Team Chronicles 〜日本のプロ野球チームの歴史〜 東北楽天ゴールデンイーグルス編 by アトムフライヤー

    第6回 バファローズ編その3

    第7回 バファローズ編その4

    第8回 バファローズ編その5

    第9回 バファローズ編その6

    第10回 バファローズ編その7


    第11回以降はこちら



     第6回 バファローズ編その3


     永江社長時代、チーム成績にはなかなか結びつかないものの、着実に選手を補強して力をつけてきたバファローズ。
     ですが1964年シーズンオフのゴタゴタ以来、チームはパッとしません。別当監督の後任には1963年までコーチをつとめていた、元太陽ロビンス(現・横浜ベイスターズ)の名選手で、東映フライヤーズ監督時代にはチームをAクラス入りさせ、張本勲を抜擢した岩本義行が就任しますが、岩本監督は*23鈴木啓示を抜擢するなどの仕事はしたものの、チーム成績は低迷、最下位が指定席となってしまいます。
     また1966年後半、永江球団社長が病気で倒れ、球団社長職にドクターストップがかかった結果、佐伯オーナーは永江球団社長の既定方針であったチームの若手への切替を行うためのピンチヒッターとして、前監督の芥田武夫を球団社長に迎えることにし、そのときは法事で忙しかった自分の代理である泉近鉄副社長、病院から抜け出してきた永江球団社長との三者会談を開いて、本人から了解を取り付けます。

    *23 鈴木啓示
    兵庫県育英高校から1966年、近鉄バファローズに入団。1年目から10勝を記録した。150q前後の豪速球で三振の山を築き、1967年からは5年連続を含め20勝以上を8回、ノーヒット・ノーランを2回記録。通算317勝、3061奪三振はバファローズ史上最多で、当然のことながら日本プロ野球史にも残る選手のひとりである。
    私生活もまじめそのもので、就任直後の西本監督がチームの甘えを断ち切るため、あまりにも鈴木に頼る投手陣を見て放出を考えたが、鈴木の素行に問題がないために球団が承知せず、残留になった。また、あまり器用ではなかったが、努力で変化球を覚え、速球投手から変化球投手への変身に成功している。
    オールスター出場15回、ベストナイン3回。1967年から1969年はファン投票でオールスターに選ばれている。
    先発完投にこだわり、それができなくなった1985年シーズン中に引退。監督時代の話については後述。

     すると芥田は、永江前球団社長の意向を受け、チーム改革の実行にかかります。

     まず、球団創設時からの大物スカウトであった大西利邑を解任。1966年からドラフト制度がはじまっていたこともあり、スカウティングのあり方そのものにも変化をもたらさなければならないと芥田自身が考えていたのと、永江球団社長時代に、隠密活動ばかりが先行して、フロントのトップであるはずの球団社長に対してすらその活動が隠密になり、選手獲得にかかる費用が把握しきれず、コントロールしにくかったため、体制を一新すべく、大西スカウトをはじめとした当時のスカウトたちに引退してもらうことにしたのでした。

     また、球団社長就任と同時に、近鉄本社サイドからすでにフリーハンドで人材招聘のGOサインをもらっていたため、自分の監督時代からの盟友で“近鉄ピストル打線”の命名者であるデイリースポーツ編集総務の須古治を、球団部長として招聘。
     そして、新たにスカウトとして、毎日新聞西部本社運動部員だった同じく盟友の中島正明を招聘します。

     続いて芥田は、コーチ一新に取り掛かります。
     古株だった3人のコーチ、200勝投手だった野口二郎、ホークス時代には4度の盗塁王に輝いた俊足と鉄砲肩のショート守備で活躍した木塚忠助、関根の盟友で芥田自身も指導者として非常に買っていた根本陸雄の解雇に踏み切りました。
     このうち根本については、その面倒見のよさからチームにとってはプラス面が多いと芥田は考えていましたが、いちおう人心一新ということで、根本自身とはバファローズに将来戻ってもらう口約束をした上で、一度辞めてもらうことにしたのです。

     一方芥田は、永江前球団社長の原案にのっとり、岩本監督辞任後、生え抜きの小玉明利を監督へと昇格させます。当時小玉は31歳。西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)が名将・三原脩の後に川崎徳次を経て、青年監督として28歳の中西太をプレイングマネジャーに据えるような時代であったとはいえ、選手としては経験豊富でも、指導者としては力量が未知数の小玉を選択せざるを得なかったという、バファローズの苦しい事情がありました。また、小玉本人も最初はこれを非常に嫌がりましたが、ほかに選択肢のない芥田は、自らが育てた傑作選手であった小玉に、監督業を押し付けるしかなかったのです。
     コーチにはベテラン選手たちやファームコーチたちを、コーチ資格選定テストという意味で抜擢。3人の有力なコーチを体裁上辞めさせたまではよかったのですが、誰がその後任として適任かが不明な中、とりあえず前に進むしかないという苦渋の選択でした。その布陣は、専任コーチが沢藤光郎(47歳)、保井浩(46歳)、江田孝(44歳)、今久留主功(41歳)、小森光生(34歳)の5名、選手兼任コーチが吉沢岳男(33歳)、伊香輝男(32歳)、島田光二(30歳)の3名。
     この陣容で小玉バファローズは始動しました。

     ですがこの苦肉の策は、うまくいかないどころか、小玉の選手寿命さえも縮めてしまいました。
     結局1967シーズン、チームは最下位。勝率こそ前年の.369から.454へと大幅にアップしますが、小玉は監督業の難しさからくるプレッシャーにより疲弊、試合出場数も121試合から102試合へと激減し、打席数は428打席から310打席へと3/4に減少、この年限りでバファローズを去って阪神タイガースに移籍、選手専任に戻りますが、1969シーズン、34歳という若さで引退してしまいました。
     バファローズはこうして、チームの顔を失ってしまったのです。

     しかし一方で、芥田はさまざまな若手選手について、各コーチにマンツーマン指導を依頼し、次代の中心選手の育成・テコ入れに取り掛かります。

     たとえば投手コーチの沢藤には、1961年に新人王を獲得した徳久利明、若手でなかなか出場機会のなかった*24坂東里視の2名を預けます。
     徳久は毎年、安定して2ケタの勝ち星は上げるのですが、たとえば新人王を獲得したときも15勝24敗という成績で、常に勝ち星よりも負け数が大きく先行、勝ち越したのは1963シーズンの20勝15敗のときだけだったので、芥田はこの徳久を、なんとかチームの勝ち星の稼ぎ頭にしたいと考えたのです。
     しかしこの後徳久は練習に出てこなくなり、1967シーズンは1勝しかできずに翌年西鉄ライオンズへと去り、さらに翌年、そのまま引退してしまいました。

