Team Chronicles 〜日本のプロ野球チームの歴史〜 東北楽天ゴールデンイーグルス編 by アトムフライヤー

    第1回 パールス編その1

    第2回 パールス編その2

    第3回 バファロー編

    第4回 バファローズ編その1

    第5回 バファローズ編その2


    第6回以降はこちら



     第1回 パールス編その1


     読者のみなさまこんばんは。
     ぼーる通信も、このシリーズの特別号を発行して以来長らくご無沙汰していましたが、まずは、続くこの連載を発行後に、準備を整え、通常ペースで再開します。
     よろしくおつきあいください。

     2004年の球界再編騒動でなくなってしまった大阪“近鉄“バファローズ。
     何度もパシフィック・リーグを制覇しながら、ついには日本一になれず、9年間監督を務めた西本幸雄が”悲劇の名将“と呼ばれたこともありました。
     また、投手としても打者としても一流の成績を残した関根潤三、2,000本安打の土井正博や新井宏昌、300勝投手の鈴木啓示、そしていうまでもなく、メジャーリーガーとして活躍してきた野茂英雄や吉井理人が在籍した名門球団でも、あります。
     それから、伝説となっている1988年10月19日の、いまや“亡き”川崎球場でのダブルヘッダー。このシーズンのプロ野球の主役は、間違いなく、仰木彬率いる近鉄バファローズでした。当時は森祇晶監督率いる“冷徹でマシンのような”西武ライオンズと、アナもあるけど、豪快で人間臭さ全開の仰木バファローズとが覇を競い、パ・リーグは非常に盛り上がったものです。その翌年も、上田利治率いる阪急ブレーブスを加えて3つ巴の戦いを演じ、0.5ゲーム差の優勝争いで盛り上がった熱パを制し、パ・リーグ優勝を遂げています。
     紆余曲折を経て球団自体はなくなってしまいましたが、この球団の本体がオリックス・ブルーウェーヴと合併する一方で、そこから漏れた一部が母体となって、現在の東北楽天イーグルス誕生につながっていくところまで、当シリーズでは紹介していきましょう。

     大阪近鉄バファローズは、1949年11月に結成され、近鉄パールスとしてパシフィック・リーグに加わっています。
     元々近鉄の佐伯勇社長は野球好きで、1944年に南海と提携し、近畿球団として野球に関わっていたことがあったわけですが、1946年の提携解消後は、日本一の私鉄のメンツにかけて自前で球団を経営する、と花火を打ち上げ、チームを結成したのでした。

     ただし、佐伯社長の採った行動は、実際には非常に慎重なものでした。
     このときは日本野球連盟に所属する既存の8球団が、選手不足などの理由に伴う既得権を確保するため、新球団の加盟を認めない動きを見せていたわけですが、佐伯社長は決して表だって動かず、機会をうかがい、毎日オリオンズの球団加盟にあわせて参加したのでした。したがって近鉄球団のリーグ加盟は、特段大きなトラブルを起こすことはなかったのです。
     そして二リーグ分裂時には、以前から私鉄会社による電鉄リーグ結成の話を阪急、南海から受けていたため、西鉄と共にパ・リーグに参加しています。
     ちなみに新球団、近鉄パールスの球団名“パールス”の由来は、近鉄沿線の伊勢志摩真珠からきています。しかしチームは人材不足で、弱いことから、負けるたびに、スポーツ紙には「近鉄真珠の涙を流す」と書かれる始末でした。

     チームがスタートしたとき、監督には、当時法政大学野球部監督だった藤田省三が就任しました。したがって選手には、監督とのつながりから自然と法政大学出身者が多かったのです。
     また藤田監督の影の人として、スカウトには大西利邑が就任、当時の日本で一番実力のあった6大学出身の選手たち中心のフレッシュなチームづくりを進めるべく、奔走します。
     そして藤田−大西ラインで獲得した選手の中には、*1関根潤三や*2根本陸雄といったひとたちがいました。

    *1 関根潤三
    法政大学から恩師の藤田監督に誘われ、近鉄パールスの結成に参加。投手として入団したが、登板のないときは外野を守った。1951年にチーム初のオールスター出場を果たす。
    通算65勝。パールス創生期を支えた投手のひとり。
    昭和32年からは肩を壊して、外野に専念。左打ちの好打者として近鉄パールス→バファロー→バファローズにて通算1089安打を放った。1964年のシーズン後、巨人に移籍。翌年引退。
    その後広島カープ、巨人のコーチ、大洋ホエールズ、ヤクルトスワローズの監督をつとめた。
    佐伯オーナーとの確執から近鉄とは距離を置いていたが、佐伯オーナーの死とともに和解し、現在は近鉄バファローズOB会長をつとめる。
    プロ野球界に残った唯一のバファローズ創生期の選手であり、今後の近鉄球団の歴史を語ることを期待される。
    フジテレビ系列のプロ野球ニュースにて、好々爺的な解説ぶりが人気を博した。

    *2 根本陸雄
    川崎コロムビアから恩師の藤田監督に誘われ、1952年に近鉄パールスに入団。捕手をつとめ、1953年にはレギュラーとして活躍するが、1956年からは控えにまわった。
    1957年にホークスに移籍、そして引退。その後スカウトを経てから1962年より5年間パールスのコーチをつとめ、さらに広島カープコーチ・監督、クラウンライター→西武ライオンズ監督、ダイエーホークス監督をつとめた。広島カープ時代はチームを初のAクラスに押し上げ、西武ライオンズ、ダイエーホークス時代には優勝をねらえるチームの基礎作りを行った。
    西武ライオンズやダイエーホークスの球団代表時代は次々とアマチュアの有力選手を入団させ、その辣腕ぶりから「球界の寝業師」の異名を取った。日本初のゼネラルマネージャーと言われている。
    関根潤三とは日大三中、法政大学でバッテリーを組んだ仲で、その縁で関根は、根本が監督時代に広島カープのコーチをつとめている。
    1999年に死去。その腕を惜しむ声は球界の内外から多かった。2000年に殿堂入り。

