にっぽん野球昔ばなし by 九時星

    第二十一回 快投福島金馬

    第二十二回 なるか一高時代

    第二十三回 日米決戦!汝逃ぐるか!

    第二十四回 決戦!横浜公園グラウンド

    第二十五回 伏兵現る



     第二十一回 快投福島金馬


     明治23年5月2日、白金倶楽部に完敗の上、インブリー事件まで起こし、選手が大幅に入れ替わって新主将塩屋益次郎、新エース福島金馬、そしてちゅうまんどん・中馬庚などを中心に、自らの技量を上げ、白金倶楽部に雪辱することが汚名を返上することと信じ猛練習に明け暮れる第一高等中学選手たち。やがて半年経ち、ついにその日はやってきたのであります。やってきたのではありますが相手は天下の強豪・白金倶楽部、その技量を見せ付けられてまだ半年、もとより自信にあふれた挑戦ではありません。決戦前夜、教授も寮生もこの一戦に一方ならぬ心配をし、激励を行ったりしたのでありますが、選手たちも気負いと不安の間で揺れ動いていたのであります。
     そんな時、「大丈夫だ」と言って一人悠然と構えていたのが新エースとなった福島金馬でありました。先代エースの岩岡保作は新橋倶楽部に通って平岡ヒロシ君から伝授されたカーブを得意としておりましたが、福島は主将の従弟でアメリカの大学チームの補欠選手だったという堀尾権太氏から直接カーブを教わり、岩岡以上のカーブの使い手となっていたのであります。そして彼はその威力に絶対の自信を持っていたのでありました。

     11月8日、白金倶楽部は再び向ヶ丘グラウンドに姿を見せたのであります。迎え撃つ第一高等中学選手たち、固唾を飲んで見守る寮生、教授連、片や白金倶楽部の面々は前回の対戦で完勝していることもあり余裕の面持ち、そしてついに試合は始まったのであります。
     快投・福島金馬!その大きく曲がるカーブに天才・白洲兄弟をはじめとする白金倶楽部打者陣は全く手も足も出ないのでありました。更に高等中学打者陣は猛打を発揮し、5回には打者13人を送り一挙8得点、勢いに乗って取りも取ったり26点、対する白金は7回8回にそれぞれ1点を挙げたのみ、注目の対戦は26対2という想像以上の大差をもって高等中学の勝利に帰したのであります。
     『選手は余りの大勝に驚喜相抱いて涕泣せり。勝報は飛んで都下一般に及び万人斉しく驚胆す』インブリー事件以降の汚名を晴らしたとばかりに狂喜乱舞して喜ぶ選手たち、そして白金敗れるの報はたちまち広まり人々を驚かせたのでありました。しかしこの知らせは新たな強敵の挑戦を呼び起こしました。すなわち当時最強と目されていた溜池倶楽部であります。『彼等は白金大敗の報に接し幼中一高の小冠者に名を成さしめることをこころよしとせず一挙粉砕しくれんとて来るなり』なかでも獰猛選手・町田一平は高等中学何するものぞの意気で乗り込んできたのでありました。

     次回にっぽん野球昔ばなしは強敵溜池倶楽部を迎え撃つ高等中学、『成るか一高時代』です。



     第二十二回 なるか一高時代


     明治23年11月23日、白金倶楽部に大勝してまだわずか半月、勝利の余韻も覚めやらぬ向陵グラウンドに溜池倶楽部がやってくることになったのであります。さあ、難敵現る。この報に接して寮生、学生は元より、かつては「異人の技なり」などと批判していた教授連まで興味津々、朝からグラウンドを取り巻いては今や遅しと待ち構えていたのでありました。そこに現われたる溜池倶楽部、獰猛選手こと町田一平を中心に駒場農学校はじめ都下各校から選手が集まった陣容は当時最強の名をほしいままにしていたのでありました。悠然と現れた面々は、グラウンドに入るやさっと散って軽快にキャッチボールをはじめるのでありますが、獰猛・町田は「一高なにするものぞ」の気迫も充分、物凄い投球を繰返して見物一同の目を見張らせたのであります。片や迎え撃つ高等中学の大エース・福島金馬は片手でボールを弄びながら静かにその様子を眺めていたのでありました。