     一方板東については、単調なピッチングがたたってなかなか先発投手としてチームの柱になってもらえなかったので、芥田はピッチングの幅を持たせるために、板東に横手投げに一度挑戦することをアドバイスし、沢藤がこの面倒を見ることになります。
     すると板東は最初こそ乗り気ではありませんでしたが、じきにこれをモノにしてときどき目くらましに使った結果、徐々に出場機会が増える一方、軸足に重心を残すというピッチングのコツを覚え、投球の幅を広げ、長寿投手になってバファローズを長く支え続けたのです。

    *24 板東里視
    徳島県鳴門高校から、1960年に近鉄バファローに入団。1961年から一軍に定着。1968年に12勝を記録し、バファローズ最下位脱出に貢献した。その後は低迷するが西本監督の就任した1974年に復活し、10勝を記録した。タイトル獲得もオールスター出場もなく、69年の首位争い、75年の後期優勝、79年の優勝時に目立った成績を残していないため、存在感が薄いが、先発から中継、救援と万能にその役をこなし、弱小時代から近鉄を支え続けた功労者のひとりである。1979年に引退。その後は、バファローズのコーチ、二軍監督、スカウトをつとめた。1999年に死去。

     さらに芥田は、1965シーズンに打者に転向したばかりの*25伊勢孝夫を育て上げるべく、小森コーチをつけます。
     すると伊勢は打撃のコツを覚え、レギュラーにこそなかなかならなかったものの、代打の切り札として活躍、引退後も高い技術やデータ力を持つ打撃コーチとして、さまざまな球団で活躍し続けることになります。

    *25 伊勢孝夫
    兵庫件三田学園高校から1963年、近鉄バファローズに入団。入団当初は投手だったがすぐに野手に転向。1968年から一軍に定着する。シーズン三桁安打が0、通算570安打。1971年に28本塁打を記録した以外目立つ記録はなく、オールスター出場もないが、通算本塁打を90本記録しており、勝負強さと長打力は定評のあるところで、ファンから「伊勢大明神」と呼ばれ親しまれた。1977年、ヤクルトスワローズに移籍。勝負強さが期待されたが、バファローズ時代の輝きは戻らなかった。1980年に引退。その後はヤクルトスワローズ、広島カープ、近鉄バファローズ、巨人のコーチをつとめた。2008年現在は韓国のSKワイバーンズの打撃コーチ。

     このように芥田は着々と若手を育て、1967シーズン終了後には小玉の後任監督として、ある名将をチームに迎える段取りを整えることになります。
     そのひとの話は、次回で。



     第7回 バファローズ編その4


     1967シーズン、チームは最下位に終わったものの、若い世代の台頭がなんとなく見えてきたバファローズ。
     しかしプレイングマネジャーの小玉はもうめいいっぱいで、ベストを尽くしてチームの勝率を大きく押し上げこそしたものの、もうチームを率いる力は残っていませんでした。チーム全体として、選手自身の体力が鍛錬不足で欠けているためにスタミナがなく、前半戦こそ首位争いをしましたが、後半戦には息切れして結局最下位。芥田球団社長は、本人は選手としてのチーム残留を希望したのですが、規程打席に達することができなくなった小玉に活躍場所を与えるつもりで、トレードの打診のあった阪神タイガースへと移籍させます。
     ですが芥田社長は監督の後任者の選定に困り、途方にくれていました。

     ところがここで、球界を揺るがす重大なニュースが飛び込んできます。それは名将・三原脩の大洋ホエールズ監督辞任でした。そして芥田には、早稲田大学野球部の後輩である三原なら、ひょっとしたらウチに来てくれるかもしれない、というカンが働きましたが、とにかくあたってみないことには何もはじまらないので、自ら出向くことにしました。
     芥田は、三原をバファローズに招くことがチームの意識を大きく変え、バファローズの大改革につながると考えたのです。

     芥田は早速三原と会い、監督就任の打診を行いました。
     その感触は決して悪くなく、三原はまだ球界に未練がある、と芥田は感じましたが、自分自身には三原の気持ちよりももっと難しい問題が控えていました。近鉄本社からの資金捻出の問題です。
     当時の三原は名将との誉れ高く、獲得には多額の契約金と報酬が必要であると考えられており、芥田はその確保に躍起になりますが、永江前球団社長と異なり、現場上がりでマスコミ人脈しかもっていなかった芥田はその引き出しに成功せず、当時のプロ野球で常識とされていた年俸1千万円の確約しかできなかったのです。芥田は三原の獲得を、ほぼあきらめかけました。
     すると自分の手足となって働いてくれていた球団部長の須古治が三原との交渉に当たることを申し出て、須古はうまく三原を説得。なんとか三原の獲得に成功します。
     こうして芥田はついに、三原を監督として迎えることになったのです。

     三原監督は1年目の1968シーズン、若手を起用し、バファローズはなんとか最下位を脱出して4位になりました。
     レギュラーとして*26安井智規が内野に定着して盗塁王のタイトルを獲得し、*27小川亨や*28永淵洋三が入団1年目から活躍、特に永淵は投手兼外野手として使われ、注目を集めました。
     また、鉄のカーテンをもじって哲のカーテンと呼ばれた巨人・川上哲治監督の隠密主義とは対照的に、何でもマスコミにオープンにして彼らにネタを提供するスタイルをとっていた三原は、自らへの注目を利用して選手に対するマスコミへの関心を引きつけ、チームに緊張感をもたらす一方、自分自身は支配下選手25人全員に目を光らせ、常に注意深く観察し、調子の良し悪しに応じて、選手を的確に使ったのです。
     バファローズの選手の意識は、すこしずつ変わりはじめました。

    *26 安井智規
    兵庫県出身大阪高校から、テストで1961年に近鉄バファローに入団。右打ちの遊撃手で俊足、好守備を見せた。1968年に盗塁王を獲得。オールスター出場1回。1976年に引退。
    その後コーチ、二軍監督を務めた。

