ICHILAUのスポーツ博物学 by ICHILAU

    第1回 新ストライクゾーン(前編)

    第2回 新ストライクゾーン(後編)

    第3回 野球版リアルワールドカップの可能性

    第4回 無捕殺三重殺

    第5回 NPBにおける受難の時代 〜その1〜



     第1回 新ストライクゾーン(前編)


     はじめまして。私はICHILAUと申します。
     私のHN(ハンドルネーム)・“ICHILAU”の前半ICHIは、あのシアトルの一番打者から拝借しましたが、後半のLAUは偉大なバッティングコーチ、故チャーリー・ロウ(LAU)から拝借しました。
     私に、イチローとロウを繋ぐ発想を与えてくれた両者の共通点は、今日のテーマと大いに関係が有ります。
     そこで、記念すべき第1回のテーマに、”新ストライクゾーン”を選びました。

     野球ファンの皆さんは、今年から日本プロ野球でストライクゾーンが新しくなる事をご存知でしょうし、多くの方は米大リーグ(以下MLB)で昨年似たような試みがされたのを、ご存知のはずです。
     共にストライクゾーンの上限が上がっています。
     また共に、実は“新”ストライクゾーンでは無く、元々のストライクゾーンである、という説明がなされています。

    > かつてストライクゾーンは、ルールブックに書いてある通り、膝の高さから肩の高さの間でした。
     しかし近年、ストライクゾーンの上限はベルトの高さになっていました。
     何故でしょうか?

     イチローとロウを結ぶキーワードは、”外角低め”です。
     他にも、流し打ちが得意で選球眼が良いものの、積極的で四球も三振も少ない、といった共通点もあるのですが、私の目を特に引いたのは、まずはこのことでした。
     そしてイチローの外角低めに対するその適性を見たとき、私はロウの門下生たちのことを思い出しました。
     代表的な選手はこの面々です。

    ジョージ・ブレット
    ハル・マクレー

     しかし面白い事に、ロウの弟子とイチローには大きな相違点が有ります。
     具体的にいうと、イチロー選手の場合は、ボールとコンタクトする瞬間、右半身が一本の線のようになって壁が作られ、前足となる右足に体重を乗せた状態でバットの軌道を自在にボールにあわせていくのですが、これに対して、前かがみになり、ストライクゾーンに顔が入る姿勢で後ろ足に体重を掛けて球を待つ、それがロウの打法です。
     球が来たら前足を勇敢に踏み込んで、前傾姿勢のままスイングをします。

     また、上記の直弟子の他に、私の目から見て、直接指導されなくても、ロウから何らかの形で少なからず影響を受けたと思われる選手や同様の考え方で打ったと思われる選手には、こういった面々がいます。

    ピート・ローズ
    ロッド・カルー
    ウェイド・ボックス
    トニー・グウィン
    リッキー・ヘンダーソン
    ロベルト・アロマー

     そして、前傾姿勢によって内角高めを身体で塞ぎ、外角低めを苦もなく打つというこのフォームは、それまでの野球を大きく変え、ストライクゾーンを低く狭くした、と私は見ています。
     つまり、彼らの大胆な構えが、ストライクゾーンを下に移動させたということです。

     そこで、かつて飛びやすいボールに着目して本塁打を量産し、野球にパワーヒッティングを持ち込み、野球を変えたベーブ・ルースが功打の先人に嫌われたのと同様、ロウもまた非難を浴びました。
     たとえば、自らの打法にも共通点が多かったにもかかわらず、テッド・ウィリアムスはロウの打法に付いて、「あの打ち方を見るとゲッと吐きたくなる」と語っていますし、また、殿堂入り投手のドン・ドライスディールは、特にロウを名指しした訳ではないですが、前かがみになりストライクゾーンに顔が入る姿勢について、「思慮に欠ける」と語ったそうです。
     なぜなら、投手にとって、露骨にストライクゾーンを狭めるロウの打法は悩みの種で、単に攻めにくいということだけでなく、危険だということがあったからです。投手の多くは打者が前かがみになるのを見るだけでイライラしていた様です。
     ドライスデールはこの種のイライラに率直に従うのが信条だった様で、ドライスデール自身、自ら得意としたそれに対する最良の対策は、危険球を投げて上体を起こし相手を脅す事(あるいは実際に当てる事)ですが、これが衝突の種になることが多かったせいか、ロウの所属するチームには、乱闘が多かったそうです。
     また前記の通り、ジョージ・ブレット、ピート・ローズ、リッキー・ヘンダーソンなど気の強い選手が、“ロウ型打法”で成功しています。