     試合開始を告げる太鼓の音が鳴り響いて、世紀の一戦は始まったのでありました。まずマウンドに上がったのは福島金馬、対する打者は町田一平、いきなりの対戦であります。しかしながら福島が磨き上げた自慢のカーブ、あるいは早く、あるいは遅く、自在に曲がって容易に打てる代物ではなかったのであります。町田無念の凡退、後続も倒れ意気あがる高等中学応援席、士気上がる高等中学選手たち。攻守ところを代えてマウンドに立つ獰猛・町田投手でありますがこちらは気迫の上がりすぎでありまして、気のみあせれど球行くところを知らずの大乱調であります。1回に2点を失うと2回には走者一掃の三塁打、続いて本塁打と滅多打ちを食らったのであります。もはやこうなると天下の溜池倶楽部といえど打つ手無く、ついには32対6という大差で高等中学の大勝利に終わったのでありました。

     白金倶楽部に続いて溜池倶楽部と強敵相手に思いもよらぬ大勝に沸き返る高等中学、片や呆然と向陵を去る溜池倶楽部。ついに本邦野球界の勢力図は逆転したのでありましょうか。否、雪辱に燃える獰猛・町田一平をはじめ溜池倶楽部の面々は冬を冬とせず猛練習に明け暮れていたのであります。そしてもう一チーム、天才・白洲を中心とした白金倶楽部もまた「敵は本郷にあり」とばかり再戦の機会を窺いつつ練習に励んでいたのでありました。やがて春が来て高等中学に挑戦状が届いたのであります。その差出人とは、溜池・白金合同軍でありました。まさにこれこそ都下オールスターチームであります。時は4月4日、場所は駒場、溜池倶楽部の主体をなす農学校のホームグラウンドでいよいよ溜池・白金連合軍は背水の陣を引いて高等中学を迎え撃ったのでありました。
     連合軍は町田―白洲のバッテリー、対する高等中学は当然の大エース・福島金馬。そしてまた福島の快投。ついに高等中学はこの難敵さえも10対4で退け、都下最強の名を手に入れたのでありました。いわゆる一高時代の始まりであります。ではどうしてこれほどまでに高等中学が強くなったのでありましょうか。個々の技術は連合軍の選手のほうが上回っていたのでありますが、寄せ集めチームの悲しさ、各校の名選手といえばほとんどが投手という時代、そういう選手ばかりが集まれば連携がうまくいかないのが道理であります。片や高等中学の面々は大エース福島の力投もありますが、技量で劣っても寮で暮らす間に培われた強固なチームワークが強力チームへと成長させていったのでありましょう。

     さて、都下最強=日本最強の名を手に入れた以上、次に望む対戦相手はおのずと限られてくるのであります。次回にっぽん野球昔ばなしは「日米決戦!汝逃ぐるか!」です。



     第二十三回 日米決戦!汝逃ぐるか!


     帝都の二大強豪チーム、白金倶楽部と溜池倶楽部に連勝し、更にはその連合軍さえ打ち破った第一高等中学、「即ち溜池は烏合の勢なり…白金亦昔日の慨なく…今や都下に於て我に応ずるの敵なく…云々」(向陵誌)まさに言いたい放題でありまして、覇道の確立ここに成し得たり、と無邪気にはしゃぐ面々でありました。こうなれば更に強いチームと対戦してみたいと思うのが世の常でありまして、いよいよ本場アメリカ人チームとの対戦を望むようになってきたのであります。
     ここで彼等が目を付けたのが法科大学の教師・チゾン氏でありまして、その紹介を以って横浜外人アマチュア倶楽部に試合を申し込もうというわけでありました。横浜外人アマチュア倶楽部とは何ぞや?といえば要するに在日外国人親睦スポーツクラブのようなものでありまして、横浜はアメリカ人が多かったために野球も盛んに行われていたのであります。今日「アマチュア」といえば素人と捉えられかねませんが、「プロ」の概念が確立してない当時においては上流階級が余暇に楽しむものという意味合いでして、要するにヒマのある人が金の心配をせずに競技に熱中しているわけですから弱いわけがありません。野球を覚えたばかりのような日本の学生チームが眼中に入るわけもなく適当にあしらわれてしまったのでありました。さればとチゾン氏をはじめ白金=明治学院のコーチをしていたマグネヤ氏やノックス氏などに試合を申し込んだのでありますが、彼らは教師でもあり生徒を相手に真剣勝負をするわけにはいかないと、こちらも取りつく島もなく断られてしまったのであります。