    *27 小川亨
    立教大学から1968年、近鉄バファローズに入団。左打ちで外野手、一塁手をつとめた。俊足で小細工も得意なため、クリーンナップへのつなぎ役として1979−1980年の優勝に貢献。また、通算162本塁打と長打力も兼ね備えており、相手チームにとってはいやな存在だった。
    西本監督就任後にも放出の対象とはならなかったことを見ても、野球をよく知っていたといえる。
    地味な存在だったが、1975年に180打席連続無三振の記録をつくる(2008年現在、イチロー[シアトル・マリナーズ、216]、藤田平[阪神タイガース、208]に続くプロ野球第3位)。通算安打は近鉄史上4位の1634本を記録している。オールスター出場2回。存在感にやや欠けたため、成績の割にオールスターの出場が少なく、ベストナインに選ばれていないが、間違いなくパ・リーグを代表する選手のひとりだった。1984年に引退。その後は、バファローズ、オリックス・ブルーウェーヴのコーチをつとめ、現在は少年野球の指導に当たっている。

    *28 永淵洋三
    東芝から1968年、近鉄バファローズに入団。入団当初は投手と外野手の兼任だったが、1969年から野手専任となった。左打ちで、小柄ながら巧みなバットコントロールで安打を放ち、1969年に首位打者を獲得している。オールスター出場3回。ベストナイン1回。
    酒好きで、二日酔いの状態で試合に出場し、グラウンドで嘔吐することもあった。酒代の借金を返すためにプロ入りをしており、水島新司のマンガ「あぶさん」のモデルとなっているのは有名である。26才とプロ入りが遅かったため、通算記録は残していないが、記憶に残る選手のひとり。1976年に日本ハムファイターズに移籍、1979年に引退。その後は居酒屋を経営している。

     が、このあとには難局が待っていました。三原監督入団時の契約金問題です。

     まず三原監督は、夫人を通じて、自分が辞任するという情報をマスコミにリークします。
     そしてマスコミが大騒ぎする中、奈良ホテルにて芥田が契約更改に臨んだ際、近鉄本社のやり方は搾取である、と強く非難、交渉を決裂させます。
     これは、芥田球団社長では交渉相手として埒が明かないので、本社の人間を引っ張り出して話をつけよう、という三原監督の作戦でした。
     というのも、三原監督の長男、博氏の回想によれば、就任前に契約担当の近鉄本社専務・今里英三から「今回は契約金を出せないが、チームの順位をあげれば考えさせてもらいたい」という話があったため、三原監督が今里専務を再び引っ張り出さないと契約金はもらえない、と踏んだからです。
     そして三原監督は、「約束通り、契約金を考えてください」と今里専務に詰め寄りますが、「まあ次の機会に」と今里専務は曖昧な返事で誤魔化そうとします。しかし三原はさらに、「話が違う。きちんと話が出来ないのなら東京へ帰らせてもらう」と啖呵を切り、その後さらに、約束通りいかないのなら監督を辞めるしかない、と態度を硬化させたので、佐伯オーナーと話し合うことになりました。
     ところが佐伯オーナーも、今までのバファローズでの選手・監督に対するような曖昧な態度でごまかし、契約金を払うとは言わなかったので、三原監督は、「その程度の評価しかしてもらえないのなら監督を辞める」と言い出し、またゴネました。
     そこで最終的には、三原の高校の同級生だった成田知巳が、会社の上司で佐伯オーナーと懇意の、三井化学の西山社長に仲介を依頼、佐伯オーナーに契約を守ることの大切さを説明してもらい、佐伯オーナーが今里専務に指示してふたたび具体的な交渉にあたらせた結果、「1969シーズン、優勝すれば1千万円、Aクラスを確保したら5百万円の報奨金を出す」ということで話が決着し、三原監督は再契約をすることになったのでした。
     結局三原監督は、契約金こそ払ってもらえなかったものの、報奨金という形のインセンティヴを獲得することに成功したのです。こういう、段階を無視したやり方や感覚は年功序列を大事にするサラリーマン的感覚に基づいて生まれた行動ではなく、三原に無視された形となった当時の芥田球団社長をはじめとするフロント側としても反感を覚えた人間がかなりいたようですが、「よく考えてみるとさすがに三原はプロで、プロ野球監督としてはあるべき姿だったのかもしれない」、と芥田自身はのちに語っています。

     続いては、三原監督2年目のシーズンのお話です。


     第8回 バファローズ編その5


     前回は三原監督1年目のシーズンの話をしましたが、今回は2年目のシーズンのお話です。

     1968シーズンはようやく最下位から脱出したバファローズ。球団創設以来の最高成績に並ぶ4位につけ、三原監督の存在が徐々にチームを変貌させつつありました。
     バファローズという球団の先を見据えた芥田球団社長の狙いは、見事に成功したのです。

     一方シーズン終了後、芥田はさらに翌シーズンの飛躍を狙うべく、先の見えたベテランを大量解雇し、若手中心で臨む体制を創り上げます。するとこの若手切替策の効果は1969シーズン、三原采配の妙ともあいまって、顕著に現れました。

     まず、前年は投手兼外野手という曖昧な立場にあった永淵洋三がライトに定着、打率.333を叩き出して、東映フライヤーズの張本勲と首位打者のタイトルを分け合います。
     また、代打の切り札として伊勢孝夫も大活躍、前年の1軍定着時には1本しかなかったホームランが16本へと飛躍的に増え、その勝負強さと長打力から「伊勢大明神」というニックネームをもらうほどになります。

     そして三原監督は、キャッチャー難だった当時のバファローズにて、思い切った起用を行いました。
     一本立ちできるキャッチャーはベテランの吉沢岳男しかおらず、若手にはまだ育ちきっていなかった岩木康郎、児玉弘義、木村貴臣の3人がいたわけですが、三原はこの3人の若手をうまく使い分け、ピッチャーの力を引き出すだけでなく、バットでも仕事をちゃんとさせたのです。
     一方この三原のキャッチャー起用に応えるような形でエースの鈴木啓示、前年ライオンズから移籍してきた*29清俊彦、先発3番手の*30佐々木宏一郎等が力を発揮、特に鈴木は24勝13敗1分で最多勝、清は18勝7敗1分で最優秀勝率のタイトルに輝きます。

    *29 清俊彦
    宮崎県高鍋高校から1964年に西鉄ライオンズに入団。ノーヒット・ノーランを記録するなど活躍し、1968年近鉄バファローズに移籍。主力投手として活躍した。
    1973年に19勝をあげ、勝率1位を獲得。オールスター出場2回。右腕から上手投げで繰り出されるフォームは日本で一番きれいなフォームと言われた。通算100勝。
    1976年阪神タイガースに移籍、同年引退した。

