子供たちに残したい野球 by きよし@川口市

    第5回 プロと野球少年がグラウンドにいる風景

    第6回 おじいちゃんと話がしたい!川上哲治さん考

    第7回 きよしくん、ハイ!:駄菓子屋世代の野球小僧

    第8回 HOME COMING:身近にある幸せのように



     第5回 プロと野球少年がグラウンドにいる風景


     私は時々怖くなる事があります。仕事でも趣味でも、またコミュニケーションでも、自分が今まで「基本だ」と当たり前に思っていた事を実は忘れてしまっているのではないかということ。文章にしても、自分はこれならわかるだろう、と思っても、実はそうではない。そんな自戒を込め自分をテストする意味でも、こうやってエッセイを書いています。

     今年5月17日から19日の間、ヤクルト球団主催で行われた「春の野球祭り」としてさいたま市営球場(大宮市営球場)で開催された、ヤクルト・スワローズvs読売ジャイアンツのイースタンリーグの試合には、ヤクルト球団だけでなく、ヤクルト販売、JR東日本、さいたま市の少年野球振興会の方々、他のご協力により少年野球チームの選手また子供野球ファンのための野球教室、選手や小川二軍監督への子供インタビュアー、イースタン戦試合でのバットボーイ、グラウンドでの記念写真撮影会、サイン会など、さまざまなファンサービスが催されました。JR京浜東北線の埼玉県での各駅にも、この試合の広告ポスターが貼られるなど、主催側の意気込みが感じられました。16日は6回降雨コールド、17日は雨天中止となりましたが、日曜日の19日は晴天に恵まれ、おかげで3,200人の観客が詰めかけました。特に少年野球チーム、親子連れの観客が多かった事に喜ばしい限りでした。

     さいたま市と言えば、大宮・浦和・与野市が合併し、サッカー人気のある地域でもありますが、都心のベッドタウンとしての位置づけもあり、育児・少年少女育成については地域や家族単位でも高い所だと思います。そこで行われるこのイベントは一児の親である私もタイムリーなものと感心し、朝早くから球場に駆けつけました。実際にこういったイベントを目にすることは、私には初めてだったのですが、本当にプロ野球が行うべきファン感謝やファンサービスとは何なのだろう、と考えさせられたほど、心を込めた内容に見えました。私も少々ミーハーして、家族と一緒にスワローズの選手・スタッフとの記念撮影会のため(何と写真代、送料無料!)、グラウンドに入場させて頂きました。ファームの試合とは言え、足で強く感触を確かめ、手で触れてみた、プロ向けに手入れされた土と芝のグラウンドはやはり良かったです。外野席のない球場でしたが、そこから観客席を見渡すと、心ときめくものがありました。そんなグラウンドの上で、少年少女の監督・選手へのインタビュー、プロのコーチや選手からのノックを受ける少年野球選手達の姿は実にきびきびしていて、礼儀正しく、輝いていました。

     そしてイースタンリーグ公式戦の試合開始。始球式は「プロとの対戦形式」でした。各選抜された少年野球選手が、後攻のスワローズの選手をバックに各ポジションに着き、投手もジャイアンツの1番打者・山田真介外野手と対決。打球は(意図的か本気か不明ですが)三遊間の際どい当たりに。これをショートの少年選手が、実に柔らかな体を活かした素晴らしいバックステップで好捕、しかし送球は間に合わず山田選手はセーフ。たった1球に少年選手達全員が動き、それはきっと永遠に胸に刻み込まれる事でしょう。

     キャッチボールや守備練習のノックは基本だと言われています。愛媛県松山市営球場で行われた池山・岩村・土橋選手らの少年野球で池山選手が仰った「野球はキャッチボールが基本です。キャッチボールが下手になると野球も、どんどん下手になっていきます。キャッチボールは相手の胸めがけて取りやすいように、そして気持ちを伝えるように投げ(その気持ちを)受けて下さい。」という言葉を思い出します。けど基本を続けるのはつらく長い道のりかも知れません。

