にっぽん野球昔ばなし by 九時星

    第三十六回 早稲田の快進撃

    第三十七回 早稲田のアメリカ遠征記

    第三十八回 最新野球術

    第三十九回 巧者、泉谷祐勝

    第四十回 早慶3回戦事始



     第三十六回 早稲田の快進撃


     早稲田の連勝が続くと、選手たちはある約束が現実になるのではないかと色めきたっていくのであります。ある約束、それは早稲田に野球部が出来て間がないころ、野球部部長・安部磯雄が選手たちとの会話でアメリカの野球の話題が出たときにいった、『もしも早稲田が全勝したら渡米しましょう』という約束でありました。
     当時はロシアとの緊張が高まっているときでありまして、選手たちは半信半疑でありましたが敬虔なクリスチャンでもある安部部長はいたって本気でありました。同志社を卒業し、アメリカ・ハーバード神学校、ドイツ・ベルリン大学への留学経験を持つ安部部長は、野球部遠征をもってアメリカへの親善大使にしようとの志を持っていたのであります。

     日露両国がいよいよ開戦した明治37年、早稲田は学習院、一高、慶応と当時強豪といわれた各校を連覇しており、その後横浜アマチュア倶楽部にも勝利、7月には学習院から復讐戦を申し込まれたのでありました。春に一度勝っているとはいえさすがは古豪学習院、試合は両者譲らず、当時としては異例の延長戦に突入し、延長12回、3対2でこの難敵を下したのでありました。そして11月、慶応との試合が行われたのでありましたが、慶応頼みのエース櫻井は6月の試合から肩を痛めたまま回復せず、代わりに登板した投手が17与四球の乱調では慶応に勝ち目はなく、12対8で早稲田の勝利となったのでありました。

     全勝!ついに明治37年を通じて早稲田は一度も負けなかったのでありました。果たして渡米の約束は実行されるのでありましょうか。そのころ安部部長はすでに渡米のための交渉に取り掛かっていたのであります。しかしながら一野球部が渡米するとは、当時の常識では考えられない大事業であり、大学当局の態度もまた、「安部君、まさか気が狂ったんじゃないだろうな」というものでありました。
     世は日露戦争の真っ最中、大学当局も反対という中で、万策尽きた安部部長は早稲田の創立者、ご老公・大隈重信候に直訴したのであります。ところがこの渡米計画が、新しい物好きのご老公にピタリとハマッたのでありました。「それは早いほうがいい。他の学校が行かない中がいい。殊に日本の立場を説明するには、こうした運動競技によってするのが好都合だ。」とまったくの大乗り気でありました。そして資金調達を約束し、安部部長が終世忘れられない言葉を送るのであります。「学生には学生のなすべき道がある。戦争をやるものはほかにおる……」

     そうと決まれば渡米の準備であります。早速アメリカの大学数校に連絡を取ると、明治38年2月、スタンフォード大学から快諾の返事が届いたのであります。アメリカ!いよいよアメリカ遠征が現実となるのであります。早稲田選手たちは小躍りしながら日々の練習に励むのでありました。
     ところが出発の日も4月4日と決まったころ、突如慶応からの挑戦を受けるのであります。早稲田に渡米の先鞭をつけられたことへの羨ましさと、前年の連敗の雪辱戦を行いたい気持ちが見え隠れしているのでありますが、なにぶん早稲田の快挙を祝して壮行試合をとりおこないたいと申し入れられては断る理由もなく、3月27日に早慶通算4度目の対戦が行われたのであります。この試合は復活した慶応エース櫻井の豪腕が冴え、1対0で慶応の勝利、通算2勝2敗となり、慶応選手は快く早稲田選手の遠征を祝したのでありました。

     世はまだ日露戦争の中にあり、日本に向かっているというロシア・バルチック艦隊が日本沿岸のどこに現れるかわからないまま、安部部長と選手12名の遠征チームはまだ見ぬアメリカへ旅立っていくのであります。次回にっぽん野球昔ばなしは「早稲田のアメリカ遠征記」です。