    *30 佐々木宏一郎
    岐阜短大付属高校から1962年にテストで大洋ホエールズに入団するが、シーズン終了後自由契約になり、テストで近鉄バファローズに入団。
    右投げの下手投げだったが、郷里の先輩である武智文雄コーチの指導で変化球を覚え、二桁勝利を7回記録するなど、主力投手として活躍した。
    1970年は対南海ホークス戦で完全試合を達成、勝率1位も獲得している。オールスター出場2回。
    ちなみにホエールズを自由契約になったのは、新人入団による員数あわせが行なわれたため、テスト入団の経歴が軽視されたことによる。しかし、当時自由契約にした三原脩のバファローズ監督就任、その下での活躍は、なんとも皮肉なめぐりあわせであった。
    1975年、南海ホークスに移籍。1981年に引退。1989年に死去した。

     チームとしても5月4日にロッテオリオンズに勝って以来、6連勝、さらには球団新の12連勝を記録。この間18勝1敗1分を記録して一気に2位に躍進、かつて最下位争いをした阪急ブレーブスと優勝を争うまでになります。最後の最後まで首位を争い、2勝2敗で優勝できるところまで行きながらブレーブスに3タテを食らい、結局はその底力に屈しましたが、初めての2位。選手は自信をつけ、ファンは初の優勝争いに熱い声援を送るようになりました。
     伝説となっている1988年10月19日、川崎球場でのダブルヘッダーの下地は、ここに完成したのです。

     一方芥田球団社長は、永江前球団社長から引き継いだテーマであった、チームの若手への切り替えには成功しましたが、外国人選手の獲得では納得のいく結果を残せませんでした。
     シーズン前、さらなる戦力強化のため、衰えの目立つトニー・ロイ、各球団から研究されて成績の落ちたカール・ボレスを解雇し、新たに前阪神タイガースのジーン・バッキーと前クリーヴランド・インディアンズの*31ジェームズ・ジムタイル(ジェンティル)を獲得。日本で実績のあるバッキーのピッチングと、1961年、ボルティモア・オリオールズ時代にニューヨーク・ヤンキースのロジャー・マリスと打点王を争った実績のあるジムタイルの長打力に、期待したのです。
     ところがバッキーは腰を痛めており、阪神時代のようなピッチングはできずに0勝7敗に終わり、膝に故障を抱えていたジムタイルも先発・代打起用に関係なく、塁に出れば代走が送られるという惨状で、戦力として計算できませんでした。
     また脱線にはなりますが、ジムタイルが経験した珍事といえば、5月18日の対阪急ブレーブス戦、ホームランを放ったあとで肉離れを起こし、代走には伊勢孝夫が起用されて得点が伊勢についたことがありました。そしてこの珍事のため、ジムタイルの通算成績のうち、本塁打数と得点数については8>7と逆転するという珍記録が残ったのです。
     こうして期待はずれに終わってしまったこの2人は、1年でバファローズから去っていったのでした。

    *31 ジェームズ・ジムタイル(ジェンティル)
    名字はGentileと書いてjen-TEE-uhl、つまりジェンティルと読む。ポジションは1塁手。前述のとおり、メジャーデビューしたボルティモア・オリオールズ在籍時代、レギュラーに定着して2年目の1961年には141打点を叩き出して、この年61ホーマーのメジャー記録を放った当時のニューヨーク・ヤンキースの4番バッター、ロジャー・マリスと打点王のタイトルを争った。その後はカンサスシティ・アスレチックス(現オークランド・アスレチックス)、クリーヴランド・オンディアンスと移籍し、1966年限りで引退するが、1969年にバファローズにて現役復帰。
    ちなみに代走・伊勢がらみの珍事であるが、この試合のあとの打席で伊勢自身がホームランを放つというおまけつきのトリビアになっている。

     一方バファローズ解雇後、西鉄ライオンズに入団したボレスは、打率こそ前年の.251よりも悪い.242でありながら、一度半減した出場試合数がもとに戻り、長打力もすこし戻ってきて、18本塁打を記録。そこでマスコミからは、バファローズは前年度の外国人選手をそのまま残し、うまく扱えばブレーブスとの差を埋めて優勝したのではないか、と言われました。
     ちなみに三原監督は、大洋ホエールズ監督時代にはスチュアート、バファローズ監督時代のあとのヤクルトスワローズ監督時代にはペピトーン、日本ハムファイターズの球団社長時代にはスノー、と外国人選手とのトラブルに悩まされた日々を後半の野球人生で送りましたが、バファローズ監督時代もその例外ではなかったようです。

     またこのシーズンオフも、三原は球団と契約でもめることになります。
     7月はじめからは首位を走り、シーズンの最後の最後まで優勝争いをして観客動員を大幅に増やし、最終的にこそ阪急の底力に屈して2位に終わってしまいましたが、前半首位だったときに本社から出向していた球団役員が翌年の年俸アップを口約束でしていたにもかかわらず、いざ契約更改の段になるとこの約束を反故にしたので、マスコミに契約内容の不満を漏らします。
     そこで契約トラブルが外部に明るみに出て大騒ぎになり、最終的には約束通りに契約更改は行われましたが、三原がマスコミを利用して年俸闘争を有利に動かしたという噂が流れ、両者にしこりが残る結果になってしまったのです。

     また、この年をもって“ピンチヒッター”としての球団社長をつとめた芥田はお役御免となり、翌年1月突然、近鉄本社から今里英三専務が球団社長として派遣されることとなりました。
     芥田は現場上がりの球団社長としてオーナーならびに近鉄本社と良好な関係を保つ一方、現場をよく整備して奮闘し、球団が強くなる下地を永江前球団社長の意向を忠実に実行することで築きましたが、やはり現場上がりの人間は所詮外様であって、本流には残れないことが明らかになった出来事でもありました。
     これは日本のプロ野球が抱える、編集長のMBさんが1998年に命名したところの“カイシャフランチャイズ”が持つ宿命でもあったのです。

     次回は三原監督の3年目、そしてそれ以降の時代についてです。



     第9回 バファローズ編その6


     1969年、シーズン最後まで阪急ブレーブスとの死闘を演じて、ついにリーグ2位にまで上り詰めたバファローズ。
     今回は、そのシーズンを受けてからの、三原監督3年目以降のお話です。

    1970年のシーズン、バファローズは前年優勝の余勢を買って今度こそ優勝、と期待されましたが、1月、球団社長が監督経験者で現場上がりの名社長・芥田武夫から、三原監督契約問題におけるトラブルの発端となった本社の今里英三専務へと突然交代したことから、なんとなく波乱の気配は漂ってきていました。
     今里新球団社長は経理畑上がりで本社の経理局長を経験、金銭の出納におけるプロだったため、球団の優勝よりも採算を重視しており、その経営姿勢が、のちにトラブルを招くこととなります。

