めじゃーりーぐ19XX by Shinorar

    第1回 VOL.1 1977年 ミスターオクトーバー出現

    第2回 VOL.2 1951年 決死のキャッチ

    第3回 VOL.3 1933年 夢の球宴 始まる

    特別編1 1995年 ボビー、マリーンズ監督へ

    特別編2 オリックス・近鉄合併



     第1回 VOL.1 1977年 ミスターオクトーバー出現


     「ぼーる通信」をご購読の皆様、はじめましてshinorarです。この度、MB Da Kiddさんと相互メルマガを執筆する運びとなりました。

     彼とは、野球を科学的に分析・解析するアメリカ野球学会(SABR)で出会い、その席でHPを一緒に制作する話題と合わせて、「じゃぁメルマガ交換しませんか?」という運びとなったのです。
     さて、shinorarからは20世紀に起きたメジャーリーグを中心にある年にスポットを当ててご紹介して参ります。1回目は、自身がメジャーリーグに触れるきっかけとなった1977年のワールドシリーズを振り返って見ましょう。


    ● ニューヒーロー出現

     何をかくそう、プロの野球に目覚めたのがこの年でした。9月3日、後楽園球場のジャイアンツ―スワローズ戦で王貞治が通算756本塁打を記録。この試合を機にプロ野球中継、そして週末に限り「プロ野球ニュース」を見る習慣がつきました。
     そして、後者の番組にて、王選手に次ぐ衝撃を受けたのが、レジー・ジャクソンが放ったワールドシリーズでの3打席連続ホームランの映像でした。


    ● 1977年ワールドシリーズ 第6戦

     この年のシリーズはヤンキース、ドジャースという名門チーム同士の激突。第5戦を終えてヤンキースが3勝2敗。迎えた第6戦、4回表までドジャースが3−2でリード、そして4回裏、レジー・ジャクソンが初球をライトスタンドに運ぶ逆転ツーラン、続く5回にはソーサから、そして8回にはチャーリー・ハフから、すべて初球をホームラン。指を立てながらダイヤモンドを回る姿は、王選手とはまた違ったカッコ良さを強烈に感じました。彼の活躍で、この試合8−4でドジャースを破りヤンキースがワールドチャンピオンを獲得。

     10月のポストシーズンになると調子をあげて驚異的な活躍をするところからついた渾名の「ミスター・オクトーバー」からして、チャンスに回ってきた時には何かしら期待させてくれる存在でありました。どこを投げても撃ち返しそうなふてぶてしい面構え、度入りサングラス風のメガネ、そして黒いひげ。彼の存在をきっかけに、メジャーリーグの世界に首を突っ込んだのは言うまでもありません。
     彼の事を語ると、ヤンキース在籍時の出来事が多く取上げられますが、意外にもヤンキースに在籍したのはたった5年。タイトルも1980年の本塁打王のみ。
     しかしその間、ヤンキースはワールドシリーズに3度も出場。1977年からチームが2年連続ワールドシリーズ・チャンピオンを獲得できたのは彼の活躍抜きでは実現出来なかったでしょう。


    ★ 1977年ワールドシリーズ 第6戦 スコア

     ドジャース 201000001 4
     ヤンキース 02032001X 8

     勝ち投手 トーレス
     負け投手 ソーサ

    【ホームラン】
     チャンブリス(2回:ヤンキース)
     ジャクソン(4・5・8回:ヤンキース)
     スミス(3回:ドジャース)←ジャイアンツで活躍したレジースミス氏です


     レジー・ジャクソンは1981年以降、エンゼルス、アスレチックスと移籍しましたが、引退する1987年まで、私はその雄姿を、テレビ、雑誌を通じて追い続けました。

     如何でしたでしょうか。メジャーに関しては日本プロ野球をほど熟知してない身分ではありますが、次回以降も印象に残った試合をご紹介して参ります。今後も末永くお付き合い下さい。
     という訳で今回はここまで。
     また来月お会いしましょう。~(=^‥^)/~~~ またニャ!