     投手たちは狭くなるストライクゾーンを甘んじて受けた訳ではありません。
     危険球と言う暴力的な対策以外に前かがみの打法にはもう一つの対処方があります。
     それは元々強い低めの更に下に球を沈ませる事です。
     そこでロウと並び、私がピッチングの面から現代野球を創り上げたと見ている人物が登場します。
     それが名投手コーチであり、SFジャイアンツの元監督であるロジャー・クレイグです。
     次回は、この人について話をしたいと思います。

     なお、このように球界に大きな与えたロウは、1984年3月に、50才の若さで亡くなっています。
     奇しくも、クレイグが投手を指導したデトロイト・タイガースが世界一になった年でした。
     私はこの2人に、何か少なからぬつながりを感じています。

     さて、最後に当記事に登場する選手のリンクを貼りました。
     これを利用していただき、みなさまの野球の世界を広げて下されば幸いです。

    チャーリー・ロウ
    ベーブ・ルース
    テッド・ウィリアムス
    ドン・ドライスディール
    ロジャー・クレイグ



     第2回 新ストライクゾーン(後編)


     皆さんこんにちはICHILAUです。
     前回に続き新ストライクゾーンの話をさせて頂きます。
     前回は偉大なバッティングコーチ、故チャーリー・ロウの指導する打法がストライクゾーンを低く狭くする方向に野球を向けた事を書きましたが、今回は投手の側の話をさせて頂きます。

     狭くなるストライクゾーンに立ち向かわなければならなくなった投手にとって、ロジャー・クレイグは正に天才であり、球界のエジソンとも呼ばれました。
     名投手コーチであり、SFジャイアンツの元監督であるロジャー・クレイグは、少年野球のコーチをしている時に、腕に負担が掛からず投げやすい変化球を模索していて、スプリットフィンガーファーストボール(以下SFF)の簡単な投法を発見し、“猫も杓子もスプリッター”と言う80年代のMLBにSFFブームを興した人として有名です。
     SFFはクレイグ以前から存在しましたが、クレイグの方法は相当簡単に会得出来たようです。

     私見では、80年代のMLBに最大の影響を及ぼした人物はロジャー・クレイグです。控えのキャッチャーが20分でおぼえ、51才当時のサンディー・コーファックスがクレイグに教わって(クレイグとコーファックスは元チームメイト同士)試しに投げてから現役復帰を考えたと言うSFFは、投げ易く打ち難い球で、正に現代の魔球です。
     速球と同じフォーム同じ軌道からストンと落ちるこの球は、上部が削られたストライクゾーンに、見事に適応しました。
     また同時に不完全なSFFは、ストライクゾーン付近で人によってさまざまな変化をするので、SFFを不完全にしか会得していない投手でも、SFFで抑えることが出来たのです。

     そのせいかSFFの解釈は人によって違い、クレイグ自身は「あれは速球だ」と語っていますが、チェンジアップと考えている人もいれば、“ナックルのような物”と考えている人もいるし、合法なスピットボール(威力故に6回もの禁止措置を生き延びた違反投球。原理、変化はフォークに似る)とまで語っている人もいます。
     そして私としては、SFFの存在が、ストライクゾーンが“下へ”“小さく”なっていくことを、投手に容認させたと考えています。