     第一高等中学の面々が外国人チームへの挑戦がかなわず悶々としている間にも二高、三高、四高、五高、山口、鹿児島といった一高と同じ官学が仲間意識を持って一高の覇権を歓迎し、刺激を受けてますます熱が入っていったり、あるいは、これらに在学しつつ母校や近隣の中学を指導したり卒業後教師として赴任した学校に広めたりといった過程で全国に野球熱が広まっていったのであります。
     一方、一高はバンカラ官学の仲間である三高が関西ハイカラ私学の雄・同志社に一敗地にまみれたと聞くや仇討ちに遠征を企画しては相手に断られて対戦が叶わずと、あいも変わらず強敵との対戦を渇望しつづけていたのでありました。

     明治29年、一高が白金・溜池連合軍を打ち破ってから実に5年の歳月が流れた頃、待望久しい対戦が実現する日がやってきたのであります。この間に第一高等中学は第一高等学校と名前が変わり、日清戦争があり、三国干渉が行われた翌年のことでありました。これはこの時のエース青井が横浜アマチュア倶楽部の本拠である横浜公園に足繁く通い、粘りに粘って実現したものでありました。
     しかし試合の出来る日は5月23日ただ1日限り、万一雨なら中止という申し合わせでありまして、あいにく20日から降り始めた小雨は翌日、翌々日にも上がらず、ついに試合当日になっても晴天は見えず、連日空を見上げては夜遅くまでやきもきしていた一高選手たちもさすがに疲れと諦めの色が濃くなってきたのであります。と、そこに届いた一通の電報、熱血漢ちゅうまんどん・中馬庚がその文面を読むなり真っ赤な顔をして怒りに震えながら立ち上がったのであります。

    「おのれ、日本男児を卑怯者呼ばわりするか!」
    「どうした、中馬?」
    「これを見よ!『汝、逃ぐるか』とは何事ぞ!われら一高は敵に後ろは見せん!」

    怒りに震えるちゅうまんどんは握り締めた電文を仲間に見せたのであります。…が、

    「…おい中馬、これは『何時に来るか?』ではないか?」
    「なに?」

     よく見るとその電文には『ナンジニクルカ』と書かれておりまして、熱血ちゅうまんどんの早とちり、一同大笑いしながらも試合の出来る喜びに勇んで横浜へと向ったのでありました。

     次回にっぽん野球昔ばなしはこの記念すべき国際試合の模様をお伝えいたします。



     第二十四回 決戦!横浜公園グラウンド


     時に明治29年5月23日、記念すべき日米決戦にむけて一高選手一同は『汽笛一声新橋を、はや我が汽車は離れたり』と鉄道唱歌に歌われた新橋駅から汽車に乗り1時間20分あまりをかけて横浜駅へ、そこから後に続く寮生応援団、さらに横浜駅で出迎えた先輩諸氏を伴って決戦の地、横浜アマチュア倶楽部の本拠たる横浜公園グラウンドへと向ったのでありました。余談ながらこの横浜公園にはその後横浜公園球場が作られ、横浜ゲーリック球場、横浜平和球場と名を変え、現在の横浜スタジアムへとつながっているのであります。

     午後3時、ついに試合は始まったのであります。一高のエース青井は創生期の大投手と称される名選手でありましたがさすがにこの一大決戦に気負ったか立上がりに四球を連発し、無死満塁から痛打を浴びて2失点、更に2点を追加されいきなり4点をリードされ、「校友の憂慮云うべからず。外人の笑声歓叫耳を聾せんばかりなり。」(一高校友会誌より)たちまちの苦境に陥ったのであります。
     その裏の一高の攻撃、走者を盗塁失敗、牽制で相次いで失いながらも突撃精神を持って2点を返したのであります。攻撃陣の意気に感じたエース青井、2回表を3者三振に斬って取る快投を演じ、これがまた攻撃陣に勢いをつけその裏4点を取ってついに逆転、「第二回敵皆三度振りを演じ、而して我に於いては森脇の滑走五間半敵肝を奪う」(同上)快速森脇のスライディングが五間半(約10メートル)というのはご愛嬌でありますが、一高応援団の盛り上がりたるやいかばかりでありましょうか。
     一高は更に得点を重ね、エース青井はその後の横浜アマチュア倶楽部の反撃を無得点に封じ、この記念すべき試合を29対4で大勝したのでありました。