     これらフレッシュなルーキーたちに、野球スキルに長けた東京六大学出身者を中心として既存の球団から引き抜いた、*3黒尾重明(東急フライヤーズ)、*4田川豊(南海ホークス)、*5森下重好(太陽ロビンス)、*6山本静雄(中日ドラゴンズ)等を加えてスタートしましたが、スキルのないアマチュア出身選手の欠点を埋めるべく他球団から獲得したプロ経験者とでは技量の差がありすぎて、欠点を埋めるどころか、逆に大きな軋轢が起こってしまいます。そして、ゼロからスタートしたにもかかわらず3年間の任期しか与えられていなかった藤田監督には時間が足りなさ過ぎて、この対立を押さえることができず、チームはバラバラになってしまったのでした。
     それに加えて、毎日オリオンズのように、若林忠志や西本幸雄といった大物球界人のような、強いリーダーシップでチームをまとめることのできる人材もいなければ、社会人野球のチームからそのままプロになった国鉄スワローズや西鉄ライオンズのようなまとまりもなかったので、チームはいつまでも体裁を整えられる目処が立たず、前途は多難だったのです。

    *3 黒尾重明
    東京都立化学工業高校から1945年にテストで東京セネタース(現北海道日本ハムファイターズ)に入団。近鉄パールス結成時に移籍し、開幕投手をつとめた。あがり症をカヴァーするため投球時に顔をグローブで隠して投げる「スモーク投法」で人気があった。
    東京麻布の生まれで、粋な遊び人として知られており、節制していれば大投手になったと言われている。1974年に死去。

    *4 田川豊
    法政大学から近畿グレートリング(後の近鉄パールスと南海ホークス、現オリックス・ブレーブスと福岡ソフトバンクホークス)に1946年に入団。契約のもつれから太陽ロビンス(現横浜ベイスターズ)に1948年に移籍。
    パールス結成時に大学の先輩である藤田監督から誘われ、移籍し、3年間在籍。引退後はパ・リーグの審判をつとめた。
    1981年に死去。

    *5 森下重好
    法政大学から1946年にパシフィック(後の太陽・松竹ロビンス、現横浜ベイスターズ)に入団。近鉄パールス結成時に大学の先輩である藤田監督から誘われ、移籍し、1950シーズンは外野を守って四番をつとめ、30本塁打を打った。
    2000年に死去。

    *6 山本静雄
    豊岡物産から1948年に中日ドラゴンズに入団したが、芽が出ず、折からのドラゴンズのお家騒動にやる気をなくし、近鉄パールス結成時に大学の先輩である藤田監督から誘われ、移籍し、二塁手をつとめた。引退後のわずか2年後の1959年に死去。

     そして案の定、プロとしての戦い方を知らず、まとまりのないチームは、創設初年度から最下位に沈んでしまいました。
     黒尾、田川、森下、山本等はそれなりの成績を残しましたが、あとは、*7沢藤光郎投手と*8加藤春雄選手がかろうじて戦力になった程度という非力な陣容で、一度も浮上することなく最下位に終わっています。

    【1950シーズン 近鉄パールス主力選手成績
          (120試合制度、チーム成績44勝72敗4分)】

    ・投手
    黒尾重明 12勝21敗 防御率3.34(リーグ8位) 投球回263.2
    沢藤光郎 18勝19敗 防御率3.70        投球回301.2

    ・野手
    田川豊  打率.280 6本塁打 29打点 115安打 107試合出場
    森下重好 打率.291 30本塁打 93打点 134安打 118試合出場
    山本静雄 打率.230 4本塁打 27打点  86安打 104試合出場
    加藤春雄 打率.260 8本塁打 42打点

    *7 沢藤光郎
    盛岡鉄道管理局から近鉄パールスの結成に32才で参加。チームの初勝利をあげ、この年は18勝をあげた。通算68勝。パールス創生期を支えた投手のひとり。後にコーチ、スコアラーをつとめた。1987年に死去。

    *8 加藤春雄
    近鉄の系列会社である大日本土木から請われて、近鉄パールス結成に32才で参加し、外野を守り、三番を打った。1957年−1958年に監督をつとめている。
    退団後わずか3年後の1961年に死去。

     次回はさらに、パールス時代について説明していきます。



     第2回 パールス編その2


     読者のみなさまこんばんは。今回は、パールス時代について、さらに紹介していきます。

     1950シーズンは最下位に沈んだまま、1度も浮上してこなかった近鉄パールス。
     その後も戦力増加をねらって移籍組で戦力を補充する一方、新人を積極的に起用して育てようとするのですが、新人がプロの壁に翻弄される一方、移籍組は他球団から戦力外になった選手ばかりで盛りを過ぎていたために戦力にならず、翌年から1953年まで、4年連続最下位になってしまいました。この間に1952シーズン末、監督は朝日新聞の運動部長だった芥田武夫に代わっています。

