にっぽん野球昔ばなし by 九時星

    第十一回 風雲春浪伝

    第十二回 怪傑春浪伝

    第十三回 草創期のベースボール

    第十四回 伝説の「文太球」

    第十五回 「獰猛選手」町田一平



     第十一回 風雲春浪伝


     春浪先生が入学した明治23年ころの明治学院は白金倶楽部と称して、溜池倶楽部、駒場農学校らとともに東都ベースボール界の群雄の一つに数えられていたのでありますが、ちゅうまんどん・中馬庚を中心とした第一高等学校がその名を高め、まさに一高時代が幕を開けようとしていたころでもありました。
     この頃から『打順』が決められ、従来ベースに張り付いていた塁手と投手斜め後方にいた遊撃手が現在のような守備位置をとるようになってきたのであります。とはいえユニフォームなどはまだ練習時に着るものではなく、脚絆(きゃはん)に裸足で現れたり、シラミのいそうな古シャツで現れたり、しかもそういう服装の明治学院に対して「シャレている」といって非難するものだから後は推して知るべし、であります。春浪先生、たちまちこの競技に心を奪われてしまうのでありますが、そのころの心境をのちに語った文章が「日本野球史」(国民新聞運動部編)に載っていますのでご紹介いたしましょう。

     「僕もそろそろ野球を始めたところ、サァ面白くてたまらぬ。大フライの一つも捕れるようになると、もう夢中になって学課も何もそっちのけ、同志の腕白連中を糾合し朝から晩までバットを振り廻し、球を飛ばし、我を忘れて遊んでばかりいたため、二度も続けておめでたく落第したのでたちまち親爺の大目玉を食い、仙台の東北学院に放り込まれた」

     いや、春浪先生、いささか夢中になりすぎたようであります。しかし懲りない先生は東北学院に野球部を創立させるのであります。当時の仙台は第二高等学校が抜けた強豪で、人前で毛虫を喰って度肝を抜くという豪傑・三上景忠捕手が睨みを利かし、他を寄せ付けない強さを誇っておりました。負けじと、腕力貧弱ながら肝豪胆の春浪先生、野良犬の肉を教室で煮て食うという蛮勇をやらかして、教師や同級生を驚倒させるのであります。

     こんな先生に率いられた一団は、ほとんどが上半身裸にサルマタ姿、あるものは越中フンドシに白ハチマキ姿で外野を走り回り相手チームを唖然とさせたのであります。さすがに東京帰りの春浪先生他一名は上半身に白シャツを着ていましたが、こうなると上半身裸でも袴を着用している遊撃手などは「礼儀正しい」と相手チームから評価されたりするのですが、あにはからんや、これは後逸防止の秘密兵器なのでありました。こんな調子で仙台の雄・二高に挑戦すべく、小手調べに県立中学と対戦したところ40数点対10数点という大惨敗を喫しまして、二高挑戦の夢ははかなく破れたのであります。

     その後も先生は西洋人教師と大喧嘩したり、長髪の同級生の髪に石油をかけて放火したため、またまたオヤジ殿の逆鱗に触れ北海道へと渡ったのであります。札幌農学校実習科で大志を抱いて原野開拓を夢みたものの、林の大木を一本ずつ手作業で倒しているうちに嫌気が差して上京。次なる夢は南氷洋で鯨を捕ること、と水産講習所に入所したのですが、これもまた鯨の数が減ってそう簡単に捕れないことがわかり、すっかり飽きてしまったのであります。見かねたオヤジ殿がかねて親交のあった大隈重信の東京専門学校(のちの早稲田大)に入学させたのは春浪先生19歳のことでありました。

     次回もまた春浪先生の活躍を見ていくことにいたしましょう。

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     この連載でもご紹介いたしました正岡子規の時代の野球を再現するというイベントが昨年行われました。弊サイトでその模様を公開しておりますのでご興味のある方はぜひご覧下さい。



     第十二回 怪傑春浪伝


     当時の東京専門学校は先生曰く「一言にして評すると、学生の梁山泊ともいうべく、破帽弊衣の連中が多く転がって居て、喧嘩はやる、口論はやる、高下駄で廊下を横行闊歩する、雨の降る日などは、蓑笠で教室へ飛び込んで来る乱暴人などもあって、互に豪傑風を気取り、運動会をやればまるで野武士の集合の如く、柔道や撃剣は盛んであったが、野球の様な運動は未だ行われて居らぬ…」