     クレイグもロウやルースと同様、有らぬ悪口に遭遇しました。
     SFF及びその兄弟球フォークは腕に悪影響を与えると言われました。
     しかし、クレイグの弟子ジャック・モリスはSFFを相棒に、80年代最多勝を記録しました。また現役では、39才でサイ・ヤング賞に返り咲いたロジャー・クレメンスが、スプリッターを決め球にしています。
     日本の人向けには野茂の名前を上げるのが一番でしょう。
     SFFと故障の関係は、単純では無いように様に感じます。

     現代野球はロウとクレイグによって創られた、と私は考えています。
     その影響は日本にも及び、先日のNPBのストライクゾーンの変更は、ロウ・クレイグの時代に終止符を打つ試みです。
     果たして野球は新たな段階に向かうのでしょうか。

     さて、今回も最後に当記事に登場する選手のリンクを貼りました。これを利用して下されば、幸いです。

    チャーリー・ロウ
    サンディー・コーファックス
    ロジャー・クレイグ
    ジャック・モリス
    ロジャー・クレメンス



     第3回 野球版リアルワールドカップの可能性


     現在、日韓で熱戦が繰り広げられているサッカーワールドカップも、8強が出揃い、いよいよ佳境に入ってまいりました。
     日本代表の躍進もあり、全国的な盛り上がりは、大変なものです。
     そして野球を愛する読者の皆さんも、サッカーの“世界の技”をご覧になっておられる事でしょう。
     ですが、ここで野球ファンたる皆さんなら、サッカーのスーパースターの競演を目の当たりにする事で、MLBのスター選手の参加する野球版ワールドカップについて思いを馳せていらっしゃるのではないかと私は考えました。無論、私もその一人です。そこで、この機会に野球のベストメンバーに因る“リアルワールドカップ”への、私の思うところを書かせて頂きたいと思います。

     まず私は、“リアルワールドカップ”に当たる代表チームの最高の大会は、独立した“ワールドカップ”より五輪が相応しいと思っています。
     現在の五輪野球には、出場国数など五輪を“リアルワールドカップ”化するには改善が必要な点があるのですが、ただその前に、私が“リアルワールドカップ”よりも五輪が良い、と考える理由を書きたいと思います。

     第一に、“リアルワールドカップ”の場合は、全く新しい大会を無から造り出す必要がありますが、五輪は2008年まで、すでに開催が決まっていて、今後も続いていきます。
     また五輪の歴史と伝統にあやかる事で、新設“ベースボールワールドカップ”よりも、野球後進国でも注目を集める事でしょう。
     そして野球単独のワールドカップなら、開催する場所は野球の盛んな国に限られますが、五輪なら当然、野球が盛んな地域以外でも開催されます。
     それに加えて、たとえば世界一のスポーツ、サッカーの場合は、最高の大会であるW杯との差別化を図るために、五輪のサッカーが最強の代表チームで行われる事はなく、23歳以上の選手は3人まで、という制限があるわけですが、野球の場合なら、サッカーのW杯に当たる大会は元々ありませんから、MLB選手が支障なく五輪に出場できる方式を用意出来れば、五輪本大会を最強のメンバーが競う最高の大会としても、問題ありません。実現すれば、MLB選手を中心とした“ドリームチーム”が4〜5チームは参加できるでしょうから、野球が、「五輪でも魅力のある競技になるのは可能である」と私は考えています。

     ちなみにシドニー五輪では、MLBのオーナーは五輪及び五輪予選に、メジャーリーガーの派遣を認めませんでした。そしてこれは、米国以外の代表チームにも影響する決定でしたが、これは妥当な決定だと思います。なぜなら、一流選手がクラブと代表との板挟みとなり、過密日程にさらされているサッカーの現状を踏まえると、MLBや日本プロ野球に所属する選手を、たびたび国代表に召集するのは、良い方法とは言えないからです。
     また現在、五輪の野球で行われている通りに、基本的に全チームが大陸別の予選に参加する事になると、MLB選手が参加した場合、米州予選のレベルが圧倒的に高くなり、本大会をも凌駕する事になるので、イベントとしては筋の通らないものになってしまいます。

