にっぽん野球昔ばなし by 九時星

    第十六回 「名手」白洲兄弟

    第十七回 バンカラ対ハイカラ(その1)

    第十八回 バンカラ対ハイカラ(その2)

    第十九回 バンカラ対ハイカラ(その3)

    第二十回 インブリー事件始末記



     第十六回 「名手」白洲兄弟


     溜池倶楽部が盛んになった頃、波羅(ポーロ)大学(現在の明治学院)にも外国人教師のマクネイン先生が野球を伝えておりました。この先生、学生達を選手にして横浜まで引率して外国人チームと試合をさせたりしておりました。もっとも自ら投手として活躍するなど、学生達よりもご自分が楽しみたいということが大きな動機であったようでありますが。この時に先生のおめがねにかなった学生が白洲文平氏であります。文平さんは初代主将でもあり、投手をすれば魔球カーブをあやつり、捕手をすれば「白洲のスマートキャッチ」と呼ばれるほどの名選手として知られた存在となっていったのであります。
     明治学院が築地から白金に移転するとともに野球部は白金倶楽部と称し、溜池倶楽部に並ぶ一方の雄としてその名を轟かせていったのであります。文平さんは卒業後アメリカ留学に旅立ちますが、文平さんの弟、純平さん、長平さんはまだ明治学院に在籍し、兄に負けない名選手として鳴らしておりました。押川春浪先生が入学し、白洲兄弟の名手ぶりに見とれていたのはちょうどこの頃でありまして、春浪先生によりますと、特に弟の長平さんは名人でどこを守っても上手い人でありましたが、センターでも守ろうものなら大騒ぎで「どんなフライでも落とすことはない」と一同恐縮したそうであります。
     この長平さんはのちに同志社に転じてまた野球部で鳴らすのであります。当時の関西の強チームといえば三高(現在の京大)でありますが、三高対同志社の決戦を控えたある日、長平さんは比叡山に登り遥か吉田の三高グラウンドを見下ろして敵陣視察を行ったのであります。しばらく見ていますと三高の猛者連の打球はセンター方向に集中していることに気付き会心の笑みをもらすと、試合当日に長平さんはセンターの守備についたのであります。果たせるかな三高の大飛球はセンターへ、ことごとく長平さんの守備の餌食となったのでありました。まさに現在の先乗りスコアラーの元祖であったといえましょう。

     さて、明治も20年を過ぎた頃の野球勢力図は、といいますと溜池、白金の両倶楽部を筆頭に、溜池にも多くの選手が参加している駒場農学校がやはり強く、続いて徳川ヘラクレス倶楽部の流れを汲む慶応義塾の選手を中心とした赤坂倶楽部、青山英和学院(現在の青山学院)のグラウンドを中心にした東京倶楽部などがありました。そしてもう一つ、工部大学と東京法科大学予備門が合併して出来た第一高等中学校(のちに一高、現在の東大)が台頭してきたのであります。そしてこの新進・一高と強豪・白金倶楽部が相間見える時がやってきたのでありますが、そこで日本野球史上指折りの大事件が勃発するのであります。次回「にっぽん野球昔ばなし」はこの球史に残る大事件です。



     第十七回 バンカラ対ハイカラ(その1)


     『明治三十一、二年の頃、毎日新聞の記者石川半山、ハイカラーといふ語を紙上に掲げ、金子堅太郎のごとき、洋行帰りの人々を冷評することたびたびなりし。泰西流行の襟の特に高きを用ひて済まし顔なる様、何となく新帰朝をほのめかすに似て、気障の限りなりければなり。』(明治事物起原T・石井研堂著)

     これが“ハイカラ”という言葉の起こりでありますが、当時の狂歌に、『流行に追はれて見栄を飾り襟、首も廻らぬハイカラ男』なんてものがありまして、当初は気障、生意気などの意味に使い、相手を罵倒する時の言葉でありました。ところがやがて洒落者、最新式などという意味に転化いたしまして、あっという間に流行語になっていったのであります。そうするとボロは着てても心意気、といった連中はその蛮風から“バンカラ”という言葉が生まれたのであります。