     野球がなくては日に夜も暮れぬ先生、同志を募ってさっそくエックス倶楽部なる野球部を結成したのであります。しかしながらこのエックス倶楽部、他校の学生も加わった混成軍であったためにやがて物足りなくなってしまいました。こうして先生、東北学院に続いて東京専門学校(現・早稲田大学)にも野球部を創設したのであります。正式に野球部を作ると正式の対抗試合が行いたいもの、まず手始めに近所の早稲田中学野球部に試合を申し込んだのでありますが見事に大敗、やがて野球部は姿を消したのであります。早稲田野球部の本格的な胎動は、弟の押川清氏の時代になるまで待たねばなりませんでした。

     さて、怪傑春浪伝、きりがないのでありますが、いささか時代を進め過ぎたようであります。破天荒で一本気な押川春浪先生のエピソードをご紹介して、一旦、春浪伝を終わります。

     ある日、歩いていると人集りがしておりました。何か、と覗き込むと汽車賃を忘れたらしい老婆が車掌に責められているのであります。当時のことでありますから、車掌はお上の如く居丈高に老婆を怒鳴りつけ、老婆はおろおろするばかりでありました。たちまち沸き立つ義侠の血潮、春浪先生、車掌の背後に回るや拳を固めていきなりポカリ。そして一喝して曰く、

    「汽車賃を支払えばよかろう、さあ受取れ。その代り老婆を虐めたのをどうする」
    「俺の頭を殴ったのをどうしてくれる」
    「貴様の頭なんか、あってもなくてもいい頭だ。もう一つ殴ってやろう」

     大騒動に輪をかけてしまい、車掌ともども警察に連れて行かれたのであります。ここで現れた警部補に、先生、名前を名乗ると偶然にも押川春浪の冒険小説の愛読者、たちまち車掌を説教したのであります。驚いたのは車掌、いや、この人も愛読者でありまして恐れ入ってしまうと、先生、破顔一笑、無事和解と相成ったのでありました。

     またある日、先生汽車に乗っていると陸軍将校が二人、話に興じておりました。やがてその話は下世話なほうへ、下品な話へと展開したのであります。しばらくこらえていた先生、辛抱たまらずツカツカと将校の傍に歩み寄るといきなりその勲章を摘み上げると、

    「おい、これは玩具の勲章なのか」
    「こら、貴様は何という無礼をするか。この勲章は、畏れ多くも陛下から賜ったものではないか」
    「陛下から賜ったものに相違なければ、貴様達はなんという不良軍人だ」

     春浪先生、一気呵成に責め立てます。将校の顔は見る見る鬼瓦のようにいきり立ち、

    「帝国軍人を侮辱するのも甚だしい。ぶった斬ってやる」
    「これは面白い、望むところだ」

     と言うが早いか、先生上着を脱いで左腕をまくしあげるや、そのひょろっとした白い二の腕を突き出した。

    「俺はあいにく何にも武器を持っておらん。さあこの腕を斬れ。俺はそれを持って貴様等と戦うのだ。さあ斬れ」

     …これにはさすがの軍人さんも度肝を抜かれたと見えてしばし呆然と立ちつくし、やがて直立不動で挙手の礼をとり、

    「許してください。私共の誤りでありました」

     こう出られると先生、文句のない人でありましてたちまちその場は納まったのでありました。

     次回の『にっぽん野球昔ばなし』は少し戻って名選手、名チームのご紹介をしようと思います。



     第十三回 草創期のベースボール


     さて、明治30年代まで進んでしまったので、ここでまたベースボール伝来当時まで戻しましょう。第一大学区第一番中学(現在の東大)のウィルソン先生が明治5年に生徒達にベースボールを教えたあと、後任でやってきたエドワード・マジェット先生もまたベースボール大好き人間だったようで、佐山和夫氏の『ベースボールと日本野球』によりますと、明治9年に初めて行われた日米野球試合に一番二塁手として出場しているのです。ちなみにウィルソン先生も三番レフトで出場していたのでありました。

     試合は34対11と日本人学生たちの大敗でありますが、ベースボールが伝来してわずか3年程でアメリカ人と試合が出来るところまで親しまれていたというのは、やはりたいしたものであります。