     パールスのオーナーだった近畿日本鉄道の佐伯社長は、日本野球草創期には強豪で鳴らした第三高等学校(現在の京都大学)出身で、その関係から、パールス創設当初の球団社長として、その第三高等学校時代の先輩であった猪子一到を球団社長に招いていました。
     そしてその猪子社長はまだ若いときに、大日本東京倶楽部(現在の巨人)発足当時はプロ野球よりも強かった満州クラブの会長で、その満州クラブに在籍していた当時にお世話をしていた芥田に声をかけたのでした。
     芥田は満州クラブ時代、身体を壊して選手生活にピリオドを打とうと考えていた際、それにもかかわらずチームに残って監督をやってくれ、と当時の猪子会長に温かく言ってもらったことがあったのですが、健康を理由にそれを丁重に断り、満州を去って日本に戻ってきたという経緯があったので、そのときの恩を返そうと思っていました。
     それから後日、佐伯オーナー、猪子パールス球団社長、村山朝日新聞社長、そして芥田の4人は会食し、この席で佐伯オーナーは村山朝日新聞社長に対して、

     「芥田さんを養子にもらい受けます」

     と断りを入れ、芥田パールスが誕生することとなったのです。

     芥田は、1953シーズンはチーム把握に努めました。
     そしてチームを掌握した1954年のシーズン、野手に*9日下隆、*10小玉明利、*11戸口天従、*12鈴木武等の若手を大胆に起用する一方、移籍組の木村勉、武智修、鬼頭政一等もうまく使いました。投手では、ベテラン沢藤に若手の*13田中文雄、関根潤三等が二桁勝利をあげ、初めてAクラスに(八球団中四位)上がっています。
     躍進の要因は、ヒット・エンド・ランを中心としたオーソドックスでシンプルな野球と、ストライク・ボールの概念の徹底でした。1球ストライクをとられるまでじっくり球を見ていく待球作戦と、当時はまだまだ日本プロ野球で普及していなかったヒット・エンド・ラン、つまり、打ったら塁にいるランナーは走る、という単純な作戦にもとづく意識改革がうまくいったのです。これは芥田が早稲田大学の選手時代、飛田穂洲監督に受けた、“基本に忠実に”という教えを実行した結果でもありました。

    *9 日下隆
    法政大学から恩師の藤田監督に誘われ、1952年に近鉄パールスに入団。外野をつとめ、1954年には四番を打ち、野手でチーム初のオールスター出場を果たした。長打力に乏しく、本塁打は通算1本という記録が残っている。1958年に引退。その後は高校野球の監督をつとめた。

    *10 小玉明利
    兵庫県神崎工業から1953年、近鉄パールスにテストで入団。1954年、芥田監督から三塁手に抜擢されて、レギュラーになる。1956年から四番を打ち、以後リーグを代表する三塁手となり、近鉄パールス→バファロー→バファローズの野手で、初の全国区の顔となった。
    通算130本塁打と長打力にはやや欠けたが、バファローズ史上最多の1877安打を記録している。通算盗塁数135個と足も速かったが、三塁手としては守備範囲が狭く、「不動の三塁手」と呼ばれた。オールスター出場9回、ベストナイン5回、バファローズ史上に残る選手のひとりである。
    1967年は兼任で監督をつとめた。夏までは好調だったが、判定を巡って暴力を振るい退場処分になると失速し、結局最下位となったため、責任を取って辞任し、阪神タイガースに移籍した。
    通算1963安打を記録している。監督をひきうけなければ2000本安打を打ったであろうと言われている。1968年に引退。その後はプロ野球界から姿を消した。

    *11 戸口天従(とぐちたかつぐ)
    法政大学から1953年、近鉄パールスに入団。二塁手をつとめた。
    1960年に阪急ブレーブスに移籍。黄金時代を築く前のブレーブスの一塁手となり、五番を打って活躍した。1966年に引退。

    *12 鈴木武
    東洋レーヨンから1953年に近鉄パールスに入団。芥田監督から新人で遊撃手に抜擢されてレギュラーになり、40盗塁を記録。翌年は、71盗塁で盗塁王を獲得した。
    その後、千葉監督との確執から二軍に落とされていたが、三原監督に乞われて内野強化のために1960年6月に大洋ホエールズへ移籍し、守備と走塁で優勝に貢献した。1963年に引退。2004年に死去。

    *13 田中(現姓:武智)文雄
    大日本土木から近鉄パールスの結成に参加。1954年にチーム初の年間20勝をあげる。メディアの注目がまったくなかったが、パ・リーグ初の完全試合を達成している。通算100勝。パールス創設期を支えた投手のひとり。引退後はコーチを2年間つとめ、現在は、ネクタイの製造販売会社を経営している。

     しかし、翌年は再びBクラスに落ちてしまいました。西鉄ライオンズ、南海ホークス、毎日オリオンズが常にパ・リーグ優勝を争う中、パールスはその蚊帳の外に置かれ、戦力不足の大映スターズ、高橋ユニオンズと最下位を争う始末です。そして、大映スターズが高橋ユニオンズを吸収合併した後、さらにこの新大映ユニオンズが毎日オリオンズと合併してパ・リーグの再編成が行なわれていく中でも近鉄パールスは他球団から取り残され、1958年には1953シーズン以来の最下位に落ち、年間29勝(97敗4分)しかできず、「ボロ鉄」と呼ばれるようになってしまいました。
     創設時に法政大学を中心に選手を集めたため、派閥が生まれてしまった上に、球団や佐伯オーナーが、善意からであるとはいえ、現場をわかっていないまま、ヘタにタニマチ気分で選手の起用について口出しすることから、モチベーションが下がってチームがまとまらず、いつしか、負けても平然としている選手が大半を占めるようになっていったのです。
     そんなこともあって、関西の野球ファンたちからは、