     さて、時期的にはまだハイカラ、バンカラの言葉の生まれていない頃ではありますが、米国人教師が多く在籍し、自由闊達な校風の明治学院・白金倶楽部はハイカラの代表というべき存在でありまして、ベースボールを校戯と称し、その実力は一方の覇者であると見られておりました。一方、溜池倶楽部に多くの選手が参加している駒場農学校もまたその実力は折り紙つきでありました。かたや天才・白洲兄弟を擁する明治学院・白金倶楽部、こなた獰猛選手・町田一平率いる駒場農学校、両校雌雄を決せんや、時に明治23年4月、審判に新橋倶楽部の重鎮・平岡寅之助を迎え、東都のベースボール愛好家注目の一戦は遂に始まったのであります。
     試合は5回を終えて5対0、白洲兄弟がバッテリーを組む白金優勢で進んでおりました。投手・白洲弟の出来はよく、さしもの駒場強打者連も得点を挙げられません。迎えた6回、打者は町田一平、白洲弟の投球を強振するもファウルチップ、これが運悪く捕手・白洲兄の顔面を直撃、白洲兄は無念の途中退場となったのであります。要を欠いてにわかに乱れる白金守備陣、ここに至って形勢逆転、白金の乱れを突いて駒場は遂に7対5で白金を下したのでありました。歓喜に沸く駒場、沈む白金。審判・寅之助氏曰く、「白金の負けはケガ負けだ。やがて台頭するだろう。」

     白金の雪辱なるか。敗戦に沈む白金では駒場に対する再戦の是非をめぐって論議が続いておりましたが、ハイカラとはいえ明治の青年、「わずかの間に再戦を申し込むのは非礼である。更に負けたら恥の上塗り。」と、良く言えば武士道的礼儀、悪く言えば自信喪失のような結論にたどり着いたのでありました。それではどうするか。手ごろな相手と戦って、それに勝った勢いで雪辱戦に臨もうという段取りを描いたのでありました。その相手というのが、未だその実力が世に知られていない第一高等中学校、後にバンカラの代表としてその名を全国に響かせる学校であります。果してハイカラ・白金の思惑通り弾みの勝利を挙げられますでありましょうか。
     向ヶ丘に陣を張る第一高等中学、押し寄せる明治学院・白金倶楽部、このバンカラ対ハイカラの決戦が明治野球史に残る大事件を巻き起こすとは、神ならぬ両校選手たちには思いも寄らないことでありました。次回はバンカラ対ハイカラ(その2)です。



     第十八回 バンカラ対ハイカラ(その2)


     明治5年、ウィルソン先生がベースボールをはじめて伝えた第一大学区第一番中学校は、明治6年に開成学校、明治10年に東京大学予備門と名前を変えております。以前にご紹介いたしました、のぼさん・正岡子規が入学したのはこの予備門の時代であります。そして明治19年には第一高等中学校と改称、明治22年には本郷・向ヶ丘に移転し、翌年には全寮制がしかれ、ここにわが国初の学生自治が始まるのであります。

     当時の校長曰く、『近来我が邦の風俗漸く壊敗して礼儀将に地に墜ちんとし、殊に書生間に於いては徳義の感情甚だ薄く、放縦横シ(注;わがまま気まま、の意)なり。我が校は寄宿寮をもって金城鉄壁となし悪風汚俗を遮断せしめ秩序ある生活を生徒になさしめたい。勇武闊達剛健の気風を養い一方に礼儀を重んじていやしくもせないことをもって誇りとしたい。諸君は自治をもってこれを敢行せよ。』

     自治を任された学生たちは光栄に思うとともに、その責任の重さを痛感したのであります。なにしろ本邦初の学生自治でありますから、うまくいけば天下に範を示すという名誉を得る代わりに、うまくいかなければ天下の笑いものになることが必至であります。寮生たちは二十条の規則を作り、自治をはじめたのでありますが、『寮内の規約に背く者ある時はその事情により制裁を加う』という規約があるとおり、規則破りには鉄拳制裁もしばしば行われていたのであります。
     規則破りのなかで非常に嫌われたのは、塀の乗り越えや柵の間を潜るといった行為であります。これは手近で誰しもやりやすい行為でありますが、校長の演説にある『寄宿寮をもって金城鉄壁となし悪風汚俗を遮断せしめ』を根底から覆す行為でありまして、外界に向けて開かれている正門以外を通る輩は鉄拳制裁を食らうのが常でありました。それでは門限に遅れたときなど、正門が閉まっている時はどうすべきか。その時は正門の上を越えるのであります。これが一種の不文律として学生自治は進められていったのであります。