     学生としてベースボールを覚えても、やがて卒業するとそれを楽しむ場所もなくなるのですが、明治11年に新橋アスレチック倶楽部、13年に徳川ヘラクレス倶楽部が相次いで誕生しますと、早速そちらに参加する人々も増えてくるのであります。当連載の『魔球登場!』の回でご紹介した酒屋の若旦那こと市川延次郎氏などは、開成校(第一大学区第一番中学の後身)―大学南校の名選手として知られ、のちに徳川ヘラクレス倶楽部に参加し、カーブの秘法研究に苦闘するのであります。
     この市川氏の南校時代のエピソードでありますが、当時“毛唐の遊び”としてベースボールを快く思わない人たちに、夕暮れの帰宅途中、竹刀で叩かれ、手に持っていたボールを取り落としてしまいました。ひと脅しして気がすんだ暴漢が悠然と引上げていくのをしばし呆然と眺めていた市川氏、ボールを拾い上げて投げつけるや、狙いはあやまたず三、四十間あまり先を行く暴漢に見事的中したのであります。今とは比較にならない粗末なボールを、メートル法に直して54〜82mあまり先の的に的中させるとは、並外れた強肩とコントロールと言えるでありましょう。

     新橋アスレチック倶楽部や徳川ヘラクレス倶楽部には多くの学生たちが参加しておりましたから、彼らの母校、大学南校の後身である工部大学、駒場の農学校、私学の青山学院、明治学院、立教大学、慶応義塾などでもベースボールは徐々に盛んになっていくのですが、そうなるとどうしても対抗意識が出てくるものであります。
     遂にある日、些細な口論から工部大学と立教大学の学生が一触即発のにらみ合いとなった時に仲裁に入った立教大学の米国人教師の提案によって両校の対抗試合が行われることとなったのであります。決戦場所は新橋アスレチック倶楽部のグラウンド、工部大学の選手たちは敵を一蹴しようと勢い込んで乗り込んだのでありますが、対する立教は米国人教師が4〜5人入ってすっかり親善試合ムード、しかも教師たちは本場仕込みでありますから球捌きなどは日本人学生達とは雲泥の差であります。慌てた工部大学チームは教師を出さないように抗議しますが立教側には決戦ムードはなく、結局新橋倶楽部のメンバーも参加しての親善試合となったのであります。
     決戦をはぐらかされた形になった工部大学はなんとなく面白くはなかったようでありますが、ベースボール熱は益々盛んになりまして、やがて赤坂溜池にあった彼らのグラウンドに各校の学生たちが集うようになり、明治18年、溜池倶楽部が誕生したのであります。そして工部大学は“のぼさん”正岡子規が明治17年に入学していた東京法科大学予備門と合併して第一高等中学校と称するようになりました。



     第十四回 伝説の「文太球」


     明治初期には、前回ご紹介いたしました工部大学、立教大学のほかに、明治15年ごろには新橋倶楽部と対抗戦を行ったといわれる駒場の農学校、18年ごろに誕生したといわれる青山英和学校(のちの青山学院)、波羅大学(のちの明治学院)、慶応義塾などに続々と野球部が誕生いたしまして、各大学間で試合が行われるようになってきたのであります。もっとも交通機関が未だ発達していない当時のこと、試合当日には夜がまだ明けきらぬ頃から相手チームのところまで延々歩いて行くわけであります。
     こんな調子では試合前から疲れてしまうのでありますが、いざ試合となっても当時のルールではこれがまた何十点入るかわからないという時代でありますから、たっぷり1日かかってしまう。それからまた延々と歩いて帰るわけでありますから、家に着く頃には夜もふけているということになるのであります。もちろん家族は呆れるばかりでありますが事ほど左様にベースボールは明治の青年たちの心をつかんだといえましょう。
     この当時の東京大学予備門には以前ご紹介いたしました新橋倶楽部で平岡ヒロシ君にカーブの秘法を教わった岩岡保作氏とのぼさん・正岡子規がバッテリーを組んでいたのですが、同時期の名選手に山田文太郎氏がおりまして、彼もまた新橋倶楽部に顔を出しており、強打者としても鳴らしておりました。

