cm、直径約45cm、重さ約15kg!カップと呼ぶには不自然な銀色の樽型の物体に育っています。
     何故こんなに大きくなったのかと言うと、スタンレー卿が残した言葉に理由があります。優勝したチームはチームの勝利を祝うためにその名を記した銀の環をカップの台に付け足しなさいというのがありました。その言葉が影響して、いろんな経由を経て現在の大きな樽のような形にしているのです。優勝チームごとにトロフィーが与えられる最近の方式と違い、自分達の財で名前を入れるという方式は、まだ銀が貴重な時代からトロフィーの授与がはじまったということを物語っています。
     はじめは時代が時代で、銀の輪をチームで用意できなかったりまた指示を守らせる権力なかったので、名前を残した残さなかったりとんでもないところに残したりとまちまちでした。カップの所有がNHLというプロフェッショナルなリーグに落ち着いた1920年代ごろから、銀の環を次々とカップの下に付け足していきました。選手全員、コーチ陣、オーナーすべての名前を彫ります。途中、あまりにも大きくなりすぎたので、現在の樽状の形を保つことに決めました。
     現在のスタンレーカップは、上段のオリジナル・カップのレプリカ、中段の細目の3つの環、下段の樽状を形成する5つの環の3つの部分に分かれています。下段の1つの輪が13チーム分の名前のスペースがあり、そこが埋まるたびに上の環をはずしてカナダのホッケーの殿堂に収められます。今季新しい環が組みこまれ、まだ名前の彫られていない平らな部分が見られます。どのチームの名前が入るのかが楽しみです。

     さらにスタンレー・カップがユニークなのは、年間ほとんどの時期を旅しているところです。
     スタンレー・カップは毎回戻さないといけません。ということで、優勝した瞬間から返すまでの期間、優勝したチームは好きな風にカップと過ごすことが伝統になっていました。あまりにいろいろなことが起こっているので、それだけで幾つもの物語があり、それにまつわる本もいくつかあります。
     だんだんと行動がエスカレートしていくので、1995年からは、スタンレー・カップの番人が登場してます。そして新しい伝統が始まります。
     選手ひとりひとりがスタンレー・カップと24時間過ごすことが出来るようになったのです。
     既にNHLの選手は北米出身者以外も増えていて、1997年には初めて海を越えてロシアにカップが渡ります。以後優勝したチームに所属したヨーロッパ生まれの選手の故郷を巡っています。
     シーズンがはじまると戻すカップが、その後新しい持ち主が決まるまでどうしているかと言うと、これまた各地を巡っています。各NHLチームのアリーナや各地のアイス・リンク、病院、チャリティー団体、イベントに登場します。
     世界でも珍しい旅する優勝カップは、今年113年ぶりに、スタンレー卿がカップを購入したイギリスの地を訪れたそうです。


    <おまけ情報>

     百年以上前に、スタンレー・カップをカナダに置いていって、その試合を一度も目にすることがなかったのは、イギリス人のスタンレー卿です。その本名は、カップを与えた時代は、the Right Honourable Sir Frederick Arthur Stanley, Baron Stanley of Preston。現在では、The Right Honourable Frederick Arthur Stanley, 16th Earl of Derby,KG, GCB, GCVO, PCとなります。後ろの勲位称号を省いて無理やり日本語にするなら、第16代ダービー伯爵、フレデリック・アーサー・スタンレー卿となります。イギリスの称号は長ければ長いほど名門であり、その中でもダービー伯爵はイングランドでも一、二を争う古い一族です。そして何よりダービー、そうあの競馬のダービーです。イギリスの有名な競馬のレースは、第12代ダービー伯爵、フレデリック・スタンリー卿の曾祖父がはじめたものなのでした。

    (参考リンク)
    The Stanley Cup (Hockey Hall of Fame and Museum)
     カナダのホッケーの殿堂のHP内のスタンレー・カップにまつわるページ
     歴史や形状、カップの旅行記があります。


     第16回〜はこちら


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