ICHILAUのスポーツ博物学 by ICHILAU

    特別寄稿:誰にWBCを主催する資格があるのか?〜その1〜

    特別寄稿:誰にWBCを主催する資格があるのか?〜その2〜

    特別寄稿:誰にWBCを主催する資格があるのか?〜その3〜

    特別寄稿:誰にWBCを主催する資格があるのか?〜その4〜

    特別寄稿:誰にWBCを主催する資格があるのか?〜その5〜

    特別寄稿:誰にWBCを主催する資格があるのか?〜その6〜



     特別寄稿:誰にWBCを主催する資格があるのか?〜その1〜


     皆さんお久しぶりです。また初めまして、となる方もいらっしゃると思います。私は当ぼーる通信で昨年7月まで連載をさせて頂いていたICHILAUです。
     突然去っていったと思ったら突然戻ってきてひょっとすると驚かれる方も多いのではないかと思っておりますが、今回また皆様にお付き合い頂く事にしましたのは、野球ファンに取って大きな関心事となっている出来事について、一つどうしても指摘しておきたかったことがあったためです。

     野球の国代表世界選手権であるワールドベースボールクラシック(以後WBC)の開催決定、そして大会詳細発表は皆様の記憶に新しい事だと思います。
     開催時期等懸念される問題点はありますが、野球界の念願であったベストメンバーによる世界選手権がようやく実現した事については、私も素直に嬉しく思いました。アテネ五輪ではMLBの選手を招集できず、ベストメンバーを組めないままで挑み不本意な結果となった日本代表にイチローと松井秀が加わればどの様な戦いをするのか、非常に楽しみな方は多いのではないでしょうか。

     しかし7月28日現在、NPBに所属する選手のWBCへの出場は決まっていません。NPBの経営サイドから、MLBの都合に偏りすぎでNPBの事情をあまりにも無視しているという意見が多数出たためで、当初経営側は大会運営方法に問題があるという理由で参加に難色を示してしましたが、ようやく意見調整が終わり、6月20日の時点で実行委員会は参加にGOサインを出しました。
     ところが、今度は7月22日にNPB選手会が現状のままでは不参加の意向を示したため、今後の交渉でMLB側の譲歩が無い限り、WBCはNPB選手抜きでの開催となってしまうことになったのです。

     私個人としては、昨年の球団削減問題では体を張ってファンと共闘をしたNPB選手会が、それからわずか一年弱でファンの夢を壊すような決定をした事は、非常に残念でなりません。
     なぜ、彼らはこういうことをしたのでしょうか。そして、その認識、あるいはやり方に問題はないのでしょうか。

     NPB選手会が難色を示しているのは次の2点です。

     1:開催時期が3月であり、4月の開幕に照準を合わせているはずの選手のコンディションが十分ではない恐れがある点。
     2:主催がアメリカのプロリーグに過ぎないMLBと労働組合であるMLB選手会であり、他のスポーツの国際大会の様な、国際組織(IOC、FIFA等)では無い点。

     これらについてNPB選手会会長の古田選手が発表したコメントは以下の通りです。

     「(国際組織主催ではない)WBCはサッカーのW杯と比較して、いいものだとは思えない」

     果たしてこのコメントに問題はないのでしょうか。私としても、MLBの運営であることからWBCがNPBの利益を代表しておらず、また、万が一の事故や大きなアクシデントでは無いにしても、太平洋を越えてWBCへ出場した選手のコンディションが不良となって、NPBの公式戦に支障が出る様な事態となった場合の補償や、次回以降の改革等でNPB及び選手の立場が守られる確証が得られないことに対して反発しているのは理解できるのですが、このサッカーのW杯を引き合いに出したコメントに関してはまったく理解できません。
     古田選手がサッカー好きでサッカーにたいする知識も持っているのはつとに知られていますが、今回に関してはその知識が裏目に出たとしか、私には思えないのです。

     ご存知の通り、野球界における国際組織はIBAFです。そして、MB編集長が主宰される掲示板、COOLTALK等でも、WBCがMLB主催である点や、IBAF主催となっていない事を懸念する意見を色々と見ましたが、私はそれらの意見に全く賛成できないのです。
     というのも、私の判断では、IBAFがMLB及び選手会よりも、ベストメンバーによる世界選手権を主催するのに相応しいと言う事はまずありえないからです。たとえ、IBAFがIOCやFIFAに匹敵する規模であったとしてもです。そしてその理由については次回以降、サッカー界を中心に、国際スポーツ統括団体によるスポーツビジネスの埋もれた歴史について触れながら、数回にわたって説明していきたいと思います。よろしくおつきあいください。



     特別寄稿:誰にWBCを主催する資格があるのか?〜その2〜


     皆さんこんにちは。
     先月からまたお目にかかる事となったICHILAUです。

     前回は、WBCのMLB主催に難色を示しているNPB選手会の主張には賛成できないこと、また野球の国際スポーツ統括団体IBAFがMLB以上に世界選手権を主催するのに相応しいというのはありえないこと、といった私の意見を書きましたが、今回からは私がその様に判断するに至った理由について述べていきます。

     まず本題に入る前に、今回問題としている国際スポーツ統括団体について触れさせていただきましょう。
     国際スポーツ統括団体は本来各国のスポーツ協会を統括する団体であり、国内のスポーツ協会はその国における該当競技を統括するのが主な役割となります。
     その役割は福利厚生とも大きく関係しているため、行政とスポーツ協会との間には密接な関わりがあり、またスポーツ協会は公的な存在であるので、到底ビジネスとしては成り立たないマイナーな競技でも、スポーツ協会を通した行政の保護によって存在でき、市民はそのスポーツを楽しむ事ができるのです。
     つまり、スポーツ協会は非営利団体であり、それを統括する国際スポーツ統括団体の本来の存在意義も非営利団体のそれが、主なものになります。

     また非営利団体であるということはスポーツ興行で利益を上げる事を目的とはしておらず、当然ながら、スポーツ協会の主催する大会に出場した選手に賞金や給料を出す事も、協会の本来の目的からは外れます。例えば、少しケースが違いますが、日本高等学校野球連盟は、主催する甲子園大会に出場する選手に給料を払ったりしてはいません。
     以上の事は現実に即していない点も多々あるとは思いますが、スポーツ統括団体の本来の役割を書くと、このようになるのではないでしょうか。

     ここで、国際スポーツ統括団体の名前を幾つか挙げてみましょう。
     スポーツ界の著名な国際スポーツ統括団体と言えば、まず国際オリンピック委員会(International Olympic Committee 略称IOC)の名前が上げられます。IOCは特定のスポーツの統括団体ではありませんが、オリンピックを主催すると同時に、オリンピックに参加する各競技の国際スポーツ統括団体を統括している団体です。
     IOCには各国際スポーツ統括団体に対する直接的な権限は無いのですが、マイナースポーツにとって五輪は極めて重要な大会となっていますので、五輪競技の国際スポーツ統括団体の中でIOCの影響力から逃れられるのは、次に登場するFIFAくらいしかありません。
     そしてそのFIFA(Federation Internationale de Football Association)、つまり国際サッカー連盟は単なる一競技の統括団体に過ぎませんが、サッカーが世界中で人気を集めているスポーツであることから、現在世界最高の国際スポーツ統括団体といっても過言ではないでしょう。FIFAにはあらゆる国際組織中でも最高の205協会(国単位ではないメンバーも存在している)が加盟しており、W杯その他世界大会を主催しています。
     また、FIFAの下部組織として6大陸の大陸連盟(コンフェデレーション)が存在しており、各大陸の代表及びクラブの国際大会を統括してますが、近年はその中でも、最大のサッカー大陸連盟大会・UEFAチャンピオンズリーグを主催するヨーロッパの大陸連盟であるUEFA(欧州サッカー連盟)の勢力が増してきています。
     ちなみに今回はかなりの部分がFIFAに関してですので、FIFAについての詳しい話題は後に譲ります。