     そこで、このような矛盾や過密日程を避けるには、ラグビーのW杯で実行されている、有力国をシードする方法が良いと私は考えています。というのは、この方法なら、MLB選手の多くは、五輪本大会のみに出場すれば済むからです。それでもまだ、日程は厳しいですが、私は更に、MLBは五輪の年にはプレーオフをせず、レギュラーシーズン後、即ワールドシリーズに入るオールドスタイルにすれば良い、と考えています。五輪に合わせてシーズンを中断して、有力選手を送り込むというわけです。
     MLBのスター選手が五輪でもスター選手となり、世界的な人気を集める様になるのなら、MLBのオーナーたちもメジャーリーガーの派遣を考えるのではないでしょうか。

     私は、現在の野球の世界的な広がりや、有力国の勢力図を考慮すると、最高の大会としての五輪の出場国は、16カ国が妥当だと考えています。そして、半分の8カ国はシードして、残りの半分を予選を勝ち上がった国で構成するわけです。シードは純粋に実力(プロチームでの活躍によって)で決めて、利害に関係しない客観的立場の人達が決めて然るべきでしょう。その為に“世界プロ野球連盟”の様なものを作ったら良いかも知れません。
     現在シードになれそうなのは、米国、日本、ドミニカ共和国、プエルトリコ自治州、韓国、ヴェネズエラ、メキシコ、台湾、キューバと言った所でしょうか。

     残り8カ国は、五輪の前年の11月に、5大陸でそれぞれ1次予選を行い、各大陸一括して、6カ国を最終予選に進出します。
     最終予選は、MLBのキャンプ地でキャンプ中に、まず大陸別のリーグで行い、1位が本大会進出、残りの2位〜4位を集めて超大陸の予選リーグで最後の枠を競います。

     そしてここからが重要で、現在のキューバにとっては、政治的な面から非常に難しいことなのですが、最終予選に参加する各国の代表選手は、MLBチームのキャンプに招待選手として参加し、そのユニホームでオープン戦に参加します。すると、オセアニアやアフリカなど野球後進地域の選手は、そこで、世界最高のレベルの野球に参加する事になり、これを体感する事で、自らの資質向上に繋げられるはずだと思います。また代表選手の中のでそれに見合う実力のある選手は、MLBチームの傘下に残る事も考えられます。あるいは、予選に参加したアマチュア選手を対象にしたドラフトを開いても良いでしょう。
     これで、アフリカなど全くの野球不毛の地から、プロ野球選手が誕生する道を開く事になります。そしてそういった選手は、才能があれば昇格を続け、遂にはメジャーリーグに到達するようになるわけですが、野球不毛国にそういったメジャーリーガーが誕生すれば、その国の野球は大きく発展する事でしょう。また、ドミニカ等の例を見ても分りますが、その国が貧しいほど、一人のメジャーリーガーの影響力は大きくなると思います。

     ちなみに、私が注目している野球後進地域は南太平洋です。フィジーやトンガの、セブンスラグビーの選手達が見せるパフォーマンスを見ていると、彼等が野球を覚えたら「どんなプレーをするのかな」と思います。
     また、最初に書いた様に、野球が五輪の人気競技になれば、五輪招致の条件に“立派な野球場がある事”が加わるはずです。そうなれば、野球場を有する国も増え、野球の大きな発展も期待出来ると思います。
     いかがでしょうか。

    ●MLB(Major League Baseball)=大リーグ
    ●FIFA(Federation Internationale de Football Association)=国際サッカー連盟