     「プロ野球は大阪タイガース、南海ホークスに限る。阪急ブレーブスは強くないから困りもの。近鉄パールス?あんなチーム見る価値がない」

     と揶揄され、 パールスは当時ノンプロといわれていた社会人野球チームよりも弱いと囁かれるようになり、ボロ鉄は野球人生の墓場、とまで言われるようになってしまったのでした。

     この近鉄パールスの低迷ぶりについて具体的にいえば、まず、1950年−1958年までにベストナインの選出が12球団で唯一無く、オールスターの選出ものべ9人、野手は4人というありさまだったことが挙げられます。
     巨人戦によるテレビ・ラジオの中継がなかった上に、もともとパ・リーグは知名度の点でセ・リーグより劣っているにもかかわらず、パールスは特にスター選手がいないため、メディアで取り上げてもらえず、営業方は苦労していたのです。親会社が金持ちでも球団にかけられる予算は少なく、待遇は巨人等と比べると歴然とした差がありました。

     球団フロントも弱小チームから脱出しようと様々な工夫をしますが、チーム運営については素人に毛が生えた程度の人材しかいなかったので、うまく行きませんでした。
     たとえば1953シーズン、球団は、若手で実力をつけてきた関根を売り出そうとして、*14親会社を動員した組織票で彼をオールスターゲームに選出させましたが、この行為は「関根ごときが荒巻(淳、毎日オリオンズ)や柚木(進、南海ホークス)より実力があるわけないだろう。恥を知れ」と世間からすさまじい非難を浴び、関根自身もそれを気にしてか、後半調子を落としてしまうなどさんざんな結果に終わってしまったのです。

    *14 親会社を動員した組織票
    2リーグ制度導入以後にオールスターゲームがはじまったのは1951年だが、開始当時は18名を連名ではがきに書く方式だったので、組織票を入れるのにはハードルがあった。
    しかし、1953年には制度が変わり、単名をはがきに表記するだけでもOKとなったので、組織票が可能になったものと考えられる。

     1951年末には東急フライヤーズが主砲大下弘を放出すると知り、入団工作を行いますが、同年12月1日から野球協約が発効しているのを把握していなかったため、協約に基づいて球団同士の譲渡契約を成立させた西鉄ライオンズに大下をさらわれてしまい、せっかく大下の後見人に金銭を使って入団工作をしたことが無駄に終わってしまいます。
     またこの件と同様に、1958年末の大阪タイガースにおける田宮謙次郎の10年選手の権利行使による移籍の際も、入団寸前で大毎オリオンズにさらわれてしまいました。パールスは大物選手の獲得競争に、次々と敗れてしまったのです。

     一方、7球団制による変則的な試合日程を解消するため無理矢理誕生した高橋ユニオンズが戦力不足で困っていたために、選手を提供する目的で、自軍ではくすぶっていた杉山光平選手の譲渡を申し出ると、その杉山選手を南海ホークスに強引に取られたうえに、杉山選手自身がホークス優勝の原動力として活躍してしまい、選手の使い方も知らないのかとバカにされてしまいます。

     この間のハイライトは、1954年に*15山下登が対高橋ユニオンズ戦でノーヒット・ノーランを、1955年に武智文雄(旧姓田中)が対大映スターズ戦で史上2人目パ・リーグ初の完全試合を達成したこと、また、力をつけてきた小玉明利選手がオールスターの常連になったことくらいでした。

    *15 山下 登
    兵庫県兵庫工業高校から1953年に近鉄パールスに入団。1954年は2桁勝利をあげ、チーム初のノーヒット・ノーランを達成した。 1960年に南海ホークスに移籍。1961年に引退した。弱小球団故の酷使に泣き、実動わずか5年であった。1976年に死去。

     次回は、パールスがチーム強化のために、あるひとを監督として迎えたあとのお話です。



     第3回 バファロー編


     1958シーズン、ふたたび最下位に落ちてしまった近鉄パールス。日本一の私鉄を率いる佐伯オーナーも、その対応には苦慮していました。
     のちに佐伯オーナーは、野球記者に戻って日刊スポーツに籍を置くことになった芥田武夫元監督からのインタビューの冒頭で、

      『ほかに自動車販売(フォード)、タクシーなどもやっているが、野球だけは、たしかにほかの企業と変わっとるね。そりゃ興行に違いないが安定性がない。収入の目処が立たんですわ。
     それに選手は生身で、いつケガしよるかわからんし、シーズンは短いときているから、やっぱりこれは水商売やね』

     と語っていますが、この言葉は、チーム創設時の低迷期のことを踏まえて出たのかもしれません。

     しかし佐伯オーナーとしてもチームの低迷を黙って見過ごしていたわけではなく、まず球団社長に社内きっての切れ者、企画部長の永江与三吉を据えます。
     すると永江は早速、チームのテコ入れ策として手を打ちます。
     監督だった加藤久幸(春雄がこの年から改名)を解任し、元巨人の名二塁手、千葉茂を監督に迎えることにしたのです。

     千葉は巨人の監督指名争いに敗れ、他球団で監督業をやることに意欲を燃やしていました。そこで低迷打開をはかる球団は千葉を監督として迎えただけでなく、おとなしいチームカラーを変えるため、球団名を「パールス」から千葉のあだ名である猛牛=「バファロー」に変更しました。千葉の巨人時代のガッツあふれる精神にのっとって、チームが変わることを期待したのです。