     それから、IOC、FIFAに次ぐ国際スポーツ統括団体を挙げるとすれば、それは国際陸上競技連盟(International Association of Athletics Federations 略称IAAF)なのではないでしょうか。IAAFも現在の商業主義、拡大路線(詳しくは後程)に乗って、1983年の世界陸上選手権創設以前には、夏季五輪一大会しかなかった(*1)世界大会を次々と増やしています。

    *1 国別対抗の大会では1977年から「IAAF陸上ワールドカップ」が開催されています。

     90年代に入るまでは厳格なアマチュアリズムを保った国際ラグビー評議会(International Rugby Board 略称IRB)は、国際スポーツ統括団体の中でも異色の存在でしょう。
     国代表の選出基準についていえば、国籍よりも、どの国の協会に属しているかを基準とする独自のそれを持っており、アマチュアでありながら長年IOCの影響を受ける事なく、存在してきました。
     0また、ラグビーはプロ化してからの期間が短いためか(*2)、特に南半球の国々ではほとんどのクラブに一流プロ選手を雇い続けるだけの財力がないため、各国ラグビー協会の下部組織である地域協会が担当地域の一流選手を期間限定で雇い、国際プロリーグのスーパー12(2006年よりスーパー14)を開催していますが、このスポーツ協会のやり方は後程採り上げるサッカー界での協会のやり方に比べて、はるかに健全な物であると私は考えています。理由はのちほど述べます。

    *2 ただし、日本ではなじみの薄い13人制ラグビーは、十九世紀からプロリーグがあります。私が言っているのは日本でもおなじみの15人制ラグビーのことです。

     そして、上で取り上げたいくつかの団体のうち、今や、国際スポーツ統括団体の代表的存在であるIOCとFIFAは、スポーツ界で膨大な利益をあげる団体となっています。
     歴史書のオリュンピアの祭典に感銘を受けた、クーベルタン男爵の崇高な理念の基に1894年に創設され、アマチュアリズムの象徴的な存在であったIOCは、今やスポーツにおける商業主義の象徴であり、集金マシーンといっても過言ではないのが現状でしょう。
     一方で、競技が成立してから割りと早い時期にプロとして成り立っていたサッカーの統括団体であるFIFAは、IOC以上にプロらしい体質をもっているのは当然と言えますが、1970年以前のFIFAは、やはりスポーツが特権階級のホビーであった時代の名残りの見える団体だったと伝えられています。そして、この「FIFAを変貌させた人物達」が、今回のこのシリーズの主人公となります。

     ちなみに世間一般では、国際スポーツ統括団体を集金マシーンへと変貌させた人物として、MLBコミッショナーも勤めたピーター・ユベロスが有名です。そしてユベロスが有名なビジネスマンであったことはつとに知られていますが、ロスアンジェルス五輪を大幅な黒字へと導いたユベロスの「国際スポーツ統括団体が利益を上げる数々のアイディア」は、ユベロスのオリジナルではあっても、ユベロスが一番乗りではなかったのです。
     ユベロスがロス五輪を成功に導いた1984年から遡ること14年前、アメリカ合衆国の隣国メキシコで、国際スポーツ統括団体を集金マシーンへと変貌させる動きが始まりました。そして次回からはいよいよ、この動きについて取り上げていきます。



     特別寄稿:誰にWBCを主催する資格があるのか?〜その3〜


     皆さんこんにちは。ICHILAUです。
     皆さんもすでにご存知の通り、9月16日にNPB選手会はWBCへ参加のGOサインを出しました。いつか、この様な事態になるであろうと覚悟は決めていましたが、思ったよりも早くその時が来たと感じています。これで、めでたく、私の連載の存在意義は消えてしまいました。
     しかしながら、WBCの主催はMLB中心の体制で変わっていませんし、その体制に対して疑問視をする声が消えた訳ではありませんので、私の連載にも僅かならが存在意義が残っていると見なし(強引ですが)あと数回お付き合い下さい。

     今からほぼ一年前、野球界は球団削減問題が大詰めを迎えていましたが、この球団削減問題は、改めてプロ野球チームと企業の癒着を浮き彫りにしました。中でも、最強チーム(であった)ジャイアンツを所有する読売グループによる、野球界の支配はあまりにも有名です。
     しかし、上には上がいます。「カイシャフランチャイズ」と揶揄される、NPBを上回る企業密着のプロリーグがあるのです。それは、メキシコのサッカーリーグです。
     そして、その頂点に立つ巨大メディア企業「テレヴィーザ」は、2つの点で完全に読売を超えています。

     1:読売は、ジャイアンツ1チームを通してNPBに対して絶大な影響力を持ちましたが、テレヴィーザは4チームも傘下に入れています。
     2:読売は、一国のプロリーグが支配の対象でしたが、テレヴィーザの影響が及んだのは世界のサッカー界でした。

     以下の内容は基本的に、私のストリートサッカーの連載や2002年W杯特集でも参考文献とした「南米蹴球紀行」の第七章326〜370ページからの抜粋となりますので、より詳しい情報をお知りになりたい方は「南米蹴球紀行」を読まれるのも良いかと思われます。

     では、話は今後複雑になりますので、主要な部分に入る前に、度々登場する人物及び団体について説明させて頂きます。

    ● ジョアン・アベランジェ

     ベルギー系ブラジル人のビジネスマンであり、ブラジルサッカー協会の要職を務めた後、FIFAの会長を1974年から1998年まで務める。
     現在のFIFAの拡大路線の基礎を造った人物であり、彼の腹心だったゼップ・ブラッターが現在のFIFAの会長であるため、アベランジェの路線は今も継承されていると言える。
     元水球選手としても有名で、彼と不仲なマラドーナは何かに付けてアベランジェが水球選手だった事を皮肉っていた。

    ● テレヴィーザ televisa

     メキシコのメディア企業であり、ラテンアメリカメディア業界の巨人であると同時に、世界のサッカー界においても隠れた巨人。正式名称テレシステマ・メキシカーナ・S・A。1997年時点でグループ全体の株価は15億ドル以上であった。
     メキシコ国内だけでも300以上のテレビ局を傘下に加え、ラテンアメリカ全体に娯楽を提供する。
     国営放送ではないが、1929年以来70年間メキシコで政権にあった制度的革命党(PRI)との密着振りも知られており、その事はテレヴィーザのサッカー界での功罪にも少なからず関係していた。
     1972年まではエミリオ・アスカラーガ・ヴィダウレータが、その後1997年までは息子エミリオ・アスカラーガ・ミルモが率いており、その二人の時代が今回の内容となる。現在は「アメリカ」「ネカサ」「サンルイス」「アトランテ」の4クラブを傘下に加え、メキシコサッカー界を牛耳っているが、サッカー界での巨人振りは本編で。
     またW杯決勝が2度開催された世界屈指のスタジアムとして知られるアステカ・スタジアムもテレヴィーザが所有している。公式サイトもご参照あれ。