    ※編集部追記

     その後2005年に五輪委員会が開催された際、野球ならびにソフトボールが、2012年のロンドンオリンピックの種目から正式に外された。理由は球場を建設するのにコストがかかる一方、跡地を利用できずに困惑しているアテネ五輪関係者の困惑があるともいわれているが、正確なところは不明で、同委員会においては明らかな野球・ソフトボール外しが行われた、と日本で物議を醸した。
     だが一方で、MLB機構がシーズン前に野球版ワールドカップであるワールドベースボールクラシックを開催、日本代表はボブ・デーヴィッドソン審判によるあからさまな”アメリカびいき”判定に屈することなく、準決勝で韓国、決勝でキューバを破って、第1回の優勝国に見事輝いた。
     しかしながらアフリカ野球友の会の代表をはじめ、アフリカ諸国で野球普及のために活動している同会スタッフによると、五輪から野球が外された影響は大きく、野球が定着する唯一にして最大の手段を失った痛手は大きいという。その後2007年初頭にオマール・ミナヤNYメッツGMを中心としたアフリカン・アメリカンのMLB関係者一行がガーナに行ってるが、目的は少年レベルにおける野球の普及とされており、その成果が出るのは十年、あるいは二十年先になるであろう。
     アメリカ国内における近年の野球人気低下のこともあり、野球の将来は不透明になっている。はたして今後野球がどのような運命をたどるかは、神のみぞ知るといったところだろうか。



     第4回 無捕殺三重殺


     皆さん、如何お過ごしでしょうか。
     ICHILAUです。
     今日は皆さんを、野球ならではの「数奇なお話」にご案内したいと思います。

     皆さんは、「無捕殺三重殺」という言葉をご存知でしょうか。
     「捕殺」即ち送球が、一切ない三重殺の事です。
     別名「一人トリプルプレー」とも呼ばれ、一人の野手がアッという間に三つのアウトを取ってしまう痛快なプレーです。
     この「無捕殺三重殺」は起こりうる状況が限られており、球史において完全試合よりも珍しい出来事となっています。

     日本プロ野球史上でも1度だけしか「無捕殺三重殺」は記録されたことがありません
     しかし、高校野球では、割と近年にもこの珍事が記録されたケースはあります。
     またかく言う私も2度(1度はキックベースで)一人トリプルプレーの“快挙”を達成しました。

     1967年7月30日の東京オリオンズVS阪急ブレーブス戦で、阪急の2塁手住友平選手の達成したケースは、典型的な「無捕殺三重殺」の例です。
     「無捕殺三重殺」を達成するには、当然、無死で走者が2人出塁している必要がありますが、更に、相手チームの監督が走者2人にスタートを命じる事がこの快挙の第一歩になります。そして打者が2塁方面に強いライナーを打ち、それを2塁手か或いは遊撃手が捕り、1アウト、2塁を踏んで2アウト。2塁直前まで到達したため、1塁に戻れない事が確実になり、“諦めて薄ら笑いを浮かべる”1塁ランナーにタッチして3アウト。かくて「野球版皆既日食」は完成するのです。

     MLBは流石に歴史が長く、2000年にランディー・ヴェラーディが達成したケースまで、12回「無捕殺三重殺」が記録されていて、それに関する面白い話も残っています。

     まず、驚くべき事にワールドシリーズで「無捕殺三重殺」が1度記録されているのです。
     1920年10月10日にクリーブランド・インディアンズの2塁手Bill Wambsganssが「無捕殺三重殺」を達成しています。

     また過去に4人、殿堂入り選手及び殿堂入りが確実の選手が「無捕殺三重殺」の犠牲になりました。
     1925年5月7日、パイレーツのグレン・ライトに仕留められた、名2塁手ロジャース・ホーンズビー。
     1927年5月30日にジミー・クーニーによって、揃ってアウトにされたポール“ビッグポイズン”ウェナーと、ロイド“リトルポイズン”ウェナーのウェナー兄弟。
     1992年9月23日にミッキー・モランディーニが仕留めたバリー・ボンズ。
     以上の4人です(そう、ボンズは40−40、本塁打70、「無捕殺三重殺」でのアウト、の全てを経験した唯一の選手です。この記録は不滅でしょう)。