     ある日、大学予備門チームが駒場の農学校まで出かけて試合をした時のエピソードでありますが、第一打席、文太郎氏のバットが一閃すると球は大きく右翼手を越え講堂の柳の枝をへし折ったのです。続く第二打席の一撃はさらに大きく右翼手のはるか頭上を越えて渡り廊下を飛び越え、呆然とする農学校チームを尻目に文太郎氏、悠々とホームインしたのでありました。ホームランという用語さえなかった当時、これが伝説にならないわけがありません。かくして以降、ホームランのことを「文太球」と呼ぶようになったのであります。文太郎氏はのちに工学博士となるのでありますが、大打球の軌道計算をされていたかどうかは定かではありません。
     この頃、学校野球部とは別に、各大学の有志が赤坂溜池にあった工部大学のグラウンドに集まっておりました。あまりに広いグラウンドなので工部大学だけで使うのがもったいないということでありましょうか、彼等はやがて溜池倶楽部というクラブチームを結成するのであります。なにしろ各大学の選抜チームのようなものですから、平岡ヒロシ君が抜けて勢いをなくしつつあった新橋倶楽部に代わって勇名をはせていくのであります。
     この溜池倶楽部の名選手に農学校の学生でもあった町田一平氏がおりました。人呼んで「獰猛選手」。次回の「にっぽん野球むかしばなし」はこの溜池倶楽部と町田一平氏のエピソードです。



     第十五回 「獰猛選手」町田一平


     各校の野球好きが集まって自然発生的に生まれ、やがてその名をとどろかせていった溜池倶楽部。その中心選手が町田一平でありました。彼は鹿児島の出身で地元造士館を出て上京、青山学院を経て駒場農学校に入学したのであります。
     一平氏は投手と捕手をこなす中心選手でしたが、捕手の折には当時一般的だったワンバウンド捕球を潔しとせず勇猛果敢の代名詞といえる素面素手によるダイレクトキャッチ、すなわち直接捕球を得意としていたのでありますが、ある日の練習で直接左眼に打球を受け、見る見る顔半分が腫れあがったのであります。驚いた仲間が休むように勧めても「大丈夫だ」といって聞かず、平然と捕手を続けたのであります。そして打席に立つと強打一番、球は中堅を越え、グラウンドの端に転々と。一気にホームまで駆けて滑り込み、「どうだ!」と叫ぶ彼の顔は益々腫れあがって顔といわず手足まで鮮血まみれ、それを見た同僚達は声もなし。ついたあだ名が『獰猛選手』でありました。
     日々練習に勤しむ溜池倶楽部の面々もやがて試合がしたくなるのが人情であります。いつもの練習試合ではなく対抗試合を、ということで選ばれた相手が駒場農学校。町田獰猛選手をはじめ農学校の学生達は農学校チームに入り、人数の不足した溜池倶楽部には第一高等中学から選手が参加し対抗戦が行われたのであります。試合は獰猛一平投手の剛球が冴え農学校の勝ちとなったのでありますが、これより各校の対抗戦が活発になっていくのであります。勝った農学校は波羅大学、英和学校、第一高等中学チームにも勝ち学生チームの雄として名をあげていき、溜池倶楽部もまた一ツ橋商学校、立教などに勝ち依然強チームとしての名を響かせておりました。

     この頃になると、魔球カーブの研究が進んで、第一高等中学の福島金馬氏、波羅大学の白洲文平氏などがカーブを投げると評判になっており、獰猛一平氏も波羅大学に日参し、白洲にカーブを教えた教授マックネイン氏の指導を仰ぎ、ついには魔球カーブをモノにしたのであります。「駒場の町田がカーブを投げる」評判はたちまち広まり農学校チームはますます一目置かれるチームとなっていくのでありました。
     ここで名前の出た波羅大学は後の明治学院であり、当時は白金倶楽部と称し一方の雄でもありました。カーブを投げる白洲文平氏はのちに入学した押川春浪氏があこがれた名人白洲兄弟の長兄で、天才肌の選手でもありました。次回「にっぽん野球むかしばなし」はこの天才・白洲文平氏についてです。

     余談でありますが、後年町田氏は郷里に帰り地元産業の発展に尽力いたします。この頃には昔野球をしていたことをおくびにも出さず、旧制高校に進んで野球部に入っていた彼の息子達でさえ父親が名選手だったことを知らぬままでありました。ある日彼の息子達が庭でキャッチボールをしているのを見た一平氏、「どれ貸してみよ」と投げた球は得意のカーブ、大きく変化し、取り損ねた息子が呆然としているのを尻目に一平氏、何事もなかったように平然と奥に消えていったそうであります。


     第十六回〜はこちら


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