    注:参考文献ではtelevisaは「テレヴィーザ」と訳されていましたので以後テレヴィーザと表記しますが、スペイン語に忠実に発音すると「テレビサ」となります。

    ● ギジェルモ・カニェード

     この人こそピーター・ユベロスと並び称すべき人物であり、FIFAの主催の何れかの大会の名称が「ギジェルモ・カニェード杯」に変ったとしても不思議ではないほどの権勢を振るった。
     1958年にリーグを制したメキシコのクラブ「サカテペック」のチェアマンであったが、アスカラーガ(年代からして父の方と思われる)に見出され、テレヴィーザが所有するサッカークラブ「アメリカ」に引き抜かれる。
     以後、メキシコサッカー協会会長、FIFA副会長を歴任。メキシコW杯の組織委員会代表を2度務めた。1996年没。
     彼は生前、常々「エミリオ・アスカラーガのために働いている」と公言しており、テレヴィーザはギジェルモ・カニェードの功績を称え、所有するアステカ・スタジアムにカニェードの名前を冠したほどである(ただしギジェルモの後を追うように他界した、盟友アスカラーガ・ミルモの後継者争いにカニェード家の人間が巻き込まれ、敗れてしまったため、スタジアムの名前は程なく元に戻った)。

     テレヴィーザによるサッカー界への進出は、隣国アメリカ合衆国でロジャー・マリスが本塁打の新記録をつくった1961年に遡ります。
     この年、テレヴィーザは借金を抱えていた飲料メーカーから「アメリカ(*1)」を買収しました。テレヴィーザは、バラエティー番組や、自社で制作してラテンアメリカ各国に配給したドラマと共に、サッカー中継を目玉の一つとして成長して行ったのですが、この時代テレヴィーザは豊富な資金を湯水のように使うと同時に、メディアとしての影響力を最大限駆使して、「アメリカ」を人気チームへと変貌させていったのです。
     それに加えてテレヴィーザのサッカーコメンテイターは「アメリカ」を賞賛する指令を受けてそれを実行し、さらにテレヴィーザは多額の資金を投入するというスパイラルを経て、「アメリカ」は瞬く間に当時最強クラブだった「チヴァス・グアダラハラ」の最大のライバルへと成長していったのです(この2チームは現在もライバル関係が続いています)。

    (*1) このクラブと区別するため、ワシントンDCを首都とする大国を表記する場合は必ず「合衆国」と付け加えることにします。

     メキシコリーグでクラブを所有した事で、メキシコサッカー協会の議席を確保したテレヴィーザは、次なる段階に踏み出します。
     テレヴィーザはメキシコサッカー協会における「アメリカ」の代表として、ギジェルモ・カニェードを送り込みました。そして、「アメリカ」の後ろ盾がテレヴィーザであり、その後ろ盾がPRIであった事を考えれば当然と言えますが、カニェードはメキシコサッカー協会の会長となったのです。
     「物腰の柔らかい、インテリだった」(*2)「腕のいい政治家で、非常に優れた交渉人だった」(*3)と伝えられるカニェードが最初に残した業績は、1970年のW杯をメキシコに招致した事でした。

     (*2)(*3) 共に「南米蹴球紀行」に掲載されていた、メキシコのジャーナリスト、ホゼ・ラモン・フェルナンデス氏のコメント。

     1970年のW杯はラテンアメリカで開催される番となっていましたが、本命視されていたのはアルゼンチンでした。
     しかし、当時カラーテレビ放送がまだ無かったアルゼンチンに対し、メキシコはテレヴィーザの協力によって優れたテレビ放送を実現できる点で優位に立ち、カニェードの粘り強いロビー活動も物を言って、1964年に東京で開催されたFIFAの総会にて、メキシコが衛星放送時代最初のW杯の開催地と決定しました。
     また、カニェードが当時ブラジルサッカー協会の代表だったジョアン・アベランジェと運命的な出会いを果したのもこの頃と伝えられています。

     「アスカラーガのために働いている」カニェードはW杯組織委員会代表に収まり、テレヴィーザはW杯の放送権を180万ドルで買い取りました。そして、W杯におけるテレヴィーザのアプローチと、それに対する当時のFIFAの反応は、その後の「スポーツシーンを大幅に変えていたかも知れない分岐点」と言う事も出来ます。
     テレヴィーザは試合中に広告を流しました。
     試合中の広告は、今では当たり前の事ですが、当時のFIFAの反応は違った様です。
     当時FIFAの事務総長を務めていたヘルムート・カッセルのコメントを「南米蹴球紀行」から引用します。

     「ここのコマーシャリズムは極端だと思う」
     「本質的にアメリカ式であり、メキシコ式だ」
     「試合中に広告をするなって考えもしなかった」
     「ところが、ここ(メキシコ)ではクラブ同士の試合でも、それが当たり前になっている。スポンサーが試合を丸ごと買い取って、広告をインサートするわけだ」

     今のFIFAのあり方を考えれば笑ってしまうコメントですが、これが当時のFIFAの考え方でした。これは、当時のFIFA会長スタンリー・ラウスの信条を色濃く表しているものでもありますが、もし、この考え方が継承されたとしたら、その後のスポーツシーンは大幅に変っていた事でしょう。テレヴィーザはこの大会で、広告以外に、確保していた放送権を各国のテレビ局に売った事で、上々の利益を上げたと伝えられています。
     ペレ率いるブラジルが6戦全勝で制した1970年大会は、後に「最高のW杯だった」との評価を受ける事も多い大成功の大会でした。
     そして、パンアメリカで開催されるW杯の試合が、時差のあるヨーロッパの視聴者の為に炎天下で行なわれる、悪しき伝統が始まったのも1970年大会ですが、その事とW杯組織委員代表の「雇い主」の放送権ビジネスに関係があるのは容易に推測できます。
     商業主義はここからはじまったのです。

     1924年夏季五輪のサッカーでウルグアイが優勝をして以来、サッカーの歴史は、ヨーロッパがラテンアメリカに驚かされる歴史でもありますが(*4)、プレーの面だけではなく、ビジネスの面でもその伝統は守られたと言えるでしょう。
     しかし、ラテンアメリカが本当にヨーロッパを驚かせ、困惑させる時代が訪れるまで、まだ4年の歳月が残されていました。
     歴史の分岐点は1974年に生まれます。それは、この年のFIFA会長選挙だったのでした。

    (*4)以前の記事を参照。



     特別寄稿:誰にWBCを主催する資格があるのか?〜その4〜


     皆さん、こんにちは。ICHILAUです。
     WBCの日本代表監督にホークスの王監督が選出され、イチロー、松井の代表入りも濃厚と伝えられ、いよいよWBCが間近に迫って来た感じですね。

     さて、前回はメキシコW杯におけるテレヴィーザのビジネス面での成功までをお伝えしました。
     今回は、テレヴィーザが世界のサッカー界へと大きな影響を及ぼすようになる段階へと移ります。

     1974年のFIFA会長選挙で現職のイギリス人スタンリー・ラウスに挑んだのは、当時FIFAのブラジル代表委員だったジョアン・アベランジェでした。サー・スタンレー・ラウスがどの様な人物であったかについて「南米サッカーのすべて(DAI-X出版)」から引用します。