     私は戸田グラウンド、浦和市営球場を中心にファームの試合を時々観に行きますが、とても素晴らしい素質を持つ所もあるのに、あと半歩のベースリードが足りない選手、伸び悩む選手、覇気の感じられない選手、エラーにならないミスをする選手、そして、ちょっとした勇気のある動きが・・・もう少し考えれば・・・等々と感じる選手が多くいます。そんな選手達は、この日の、プロから見たら当たり前のはずの基本をあれほど楽しそうにやっていた少年選手達の姿を見て、何人の選手達が遠い昔に野球を始めた動機付けのあった頃の自分の姿を思いだしたのだろう、と帰りの電車の中で考えていました。

     同様のイベントは7月6日、神宮球場でも対湘南シーレックス戦で行われました。このイベントを推進していただいた関係者の方々に、いち野球ファンとして感謝します。

    PS.後日談ですが、無料の記念写真は、ヤクルトレディから電話があり、直に自宅に届けられました。その時、ヤクルト製品をしこたま買ってしまいました。恐るべき商魂。(笑)



     第6回 おじいちゃんと話がしたい!川上哲治さん考


     私は自分の「きよし」と言う名前が、あまりにもありきたりな名前で嫌いだったのですが、厳しい両親の家庭にあって家は離れていたけど唯一私に優しくしてくれた、母方のおじいちゃんが「きよし、きよし」と優しく呼んでくれた・・・私はおじいちゃんと話すのが大好きでした。

     皆さんは、「川上哲治さん」という名前をご存じでしょうか?また、ご存じな方は、どんな印象を持たれているでしょうか?「巨人V9の偉業を成し遂げた監督」「打撃の神様」「青バットの大下、赤バットの川上」「弾丸ライナー」「テキサスの哲」「哲のカーテン」「元祖管理野球」「巨人のドン」「鬼監督」「とっつきにくいじいさん」・・・等々、様々あるでしょうね。

     川上さんは1920年、熊本市人吉市生まれ、熊本工業学校時代投手として甲子園出場。1938年読売巨人軍に入団。その後一塁手として打棒を振るい、打率..338で史上最年少の首位打者獲得、そして四番打者として活躍し、首位打者5回、MVP3回、本塁打王2回、打点王4回。終身打率.313、通算安打数2351。1958年に現役を引退後、1960年より水原監督の後を受け巨人軍監督となり、日本シリーズ9連覇(1966〜74年)を含め12回優勝。

     これだけでも凄いのですが、1942年9月19日甲子園球場での対名古屋軍の試合を最後に、一度野球を「辞めて」いるのですね。「戦争」のために。(ここでは戦争論および戦争の是非云々は述べません。)で、その年以前の成績がMVP1回、首位打者2回、本塁打王1回、打点王2回。1リーグ時代で本塁打数や試合数も今より少なかったとは言え、今よりも決して良質でないボールやバットを使っていた時代に、ここまでやったことを考えれば、今で言ったら一億円プレーヤーは軽く越えていた、それくらいの選手だったわけです。1942年10月11日付けで入営し、奥さんを神戸の実家に残したまま終戦まで軍隊生活を続けた川上さんは、1945年8月の終戦後、1946年6月に巨人軍に復帰するまで何をしていたのでしょう?

     私の母は私の祖母と戦後の食糧難時代、池袋から飯能の田舎まで足を棒にしながら通い、祖母の貴重な反物と引き替えに食料を譲ってもらったそうです。私の父は桶川の親戚に疎開し、結核を患って満州から帰ってきた兄を大八車に乗せ、医者に通いながら田畑を耕し、農地改革時に「恩を受けた人(親戚の地主)から田畑を奪って居座っていていいのか!」と祖父に談判し、焼け野原の浅草に戻ったと言います。父は今もってサツマイモ、雑炊、すいとん汁が食べられません。その父は私に「桐生(群馬県)に外野フェンスなしでロープ張りの試合を観に行った」と漏らしたことがあります。終戦後初めて1945年11月23日、神宮球場でプロ野球東西対抗があったその第2戦は同年11月24日桐生市新川球場で行われました。恐らくは、と思います。しかし、その試合に「川上哲治」の名はありませんでした。