     しかし、チーム名が変わっても、チームは相変わらず戦力不足でまたも最下位。
     また悪いことに、巨人のやり方を持ち込んだ千葉監督は、二言目には「巨人ではこうしていた」とかつて自分のいた巨人とバファローとを比較して選手たちから反発を買っただけでなく、永江球団社長に要請して巨人から大量の選手を移籍させたため、ファンから「チームを、巨人をクビになった選手たちの受け入れ先にでもするつもりか」と非難を浴びて、1961年には年間103敗とパ・リーグの年間チーム敗北数の記録を更新するなど、3年連続最下位とさんざんな成績を残し、バファローから去っていきました。
     千葉監督時代の3年間のハイライトは、1961年に*16徳久利明が球団初の最優秀新人選手に選ばれたことと、助っ人の*17グレン・ミケンズが活躍したこと、そして、小玉が初めてベストナインに選ばれたことくらいで、1960年には確執から二軍に落としていた鈴木武が大洋ホエールズに移籍後活躍し、優勝に貢献したことから、選手の起用方にも疑問がつけられる始末だったのです。

     ただ、千葉監督にも同情すべき点はありました。バファローの球団運営資金は、親会社の近畿日本鉄道株式会社から予算という形で与えられており、その予算には制限があったので、この枠を超えてチームを強化すること、あるいは、フロント側から支援を送ることができなかったからです。

     いくら千葉監督を招聘した永江球団社長が切れ者で近鉄本社からカネを引き出す技術に長けていたとはいえ、それには限界がありました。千葉監督を獲得してきた時点ですでにかなりカネを使っていたため、なかなか本社からOKが出なかったのです。
     まず、球団の予算は親会社の広告宣伝費の数パーセントという枠があり、また、一度予算を組めばそれ以上の金は出さない仕組みになっていました。それに加えて、出費の伴う件については、親会社の経理担当である副社長の許可が必要でした。
     近畿日本鉄道株式会社グループという会社組織としては、鉄道事業あるいはそれに付随する事業という枠内で費用対効果を明確にし、会計処理を行わなければならなかったので、野放図にお金を使うわけにはいかなかったのです。
     これは、常に球団経営の先取りを意識し、市岡忠男以来鈴木龍二をはじめとするプロフェッショナルな人材の確保につとめ、球団運営については一歩も二歩も先を行っていた巨人との大きな違いで、千葉監督はその意識の遅れという感覚のギャップに、非常に苦しみました。
     この件については後日、千葉監督自身がこのように述懐しています。

     「球団は、予算内でも補強費を出すのをいやがった。
     それに加えて、親会社の担当もフロントも、プロ野球の仕組みについて何も分かっていない。例えば、施設設備の改修、移動時の宿や食事の改善等戦力強化のための補強費を要求しても、いちいち親会社の担当やフロントになぜそうする必要があるのか、あるいは、金をかけることでどういうメリットがあるのかをいちいち説明しなければならなかった。
     だからバファロー時代の3年間は、プロ野球の仕組みを親会社とフロントに説明しただけで終わった。」

     したがって千葉茂自身は後に、三原監督からコーチの要請があったときも、このような球団の体質を知っていたことから、就任を断っています。
     そして蛇足ではありますが、このバファローの組織的な問題、つまりスポーツビジネスに一般会社の理屈を単純にあてはめるやり方は、後述の関根潤三退団問題、野茂英雄退団問題、あるいは石井浩郎退団問題へとつながっていったのです。

     また、それまでは1953年に開局したNHK、日本テレビ放送網しかチャンネルがなかったのが、1959年からは関東でフジテレビ、日本教育テレビ(現テレビ朝日)が開局した影響で、関西でも毎日放送、関西テレビなどと組んだ各球団主催の全国中継が開始され、わずかながらバファローの主催試合も関東で中継が始まったのですが、白黒テレビの普及で人気が上昇した巨人やタイガースと比べ、弱かったバファローは人気が出ませんでした。
     そのためにバファローの全国中継は1年間でこれを打ち切られてしまい、観客は相変わらず近鉄沿線の住民か関連会社の社員くらいという状態で、世間では「もうおしまい」とうわさされていたのでした。

    *16 徳久利明
    高知県高知商業から1961年に近鉄バファローに入団。この年15勝を記録し、チーム初の最優秀新人選手を獲得した。1963年には20勝を記録した。
    オールスター出場2回。1968年に西鉄ライオンズに移籍。その年に引退した。引退後は少年野球の指導を行い、1991年には大阪市議に立候補して話題を呼んだ。1998年に死去した。

    *17 グレン・ミケンズ
    マイナーリーグから1959年に近鉄バファローに入団。5年間で2回2桁勝利をあげた。オールスター出場2回。実力はあったが、勝ちにこだわり、強打の大毎オリオンズ、東映フライヤーズ戦での登板を拒否するなどわがままな面があり、不良外人と呼ばれた。自分の登板した試合の防御率について、記録係の記録との相違から、日本プロ野球の防御率の計算方法の間違いを指摘。その後は彼自身の主張通りの計算方法となり、これはミケンズルールと呼ばれている。1963年に引退した。

    次回は千葉茂に続き、ある元大物選手を監督に迎えたバファローのお話です。



     第4回 バファローズ編その1


     千葉監督の3年間ですっかりめちゃくちゃになってしまったバファロー。
     永江社長をはじめ、フロント側もがんばってはいるのですが、なかなか結果が出ずに、チームはついに103敗という記録的な負け数を1961年に記録し、千葉茂監督はチームを去りました。
     そこでバファローのフロントは1962年、球団名をバファローズに変え、元阪神タイガース−毎日オリオンズの別当薫を監督に迎えますが、ファンももう多くは期待していませんでした。バファローズはファンにも見放されかけたのです。