    「南米サッカーのすべて(DAI-X出版)」134〜138ページから抜粋

     「ラウスは、FIFAでも同様(*1)の広い先見性をもって職務にあたった。とりわけ、審判たちに共通したルール解釈を浸透させたのはその好例だろう。ラウスはまた、特にアフリカ、極東のサッカー新興諸国と協力して数多くの先駆的な仕事をした。しかし、ラウスは選手としても、審判としても一切報酬を受け取ったことがなかったし、また彼が喜んで訪問し、指導をしたいと考えていた遠く離れた地で、サッカーが商業的に成功するかどうかには関心がなかった。その意味で、彼は真にアマチュアだった。」
     「ラウスの任期が終わり、彼の時代も終わりを告げた。ラウスはあらゆるレベルのサッカーに大きく貢献したにもかかわらず、1970年代までに彼の力は及ばなくなり、彼の古めかしい価値観も場違いなものとなった。抜け目なく商取引をすることについて誰かがラウスに説明しても、おそらく彼はそうした考えをよしとしなかった(すなわち、受け容れなかった)のはもちろん、理解すらしなかっただろう。」

    (*1) ラウスは、審判法や組織的トレーニングに関してイングランドサッカー界に先進的な考え方を持ち込んだ人物として知られています。

     サーの称号を得ていたイギリス人の対抗馬が、裕福な家庭に生まれたものの若くして父を失い、学生時代から家族を養い、数々の事業で成功を収めたブラジル人であった事は、サッカーの歴史を考えれば象徴的な出来事ですが、そのブラジル人が勝利を納めた事が、その後のFIFA、そして国際スポーツ統括団体のあり方を大きく左右しました。商業主義がFIFAの内側に入ったのです。

     アベランジェがこの選挙で勝つことができた要因は、FIFAにおいて大票田でありながら、その時点でサッカー界にほとんど実績を残していなかった第3世界、中でもアフリカを押さえた事でした。アベランジェは、アフリカとアジアのW杯出場枠を増やす事を会長選挙の公約とします。
     この選挙で、アベランジェの勝利の影の立役者となったのは、スポーツ用品大手アディダスのホルスト・ダスラーと伝えられています。
     ダスラーは当初ラウスを支持していたのですが、スポーツマーケティングの分野における自らの野望を実現するのには、アベランジェを支持した方が有利である事に気が付いたと言えるでしょう。一説によると、アベランジェが、アフリカを中心とした第3世界の国々の支持を取り付けるために掛った資金を用立てたのは、ダスラーだったそうです。

     カニェードもまた当初、ラウスを支持していました。
     しかし、既に密接な関係があったアベランジェから説得を受けて、カニェードはアベランジェ支持に転じます。ここでカニェードが間違った判断をしていたら、カニェードとテレヴィーザの業績もここまでだったでしょう。また、FIFAのその後の歩みも大きく変っていたと思われます。

     FIFAの会長となったアベランジェの下で、カニェードはFIFA副会長となりました。ついに、テレヴィーザの影響は世界のサッカー界にまで及ぶ様になったのです。
     FIFAは1977年に、新たな世界大会「FIFAワールドユース選手権」を開催し、コカ・コーラとスポンサー契約を結び、その大会をコカ・コーラに売りました。大会の正式名称が「コカ・コーラ・ワールドユース選手権」であったのですから「売りました」と言うのも大げさな表現ではないでしょう。そのわずか7年前には、テレヴィーサの商業主義に困惑をしていた団体とは思えないほどの変貌振りですが、これがFIFAの拡大路線のスタート地点となります。
     FIFAとコカ・コーラの契約の実現にはダスラーが果した役割りが非常に大きく、少なくとも日本ではアベランジェ率いるFIFAの商業主義路線を支えた人物としてダスラーの名前があがる事が多いのですが、アベランジェとカニェード、そしてテレヴィーサの密着ぶりを見ると、FIFAの商業主義路線にテレヴィーザが与えた影響が、いかに大きかったかがわかると思います。
     アベランジェは後に、テレヴィーザと提携をしてブラジルでのメディア事業を設立していますし、アベランジェが1982年のW杯開催地スペインからブラジルに帰る時に乗った飛行機は、テレヴィーザのボス、アスカラーガのプライベート機だったと伝えられています。
     そして、なんと言ってもアベランジェのカニェードならびにテレヴィーサへの「恩返し」は、メキシコが1986年W杯の開催地になったことです。

     1986年のW杯は、当初コロンビアで開催される予定でした。しかし、コロンビアは麻薬絡みの社会的な腐敗から国内情勢が悪化し、1983年にW杯開催を辞退します。
     その代行開催地として手を上げたのは、メキシコとブラジルとアメリカ合衆国でした。中でもアメリカ合衆国は立候補に際して、ペレと、ニクソン政権で要職にあった国際交渉人ヘンリー・キッシンジャーを前面に出してきており、強力なキャンペーン活動を展開してきたのです。一方FIFAにしても、国自体が裕福で、しかもサッカーの進出が十分ではなかったアメリカ合衆国での開催は魅力のある話だったのですが、このサッカー後進国・アメリカ合衆国の力をもってしても、権力としっかりと結びついたメキシコ相手では、分が悪すぎました。結局アメリカ合衆国は、門前払い同然で退けられてしまったのです。そして、アベランジェに見放されたブラジルも所詮メキシコの敵ではなく、1983年5月にアッサリとメキシコが史上初めてW杯を2度開催する国となり、決勝戦は、アメリカ合衆国ならぬクラブ「アメリカ」の本拠地(アステカ・スタジアム)で開催されることが決定しました。
     一方この流れを受けて、W杯組織委員会代表には、既にメキシコサッカー協会から離れていたカニェードが開催国の協会会長が兼任する慣例を覆して、返り咲いています。

     ところが好事魔多しというべきか、想定していなかった事態が発生します。それはメキシコにおける大地震です。
     W杯開催まで1年を切った1985年9月19日に起きたこの大地震はメキシコシティに甚大な被害をもたらしたため、大会の開催が危ぶまれる状況となってしまったのです。
     しかしながらここから、メキシコは驚異的な復興を果します。ただしテレビの中で。

     是が非でもW杯を開催させたかったテレヴィーザは、極力悲惨な現状は報道せず、立ち直りつつある人々を重点的に伝えました。PRIもそれに同調して、政府としてメキシコは大丈夫であると言うメッセージを公に発したのです。
     そして、翌年にはW杯がつつが無く開催されたのでした。

     この大会は”マラドーナの大会”として伝説になりました。
     決勝戦は16年前に続いてまたもや炎天下で行なわれ、アルゼンチンが優勝し、マラドーナは世界のスーパースターとなったのです。
     このようにメキシコW杯は、サッカー史上の二人の巨人、ペレとマラドーナのキャリアのハイライトとして語られる大会となりました。しかし、この2つの大会の影でその二人のために舞台をお膳立てした、スポーツビジネス史上の巨人達あまり知られていないようです。