     川上さんは奥さんを神戸に残したまま、故郷の熊本県人吉市に帰ったのです。僚友の青田昇さんに、川上さんが貧しい家の8人兄弟の長男で、父が早逝され、母が日雇いで働いていたこと、そして戦後郷里に帰って、弟妹を養うため麦作農業をされていた、と話されたそうです。そして優秀な麦作りによって県から表彰を受けた、と。今、お食事されている方には御免なさいですが、その麦作りには肥料が重要で、水と肥料との薄め方に秘訣があったそうで、それは指で舐めて確かめたそうです。「それくらい愛情がないとモノは育たん。」と。今にしたら「1億円プレーヤー」相当以上の方が、人様の排泄物を舐めてまでご家族を養った・・・私はそれを知って絶句しました。そして思いました。「自分はいかに“愛している”とは言え、人様の排泄物を口にするまで家族のために尽くせるだろうか?」と。また、人を慈しむとはそこまですることなのか、と。その川上さんは1945年戦後初のプロ野球が始まるにあたり、巨人軍から戻ってこないか、と手紙をもらっていたそうですが、親族を養う土地を奪う農地改革とも戦っている最中であり、1946年に民衆から「金と川上」という謗りを受けながら、当時3万円のお金を巨人が払って復帰したとのことです。一体誰が川上さんを責められるのか、と私は思います。

     さまざまなエピソードや「負の遺産」が事実だとしても、こんな人が打ち込んだ「野球」に、愛情はたくさんあったはずでしょう。僚友の青田昇さんは故人となり、千葉茂さんは「へたくそとは野球の話をしたくない」と言います。けど、私は一度でいいから、こんなおじいちゃんとお話しがしたいです。そして、「そこまでやれた人」の、愛情をもった真実の声が、今のプロ野球界に届かないのは、なぜなのだろう、と思うのです。

    【参考文献】

    「昭和20年11月23日のプレイボール」鈴木 明著、光人社
    「遺言」川上 哲治著、文藝春秋
    「サムライ達のプロ野球」青田 昇著、文春文庫
    「この国で戦争があった」 PHP研究所



     第7回 きよしくん、ハイ!:駄菓子屋世代の野球小僧


     今じゃさ、みんなテレビゲームやらなんやらやってるじゃない。オイラの頃は毎週2回公園に来る紙芝居屋のおっさんが楽しみでさ。テレビよか面白かったよな。あの喋りがさ。今じゃ、どっかのでかいスーパーやデパートのコーナーに「懐かしの駄菓子屋」なんてあるけどさ、駄菓子屋って言うと買い食いする他に、ベーゴマとかメンコがあってさ、メンコはたいがいウルトラマンかゴジラ、巨人の星、タイガーマスクだったよな。ベーゴマは王、長嶋、時々堀内、柴田なんてあって、川上は知ってたけど大下、杉下なんてあの頃は知らなかったんだよな。

     で、駄菓子屋でテー球(軟式テニスボール)売ってるんだけどさ、これだってせこい小遣いじゃあんまり買えねぇんだよ。それにすぐ割れるし無くすし。だから尾久の草野球場に行ったり、違う学校の奴らが野球やゴロベースやって遊んでるとこに待ちかまえて、ボールが飛んで草むらとか塀を越えたら、取っちまうんだよ。軟球なんかゲットしたら儲けもんだったね。で、そのボールでゴロベースとかハン場(工事現場)の棒っきれかっぱらって、野球するんだよ。場所はたいがい空き地とか、立入禁止の工事現場予定地。そこでやってるとさ、おっかねぇおっさんが「てめぇら!そこでなにやってるんだ!パイプが倒れてきたら危ねぇだろ!」って追い出されてさ。なにせ高度経済成長期ってわけで、空き地なんかどんどん立入禁止になっちゃってさ。けど、おっさんが土曜の昼休み時に現場のそばでまた野球やってるとさ、昨日怒ったおっさんが昼休みなもんで「俺にも打たせろ」ってさ。「何だよ、虫のいい奴!逃げる準備しといて、ぶっつけちまえよ」って口裏あわせてたよな。