     話は戻って前年、1969年11月のドラフト会議。この年の注目選手には、早稲田大学の谷沢健一と荒川尭、高校野球のヒーローとなっていた三沢高校の*32太田幸司がいました。
     そして指名順1位の中日ドラゴンズは谷沢、2位の阪神タイガースが東海大学のエースだった上田二朗、3位の大洋ホエールズが荒川を指名したのです。
     近鉄バファローズは4位の指名権を持っていました。

     ここで芥田は、思い切ったことをします。
     躊躇せずに敢然と太田幸司を指名したのです。
     これだけの人気者を獲得する上は相当お金がかかるだろうし、スカウトには非常に努力してもらわなければならないが、甲子園大会のヒーローなので集客力はあるし、三原監督ならうまく使って育ててくれるだろう、そう考えて太田の指名に踏み切ったのです。
     太田指名後は佐伯オーナー自らが指名挨拶に出向くなど、元祖甲子園アイドルの獲得は、徐々にバファローズを華やかな存在にしていきました。

    *32 太田幸司
    青森県三沢高校から1970年、近鉄バファローズに入団。
    高校時代の甲子園の決勝戦で、延長18回と翌日の再試合をひとりで投げ抜き、敗れたが、その悲劇性に応援が殺到し、彼自身2枚目であることも手伝って、日本中に「コーちゃんブーム」を巻き起こした。
    入団後も人気は衰えず、客寄せのため、1年目から1軍で投げた。この年オールスターにはファン投票で選ばれ、このように人気先行で実力が伴わない者の出場については賛否両論の議論が巻き起こったが、このときセ・リーグの主力バッターたちのめった打ちにあったにもかかわらず、以後1972年まで、3年連続で選ばれている。
    このように、人気先行には苦しんだが、1974年には初めて2桁勝利を記録し、1977年まで安定して二桁勝利を記録。1979年にはリーグ5位の防御率3.31をあげ、初優勝に貢献した。
    オールスター出場7回。のちに、実績で選ばれた1977年のオールスターが一番うれしかったと本人は語っているが、甲子園のアイドルが実力者に上手く変身できた一例といえる。
    1983年に巨人、1984年に阪神タイガースに移籍。同年引退した。

     1970年のシーズン、三原は太田を、最初は1軍で使いました。
     このことについては、実力不足の高卒新人を使うのは客寄せ優先の行為だ、とマスコミをはじめとする世間から非難が出ましたが、三原としては、使って実力がつけばそれでよいという考えだったので、世間の風評は気にせず、戦力として計算しながら太田を使ったのです。

     しかし、プロの世界はそれほど甘くありません。
     太田は後半戦各チームから研究されて通用しなくなったので、三原はある意味“予定どおり”、太田を二軍に落としました。

     ところがここで三原にとって、思わぬ事態が待っていました。
     フロントから、「太田をなぜ二軍に落とした。ベンチに入れているだけでも集客効果が違う。今シーズンの優勝はないから太田を一軍に戻せ」と文句が出たのです。
     そしてここで明らかになったのは、バファローズはついに、チームを強くし、観客を集める時代から、採算を重視する時代に入ったということでした。

     もともと佐伯オーナーは芥田前球団社長がバファローズの監督を辞めて野球記者に戻った直後、1958年シーズン後のインタビューの中で、

    「日生球場に進出したのは一応成功したからね。こんどは一つチームをうんと強くしたろうと思うとる。来年は野球セールス興行ちゅうもんに力を入れてやるということや。今どうして売るかを研究しとるんや。なんとしても企業性を持たせて、ソロバンに乗せることや。これをやり遂げんと死んでも死にきれへんで。
     その売る手の一つが入れ物を替えること。これはまあ成功した。次は手持ちの駒を強くすること。補強やね。
     プロ野球も勝率5割で儲かることにならんといかんね」

     と語っています。
     そしてさらにその直後、本社の企画部長だった永江与三吉を球団社長に据え、千葉茂や別当薫を監督として獲得したり、巨人の選手を大勢引っ張ってきたり、他球団で活躍したりした選手を獲得するなどの補強を行うことでチーム体質を変えるべく努力して、チームが地力をつける基礎をつくったのち、あとを引き継いだ芥田武夫がチームの土台を完成させ、実際に仕上げ役として名将・三原脩を監督に呼び寄せたわけです。
     となれば、佐伯オーナーをはじめ本社側としては当然、投資は完了、あとは採算に乗せていければいいのだ、という考え方になってもおかしくはなかったわけです。
     バファローズを強くすることで人気チームにする、という佐伯オーナーの狙いは、ここに結実を見たわけですから、あとはそれを保守的に軌道に乗せていけばいい、ということで、後任に経理畑の重鎮、今里栄三専務が就任したのは必然の流れだったといえます。

     しかしこの年、バファローズを大きく変えたのは、球団社長の交代の件だけではありませんでした。
     1969年に、バファローズから西鉄ライオンズに移籍したカール・ボレスの一言、「チームメイトにわざとエラーをする選手がいる」からはじまった、「黒い霧事件」。
     この黒い霧事件は、やがて震源地のライオンズだけでなく、4月からはオートレース界をも巻き込んで、球界全体に広がって行き、八百長疑惑追及に加え、それに大きく関連する、賭博行為や日本の裏社会とのつながりに対しての追及も行われるようになります。
     するとバファローズも、その影響を受けたのです。
     まず、球団広報課長だった山崎晃が1967年に元近鉄球団の上司だった金融業者から借金を理由に八百長を強要され、バファローズの監督・選手に依頼していたことが、警察に逮捕された同金融業者とつながりのある暴力団組長の賭博行為についての取り調べで発覚しました。
     警察の取り調べで監督・選手は八百長を依頼されたものの、金銭などの受け取りがなく、試合で八百長を実行したという確証もなかったので、日本プロ野球機構からの処分は戒告だけでした。さらに暴力団組長の自供から選手に山崎を通じて高級腕時計を渡したことがわかりましたが、渡したときに八百長の依頼がなかったことが山崎の自供から明らかになり、選手は機構から厳重戒告を受けただけで終わりましたが、警察の取り調べで一連の八百長工作を行ったことが明らかになり、野球賭博に関わったとして、山崎は6月15日、永久追放となりました。
     続いて山崎の追放後には、土井正博が7月1日、暴力団主催の麻雀賭場への常習出入りの容疑で書類送検されたことで、後日1ヶ月の出場停止を食らったのです。