     またMLBの「無捕殺三重殺」の歴史には驚くべき偶然が存在します。
     1927年にウェナー兄弟を仕留めたジミー・クーニーは、実は1925年にホーンズビーと共にグレン・ライトの「無捕殺三重殺」でアウトになった選手でした。
     1925年、セントルイスの遊撃手だったクーニーは翌年シカゴ・カブスに移り、1927年5月30日、パイレーツのグレン・ライトがベンチから見守る中、この快挙を達成して見せたのでした。クーニーはメジャーでの通算本塁打が僅か2本の選手ですから、「無捕殺三重殺」との遭遇と、本塁打が同数、と言う数奇な選手なのです。

     そして「無捕殺三重殺」の歴史にはもう1つ驚くべき偶然が存在します。
     信じられない事にジミー・クーニーが達成した翌日、1927年5月31日、デトロイトの1塁手、Johnny Neunが「無捕殺三重殺」を記録しています。
     「無捕殺三重殺」の珍しさを考えると、2日連続で記録された、と言うのは本当に驚くべき事ですが、これは偶然と言うより必然だった様です。
     守備に定評があり、また1927年は22盗塁を記録するなど、足の速い1塁手だったNeunは5月31日朝、新聞でクーニーの離れ業についての記事を読みました。そして、同日の試合の9回、Neunは無死1塁2塁で1塁ライナーを捕ると、間近の1塁ランナーにタッチしました。
     その時点で2塁ライナーは大きく飛び出しており、三重殺が確実な状況でしたが、クーニーの事を頭に入れていたNeunは、2塁上で「早くボールをよこせ」と促す遊撃手に構わず2塁まで突進し、「無捕殺三重殺」を完成させ試合終了、1−0でタイガースが勝ちました。
     2塁に駆け込む時Neunは、「俺は殿堂に向かって走っているんだ」と叫んだと伝えられていますが、有名なクーパーズタウンの殿堂が出来る約10年前の事であり、Neunの言う“殿堂”が何を指しているのかは定かではありません。

     1878年5月8日にプロヴィデンス・グレイスのポール・ハインズがやったプレーが本当に「無捕殺三重殺」だったかどうかは、100年以上経った今でも議論が続いています。
     もし、あれが「無捕殺三重殺」であったなら、プロ野球初の「無捕殺三重殺」であっただけでなく、ハインズ以降125年も出ていない、外野手に因る「無捕殺三重殺」なのです。これからこの紙面で、どの様な事が起きたか詳細を書きますので、読者の皆さんも各自で御判断頂ければと思います。

     その前に、このプレーの背景にある当時の野球について少し書かせて頂きます。

     まず、当時はボールの質が悪く、また軽かった為、遠くに打つのも、遠くに投げるのも今より困難で、外野手の守備位置は今より浅かったと推測されます。また、当時は今の様なグラブは存在せず今よりも遙かに捕球が困難な時代でした。これらを頭に入れて置いて下さい。

     問題の場面は8回、無死2塁3塁でした。
     そこで相手ボストンのジャック・バードックは、遊撃手の頭上を越える当たりを打ち、前進したハインズがダイレクトで獲った時、相手は3塁ランナーだけではなく2塁ランナーも3塁を回っていましたが、ボールを掴んだハインズは、そのまま3塁まで走り3塁を踏むと、2塁に送球しました。
     2塁ランナーがこの様な判断をしたのは、すでに8回だった為に暗くなり始めていた事と、ハインズの捕球が当時の常識ではかなり難しい捕球だったから、と推測されますし、ハインズが3塁まで走った理由も当時の捕球水準からすれば、投げるより走った方が確実だったと推測されます。
     そしてこのプレーで意見が分かれるのは、「2塁ランナーに対して『何時』『何処で』アウトが宣告されたのか」と言う事です。つまり、2塁ランナーがすでに回った3塁をハインズが踏む事で、2塁ランナーもアウトになったのか、ハインズが2塁に送球して、2塁が踏まれた時に2塁ランナーがアウトになった捕殺1の三重殺だったのかについて意見が分かれいるのです。
     現代のルールを適応すれば、捕殺1の三重殺となりますが、何せ当時はナショナルリーグが出来て僅か3年目です。今とは違うルールも多く、現在では判断が難しい為、尚更、ハインズはミステリアスな存在になっています。