     オイラの子供の頃にもさ、本当に貧乏子沢山な家の奴がいてさ、そこん家のあんちゃんはガキ大将で根性あったね。オイラなんか痛かったらすぐ泣いちまうけど、どんなに痛くても、ひでぇ時には骨折しても泣かなかったもんね。そんなあんちゃんがさ、ゴロベースとか野球もどきとか、人数決まんない時はローカルルール作って仕切るんだよな。で、どっかの家の庭にボールが入っちゃうと、あんちゃんがそこん家のオヤヂに謝ってくれるんだよ。ボール取らせてくださいって。うちのあたりに昔からいるとこはよかったけどさ、新しく家建てたとこのオヤヂはイヤだったねぇ。ボール入って謝ってんのに、くどくど説教しやがって。一度オイラあんまりしつこく言うもんだから、こっちも言ってやったよ。「うちのとうちゃんが、最近越してきたあそこの家のオヤヂは何処で成り上がったか知らねぇが、せちがらい奴だって言ってたぞ!」って。そしたらそのタコオヤヂ「ぬぅわにぃ〜!」って本気で怒ちゃってさ。オイラ、あんちゃんが「やめろ!」って言っても聞かずに「や〜い、タコが赤くなって茹でダコだぁ!」って言ったら追っかけられてさ。あのオヤヂが追いつくわけねぇじゃん。けど、あんちゃんが「もうあそこで遊べなくなった・・・」ってがっくりしてたの見たら、悪いことしたなぁ、って思ったよ。

     あんちゃんみたいなしっかりした目上がいなくなった頃に事が起こったら大変だったね。やっぱり9人対9人の野球やりたいもんだからよ、学校で人数募るわけよ。隣のクラスと対抗でさ。もう小学校5年くらいだとさ、「塾があるから」とか「習い事があるから」とかで、集まんねぇんだよ。しょうがねぇから女の子も誘うとさ、「やるやる!」ってのがいるんだな。しかもよりによって気の強い学級委員の女。中にはマンション住まいで鍵っ子の女の子もいてさ、妹と一緒にやるならいいって。で、その子に外野守らせると、ちっちゃい妹の手を引っ張って走るから、追いつきっこねぇって。で、クラスにもガキ大将がいて、

    「おい、きよしぃ、だから無理してあんなの入れなくてもよかっただろ〜」

     って。すると学級委員の女の子が、

    「あら、誘ったのはそっちじゃない。大体、女にも野球をする権利があるでしょ!」

    (ここからは脚本式に)

    ガキ大:「だって2組に負けていいのかよ!下手を下手って言って何が悪りぃんだ!」
    委員女:「参加することに意義があるじゃない!何よ偉そうに仕切って。だいたい男はね、考えなしで女のことバカにするじゃない!体育バカのくせに!」
    きよし:「おいおい、よせよ・・・」
    ガキ大:「うっせーな!勉強できるだけが能じゃねぇぞ!んだよ、5年にもなって毛糸のパンツ履きやがって。なーにが“くまちゃん、はぁと”だ!」
    委員女:「きー!いつ見たのよ!ママに言いつけてやるから!」・・・バコーン!
    きよし:「うをを!あつしの3ランホームラン!」
    一同:「うわー!やったぁー!逆転だぁー!」

     どっかの大学教授兼議員の人がさ、某テレビでやりあってるのとおんなじようなケンカだったけどさ、みんな野球が好きで、キレたりせずに野球で仲直りできたんだよな、あの頃は。

    ※ 今回は敢えて乱暴な口語体を使わせて頂きました。失礼をお詫びいたします。



     第8回 HOME COMING:身近にある幸せのように


     故、スタンリー・キューブリック氏とスティーヴン・スピルバーグ氏が出逢って構想し実現した映画「A.I.」を観て、私は5回泣きました。映画の中で「心」を持った少年ロボットが2000年の間、海底に沈んだコニー・アイランドのブルー・フェアリーに願い望んだもの、それは私たちがごく身近で当たり前にある、日常の家族愛でした。

     近年、家族の在り方、家族愛について描き問題提起する映画が流行っています。アメリカで何かが変わったのでしょうか?そして少年野球を描いた「陽だまりのグラウンド」も、家族、特に子供達にとって大切なものは何なのか?という問題提起をしていたと思います。メジャーリーグが日々日本にも衛星放送で中継されている状況に、私も華やかさと「最上の野球」の素晴らしさを感じます。けどその試合なりプレーが「生観戦」として地元の、特に貧しい人々に分け与えられているのであろう、と思っていた私は、「陽だまりのグラウンド」を観て、もしかしたらそうではないかもしれない、と考えました。