     こういう背景もあって、別当監督は事実上、フリーハンドに近い状態に置かれました。
     要するに、何をやっても許される、という状況で指揮を執ることができるようになったのです。
     したがって別当監督は、投手も打撃もだめならできるところから整備をやる、と得意の打撃の指導を強化します。このときは投手力を無視する姿に非難も出ましたが、前年はなにしろ103敗。できるところからやるという姿勢は結局、正解でした。

     まずは若手の*18矢ノ浦国満、伊香輝男、島田光二等を指導して打撃力のアップに成功。そして、1軍出場経験のない2年目の*19土井正博を開幕から起用し、四番を打たせたことは当時、「19才の四番打者の誕生」として、大きな話題になりました。土井見たさに客が球場に来るようになり、観客数も大幅にアップしています。
     当然土井は実質的に、四番らしい活躍こそできませんでしたが、土井の起用に刺激されたベテラン関根、小玉、助っ人の*20ジャック・ブルームフィールドも成績を伸ばし、チームは久しぶりに活気づきました。中日ドラゴンズから移籍した吉沢岳男が捕手として安定した力を発揮したのもこの年です。結局投手が崩れて最下位に終わりましたが、翌年に希望をつなぎました。初めて、バファローズの未来に希望ができたのです。
     なお、当初は客寄せのために四番を打ったと思われた土井は、翌年から主軸を打って実力で四番の座を勝ち取り、やがてリーグ・球界を代表する選手にまでなりました。別当監督の眼力は確かなものだったのです。

    *18 矢ノ浦国満
    福岡県東筑高校から社会人野球を経て1960年、近鉄バファローに入団。守備力を買われて新人で遊撃手をつとめ、110試合に出場した。1962年に別当監督の指導で打撃力をアップし、翌年の1963年にはファン投票でオールスターに選ばれ、全国区のスターになった。俊足、強肩、好打、中でも守備は、プロ野球について多数の著作を持つ作家、近藤唯之が、「吉田義男、広岡達郎をしのぐ史上最高の天才内野手。ふたりのあとを継ぐのは矢ノ浦しかいない」と絶賛するほどだった。オールスター出場3回。守備ではバファローズ史上に残る遊撃手だった。
    しかし、入団発表の会場に暴力団が借金取りに来たという伝説をはじめ、慢心からギャンブル、酒と私生活が乱れ、成績が落ちた。 1966年にはサンケイアトムズに移籍したが、これは借金の清算を考慮しての移籍と言われた。
    アトムズでも私生活の乱れは止まらず、守備力を買われて1968年には巨人に移籍したが、力を発揮できず、その年で引退した。
    その後は南米でのグローバルリーグに参加するなどしたが、帰国後も仕事がうまくいかず、詐欺で逮捕されたりしている。前述の近藤が、「素質におぼれた典型的な選手で、努力すれば日本プロ野球史上最高の遊撃手になれたろう。なにしろ、全く練習をせずにあれだけの守備をこなしたのだから。努力しなくてもなんでもできると錯覚したのが悲劇だった。だから、詐欺を働いたのだろう。反省して人生を考え直してもらいたいものだ」と書いている。しかし、その後の消息は不明である。

    *19 土井正博
    大阪府大鉄高校を中退して、1961年に近鉄バファローに入団。翌年別当監督に抜擢され、四番を打ち、「19才の四番打者」として有名になった。
    当初この別当監督の起用は営業目的に見られがちだったが、やがて実力で四番に座り、主軸として活躍。当時、長池(阪急ブレーブス)、大杉(東映フライヤーズ)とともにパ・リーグ若手の暴れん坊と呼ばれた。豪快に左方向に引っ張る打撃を持ち味にしていたが、巧みに安打も製造するバットコントロールも備えており、土井の硬軟織り交ぜたバッティングは、当時のバファローズの売り物のひとつだった。
    性格も豪快で、ギャンブル、酒、遊びもすごいサムライであり、1975年に太平洋クラブライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)に移籍したが、それは、バファローズの若手が土井の真似をして遊びを覚えて困る、というのが原因だった。
    オールスター出場15回。守備と走塁に難があったのでベストナインは3回だけだが、通算2452安打、465本塁打、1400打点を記録。バファローズだけではなく、日本プロ野球史上に残る選手のひとりだった。
    バファローズ時代にはタイトルに恵まれなかったが、太平洋クラブライオンズ時代の1975年に、本塁打王を獲得している。しかし優勝には縁がなく、藤田平(阪神タイガース)と同様、2000本以上安打を打ったにもかかわらず、一度も日本シリーズに出場できなかったという不運な点もある。1981年に引退。 その後は西武ライオンズのコーチをつとめ、清原(2008年現在、オリックス・ブレーブス)を育てた。

    *20 ジャック・ブルームフィールド(ブルーム)
    当時はサンディエゴ・パドレスやシアトル・パイロッツ(現ミルウォーキー・ブリュワーズ)などが所属していた強豪マイナーリーグ、パシフィックコースト・リーグのポートランド・ビーヴァースから1960年、近鉄バファローに入団。左打ちの内野手で、主に二塁手をつとめた。
    守備と脚力は並だったが、日本向けのバッティングで安打を量産、1962年−1963年には首位打者のタイトルを獲得し、ベストナインに選ばれた。オールスター出場5回。左右に打ち分ける打撃はV字打法と呼ばれ、張本勲がこの打撃を参考にして「扇打法」を完成させた。このとき張本は打撃術を聞くため、わざわざ英会話の学校に通ったというエピソードもある。
    1965年チームの守備力重視の方針で、南海ホークスに移籍。1965年−1966年の優勝に貢献した。1966年引退。
    その後は、前述のサンディエゴ・パドレスがメジャーリーグ昇格後にそのコーチとなり、さらにそのあとはシカゴ・カブスのコーチをつとめた。またパドレスをはじめ、数々の球団のスカウトをつとめている。