     さて、テレヴィーザがこの連載で主体的に登場するのはここまでですが、ここでテレヴィーザのその後について簡単に触れておきます。
     テレヴィーザは80年代に2つ目のクラブ「ネカサ」を傘下に加え、メキシコサッカー界での支配体制をさらに強めて行きましたが、その後一時的に失脚します。
     1988年に端を発したメキシコユース代表選手の経歴詐称事件が、サッカー協会の中心的存在だったテレヴィーザの汚点となり、このタイミングで一気に攻勢にでた反対勢力に屈したテレヴィーザは、一時的にはただの2チームの親会社に成り下がりました。しかし、そこから驚異的な巻き返しを見せるのですが、その辺りは書くと長くなりますので、興味のある方は「南米蹴球紀行」をお読みになることをお勧めします。
     因みに、我々日本人も割合い最近、テレヴィーサのメキシコサッカー界における影響力を目の当たりにしているはずです。
     6月にドイツで開催されたコンフェデレーションズカップで日本代表は健闘を見せましたが、唯一負けた相手はメキシコでした。そして、メキシコ代表が、選手の代表選考をめぐってクラブと争いになっていた事も、記憶されている方は多いと思います。
     大抵の場合、コンフェデ杯はクラブの公式戦よりも優先度が低く、現実にコンフェデ杯を辞退してブラッター会長を苛立たせた選手の例は色々とあるので、南米クラブ選手権であるコパ・リベルタドーレス(メキシコのクラブも毎回招待されます)へ出場するはずだった選手が強制的に代表に召集され、逆らうのなら出場停止となる、と脅された事は不可解でした。しかし、この連載を準備する過程で謎が解けたと思います。
     その代表に選手を取られたクラブは「チヴァス・グアダラハラ」でした。前回書いたとおり、テレヴィーザ系のエース「アメリカ」の最大のライバルです。つまり、「チヴァス・グアダラハラ」は反テレヴィーザのトップと言う事になり、私は「なるほど、これなら、メキシコサッカー協会が「チヴァス・グアダラハラ」を擁護しなかったのも当然だな」と勝手に納得しました。

     さて、テレヴィーザとカニェードの活躍についてはここまでで終わりですが、一方でFIFAの勢いは止まる所を知りません。そこでFIFAの歩みについては、次回以降にお届けします。

    【参考web】

    アベランジェ会長の24年
    フットボールの真実(by 大住良之) 第143回



     特別寄稿:誰にWBCを主催する資格があるのか?〜その5〜


     こんにちは。ICHILAUです。
     WBCアジア地区予選の前哨戦ともいえるアジアシリーズは日本代表のロッテが優勝し、韓国代表のサムソンが二位と言う結果となりましたね。ロッテ同様、WBCの日本代表にはガンバって欲しいと思います。

     さて、今回はいきなりクイズです。あなたはこの質問に対してはどのような答を出されますか?

     Q 投票で勝つにはどうすれば良いか?

     なんだか選挙対策のマニュアルにあるような質問ですが、いろいろと綺麗ごとを並べていても、ホンネは結局ここに行きつくのではないでしょうか。

     A 投票権のある人に便宜を図る。

     なんだかどこかの党の政治家が見えないところでベロ出しながら得意げな顔をして言いそうな答ですが、FIFA会長としてアベランジェが自分の権力を守る為に忠実に実行した事は、正にこれでした。アベランジェは公約通りアフリカとアジアの便宜を図るため、FIFAの国際大会の拡大を進めて行きます。また、ホルスト・ダスラー率いるマーケティグ会社(最初はウェスト・ナリー、後にISL)と協力して、利益拡大をも進めて行ったのです。

     1978年、アベランジェは実質的にFIFA会長として、はじめてW杯を迎えます。アネランジェの会長就任は1974年・ドイツW杯直前のことですから、彼が実際に大会の運営にイチから携わったのは、これが最初でした。
     しかしこのときの会場は、軍事独裁政権下という特異な環境にあったアルゼンチンでした。そこでこのときはアベランジェやダスラーがその商才を発揮するには至りませんでした。この2人がビジネス面で活躍するのは、その4年後ということになったのです。

     まずアベランジェはアフリカ、アジアの出場枠を確保するため、また商売の機会を増やすため、1982年にスペインで行われる事となったW杯の出場国を、それまでの16カ国から24カ国に増やすべく画策を始めます。しかし、これにはヨーロッパ勢が反発しました。
     ヨーロッパ勢にとっては、ブラジル人の一存でW杯の姿が大きく変わるのが気分の良い事ではなかったと同時に、サッカー後進国のW杯に相応しくないレベルのチームが大会に参加する事で、大会の質が下がってしまう事を懸念して、W杯の拡大に難色を示したのです(欧州選手権は長年少数精鋭で開催されて来ました)。
     そこでアベランジェはヨーロッパ勢を説得する為に、開催国スペインスポーツ界の重鎮の協力を取り付けたと言われています。ファシスト政権下で親フランコのカタルーニャ人であったファン・アントニオ・サマランチは、スペインローラホッケー協会会長、スペインオリンピック協会会長を歴任した後にIOCの会長選への立候補したのですが、そのサマランチのために第3世界の国々支持を取り付けたのがアベランジェで、その見返りとして、サマランチはスペイン大会組織委員会に対して、W杯の参加国増加の圧力をかけたのです。
     そして、ウェスト・ナリーがマーケティグを担当したスペインW杯は、商業的に大成功を収めました。FIFAは100億円を超える収入を得たのです。
     これはロス五輪の2年前の事ですが、テレヴィーザが12年前にした事にようやく追いついたと言えます。

     その後、ホルスト・ダスラーは1987年に亡くなり、ウェスト・ナリーの後を受け継いだISLもアディダスとの関係から離れ、名実ともにFIFAの傘下に入る事となりました。
     また、1988年にはテレヴィーザを一時的な失脚へと追い込んだ経歴詐称事件が表沙汰となったため、テレヴィーザのサッカー界での地位も弱まります。
     こうやって、FIFAの商業主義路線における重要なキーパーソンが表舞台から去っていったわけですが、主催する国際大会で儲けを出すノウハウを掴んだFIFAは、止まる所を知りません。金儲けのため、そしてアベランジェの権力維持ため、FIFAの拡大路線はさらに加速していき、アベランジェへと投票をした国々のチャンスは広がっていきました。

     1977年にワールドユース選手権が誕生するまで、FIFAの世界レベルの大会は、プロによるW杯と、アマチュアによる夏季五輪の2大会だけでした。
     しかし、1985年にU-16世界選手権(現U-17世界選手権)が登場して以降、次々とFIFAの管轄する世界大会が増えていきます。

     FIFAがまず目をつけたのは、室内サッカーでした。
     世界各地でまちまちのルールで行なわれていた室内の小規模サッカーの中から1つを選び出し、これを統括する事としたわけですが、これら室内サッカーの数多の候補からFIFAが選んだのは、アベランジェの故国ブラジルで盛んなフットサルでした。
     そして1989年には、フットサルの世界大会である「FIFAフットサル世界選手権」がオランダで開催されます。

     続くFIFAの次のターゲットは、女子サッカーでした。
     「FIFA女子ワールドカップ」が始まったのは1991年ですが、FIFAが女子サッカーで最高のステイタスとなる大会として目をつけたのは、夏季五輪です。
     1996年のアトランタ五輪で女子サッカーが採用された見返りとして、FIFAはすでにU-23で行なわれる事が決まっていた男子サッカーに、主力選手を取られるヨーロッパのクラブからすれば迷惑以外の何物でもないオーバーエイジ枠(3人)を取り入れた、と言われています。