     第三十七回 早稲田のアメリカ遠征記


     早稲田チーム一行を乗せて明治38年4月4日に横浜を出港したアメリカ汽船コレア丸がサンフランシスコに到着したのは4月20日、実に16日に及ぶ船旅でありました。日本人野球チームがやってくるというのは当地でもちょっとした話題になっておりまして、彼らが船から下りると地元紙が取材にやってきたのであります。
     さてさてどんな記事になったかといいますと、ちょんまげに大小2本差しのサムライスタイルでバットを持ってアメリカ人を睨んでいる漫画とともに、『今度日本人の野球チーム早稲田大学チームが来朝した。先年豪州チームが来たがこれは試合をしなかったから、これが我がアメリカ人以外のベースボールチームの最初の来征である。彼らは相当に強いそうである。そして試合に臨む折はかく大小の刀をさして来るかも知れない』などと書きたてたのでありました。この記事を読んだアメリカ人はいずれも真に受けて「こんな格好で試合をするのか」と聞きに来るのでありますが、「違う、違う」と何度言ってもなかなか信用されないのでありました。
     やや面白半分なところもありますが、全体としては好意的でありまして、サンフランシスコヘラルド紙などは、『日本は太平洋対岸の一小国であるが、その小国をもって今や世界屈指の強国大ロシアと戦っている。それにも拘らず国民は余裕綽々としている。現に早稲田大学野球チームはスタンフォード大学並びにカリフォルニア大学に挑戦してきた。何という勇ましいことであるか。我が各チームはこの遠来のチームに対して充分の好意を持って当たるべきである。』という記事を載せたのであります。

     このような好意的な注目の中、到着した翌日、まだ船酔いの取れないうちからスタンフォード大学での練習を始め、29日からいよいよ試合が始まったのであります。スタンフォードをはじめカリフォルニア、南カリフォルニア、オレゴン、ワシントンなどの大学チーム、陸軍兵学校や海軍兵学校、クラブチームから高校、中学チームまで、6月12日までの45日間に26試合、しかもサンフランシスコからロサンゼルス、シアトル、タコマと1,500マイル(2,400q)に及ぶ移動をこなすわけでありますから、3連戦、4連戦、5連戦の強行軍になるのもやむを得ないのでありまして、エースの河野などは代わりがいないこともあって連日の登板、アメリカ人から「アイアン・コーノ」、すなわち鉄人、鉄腕と賞賛されるようになったのでありました。

     わずか12人の選手がこれだけの強行軍をこなすわけでありまして、しかも相手は本場最新の野球技術、かたや早稲田は前近代的とでもいうべき野球技術でありますから勝負にならないのが当たり前でありまして、緒戦のスタンフォード大に1−9で敗れたのを始めとして結局7勝19敗、大幅な負け越しではありますが彼らの事情を考えますに、むしろ善戦したといってもいいでありましょう。
     選手たちは疲労困憊になっていったのでありますが、それよりも本場の野球、新しい技術に触れる喜びのほうが大きく、『スタンフォード大学一回戦の如き、思うさま敵の詭計におちいって翻弄された。以後我が遠征軍は、大いに悟る処あり、まったく勝敗を離れてひたすら彼らの長所を学ばんことに努めた』(早稲田大学野球部50年史)のでありました。

     6月13日、実りあるアメリカ遠征を終えた早稲田チームは日本に向けての帰路に就いたのでありますが、彼らの得た知識は日本の野球を大きく発展させることになるでありましょう。次回にっぽん野球昔ばなしは「早稲田のアメリカみやげ」です。



     第三十八回 最新野球術


     当初の目論見に遠く及ばない成績であったものの、早稲田渡米チームが見聞きしたものはまさしく最新野球術でありました。そしてその技術を日本に持ち帰ったことがわが国の野球を大きく進歩させることになったのであります。

     まずは用具。この渡米により、スパイクが日本に持ち込まれ、ついに足袋と脚袢の時代に別れを告げるのであります。そして従来内外野ともにミットを使用していたのでありますが、これより捕手一塁以外はグラブを用いるようになり、軽快なプレーが可能となったのでありました。
     さらには練習方法の改善でありまして、従来はキャッチボールの最初からいきなり全力投球をしていたのでありますが、アメリカより持ち帰った練習法によりウォーミングアップという概念がはじめて紹介されたのであります。そしてまた、各々勝手無秩序に行われていた練習も、打撃練習、投球練習といった秩序だったものになっていったのでありました。
     戦術的にも、従来「ブント」と呼んで時にこれを使うものがあったもののあまり活用されていなかった「バント」が積極的に活用されるようになったのであります。そしてこのバントを使った必殺技「スクイズ」もこのときに持ち帰った新戦法でありました。なお、当時このスクイズのことをバントエンドランと称していたようであります。
     そして、「二塁手は二塁を守る人」という観念から、走者が二塁にあるときは常に二塁手がベースについていたのでありますが、現在のように通常の守備位置を取り、遊撃手と連携して走者を牽制するようになったのもこの時からであり、スライディングもまたこの時導入されたものでありました。余談ながらこのときのスライディングは手から滑り込むもので、足から滑り込むスライディングはもう少しあとになってからであります。
     このように多くの土産を持ち帰ったアメリカ遠征でありますが、中でももっとも進歩したのは投球術でありましょう。ダンシングスイング、ボディスイングと称された投球フォーム、いわゆるワインドアップもこの時持ち帰った新技術であり、スローボールを活用するチェンジオブペースの重要性もこの渡米で得た技術でありました。さらに橋戸主将はこの遠征において投球術とは「カーブでもスピードでもなくコントロールが最大のものである」と気付いたのでありました。