     翌年は、東映フライヤーズから移籍の*21山本八郎を加え、打線の強化を果たし、*22久保征弘が28勝をあげ、1954年以来の4位にあがりました。ブルーム(ブルームフィールド)が二年連続で首位打者のタイトルを獲得し、小玉とともにベストナインに選出。また、このふたりと山本八郎がファン投票でオールスターに選ばれています。
     永江球団社長があの手この手を尽くして本社からカネを引っ張り出してきた結果、千葉監督時代は失敗したものの別当監督時代にはその実が着々と結びつつあり、バファローズはかつてのような組織票によるイカサマとは違って、実力で選手をオールスターに送ることができるようになったのです。ファンはさらに、翌年に期待しました。

    *21 山本八郎
    大阪府浪華商業から1956年に東映フライヤーズに入団。捕手、一塁手をつとめ、1962年のフライヤーズ優勝に貢献した。1963年近鉄バファローズに移籍し、五番をつとめて22本塁打を打ち、オールスターに出場。ベストナインにも選ばれた。
    フライヤーズ時代の“駒沢の暴れん坊”のひとりで、その呼び名のとおり、当時から血の気が多く、審判に暴力を振るって無期限出場停止を受け、反省するため禅寺にこもるなどしたが、普段はおとなしく、まじめな生活態度だったという話が残っている。
    1967年にサンケイアトムズに移籍。その年に引退した。その後の消息は不明。

    *22 久保征弘
    三重県出身大阪港高校から1960年、近鉄バファローに入団。1962年に28勝をあげ最多勝、1963年は最優秀防御率のタイトルを獲得した。オールスター出場2回。酷使により肩を壊し、1967年、中日ドラゴンズに移籍。1968年に引退した。その後は阪神タイガースのスカウトをつとめた。

     しかし、投手の戦力アップがうまくいかず、加えて別当監督のえり好みの激しい起用法に選手が反発し、投壊から1964年は再び最下位。シーズン中に広島県北川工業高校の高橋一三投手を巡る巨人との二重契約事件に巻き込まれてしまったのです。
     ふたたびトラブル発生、でしたが、この後に、球団の屋台骨を揺るがすような事件が起こります。

     次回は、ある大物選手をめぐる退団騒動についてのお話です。




     第5回 バファローズ編その2


     1964年は再び最下位に転落したバファローズ。しかし、本当の激震がチームに走ったのは、シーズン終了後のことでした。
     生え抜き中の生え抜きであった主力選手としてチーム創設時から長年チームに貢献してきた、関根潤三選手の退団騒動です。

     ことのおこりは、関根が前年のシーズンオフに、生え抜き選手の処遇改善を訴えたことから始まります。バファローズはチーム創設以来、戦力強化のため、ずっと移籍選手を獲り続けていましたが、移籍選手が来るたびに、チームに長年貢献してきた生え抜き選手がプレイする機会が減る、という問題が起こっていました。

     これに加え、千葉監督就任時には、巨人から移籍選手を入団させた際に内部で対立が起こり、問題となっていたのですが、別当監督になってもそれは変わりませんでした。
     無論出場機機会の問題は、選手の実力不足と言ってしまえばそれまでですが、それでもチームが苦しいときにもずっと支えてきた生え抜き組から見ると、永江球団社長の面倒見のよさから来るチームのぬるま湯体質に甘えている自分たちが悪いとはいえ、自分たち自身が納得できる説明も与えられないままに出場機会がフロントの無意味な補強策で勝手に奪われ、また、よそから来た監督の勝手な好みで、長年の自分たちの貢献をないがしろにされたように見えたのです。
     そこで創設期からチームに在籍していた生え抜き選手の代表、関根は、久しぶりにチームが最下位を抜けたのをよい機会に、そうした状況の改善を、球団フロントにではなく、佐伯オーナーに直接、訴えたのでした。
     しかし、交渉は決裂しました。
     この関根潤三退団事件については、佐伯オーナーが既に亡くなり、関根がこの件について公にコメントしていないのでわかりませんが、私自身が集めた多くの断片的な情報から推測するに、関根の訴えに対して佐伯オーナーは、

     「チームを強化するのに実力不足の選手などいらん。だいたいいつまでもお前のようなロートルがレギュラーだからチームが強くなれない。選手のくせに球団の方針に文句を言うな」

     と言い放ち、これが決裂の原因となったようです。たとえばこの手の“オーナーの傲慢発言”については、2004年の球界再編問題の際にも、当時の渡邊恒雄読売巨人軍オーナーから、

     「無礼な事を言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が!」

     という発言が飛び出し、非常に波紋を呼びましたが、佐伯オーナーもこういった、選手を自社の契約社員としてワンランク下に見る感覚で、関根に対して不適切な発言を行ったようです。
     もっともオーナーたちからしてみれば、野球選手にはちゃんと働き場所を与えてやっているのだから、球団経営に対しては余計な口を出すな、という感覚であることは容易に理解できるわけで、このことを示唆している例としては、芥田前監督がこの時期、各球団の社長やオーナーにインタビューを行った際、当時西鉄ライオンズの球団社長兼オーナーだった木村重吉社長のこういった発言がありました。