     皆さんも是非、「外野手の無捕殺三重殺」が実在したのか御一考下さい。
     尚、ハインズはこの年本塁打4、打点50で、今で言う二冠王に輝きました。
     しかし「この年の打率.358はリーグ一位であり彼は三冠王である」と言う説もあり、こちらも意見が分かれています。事実なら史上初の三冠王と言う事になります。

     私はこれらの話を聞き、空前絶後となっているハインズのケースや、「無捕殺三重殺」の為に走ったNeunのケースを知って、一つ思い当たる事がありました。私の記憶が正しければ、日本ハムファイターズの名内野手、田中幸雄選手は「無捕殺三重殺」に関して未知の領域に足を踏み入れ損なった事になります。
     1997年8月28日の日本ハムファイターズVS西武ライオンズ戦。
     4回無死満塁の場面で、西武の名捕手伊東が三遊間に痛烈なライナー放ったものの、遊撃手田中がダイビングしてキャッチし、2打点がフイになった伊東は天を仰いでベンチに帰り始めました。
     しかし田中はボールを確保しておらず、ボールはグラブからこぼれ落ちてしまいました。つまりインプレーで伊東は生きており、塁を埋めた西武のランナー達はいるべき塁の1つ前の塁に立ってフォースアウトになる立場だったのです。
     簡単に言えば、ボールは内野を回りアッという間に3つのアウトが取られて行きました。

     これ自体、充分珍しいプレーですが、一つ悔やまれる事があります。
     田中にNeun並みの知識があったとしたら、そして事態を把握していたのなら、2度と起きない事が保証されていると言っても良い位珍しい「フォースプレーに因る無捕殺三重殺」を達成出来たのです。
     あの場面、田中はボールを拾い、素早く2塁に行き、先ず塁上のランナーにタッチして1アウト。
     2塁を踏んで2アウト。
     ベンチに帰り始めた伊東が事態を把握して「無捕殺三重殺」を防ぐべく猛然と1塁に向かって走り出さない限りは(走っても三重殺は防げなかったでしょう)、田中は1塁まで余裕をもって走り3アウト目を取れたのです。田中はそのまま走って1塁側ベンチを通り越してクーパーズタウンまで行けたはずです。空前絶後の記録保持者としてポール・ハインズに並び称されるべき、“孤高の人”“生ける伝説”になる機会を田中幸雄選手はフイにしてしまったのです。

     さて、「無捕殺三重殺」の数奇な物語はこの辺で終わりにしたいと思います。
     最後に、読者の皆さんも野球をする機会は御有りと存じますが、その際、チャンスがあれば、「無捕殺三重殺」を狙って見ては如何でしょうか。

    【参考文献・web】

    ●「total baseball」
    Bill Wambsganss
    Johnny Neun
    ジミー・クーニー
    グレン・ライト
    ポール・ハインズ
    ランディー・ヴェラーディ

    (編集部註:*1 Bill Wambsganss ならびに*2 Johnny Neunについては、英語読みではビル・ワンガンスならびにジョニー・ニューンと読まれるべきであるが、彼らがどういう民族をルーツにしているか不明なので、表記の面で、あえて英字を使わせていただくこととしました。)



     第5回 NPBにおける受難の時代 〜その1〜


     みなさまこんにちは。ICHILAUです。今回から2回にわたっては、2001年から2002年にかけての、『NPBにおける受難の時代』について考察してみたいと思います。