     早稲田チームはこれらアメリカ土産の新技術を『秘伝』にせず、橋戸主将は新聞や雑誌に最新式の野球術として紹介し、その集大成として『最新野球術』を著述し、わが国の野球の発展に大きく寄与したのでありました。さらに選手たちは各地にコーチに出かけこの普及に尽力したのであります。
     ここでちょっと論争になったことがありまして、それは投手のプレートの踏み方でありました。従来はフロント・オブ・ピッチャース・プレートという言葉の解釈でありまして、「プレートの前」=「プレートより二塁寄り」と考えて、踏み出した足がプレートを踏むという意味に取っていたのでありますが、プレートを踏んでそこから前に踏み出して投げるという意味だったと橋戸主将は新聞に書いたのでありますが、「それだと足の長さで差が出るではないか」「明治34年以前はそういう投げ方だったが外人の意見などを聞いて今の投げ方にしたのだ」「そもそも早稲田はアメリカを見てきたといっても太平洋沿岸だけで本場の紐育やワシントンを見たわけであるまい」などと反論が来たのでありますが、事実は事実でありまして投球位置は改められたのでありました。

     さて、バントについて早稲田がアメリカから持ち帰る前から「時にこれを使うもの」がおりまして、早稲田渡米チームにも参加しております。チーム唯一の関西人、次回にっぽん野球昔ばなしは「巧者・泉谷祐勝」です。



     第三十九回 巧者、泉谷祐勝


     早稲田渡米チーム唯一の関西人、泉谷祐勝はバントを得意とし、時にバント安打を成功させたりしておりまして、同僚の橋戸、押川といった帝都野球界で鳴らした名手たちも感心して一目置いていたのでありますが、ある日バントを成功させると、敬虔なクリスチャンであり、人望高く、選手たちも慕っておりました安部磯雄野球部長が顔を曇らせて、静かな調子で「相手を欺き、一塁に生きようとする。わが早稲田の名誉にかかわることですから、今後はやめなさい」と言い出し、あわてた橋戸主将が1時間もかけてバントの有効性と戦略の説明をするといった事件もありました。
     ところが渡米して試合を重ねるにつれ、アメリカチームがバントを効果的に活用するのを目の当たりにするようになりますと、さすがの安部先生も、「こちらは泉谷君のような人ばかりだねえ」と変な感心をするのでありまして、泉谷君、これより大手を振ってバントを活用することになるのでありました。

     さて、この泉谷君の出身地である関西の野球事情といいますと、東京の野球に大きな影響を与えた横浜外人クラブと同様、神戸にも外人クラブが存在しておりました。もっとも横浜がアメリカ人中心で最初から野球の試合が行われていましたが、神戸はヨーロッパ系の人たちが多く、神戸クリケットクラブ(K・C・C)と称して、最初はクリケットを中心に試合をしておりまして、野球の試合をするようになるのは少し後になったのであります。
     それでも明治22年には宣教師の手ほどきでミッションスクールの関西学院が野球を始め、24年に姫路中学(現・姫路西高)、25年御影師範(現・神戸大学)、26年神戸商業、27年関西学院、29年神戸中学(後に神戸一中、泉谷君の出身校)などで続々と野球を始めるようになりまして、明治29年10月には神戸で初めての国際試合、K・C・C対尋常師範が神戸居留地グラウンドで行われ、31−8の大差、しかも3イニングでK・C・Cの勝利となったのでありました。
     このように、関西においては神戸が野球の本場という状況でありまして、泉谷君のほかにも、同時期の慶応で活躍した高浜徳一など神戸で育って東京で活躍する選手たちが出てくるのであります。泉谷君の実弟でのちに慶応の主将となる佐々木勝麿も神戸在住の外人からみっちりとコーチを受けておりまして、早稲田チームがアメリカからスパイクを持ち帰るより早くスパイクを使用していたのでありました。
     このスパイクも、早くから文献でその存在を知られていたのでありますが、佐々木君のように早くから実物にふれることの出来る選手は限られており、一般に知られていくのはやはり早稲田チーム帰国後ということになるのであります。それでも工夫をする人はいつの時代にもおりまして、わずかな文献から靴に釘を打ち付けて「スパイクだ」と得意がっている選手もいたのでありますが、いざグラウンドに出てみると一向に走れない。よく見ると、かかとのところにびっしりと釘が打たれていた、なんてこともあったようであります。