     更にFIFAは、「自身が単独で主催する大会では参加チームは胸に広告を入れてはいけない」と言う禁を破り(一応主催者に名を連ねていたトヨタカップにて胸広告は認められていましたが)、99%以上の割り合いで胸広告付きのユニフォームをつけているクラブサッカーの世界大会、「FIFAクラブ世界選手権」を2000年に開催しました。
     これは、EU圏内の市民権を持った選手を外国人枠から外す「ボスマン裁決」の影響で世界中のトップ選手がヨーロッパのクラブに結集した結果、その頂点を決めるチャンピオンズリーグが試合の質においてW杯に匹敵する評価を得て興行面でも盛り上がりをみせたことでその影響力を伸ばしてきたUEFAの台頭をおさえるべく、FIFA自身によるクラブ世界選手権を開催したわけです。

     しかし、ヨーロッパのリーグ戦の真っ只中である1月にブラジルで開催されたため、当然ながらヨーロッパ側の評判は極めて悪く、マンチェスター・ユナイテッドなどはイングランドのW杯招致の一環としてのサッカー協会からの強い要望があってやむを得ず参加したものの、散々な結果となりました。
     また、同じくヨーロッパから参加したレアル・マドリードは、当時主力選手だったニコル・アネルカが故障してしまうなど、リーグ戦にも響く損害を受けた結果、レアルは、リーグの優勝は逃したものの、1月には中断する事が通例となっているチャンピオンズリーグは制覇するいう、クラブ世界選手権の弊害を浮き彫りとするシーズンを送る事となったのでした。

     ちなみに2001年7、8月に予定されていた第2回FIFAクラブ世界選手権は、この大会のマーケティングも担当していたISLの破綻を理由に2年先に延期されたのですが、その年に予定されていたそれ以外の3つの世界大会はISLの破綻に関係なく開催されていますので、延期理由となったISLの破綻は、多方面からの反対により大会がもはや開催不可能な情勢になった事を表に出さない口実に過ぎない、ともいわれています。というのも、この延期されたはずの第二回大会は雲散霧消してしまったからです。
     このように、ある種実態を無視して面子にこだわったともいえるFIFAのやり方は、結局失敗だったのではないでしょうか。

     しかし挫けないFIFAは、ヨーロッパと南米の王者が対戦して長年クラブ世界一決定戦として行なわれていたトヨタカップを拡大して、ヨーロッパと南米以外の大陸王者も加えた「FIFAクラブワールドチャンピオンシップ・トヨタカップ ジャパン2005」を今年開催します。
     開催時期は12月であり、やはりヨーロッパのリーグ戦の真っ只中であるため、ヨーロッパのクラブにしてみれば罰ゲームのような大会と言わざるを得ません。事実、ヨーロッパの名門クラブで構成されるG14は、一度はクラブ世界選手権を完全に拒否する声明をだし、後に譲歩したものの、FIFAに対してヨーロッパ代表には参加の義務がない事を認めさせています。
     今年のヨーロッパ代表であるリバプールは国内リーグで低迷したために、特例でチャンピオンズリーグへの出場権を得たという「弱み」があったため、来日する運びとなりましたが、今後、出場を拒否したり、露骨に控えメンバーを送り込むヨーロッパ代表が現われても不思議では無いでしょう。

     また、遡って1999年には、サウジアラビアの王族が各大陸選手権王者を招待して行なわれていたキング・ファハド・カップをFIFAの管轄に加え、「FIFAコンフェデレーションズカップ」として開催していますが、この大会もヨーロッパのクラブから白い目で見られている大会です。
     このコンフェデレーションズカップ(以後コンフェデ杯)は日本代表が度々出場しているため、日本でも馴染み深い大会ですが、FIFAの拡大路線に疑問を呈するとんでもない事件が起きた大会でもあります(これについては次回取上げます)。

     これらの大会の中で、11人制の男子サッカーのW杯以外の大会であるコンフェデ杯、ワールドユース選手権、U-17世界選手権、夏季五輪、クラブ世界選手権の何れもが、W杯と比較して、参加国に占める欧州枠の比率が少なく、アフリカ等後進地域の比率が高くなっている事は、アベランジェが支持基盤に対する恩を忘れていなかった事を表していると同時に、現FIFA会長のゼップ・ブラッターの時代となってもこの方針が受け継がれている事を表していると言えるでしょう。
     また同じ後進地域であっても、加盟協会の少ないオセアニアが常に軽んじられている事も注目に値します。
     オセアニアにはW杯の独立した出場枠は1つも無く、W杯に出場するには他の大陸の国とプレーオフを行わなければならないので、業を煮やしたオーストラリアが所属する大陸連盟をアジアに代えた事は記憶に新しい事ですが(そしてつい先日オーストラリアが最後の大陸間プレーオフを見事突破したわけですが)、この事はFIFAが後進地域を支援する理由が、投票による見返りを期待してである事を浮き彫りにしていると言えるでしょう。

     そして、FIFAの拡大路線の最新のメンバーは、今年から始まった「FIFAビーチサッカーワールドカップ」です。
     そもそも、浜辺の遊びに過ぎないビーチサッカーに統一されたルールを作り、1995年からブラジルで勝手に「世界選手権」が行なわれていたのですが、FIFAがその様なローカルなスポーツを公認し、大真面目に世界大会として統括したとなると、もはや滑稽とも言えます。
     しかし、この方法、つまり拡大路線こそ、国際スポーツ統括団体が利益を増やす最も効果的な方法なのでしょう。以前に少し書いた通り、陸上競技の世界でも1983年の世界陸上選手権創設以降は、IAAFグランプリファイナル(1985年)、世界室内陸上選手権(1987年)、IAAF世界ユース選手権(1999年)など、世界大会が次々と増え、当初は4年に一度開催されていた世界陸上選手権も1991年からは2年に1度となっています。そして、ロス五輪の成功で勢い付いたIOCが五輪を巨大化させていったのも同じ時代です。

     ここまで、国際スポーツ統括団体による商業主義の歴史について、長々と書かせて頂きました。もしこの国際スポーツ統括団体の方法になんら問題点がなければ、第一回目で取上げた古田選手のコメントに関して、私が問題視する事も無かったと思います。
     しかし、国際スポーツ統括団体の方法には、致命的とも言える問題点があります。それについては次回お届けします。



     特別寄稿:誰にWBCを主催する資格があるのか?〜その6〜


     みなさんこんにちは。ICHILAUです。
     現在開催中のトヨタカップにリバプールが参加しないのではないか(つまり私が前回書いた内容が結果的に間違ってしまうのではないか)と、1ヶ月間冷や冷やしていましたが、ご存知の通りつつが無く来日してくれて、ホッとしています。

     ただ、この件についてはこれでホッとしている一方、WBCに関していえば、松井選手に冷や冷やさせられているのは私だけではないでしょう。
     松井選手は現時点(2005年12月16日現在)でWBC日本代表入りが決まっていません。
     私が知りえる範囲で松井選手がWBCへの出場に二の足を踏んでいるのは、この連載が始まった時点での、選手会の主張と重複する部分が多いようです。
     という訳で、ここでは選手会の主張をベースとして、話を進めたいと思います。

     このシリーズの連載の第一回目で紹介した”NPB選手会がWBCに難色を示した主な理由”は、以下の2つでした。

    1:開催時期が3月であり、4月の開幕に照準を合わせているはずの選手のコンディションが十分ではない恐れがある点。
    2:主催がアメリカのプロリーグに過ぎないMLBと労働組合であるMLB選手会であり、他のスポーツの国際大会の様な国際組織(IOC、FIFA等)ではなく、商業的な要素が強い点。