     これでは、チームは落ち着きません。
     結局Aクラスを確保はしたものの、シーズンは3位に終わりました。
     今里球団社長をはじめとするフロント側が、無神経にも太田を2軍に落とすなと三原監督に文句を言ったのは、シーズンの先が見えた以上、その場限りの利益を稼ぎ、なるべく早くもとをとろうとしていたからにほかならず、三原はそのあさましさにむかっ腹を立てたのでした。
     そして三原はシーズン終了後、バファローズを退団することになります。

     ちなみにこういった、野球をある意味尊重せず、近鉄本社の意図や利益だけを代弁し、現場にちゃちゃを入れるスタンスについては、1984年からバファローズの監督を務めた関口清治がこのように語っています。

    「当時近鉄では、大阪本社でグループの役員を集めて、月一度会合を開いていた。
     バファローズの監督も大阪で試合があるときは出席していたが、業務報告が終わると雑談の中で、役員からバファローズについて、あれこれ注文がきた。采配から選手起用まで、特に成績不振のときはそれがきつく、野球に素人の役員相手に苦労した。
     その中でも佐伯勇総帥のグループ内での権限は群を抜いており、素人のまとはずれな意見が一番ひどく、しかも他の役員は制止できない状態だった。私が監督の時は西本幸雄さんが2度優勝した後だったので、相当改善されていたとは思いますが、それでもあの状態ですから昔はみな苦労したのではないかと思います。」

     このことからもわかるように、三原の時代はもっとフロントの干渉がひどかったことが伺えます。
     やはり、長年パ・リーグのお荷物球団で、せっかく投資をしてもなかなか成果が出ずに10年間以上も我慢した、という想いがあったので、佐伯オーナーとしては文句を言う習慣がいつの間にか身についてしまったのでしょう。
     それに佐伯オーナーは大の野球好きとして有名ですが、近鉄本社の正社員の意向や利益を最大限考えた上で球団運営を行っていた経緯もあり、いつまでも勝てないチームに対して、近鉄グループ全社員の利益を代弁してあれこれ文句を言っていた、とも考えられます。
     一方、このことに加え、芥田元球団社長がベースボール・マガジン社顧問や野球殿堂特別表彰委員をつとめていた1981年、自らが出した「わが熱球60年」の中で述べていたことですが、

    「私が記者時代に元西鉄ライオンズの木村重吉オーナーと対談した折、契約について『会社として選手に残ってもらいたいし、選手も残りたい。残るにはどういう条件を出してくれるか、ただその間の交渉、それはあくまで金銭的に割り切った方がいい』と仰っていた話を思い出していた。ところがいざ契約の場になると、なかなかそういうふうにはいかない。
     選手と対面したが、一言も物をいわない選手がいた。聞くと彼は、常務と30分間沈黙の時間を過ごしたという笑えぬ逸話の持ち主であった。また部屋に出入りする態度がけんか腰だった選手がいた。
     野球は『常識』のスポーツである。これでは強いチームになれないな・・・しつけがなっていないと思った」

     とあり、近鉄本社からの生え抜きではなく、現場叩き上げでマスコミ畑を歩んできた芥田ですらこうなのですから、選手とフロントの感覚には大きなギャップがあったはずですし、また選手を見下す風潮も当然あったことでしょう。
     無論、大金に目がくらんで、何か自分が尊大になってしまった選手もいたでしょうが、そもそもこういう交渉の場で、手馴れたビジネス感覚で選手や監督をある種ぞんざいに扱う今里英三のようなひともいた一方で、永江与三吉のように選手を大事に考え、公私にわたって面倒を見るようなひともいたことで、社会経験の少ない選手側からしてみれば、戸惑ったケースも少なくなかったはずです。
     したがってフロントの千葉、関根、三原の扱いを見ると、どうも野球選手や現場監督をどこか、自社の契約社員と考え、ワンランク下の存在として捉えている状況が変わらずに続いていたとしか考えられないのです。前述の関口清治の話は、これを裏付ける証拠にほかなりません。

     ちなみに後を継いだ岩本尭は2年間Aクラスをキープしますが、*33二シーズン制の過密日程の影響で投手陣が崩れた1973年は最下位に終わり、チームから去っていきました。
     この間に投手では*34神部年男が台頭し、安定した成績を残しています。
     一軍は最下位に終わりましたが当時のバファローズのファームは充実しており、ウェスタン・リーグの優勝争いをしています。大洋ホエールズから移籍してこのシーズン限りで引退した近藤和彦が、「一軍で成績を残せなかったのは残念だが、現役の最後にファームでの優勝争いに加われたことは幸せだった。バファローズは若手が育っており、一緒にプレイしていて楽しかった。将来が楽しみだ」と語っています。79・80年の優勝の基礎はこの時期にすでにできつつあっといってよいでしょう。

    *33 二シーズン制
    1973年から1982年にかけてパ・リーグにて行なわれた、リーグチャンピオンシップの制度。
    130試合を前期と後期に分け、それぞれの優勝者でリーグチャンピオンシップを争うことで、当時巨人の全国中継による宣伝効果によって観客動員で水をあけられていたセ・リーグに対抗すべく、行なわれた。
    だが、前期日程を消化できないうちに後期日程が開始されるなど問題もあり、1980年代になるとその効果も薄れたとして、1982年を最後に打ち切られた。

    *34 神部年男
    1969年富士鉄広畑から近鉄バファローズに入団。1年目から8勝をあげ、以後78年までに二桁勝利を4回記録。1975年にはノーヒット・ノーランを達成するなど、貴重な左腕としてバファローズを支えた。オールスター出場3回。
    1979年ヤクルトに移籍。1982年に引退。引退後は近鉄、オリックスのコーチをつとめた。

     次回は、あの“悲劇の名将”が監督に就任した時代の話をしたいと思います。


     第10回 バファローズ編その7


     前回は名将・三原脩がフロントとの方針の食い違いがあって監督を辞任し、あとの者に引き継いだ話を紹介しましたが、今回はあの“悲劇の名将”が監督に就任するところからお話をはじめましょう。

     1973年オフ、かつて大毎オリオンズで日本シリーズに出場し、阪急ブレーブスを強豪チームへと育て上げた西本幸雄は、この年をもってブレーブスの監督を勇退しました。
     弱小チームといわれたブレーブス初のパ・リーグ優勝を1967シーズンに成し遂げただけでなく、優勝5回という実績を残し、もはや自分はチームを創り上げた、ということで監督職を退いたのです。