     私たち日本のプロ野球ファンが何気なく、または入れ込んで球場に足を運んでいる。「入場料が高い」「球場内の食べ物が高い」そんな声は上がっても、とにかく球団のある都市部に住んでいる人なら、1,500円払えば球場で試合を観られます。子供料金は500円。しかし、この映画の中の野球少年達は、2球団もチームがあるシカゴという街にいながら、自分たちが野球をプレーすることを好きで好きで楽しみにしていても、一度として球場でプロの試合を観たことがない、と言うのです。主人公が子供達を球場に連れて行き、サミー・ソーサ選手を見つけ声をかけると、あの胸に手をやる独自のポーズをする姿。貧しい者を知るヒーローが貧しい弱者に送る最高の笑顔がそこにあったと思いました。それはスラム街の少年達が、家に帰ることすら「危険」が伴う環境で生き続ける中での「希望」だったように思えました。

     チベットのとある偉いお坊さんに聞いた人がいます。「この世で最も価値の高いものは“愛”でしょうか?」と。するとお坊さんは「いや、違う。“憐れみ慈しむ心だ”。」と答えたそうです。私もこれは一体何を意味しているのか?と無い頭で考えました。そしてこれは私なりの答えですが、「分け隔てなくその人にとって“幸せ”であって欲しいと願う気持ち」ではないか?と。この台詞は、「A.I.」で2000年の時を越えて少年を回収した神とも宇宙人ともつかない知的生命体が、「我々の望みはキミに幸せになって欲しいことなんだ」と、いう台詞に共通している、もしそうなら、幸せは富むことでも偉くなることでも、モノ文化が発達し社会全体、球界全体が経済的に向上し整理され便利化・高度化することでもなく、ごく普通の身の回りにある日々の幸せにあるのではないか、と思うのです。

     元・中日〜千葉ロッテの与田剛士さんは、憧れのノーラン・ライアン氏とのキャッチボールが実現し、ライアン氏の投球を受ける時、いつもなら片手捕りしていた自分が右手をグラブに添えている自分に気付き、父の「キャッチボールは野球の基本だ。しっかり捕れ。ボールを大切にしろ」という言葉が甦えりライアン氏の顔が父親の顔とだぶって見えたそうです。

     ジョー・オドネル氏は石油会社チームの名プレーヤーでメジャーからの誘いもあり悩んだけど、家族の幸せを選択し、気遣う妻にこう言ったそうです。「いいんだよ、俺にはもう一つ夢があるんだ。息子とキャッチボールをするっていう夢が。キャッチボールで親子の会話をしたいんだ。生き方や考え方をそこで伝えていきたいんだ。それは、メジャーで活躍するのと同じくらい価値のあることなんだよ。」と。そしてクーパーズタウンの野球殿堂博物館館長室に飾られているオドネル氏の遺影の裏には、「どんなに忙しくても疲れていても、キャッチボールをしてくれた父。あなたこそ殿堂入りすべきだと思います。」と息子さんより記されているそうです。

     キャッチボールをするためには最低2人、チームを作るには最低9人、試合をするには最低18人、アンパイアを入れれば最低19人募らなければなりません。「野球」の前に「人」との繋がりありき・・・そう思うのは私だけでしょうか?その繋がりの上に行われる野球、キャッチボール、「あなたがいてくれる幸せ」、それすら実感できることなく、日々の楽しみすら、欲望や戦いのために置き去りにされている海外の国の子供達がたくさんいます。プロになれなかった人もどこかで一度野球を諦めた人も、もしボールを握り「パン!」と受けた感触を覚えている方々なら、そんな海外の国に行かれた際には、グローブ2つとボール1個を是非持っていって欲しいな、と願って止みません。

     さて、読者の皆様には大変申し訳ございませんが、私事私用の都合により、今回を以てエッセイの執筆を終了させて頂きます。短い間でしたが、お読み頂き本当に有り難うございました。

    【参考文献】

    「いつもキャッチボールが教えてくれた」佐藤 倫朗著、東洋経済新聞社
    「インナーチャイルド」ジョン・ブラッドショー著、NHK出版


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