     2001年から2002年にかけては、日本野球にとって厳しい時期が続いたといえるでしょう。
     まずは、2000年のオフにポスティングシステムでMLBに移籍したイチロー選手が、2001年に大活躍し、ア・リーグMVPと首位打者、ならびに盗塁王に輝く一方、新庄選手がNPBに在籍していたときとはうって変わったように明るい表情でプレイし、日本の大勢の野球ファンの目を、MLBに向けさせました。

     また、2001年11月には、IBAFワールドカップでNPB選手を大量に送り込んだ日本がメダルを逃すという失態を演じる傍ら、横浜の株式譲渡問題で、機構とオーナー会議が迷走し、大きく醜態をさらしてしまいました。

     するとこの年のオフは、それを後目に、石井(ヤクルト・スワローズ)、田口(オリックス・ブルーウェーヴ)をはじめとする主力選手たちが、NPBで提示された好条件を蹴って、MLBへと旅立っていったのです。もともとNPBの人気低下は叫ばれていましたが、この2001年のイチロー・シンジョーショックは、その流れを決定づけたといっていいのではないでしょうか。

     そして2002年には、FIFAワールドカップという名のサッカー台風が日本全国で猛威をふるい、野球が根づいていた日本の土壌に、文化的な損害のつめ跡を、大きく残していきました。野球ファンのみなさんの中でも、いまだにサッカーショックから抜けきれない方々はおられるでしょうし、またW杯以後、メディアにおけるサッカー露出が、いきなり増えた気がします。

     では一方で、NPBはどうかというと、開幕から2ヶ月の間に星野新監督の下、快進撃を続けていた阪神タイガースの勢いが止まる傍ら、7月末日時点で2位に10ゲーム差をつけてペナントレースを独走している巨人は、ほぼ優勝を手中にしていて、8月上旬にもマジックナンバーが点灯しようとしています。したがって、このようにシラける内容のペナントレースを展開している結果、現状のNPBの人気低下傾向には、歯止めがかかるどころか、さらに拍車がかかったと言っても、私は大きく外れていないと思っています。
     ですが現状は、これへの有効な対策が為される見込みはなく、「もはや、NPBは救いようが無い」との絶望的な意見も、最近はよく聞かれるようになりました。

     しかし、今回のW杯について、先日のサッカー特集の出場国紹介をやらせていただいた際、私自身20カ国以上のサッカーリーグの現状についてさらに学ばせていただいた結果、自分のNPBに対する考え方は、すこし違ったものになってきました。

     まず私が知ったのは、どの国のリーグも試合の観客動員やクラブの財政で苦しんでいることでした。
     欧州で人気があると言えるリーグは、イングランド、イタリア、ドイツ、スペインの四大リーグに加え、トルコ、ギリシャ位なもので、後は欧州国際カップ戦で強豪クラブを迎えた場合か、少数の名門クラブの直接対決、いわゆる“クラシコ”でも無い限り、ガラガラと言うのがその実態です。

     また、欧州に存在する殆どのサッカークラブは、入場料、放送権料、スポンサー料、会費、大会の賞金では財政を賄えず、選手をより裕福なクラブに移籍させた時に発生する移籍金無しでは、黒字はおろか、存続さえままならないという状態にあります。それに加えて、かなりのビッククラブでも、選手売却が最大の収入源になっているのが現状で、ACミランやレアル・マドリードなどのサッカー界の最高級に位置するクラブですら、実際には常に大きな赤字をだしており、それを親会社や行政に補填されながら、象徴としての地位を守っているのです。したがって、移籍金抜きに黒字をだせるサッカークラブは、皆無なのです。
     そこで私は、

     「選手の移籍金に頼ることなく黒字が出せるNPBは、かなり優良なリーグだ」

     と考えるようになってきました。

     さらにサッカーの世界では、“ボスマン採決”を筆頭に、移籍金制度に対して「人権を侵害している」との追及が相次いでいます。選手は、優柔不断なFIFAではなくEUに訴える事で権利を得ていますが、その過程で、移籍金制度自体が何時非合法化されてもおかしくないのが現状です。
     ですが、この話はさらに長くなるので、次回に回したいと思います。


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