     ここで、岩本監督が辞任したバファローズのフロントは動きます。まず、元社長の芥田に西本獲得について意見を求めました。
     芥田は、自身が3年前、三原監督の後任の相談をバファローズのフロントから持ちかけられたときに、前南海ホークス監督の鶴岡一人を推薦した際、鉄道という同じ業界の親会社を持つ別のチームから監督を引っ張ってくることに問題がないかどうか、ということを懸念していました。
     野球の話抜きで考えた場合、長年南海ホークスの顔としてチームをまとめてきた鶴岡を監督に据えることは、ホークスのイメージをバファローズに持ち込むことになりはしないか、という問題点があったからです。
     しかしこの際、バファローズのフロントはそれには関係なく動いたのですが、結局鶴岡の健康問題で鶴岡監督誕生とはならず、内部昇格でヘッドコーチの岩本尭が監督に就任したといういきさつがありました。
     そこで芥田は、西本こそが岩本尭の後任としては最適の人物だと大いに賛意を表明します。そしてバファローズは西本と契約。西本監督が誕生したのです。

     翌1974年、西本は得意の熱血指導でチームをひっぱります。そしてこのシーズン、ベテラン板東里視が復調し二桁勝利を記録しましたが、チームは5位に終わりました。シーズンオフ、これまでチームを支えてきた土井と佐々木を放出、76年には永淵、77年には伊勢も放出します。特にリーグを代表する打者の土井の放出にはファンから非難の声があがりましたが*35守備に問題を抱えているうえ、暴力団との交際の疑惑もあったため、フロント側も放出を了解せざるを得ませんでした。
     また西本はさらに、ぬるま湯につかったようなベテランが若手に悪影響を与えるので、そのために彼らを放出するのだと言い切り、野手では南海ホークスから移籍した*36クラレンス・ジョーンズ、投手では太平洋クラブライオンズから移籍してきた*37柳田豊等を起用して、翌1975年のシーズン後期に優勝を飾ったのです。結局このときのバファローズは阪急ブレーブスとの決定戦に敗れはしたものの、ファンは再び翌年に期待したのでした。
     しかし、この成績で若手選手たちが舞い上がり、1976年−1977年は4位に終わっています。

    *35 土井の守備問題
    パ・リーグは、1975年から指名代打制度を導入したが、西本は指名代打制度の導入がわかっていれば土井の放出はなかった、と後に語っている。

    *36 クラレンス・ジョーンズ
    メジャーリーグのシカゴ・カブス、マイナーリーグを経て、1970年に南海ホークスに入団。左打ちの一塁手で4年連続30本塁打を放ったが、粗い打撃と守備の拙さが野村監督に嫌われ、1974年に近鉄バファローズに移籍。西本監督が打撃の粗さに目をつぶって起用し続けた結果、長打力を生かして成功した。1974年と1976年にパ・リーグ本塁打王を獲得。パ・リーグ初の外国人選手の本塁打王誕生となった。オールスター出場1回、ベストナイン1回。三振か本塁打か、というタイプの助っ人選手の典型だった。1977年、引退。その後、アトランタ・ブレーブスのバッティングコーチとなり、野茂英雄と1995年ナ・リーグ新人王を争ったMLBオールスター3塁手、チッパー・ジョーンズを育てた。

    *37 柳田豊
    宮崎県延岡商業高校から、1970年に西鉄ライオンズに入団。1975年に土井正博との交換で近鉄バファローズに移籍した。交換当初は「沈みっぱなしのサブマリン」と酷評され、バファローズ側の大損トレードと言われたが、この言葉に奮起し、1978年からは4年連続二桁勝利をあげ、1979年−1980年の優勝に貢献した。
    右下手投げから繰り出す変化球は多彩を極め、打者は打つのに苦労したという。オールスター出場3回。1987年に引退。その後は、故郷の延岡市で漁師をしている。

     続く1978年は、*38平野光泰、*39羽田耕一、*40栗橋茂、*41井本隆、*42村田辰美らが成長を見せる一方、*43梨田昌孝、*44有田修三の2枚看板捕手が投手陣を引っ張り、ついに2位になります。ようやく西本監督の育ててきた若手選手たちが、モノになりはじめたのです。
    すると翌1979年は、これら若手の活躍に加えて、ヤクルトスワローズから移籍した*45チャーリー・マニエルが指名打者に座り、37本塁打を放って本塁打王を獲得するなど大活躍。同じく移籍の永尾泰憲も渋い働きを見せました。ベテランの*46佐々木恭介、小川、鈴木も力を見せ、阪急ブレーブスと争い、ついに結成29年余りで初の優勝を飾ったのでした。
     しかし日本シリーズで広島カープと対決したものの、第7戦、1点差で9回裏まで粘りましたが、例の“*47江夏の21球”の駆け引きを通じて抑え込まれ、ついに日本一の座を手中にすることはできませんでした。
    またリーグ最優秀選手には、マニエルが選ばれたのでした。

    *38 平野光泰
    クラレ岡山から1972年、近鉄バファローズに入団。入団時の評価は低かったものの、俊足、強肩、好打の外野手として二軍からはいあがり、1975年から一軍に定着し、1979年の初優勝には一番を打って貢献した。オールスター出場4回。1985年に引退した。

    *39 羽田耕一
    兵庫県三田学園高校から1972年、近鉄バファローズに入団。右打ちで三塁手をつとめた。入団時の評価は低かったものの、度胸の良いバッティングと長打力を買われ、1973年から一軍に定着。主力打者として活躍し、1979年の初優勝に貢献した。
    西本監督の熱血指導で伸びたひとり、試合中に指示を聞き落として三振したため、西本監督から殴られた話は有名だが(実は羽田は、西本が指示を出しているときにはすでに打席に向かっており、指示を聞いていななかった。殴ったのは西本の勘違いである)、ファン感謝デーの選手紹介で「ハダ」を「ウダ」と名前を間違えた司会者を「うちの期待の若手の名前を間違えるとはなんだ。」と西本監督が怒鳴りつけたというエピソードもあり、西本監督からは期待されていた。
    守備が拙く、晩年は珍プレーの常連だったが、通算1504安打はバファローズ史上5位。225本塁打は同3位と、打撃に関してはバファローズ史上に残る選手だった。
    オールスター出場3回。1989年の優勝にも貢献し、同年引退した。その後バファローズのコーチをつとめた。