     さて、当時の第一高等中学校において、ベースボール部はどのような存在だったのでありましょう。やはり柔道部などの日本武道系が盛んでありまして、西洋伝来のスポーツにおいても花形はボート会、即ち漕艇部であり、ベースボール会は広大なるグラウンド、といえば聞こえがいいのでありますが、茫々たる荒地ともいうべき向ヶ丘グラウンドで、平岡ヒロシ君にカーブの秘法を伝授された熱血漢・岩岡保作たちが日々ベースボールの練習を楽しんでいたのであります。彼等とて対外試合に出かけて自らの実力を試してみたい気持ちは山々でありましたが、なにぶん学業優先、そうそう向ヶ丘を離れて気軽に遠征というわけには行かなかったのであります。
     そんな向ヶ丘にある日、ふらりと現れたのが明治学院・白金倶楽部の使者、白洲でありました。もちろん第一高等中学に試合を申し込むためであります。岩岡は、こちらに来てくれるのなら、という条件で試合を受けたのであります。白洲は野草の茂るグラウンドに驚きながらも異存はなく、かくて明治学院対第一高等中学の試合が決まりました。対外試合といえば選手たちにとって当時の一大イベントであります。両校選手たちは興奮に駆られながらその日を待ちわびておりました。
     明治23年5月2日、草香る向ヶ丘グラウンドに颯爽たる明治学院選手が姿をあらわし、ついに決戦は始まったのであります。

     次回は「バンカラ対ハイカラ(その3)」です。



     第十九回 バンカラ対ハイカラ(その3)


     片や白地にビロードの M字のマークも鮮やかに 向ヶ丘に寄せ来たる 白金明治学院と 此方青地の古洋服 新兵の如き出で立ちで 迎え撃たんと意気高き 第一高等中学の 精鋭たちが相対し 呼ぶは嵐か稲妻か 向ヶ丘に殺気満ち 決戦の時遂に来る!

     と、七五調でなにやら勇ましく始めてみましたが、巨漢マクネア先生に引率された明治学院チームのユニフォームには赤糸桜花の刺繍まで入るという、まさにハイカラそのものでありまして、一方の高等中学のユニフォームは体操部の借り物ときては戦う前からやや飲まれた感は否めないのであります。しかし明治学院に名手・白洲兄弟あれば、高等中学にも新橋倶楽部直伝のカーブを操る岩岡あり、蛮勇をもってハイカラ軍を撃たんとしたのでありました。
     十重二十重の見物人の熱狂の中、審判に新橋倶楽部の重鎮・平岡寅之助を迎えて、いよいよ試合は始まったのでありますが、高等中学の大黒柱たる岩岡は不運にもこの重要な試合の数日前に肘を痛めており、本来の調子を出せない状態なのでありました。たちまち明治学院打線につかまり先制を許すと、打撃陣も押さえ込まれて六−〇とリードを許したまま試合は6回まで進んでしまったのであります。いかに武道系やボートよりも注目度の低いベースボール会といえども、学生自治の誇りとも聖地ともいえる向ヶ丘グラウンドに敵を迎えての敗北となれば彼らの面目は丸つぶれの大ピンチであります。
     折も悪くもこの日は学内で柔道の大会が行われておりまして、それを終えた柔道部の猛者連がグラウンドに姿を見せたからたまりません。たちまち起こるヤジと怒号、『しっかりせんか!』『元気をださんか!』『ぶつけてやれ!』…いやはや益々場内に殺気が満ちて高等中学選手たちは尋常ならざる雰囲気に飲まれていくのでありました。一方の白金・明治学院はもはや勝利は掌中にありとばかり余裕の表情でこれらのヤジを聞き流していたのであります。
     そこに運悪く遅れて駆けつけてきたのが明治学院の教授インブリー博士でありました。彼は学生たちの応援をしようとしたのでありますがあいにく正門は閉じられております。そこで守衛に向って『明治学院の者だから入れてくれ』と頼んだのでありましたが聞き入れてもらえません。守衛は…英語がわからなかったのであります。しかたなく裏門に廻ってもまた閉じられております。裏門の用務員さんもまた英語がわかりません。仕方なくまた正門へ…そうこうしているうちに聞こえてきたのは心地よいバットとボールの響きや歓声であります。殺気満ちたる状況など知る由もないインブリー博士はたまらず垣根を一跨ぎしてグラウンドに向ってしまったのであります。
     垣根…それはただの垣根であっても高等中学生にとってはただの垣根ではないのは先月号で前述したとおりであります。真っ先に見つけた柔道部の猛者連が『無礼者!』と叫びながらインブリー博士に駆け寄ったのであります。驚いた博士は弁明しますが興奮した猛者連には通じない。引っ張る、突っつく、そしてベースボール会選手たちもそれに加わり、ついに博士の額を瓦で殴り流血させるという事態にまでなってしまったのであります。博士は『乱暴者!』と叫んで反撃しますが多勢に無勢、そこに明治学院選手たちが駆けつけ大混乱…というところで審判・平岡寅之助の制止でやっと沈静化したのでありますが、もはや試合を続けるわけには行かず、中止となってしまったのでありました。