     横浜アマチュア倶楽部に快勝!この報はたちまち各地に飛んだのであります。当時の外国人といえば不平等条約の元、治外法権などの特権をもった一種別格の人々であり、その彼らを彼らの国技というべきベースボールで打ち破ったわけですからまさに大ニュースでありました。
     一方、敗れた横浜アマチュア倶楽部でありますがヒヨッコ扱いしていた日本人学生チームと戦ってみると意外に手強く、直ちに復讐戦をと思ったものか、はたまた異国でのリクレーション相手には最適と思ったものか、一高に再戦を申し込んだのであります。噂を聞きつけて横浜アマチュア倶楽部に参加してきたのはアメリカ海軍東洋艦隊チャールストン号、デトロイト号の乗員有志、対戦日は先の試合から2週間と経たない6月5日、場所は再び横浜公園グラウンドでありました。先の勝利から応援団、見物人は更に増えて異様な熱狂の中第二戦が行われたのであります。そして、再びの勝利。なんと32対9で一高の大勝となったのでありました。
     横浜アマチュア倶楽部は本家の面目丸つぶれ、といったところでしょうか、そこに入港してきたのが軍艦マーシャス号、我々も対戦したいと一高に申し入れたのでありますが、2度の勝利で強気になった、といいましょうか、いかなエリート一高生といえどもそうそう横浜まで遠征する費用の捻出が容易でないといいましょうか、ともかく一高グラウンドに来てもらえるなら、という条件で三度目の試合を受けたのであります。対戦日は6月27日、そしてまた20対6で一高の勝利。大エース青井を擁してまさに一高全盛時代でありました。

     負け続けるアメリカチームに雪辱の日は来るか、はたまた無敵一高を倒す日本人チームは現れるか、次回にっぽん野球昔ばなしは「伏兵現る」です。



     第二十五回 伏兵現る


     明治29年5月23日に初対戦をして以来、わずか1ヶ月余りの間に三連敗してしまった横浜アマチュア倶楽部およびアメリカ東洋艦隊連合軍でありますが、どうにも気分が収まらないのでありましょうかまたしても一高チームに試合を申し込んだのであります。その日時は7月4日、そう、アメリカの独立記念日であります。この大事な日に連敗記録を伸ばすわけにはいかないアメリカチーム、果たして彼等には勝算があるのでありましょうか。実はこのときに入港してきた東洋艦隊オリンピア号には強力な援軍が乗艦していたのでありました。それは本国の大リーグでプロとして活躍する遊撃手チャーチであります。そして過去3試合とは大幅にメンバーを入れ替えて一高チームを待ち受けていたのでありました。

     いよいよ独立祭当日の横浜公園グラウンドに日米決戦第四ラウンドが開始されたのであります。しかしながら、大リーグ選手を含むアメリカチームの意気は高く、その上、バントを使う、ピンチヒッター、ピンチランナーを繰り出す、と一高チームがかつて経験したことのない戦法を縦横に駆使したのであります。これにはさすがの一高エース青井もたまらず失点を重ね、試合はアメリカチームがリードして中盤を迎えると、5回からは遊撃手だとばかり思っていた大リーガー、チャーチがマウンドに上がり、伸びのある速球と懸河のドロップを投げ込み一高チーム打撃陣を沈黙させてしまい、ついにアメリカチームの勝利となったのでありました。
     アメリカチームはお祭り騒ぎ、いや、本当のお祭りの日だったのでありますが、それに花を添える勝利に浮かれております。一高の無念いかばかりか、さらに復讐戦を・・・とまあ、きりがないのでありますが、アメリカチームも入港する艦隊によって強かったり弱かったり、そうそう試合日程を決められないということで一旦ひとまず区切りがついたわけであります。しかしこの一連の日米決戦は大きな話題となり、帝都の少年のベースボール熱が一層高くなったのでありました。

     明けて明治30年、大エース青井は卒業したのでありますが6月には横浜アマチュア倶楽部に勝利し、まだまだ一高時代はゆるぎないものと思われていたのでありました。そんな一高に挑戦してきたのが郁文館中学、実は一高の近くにあり、よくベースボールの練習に一高にやってきていたチームであります。一高にしてみれば生徒も同然、軽くひねって・・・と甘く見ていたらこれが意外な強敵でありました。両チームがっぷり四つに組み合って互に譲らず、延長10回、11回、そして12回、運命の1点は、郁文館中学に入ったのでありました。
     一高敗れる、しかも相手は格下と思えた中学生チーム。この事態に一高は騒然となったのであります。当然再戦を申し入れたのでありますが、あろうことかまたも1点差で敗戦。ここにいたって郁文館中学の強さは誰もが認めるところとなったのでありました。まさに一高が作り出したベースボール熱が一高を破るほどの強チームを作り上げたわけであります。この郁文館にあって活躍したのが押川清、あの押川春浪大先生の実弟でありました。

     さてこの郁文館中学が名前を変えてある小説に登場します。次回のにっぽん野球昔ばなしは「吾輩は迷惑である」です。


     第二十六回〜はこちら


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