    *40 栗橋茂
    駒沢大学から1974年、近鉄バファローズに入団。左打ちの外野手で、その長打力から1年目から一軍に定着し、1976年からレギュラーになった。長打力と確実さを兼ね備え、1979年の初優勝には32本塁打80打点を打ち、主力打者として貢献した。
    通算215本塁打はバファローズ史上6位。オールスター出場4回。ベストナイン3回。1989年の優勝にも貢献し、同年引退した。

    *41 井本隆
    鐘紡化学から1973年、近鉄バファローズに入団。入団時の評価はあまり高くなかったが、度胸の良さと速球で1974年に一軍定着、1979年には15勝を記録し、初優勝に貢献した。翌1980年の優勝にも15勝を記録し、貢献している。
    通算81勝。二桁勝利を記録したのが3回。その選手生活の全盛期はまさに、バファローズ二回の優勝のためにあったといっても良いだろう。
    オールスター出場2回。1983年にヤクルトスワローズに移籍。1984年に引退した。酷使と私生活の乱れでバファローズ時代の輝きはもどらなかった。

    *42 村田辰美
    三菱自動車川崎から1975年、近鉄バファローズに入団。多彩な変化球で一軍に定着し、先発、救援の両方をこなし、1979年には12勝をあげ、初優勝に貢献した。その後も地味ながら確実な働きを見せ、1989年の優勝にも貢献している。オールスター出場3回。1990年に大洋ホエールズに移籍し、同年引退。その後バファローズのコーチをつとめた。

    *43 梨田昌孝
    島根県浜田高校から1972年、近鉄バファローズに入団。入団時から捕手の力を高く評価され、1973年には一軍に定着。1974年はレギュラーをつとめた。
    その後は強打の有田修三と捕手の座を争ったが、1979年からレギュラーとなり、19本塁打を打ち、初優勝に貢献した。
    頭脳派のインサイドワークと温厚な性格で投手からは信頼された。オールスター出場6回。ベストナイン3回。バファローズ史上だけでなく、パ・リーグ全体を代表する捕手だった。
    1988年に引退。その後、バファローズのコーチ、二軍監督を経て、2000年からは監督に就任、2001年にはパ・リーグ優勝を遂げたが、日本シリーズでは若松監督率いるヤクルトスワローズに敗れ、日本一のタイトルはならなかった。
    2008年からはトレイ・ヒルマン監督のあとを請け、北海道日本ハムファイターズの監督に就任。

    *44 有田修三
    新日鉄八幡から1973年、近鉄バファローズに入団。強打の捕手として1974年には一軍に定着し、梨田昌孝と捕手の座を争った。
    細かなインサイドワークでは梨田に一歩譲ったが、安定した捕球術と投手の力を引き出す強気のリードで、鈴木啓示等の速球派からは信頼を得ていた。
    1979年は控え捕手として梨田の疲労を軽減する働きを見せ、初優勝に貢献した。オールスター出場2回。
    二枚看板の捕手は他球団の羨望の的であったが、1986年に捕手としての力を見込まれ、巨人に移籍、1987年の優勝の際には山倉捕手の控え捕手として貢献し、1988年はレギュラーをつとめた。1990年ダイエーホークスに移籍、1991年引退。その後は阪神タイガース、近鉄バファローズのコーチをつとめた。

    *45 チャーリー・マニエル
    メジャーリーグのミネソタ・ツインズ、ロサンゼルス・ドジャースを経て、ドジャーズ傘下のマイナーリーグから1976年、ヤクルトスワローズに入団した。左打ちの外野手で、守備走塁に難はあったもののその長打力は一級品であり、1978年には39本塁打103打点をあげ、スワローズのセ・リーグ初優勝に貢献した。
    その後、守備に難があったことから1979年、バファローズにトレードされたが、西本監督は指名打者としてマニエルを起用。巧みな外人操縦術で力を引き出し、この結果マニエルは途中ケガによる欠場があったにもかかわらず、37本塁打、94打点を記録。初優勝に貢献し、ベストナイン、最優秀選手に選ばれた。そして翌年も打撃で優勝に貢献し、ベストナインに選ばれたため、スワローズファンからは放出を非難する声がフロントに対して、おこった。
    その後バファローズとの契約が折り合わず、1981年は再びスワローズに戻ったが、往年の力を発揮することはできずに、この年限りで引退した。
    ベストナイン3回。オールスターゲームには、実力はあったものの、外人枠の関係で選ばれていない。
    その後、日本での経験を生かし、メジャーリーグのクリーヴランド・インディアンズの打撃コーチに就任、マイク・ハーグローヴ監督のもとでマニー・ラミレス(2008年現在、ボストン・レッドソックス)やジム・トーミー(2008年現在、シカゴ・ホワイトソックス)を育て、実質ヘッドコーチとしてワールドシリーズに出場。人望があったことからハーグローヴ監督がボルティモア・オリオールズに転出してから監督職を引き継いで、2001年には地区優勝を果たし、その後心臓病で一時監督職を離れたものの、病気治癒後にフィラデルフィア・フィリーズの監督に就任、2007年には地区優勝を成し遂げている。

    *46 佐々木恭介
    新日鉄広畑から1972年、近鉄バファローズに入団。1973年に三塁手として一軍にあがり、翌1974年から打撃を生かすため、外野に転向した。1978年に首位打者を獲得。オールスター出場2回。ベストナイン2回。1979年は主力打者として活躍し、初優勝に貢献した。
    右打ちで、バットコントロールの巧みさはバファローズ史上上位に入る実力だったが、疲労からくる肝炎で体調を崩し、出場を見合わせる事が多く、大成できなかった。肝炎の悪化で1982年は1試合も出場できず、同年引退。その後はバファローズのスカウト、コーチ、阪神タイガースコーチ、バファローズの監督、西武ライオンズコーチをつとめた。
    1995年のドラフト会議で他球団と競合したPL学園の福留(現中日ドラゴンズ)をクジで引き当て、「ヨッシャー」のかけ声と派手なパフォーマンスで人気を得た。

    *47 江夏の21球
    この日本シリーズ最終第7戦、4-3のスコアから1死後、バファローズの羽田選手にヒットを打たれてから広島カープの抑えのエース、江夏豊が投じた21球。1死満塁にしながら無得点に抑えたこの試合の緊張感について山際淳二が丁寧に取材し、文芸春秋社の新しい試みであるスポーツグラフィック・ナンバー誌創刊号に載せたところ、その反響は大きく、これが日本のスポーツライティングのマイルストーンとなった。

     次回は1980年代のバファローズについて、人気のあった外国人選手を中心に紹介します。

現連載

過去の連載

リンク