     しかし、この2つの理由は大きな矛盾をはらんでいます。
     それは、国際スポーツ統括団体の代表格FIFAこそが、金儲けのために無謀な日程を組んで選手のコンディションを悪化させる常習犯であるからです。
     これについての考察が、このシリーズ最終回である今回の本題です。

     ここで、古田会長(当時)のコメントを取上げます。

     「運営はMLBの利益優先で、時期はメジャーにしても調整しにくい。ファンのためにも、しっかりした代表メンバーで真剣勝負したい」

     仰っている事はごもっともですが、この点に関しての古田会長の心配は無用です。
     なぜなら、もしもWBCを3月に開催することでコンディション等の問題が発生し、MLB公式戦に悪い影響を及ぼす様な事態となれば、必ず主催者は改善に努めるからです。というのも、MLB公式戦に支障を来たす様な日程を組めば、モロにその悪影響を受けてしまうのはWBCの(実質的な)主催者であるMLB、及び選手会だからです。
     しかしながらこれと比較すると、サッカーの数々の国際大会を主催している国際組織のFIFAは選手に給料を払っているわけではないので、選手のコンディションが悪化する事に対して、ほとんどリスクを負っていません。確かに大会の質が低くなれば批判を受けることになるでしょうが、興行収入の大部分を占める放送権料と広告料を複数大会パッケージで売っているので、絶大な人気を誇るW杯をこのパッケージに入れてしまえば、売上額は最初から決まっていることになります。
     FIFAにしてみれば、大会を開催さえ出来ればOKであり、自身が主催する大会に出場する選手のコンディションが悪くてもその後のクラブでのシーズンに影響が出ても痛くも痒くもなく、極端な話、死人が出てもそれを宣伝の材料に使えるくらいの影響しかありません。
     そしてこれは冗談でもなんでもなく、現実に起きてしまったのです。これが前回すこし触れた、”フォエ選手死亡事件”です。

     日本代表チームも参加した2003年6月のコンフェデ杯フランス大会の準決勝、カメルーンvsコロンビア戦で、それは起きました。
     後半20分過ぎに、センターサークルの中でカメルーン代表のマルク・ビビアン・フォエ選手が突然倒れ、カメルーンとコロンビアの双方のチームドクターから蘇生措置を受けたものの、倒れてから45分後に医務室で死亡が確認されたのです。
     死因は、心臓に問題があったためではないかと言われていますが、薬物やステロイドによるものという指摘などがなされ、当時はかなり話題になりました。

     この事態に対するFIFAの対応は次のとおりでした。

    ・以後行われる三位決定戦と決勝戦では、選手全員が喪章をつけ、試合前に黙祷を行なう。
    ・カメルーンが出場する決勝戦では、カメルーンと対戦相手のフランスの双方のキャプテンが、フォエ選手の巨大な遺影を持って入場する。
    ・試合後(フランスが勝利して優勝)、その遺影にメダルを授与して、両チームの選手がフォエ選手を悼む。
    ・大会名をマルク・ビビアン・フォエ杯に変更すると提案する(当たり前ながら実現しませんでした)。
    ・遺族に日本円で約8300万円の見舞金を出す。

     このような形だけの偽善的な対応には、非常に怒りを感じます。それに、この程度の金額は、FIFAに取っては痛くも痒くもない額であるに違いありません。

     この問題を考えるための比較例として、痛ましい事件でしたからあまり気は進みませんが、MLBのダリル・カイル投手の例を挙げてみます。

     フォエ選手が亡くなった1年と4日前、MLBセントルイス・カーディナルスのダリル・カイル投手が、滞在先のホテルの部屋で死んでいるのが発見されました。
     死因はやはり心臓の問題でした。
     ところがここで、MLBとFIFAとでは、対応に大きな違いが出ます。
     カーディナルスは、遺族にカイル投手と結んでいた契約通りの金額を支払ったのです。
     総額で約21億円です。
     さらに、年金等でもカイル投手の遺族は手厚い保障を受けています。
     単純に金額で比較しても、カーディナルスとFIFAの態度の違いは明白ですが、ここで問題としたいのは金額ではありません。
     この痛ましい出来事の背景こそが、問題なのです。

     カーディナルスには、カイル投手の死に関して、落ち度らしい落ち度はありませんでした。
     カイル投手は父親も同じ病気で亡くなっており、遺伝的に心臓の動脈に問題があったそうですが、実際に致命的な結果となってしまうまで、本人もその事には気づいていなかったようです。ただ、この件については、*MLB側に落ち度があったわけではありません。

    *編集部注:ダリル・カイル投手の件についてはステロイドが死亡原因であったとする説もあり、ステロイド自体に対する規制をやっていなかったMLB機構側、ならびに選手会側の責任を問う声もある。

     一方、フォエ選手の場合は違います。FIFAには落ち度があったのです。

     まず、コンフェデ杯の存在自体が落ち度と言う事も出来ます。
     コンフェデ杯の日程的な位置付けは、NPBに例えれば日米野球に当たる時期で、激しいシーズンが終わった後にコンフェデ杯を迎えなければならないヨーロッパのサッカー界からは、参加資格すらも曖昧な大会を開催している事に大きな疑問が呈されていました。
     現実に、1999年大会ではフランスがコンフェデ杯への出場を辞退していますが、2003年大会ではまずドイツ、続いてスペイン、イタリアがコンフェデ杯への出場を辞退しています。

     また、無理やりカレンダーに押し込まれたコンフェデ杯は、中1日のペースで日程が組まれていました。
     サッカーの場合、かつてJリーグがそう言われたことがあるように、週2試合ずつでもそれが続けばきつい日程といわれるのですから、2日に1試合のペースで試合を組む事がどれほど無茶であるのかは、容易にわかると思います。
     コンフェデ杯は正に「無謀な日程」で行なわれた大会だったのです。
     このコンフェデ杯が行われた次の2005年では、試合の日程をチェックしてみると中2日が基本となっていましたが、これはフォエ選手の犠牲が大きく影響しているものと思われます。

     また、フォエ選手が亡くなった試合は、準決勝のもう1試合とテレビ放送を重ならせない為に、炎天下で行われました。
     試合前から体調を崩し、下痢の症状があったというフォエ選手には、この事は致命的だったようです。
     しかし残念ながらこの点に関しては改善が見られず、記憶に新しい2005年のコンフェデ杯でも、夜の日程が空いていたにも関わらず、準決勝の2試合とも日中に行なわれていました。

     したがってこれらのことを総括すると、FIFAは選手の生命を危険に曝していたわけではないないにせよ、懸念され続けていた事を放置して、その結果として取り返しのつかない犠牲を生んでしまったことになります。

     では、なぜFIFAは、懸念されていた問題を放置したのでしょうか?