     これが明治の野球界の大事件、インブリー事件であります。そして日本人学生による米国人教師暴行傷害事件となれば、ことは国際問題に発展する恐れを秘めているのであります。次回は「インブリー事件・その後」です。



     第二十回 インブリー事件始末記


     インブリー事件、この球史に残る大事件によって一高白金戦は中止となり、嵐の去ったグラウンドに残された一高選手、学生たちは複雑な心境にとらわれたのでありました。インブリー博士が垣根を越えた事情がわかってくると、いくら一高生の精神だといえ、相手にも一理あるわけで、殴るのはやりすぎではないか、やはり試合に負けていたからではないか…そう考えてくると一同さすがにしょげ返ってくるのであります。
     この事件は翌々日の5月19日付の横浜英字紙「ガゼット」が報じて、大問題へと発展していったのであります。やがて次々と外字新聞が報じ、最初は暴行を働いた学生への非難、次には一高への非難、そして日本人全体への非難とエスカレートしていったのであります。話がここまで大きくなっては、ついにアメリカ領事が動き、アメリカ公使が日本外務省に正式抗議するに至り、とうとう国際問題へと発展してしまったのでありました。
     当時の日本政府は諸外国との不平等条約を改正すべく粉骨砕身しているところでありまして、文部省から一高校長へ問題解決に向うように勧告を出し、外務省はアメリカ公使館に働きかけ、一高選手とインブリー博士の和解の場がもたれ、ここで一高側から謝罪し、インブリー博士も垣根を越えた非を認め謝罪を受け入れ、ようやく一件落着となったのであります。

     自分たちの技術が未熟であったためこのような事件を巻き起こしたとして、一高選手一同謹慎していたのでありますが、この事件後、エース岩岡をはじめとする多くの選手たちは退き、新しい選手たちに入れ替わったのであります。そして対白金戦で事実上の完敗を喫し、大事件を起こした反省から、己の技術を磨き、精神を鍛える事を重視し、従来の球遊び的なものは徐々に姿を消していったのでありました。
     このころ、打者が上中下のストライクゾーンを指定できていたルールが廃止され、ナインボール、シックスボール、セブンボール、ファイブボールと変遷してきたルールもフォアボールに落ち付き、ほぼ現在のルールに近いものになっていったのであります。さらに一高の新主将・藍屋益次郎の従弟・堀尾がアメリカから最新の守備法を伝え、従来ベースに付いたまま守っていた一、二、三塁手が現在のような守備位置につくようになったのであります。

     新生一高は白金戦の敗北の屈辱を晴らさんと、全寮制であるのを活かし、連日の猛特訓を続け、さらには堀尾から最新技術を学び、臥薪嘗胆その日が来るのを待ちつづけたのであります。その熱意は学校中を巻き込み、やがてベースボールは校技となり、自治寮の校風はベースボールを以って発揮されるようになったのであります。雌伏半年、白金との再戦の機会はやってきました。次回にっぽん野球むかしばなしはこの一高白金第2戦です。


     第二十一回〜はこちら


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