     さて、だいぶ話が脱線してしまいました。次回にっぽん野球昔ばなしは早稲田チーム帰国後の試合についてお話いたします。



     第四十回 早慶3回戦事始


     早稲田の帰国第一戦は、早慶、一高に並ぶ強豪、学習院でありました。学習院は当時、白い靴を履いていかにも貴公子然としたチームでありましたが、洋行帰りの早稲田は胸にエンジの「WASEDA」の文字、帽子に二本のライン、アンダーシャツにスパイクというハイカラぶりで学習院を圧倒したのでありました。
     しかしながら、服装と試合は別物、早稲田はこの強敵に9回表まで3−2とリードを許したのであります。このまま敗れては本場帰りの面目が、といった緊張感が漂った最終回、早稲田はアメリカ仕込みのバントを多用し学習院を撹乱、一気に逆転し6−3で勝利したのでありました。
     さて、早稲田のアメリカ土産はまだありました。それはサンフランシスコの在留邦人から寄贈された渡米記念の大きな銀杯であります。それはそれでありがたいものではありましたが、ただ飾っていても面白くないということで、早稲田は好敵手、慶応との試合をこのカップの争奪戦にしよう、そして一回で勝敗をつけるのは面白くない、アメリカの大学の例に倣って3回戦にして、2勝したチームがカップを1年間保有しようと慶応に提案し、慶応もそれを快諾したのでありました。こうして今も続く3回戦形式が日本で初めて行われることとなったのであります。

     記念すべき3回戦の第一試合は明治38年10月28日、早稲田戸塚球場ではじまったのであります。早稲田の投手はアイアン・コーノこと河野安通志、慶応の投手は巨漢・豪腕・容貌魁偉の大エース櫻井彌一郎、両軍の誇る名投手の投げあいで始まったこの試合は1回にいきなり慶応が3点を先取、その後も加点し投げては櫻井の豪腕冴え渡り、ついに5−0で慶応の快勝となったのでありました。
     この試合、慶応の意地と努力が実ったものといえましょう。本場仕込みの早稲田に対し、慶応もまたアメリカ・スポルディング社から「エンサイクロペジア・ベースボール」という本を取り寄せ、暗誦するほど読書、研究に打ち込んでいたのでありました。

     続く2回戦は11月9日、場所は移って三田綱町球場。スタンドを埋める応援団は慶応の紫の小旗、早稲田のエンジの小旗を打ち振って試合開始をいまや遅しと待ち構えているのでありました。両軍投手はかわらず河野と櫻井、後がない早稲田と一気に勝利したい慶応、緊迫した投手戦で始まった試合は、終盤となっても両軍得点なく、7回には慶応応援団が上着を取ってスタンドに「KO」の人文字を浮かび上がらせるという秘策も、満場を驚かせるという効果はあったものの得点には至らず、0−0で迎えた9回、早稲田がついに一点を先取、その裏の慶応の反撃を封じて1−0で見事雪辱を晴らしたのでありました。

     こうなると否が応でも盛り上がる3回戦、両校地元住民まで寄ると触るとこの噂で持ちきりのなか、11月11日、早稲田戸塚球場で決戦は行われたのでありました。三たび投げあう鉄腕河野と豪腕櫻井、3回に早稲田が一点を先行すると6回に慶応が追いつく。両軍譲らず9回を過ぎて1−1の同点、試合はついに延長戦へと進んだのであります。しかしながら、慶応櫻井の不運は2回に受けた死球の影響か、7回に正捕手が負傷交代したことか、徐々に制球が乱れていったのでありました。延長11回、ついに早稲田は櫻井を捉え2点を挙げ、粘る慶応の反撃を1点で押さえ、3−2で記念すべき試合に勝利したのでありました。

     かくして早慶戦は大盛況、世の注目を集める存在となったのであります。そのころ早慶両校の後塵を拝した形となった一高に新たなる挑戦者が現れます。次回にっぽん野球昔ばなしは「三高、東上す」です。


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