     「プロ野球である以上は、ものごとはすべて金銭的に割り切った方がいい。売りものと買いものだから、選手はいかにして自分を高く売りつけるか、オーナーはいかにして安く買うか、これに徹しきった方がいい。(中略)
     私は長い間一緒におって、同じ釜のメシを食ってるんだから、そこに情味というか、親愛の情はわいていいと思うんですよ。しかし、毎年契約が更新される野球の社会で、こと契約に関しては、ハッキリした方がいい。(中略)会社としても残ってもらいたいというし、本人も残りたい。残るにはどういう条件を出してくれるか、ただその間の交渉、それはあくまでも金銭的に割り切った方がいい、そう思います」

     つまり球団側としては、選手は契約社員という名前の資産であって、それ以上の意味を持たないわけです。
     一方で一般従業員への配慮については、同じ芥田前監督へのインタビューで、佐伯オーナー自身が球団創設の経緯についてこう語っています。

     「・・・社員代表が、必要があるなら全社員の署名をとるからぜひやってくれと私のところに嘆願に来よった。別に署名までとる必要はないというてね、係の者に調査させたんや。その時は1試合平均5千人の入場者や。これならすぐ6千人になる。弱いときのことはソロバンに入れとらんからね、ということでやることにした。まあ社員の熱烈な要求があり、近鉄は全国的に観光資源があるから、宣伝からも価値がある。年1千万円の散在なら安いもん。悪くて1,500万円の散在とふんでやることに踏み切ったんや」

     つまりこの当時のオーナーやフロントにとって、野球選手は契約社員という名前の、“会社の2級市民”だったのです。
     あくまで1級市民である正社員の意向優先で、この意向を無視して球団経営どころか、会社経営すら行うことはできなかったのでした。
     これは、家族意識で会社組織を“ムラ”と捉え、報酬を稼ぐ場としてよりは生活の場としていた、当時の日本の会社の特徴でもあったのです。
     結局関根は、近鉄という会社グループの2級市民扱いされたのでした。

     ちなみに1964シーズン、関根は年齢的な衰えから成績を落としており、シーズン終了後、引退・退団を表明します。そして経費節減に躍起になっている球団は、高年俸の選手がひとり減ることで財政に余裕ができることもあって、これを了承しました。
     ところがこの事件を受けた関根は、突如引退するという方針を変えて、巨人入団を表明します。当然フロントは保留権を行使しようとしますが、関根はバファローズを出ると言って聞きません。そしてさまざまな経緯を経た末、球団から保留権を解除された関根はバファローズを出て、巨人に入団します。それは関根がバファローズの幹部候補生の地位を捨て、バファローズと決別することを意味しました。

     のちにこのときの巨人入団について、関根は、

     「私は1964年限りで引退し、アメリカに渡ってMLBを見て勉強するつもりだった。ところが巨人川上監督から、引退するのはまだ早い、巨人に来ないかとの誘いの電話があったので、私は行くことにしたのです。無論巨人に行けば、使い捨てにされるのは分かっていましたが、他球団、とりわけ常勝チームを見るのもいい経験になると思い、巨人に入団しました。
     そして、巨人に入団して私が体験したことは、同じプロ野球球団でもこんなに違いがあるのか、今までやってきたことは何だったのか、という気になるほどの環境の違いから来る驚きでした。
     そういうこともあって、私は、バファローズ時代のことを全部忘れたのです。」

     と語っています。

     しかし、関根と高校・大学時代からバッテリーを組んでいた根本陸夫は、関根がバファローズ時代のことをすべて忘れた、と発言していることをのちに否定し、関根の真意は別のところにあったのではないかと、このように語っています。

     「近鉄時代、関根は味方のエラーで勝ちゲームを落としたといっては怒り、ひとつ勝ったといっては大喜びしていた。弱かった近鉄で1勝あげるのがどれほど大変だったかは、一番本人が知っているはずだ。あの時代の苦労を忘れるわけがない。我々選手も甘えていたかもしれないが、球団の冷たい組織体質自体が問題だったのではないだろうか。」

     そして、そう語っていた根本自身も、選手としては1956シーズン、バファローズを退団しています。この1956年当時の芥田監督からは指導者候補として非常に評価されており、のちに信頼関係を築いて球団の上下関係を越えたつきあいを続けていくことになりますが、1966年に芥田元監督が球団社長に就任した際の話し合いでバファローズを退団してからは、芥田球団社長とは復帰の口約束を交わしていたものの、結局バファローズに復帰することはなかったのです。

     こうして、バファローズは、貴重な生え抜き選手を失いました。その後関根は1965年に巨人で選手生活を引退後、広島カープや巨人のコーチを歴任し、大洋ホエールズに続いてヤクルトスワローズの監督をつとめましたが、バファローズとの確執は深く、決してチームOBを名乗りませんでした。
     また関根の退団については、別当監督の退団で空席となったバファローズの監督の後任を巡り、球団内部で関根を推薦するグループと遠ざけようとするグループとが争っていて、この争いがそれぞれのグループの利益にからむ派閥のゴタゴタに終始していたため、当人がそれを嫌ったという説もありますが、どちらにしても、ビジネスと親会社の都合という名目でフロントのひとたち自身が自分たちの利益を優先し、選手を大切にしないという、バファローズの一貫した球団体質が伺える状況ではありました。
     このようにバファローズは、球団内部のゴダゴタが表面化するなど、1964年はさんざんなシーズンオフを送ったのです。

     次回はバファローズの球団社長交代時のお話です。


    第6回以降はこちら

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