     それは、懸念されていた問題に関してFIFAにはリスクが無かったから、と推測できます。
     選手が故障したりコンディションを悪くしてしまう事態となった時、不利益を被るのは選手本人であり、また選手に給料を払っているクラブであり(情緒的な言い方をすれば、クラブをサポートするファンも不利益を被っているでしょう)、FIFAではないのです。
     もちろんクラブにとって、所属選手が代表に召集される事にメリットがないかといえば、決してそうではありません。
     代表チームの興行で自国の協会の出した利益はクラブに色々と還元されていますし、代表チームでプレーする事は所属選手のステイタスとなります。
     また国代表チームにて活躍する事で、その選手の市場価値が高まり、クラブはより高く選手を売る事が可能となります。
     しかしながらFIFAの興行は、FIFA自身がリスクを負わないことに加えて、その興行による直接のメリットが無いクラブがそのリターンに見合わないほどの大きなリスクを背負っているのは、れっきとした事実なのです。
     このことが、利益を上げるというメリットだけしか見ていないFIFAの歯止めが効かなくなっている原因である、と私は考えています。

     ですが、プロスポーツの興行主が出場する選手に対してこの様な態度を取っているのは、極めて無責任なのではないでしょうか。
     同じスポーツ統括団体の興行であっても、協会が選手と期間限定ながらプロ契約を結びプロリーグを主催しているラグビーのスーパー12(2006年からスーパー14)は、リスクを作り出す団体自身がリスクを負っている点でフェアであるとはいえるでしょうが、私にいわせると、これはプロスポーツでは当たり前の事です。あまりにもこの矛盾に対する関心が、スポーツ界では低いと私は感じています。

     国際スポーツ統括団体によるスポーツ興行を象徴している言葉、それは「無責任」です。
     フォエ選手とその遺族に対するFIFAの態度は正にこれを表していると思いますが、サッカー以外でも、テレビ中継の都合で、一部選手、場合によっては全ての選手に不利となったり、あるいはそのスポーツの尊厳を傷つけてしまうようなルール変更(前者の代表例は陸上短距離のフライング、後者の代表例は女子バレーの服装規定)をしてしまうのも国際スポーツ統括団体ですし、「『推定無罪』と言う人権の存在する国では原則となっている事」から逸脱していると言わざるを得ないドーピング検査とその罰則の体制も、選手の尊厳を無視している例の一つと言えるかも知れません。
     これらの事が、「WBCをIBAFの主催とする事」に対する私の懸念であり、1つのプロリーグに過ぎず、自身の利益だけを代表しているMLBに対して”大きな期待”を抱いてしまう理由でもあります。スーパー12が「協会によるプロリーグ戦」であるのなら、WBCはそれとは逆の「リーグによる代表戦」です。
     WBCを主催するMLBは、WBCに対して大きなリスクを背負っています。つまりリスクを作り出すMLBは責任を取る覚悟ができた上で、WBCを開催するわけです。
     この体制は、類似する国代表による大会ではほとんど見られない事であるのは既に説明させて頂きました。
     これは決して、MLBの上層にいる人達がFIFAの上層にいる人達と比べて道徳や倫理で優れているため、と言うわけではないでしょうが、MLBは世界最強の労働組合と言われるMLB選手会からの厳しい監視の目にさらされているため、選手の尊厳を傷つける様な事を実行するのは不可能に近いのです。MLB選手会もまた自身の利益を追求する団体であり、過去にはファンを裏切ってストを強行した事もありますが、IBAFに主導権を握らせるリスクを考えたら、野球選手の利益が守られている現在の体制の方がはるかに健全であるのではないでしょうか。

     最後に、起こり得ない事に関して自分の主観に基づいて推測をするのは私の好むやり方ではありませんが、MLBを含めた野球界に、今まで説明させていただいた「国際スポーツ統括団体の力学」が働いた場合について、推測して見ましょう。

     まず、アベランジェがアフリカを押さえた様に野球界を支配したいと思う人間が抑えなければならない地域は、ヨーロッパです。
     意外にもIBAFの最大勢力はヨーロッパで、2003年現在の加盟国数は38カ国です。これは、最強地域である米州(サッカーと違って北中南米全てで一大陸となります)の26カ国を上回っています。
     また、ご存知の通りIBAFのノタリ会長はイタリア人であり、野球の国際スポーツ統括団体におけるヨーロッパの影響力の大きさがわかります。
     したがってIBAFを通して野球界を支配し、かつ儲けたければ、ヨーロッパに便宜を図り、MLB選手の出場する大会を増やせば良いのです。
     当然、MLBのシーズン中に行なわれる夏季五輪へもMLB選手は派遣されますし、W杯(WBCでもIBAF・W杯でもどちらでも良いですが)の欧州枠は増やされ、相対的に厳しくなった最激戦区米州枠を賭けた争いは、現実に予定されているWBCに匹敵するほどハイレベルなものとなり、主催者の懐を潤すことになるでしょう。
     すると必然的にMLBの選手達は真剣勝負の試合が増え、日程が過密となり、コンディションに支障が出たり故障してしまったりするでしょうし、4年に1度は五輪のため、稼ぎ時にシーズンを中断する事となります。
     これらの事態が生み出す結果は当然ながら、熱心なファンに取っても大きな失望をもたらす可能性を含んでいます。
     そして、日本代表他有力国の代表選手が所属するNPBにも同じ様な問題が降りかかるはずです。

     ここまで見てきたとおり、MLBがIBAFの傘下に入ったりIBAFの要望通りにMLB所属選手を国際大会に派遣する事には、チームにも選手にもファンにも非常に大きなリスクが伴っており、しかも、世界大会をIBAF主催とするリスクに見合うだけの見返りが期待できなのですから、MLBがこの様な無責任な策をとる事はありえないと私は考えていますし、リスクが主催者にも降りかかるWBCの現状を崩して何らリスクを負っていない団体に興行をまかせるメリットはほとんどないのですから、ありえない選択肢だろうとも考えています。
     もちろん、現状ではWBCによってNPBだけが悪影響を被る事態となった場合、現状で改善が見られるか不明である、と言う問題点は残っています。
     本来であれば、MLBと同じ様にリスクを負っているNPBも、WBCにおける自身の利益を守る体制を取るのが理想的とは思いますが、WBCの主催者側だけではなく、日本球界全体を見回しても、現在のNPBの利益を守る立場にいる人間が誰もいないという致命的な問題は、当然ながらMLBの落ち度ではなく、昨年の球団削減問題におけるオーナー側の優柔不断ぶりを見ても、WBC開催の重要事項の決定に際してNPBに一切関わらせなかったMLBの判断は賢明だった、と言わざるを得ません。
     その様な状況で、球団削減問題に続いてNPBそして日本球界の利益の為に尽力した古田前会長には頭の下がる思いですし、結果として日本代表のWBCへの出場が実現したのは喜ばしい事だと思いますが、野球ファンの悲願でもあり、MLBに移籍した選手たちが日本野球界に貢献できる大きな機会でもあるWBCに関して、的外れな常識から、「日本球界のMLBへの過小評価」、またその背景にあると思われる「国際スポーツ統括団体への過大評価」が続く事を私は危惧しており、それが未来において有力選手の辞退の理由となるのでしたら、非常に残念です。

     少々暗い終わりかたとなってしまいましたが、最後に読者の皆様と同様、WBCでの日本代表の健闘を期待している事を付け加えて結びとします。
     短い間でしたが、お付き合い頂きありがとうございました。
     またお目にかかれる日が来るかは今の所はわかりませんが、ご縁がありましたらまたお会いしましょう。
     それでは失礼致します。

    【参考文献】

    ・南米蹴球紀行 英国・ガーディアン紙記者が見た中南米フットボールの光と影
     クリス・テイラー/著 東本貢司/訳 勁文社
    ・南米サッカーのすべて
     クリストファー・ヒルトン/著 イアン・コール/著 野間けい子/訳 DAI-X出版


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過去の連載

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