     第2回 VOL.2 1951年 決死のキャッチ


     こんにちは、shinorarこと篠浦です。先月から今月に掛けて、日本、メジャー問わず野球関連の書籍を買いあさり、気が付けば今月の生活資金が赤字寸前になってた事が判明。給料日までが待ち遠しいぃ。
     それはさておき、今回の「19XX」は1951年、ドジャースのプレーオフ進出を掛けた9月30日の対フィリーズ戦をご紹介します。


    ● ジャイアンツ猛追

     この年の8月11日の段階で首位ドジャースとジャイアンツは13.5ゲームの大差があったが、ジャイアンツは以降驚異的な勢いで勝ち進み、9月27日までの42試合で35勝7敗を挙げ、ドジャースを猛追しました。
     そして、9月28日、シーズン終了2日前の試合でドジャースはフィリーズに3−4で敗れ、対にジャイアンツとドジャースが92勝58敗で同率に並んだのです。
     するとその翌9月29日、ドジャースは5−0で、一方、ジャイアンツもボストン・ビーズ(現在のブレーブス)を3−0で破り、同率首位のままシーズン最終戦を迎えました。


    ● 運命の最終戦

     シーズンの最終日の9月30日。ドジャースは敵地フィラデルフィアでフィリーズ戦、ジャイアンツも敵地ボストンでビーズ戦に挑みました。

     ドジャースの先発であったプリーチャー・ロウが3回裏まで6得点を与え、1−6の劣勢に立った時、ジャイアンツが一足早く試合を終了し3−2で勝利を収めました。この時点でジャイアンツが94勝58敗で半ゲームの差をつけ、単独首位。
     一方、ドジャースも反撃に移り、5回を終わり5−8と3点差に詰めました。そして8回表、ルーブ・ウォーカー、カール・ファリオのタイムリーでついに8−8の同点に追いついたのです。
     その裏、ドジャースは先発のニューカムをリリーフに投入し、反撃の糸口を待つ事になりました。一方、フィリーズもエースのロバーツを起用、試合は延長戦に突入したのです。


    ● 決死のダイビング・キャッチ

     試合は延長12回裏、フィリーズは2アウトながら満塁のサヨナラのチャンスを迎えました。

     そしてエディ・ウェイトカスの放った打球は低いライナー性でセカンドの右を襲いました。そこで、セカンドを守っていたジャッキー・ロビンソンは無謀とも言えるダイビングキャッチを試みたのです。結果は...ボールは、ロビンソンのグラブに収まっていたのでした。
     ですが、肝心のロビンソンがうつ伏せに倒れたまま動かない・・・。彼はダイビングキャッチの際、肩を強打し、脳震とうの状態となったのです。しかしこのように、わが身を投じたジャッキーのミラクル・キャッチで、ドジャースはピンチを乗り越えたのでした。


    ● 劇的なホームラン

     試合は13回を終了。ドジャースは7人の投手を起用し、ピンチを乗り越えました。

     一方、フィリーズもロバーツが好投を続けていました。そして14回表も、2者を打ち取り、ドジャースの攻撃が途絶えるかに見えたのです。
     ここで打席に入ってきたのは、4番のロビンソン。ロビンソンがカウント1−1からの3球目を強振すると打球はレフト上段に飛込み、この結果、ドジャースが最大5点のビハインドをひっくり返したのです。
     この日一喜一憂しながら試合を観戦してたドジャースのオマリー会長は、ヒーローであるロビンソンの手を固く握りしめたのでした。


    ● スコア

     ドジャース 001 130 030 000 01┃9
     フィリーズ 042 020 000 000 00┃8

    【勝】 ポビー・ドーラン
    【負】 ロバーツ
    【HR】ロビンソン[ド]
        ブラウン[フ]
    【試合時間】4時間31分
    【観客】31755人


    ● その後・・・

     ドジャースはこの勝利で、ジャイアンツと同率の首位で再び並び、2勝先取によるプレーオフに臨みました。
     しかしこの3日後、ラルフ・ブランカがボビー・トムソンに3ランを食らい、ジャイアンツの逆転優勝。ドジャースはついに力尽きました。
     ただ、この日の試合が後世に残る名勝負になるなんて、この時、誰が予測したでありましょう。それだけこの日の試合は、すさまじいものだったのです。

     という訳で今回はここまで。
     また来月お会いしましょう。~(=^‥^)/~~~ またニャ!



     第3回 VOL.3 1933年 夢の球宴 始まる


     こんにちは、shinorarです。今年で75回目を迎えるMLBオールスターゲームは日本時間で15日、アストロズの本拠地、ミニッツメイドパークで開催されます。1986年以来、19年ぶりのヒューストンでの開催です。因みにその試合のMVPは、当時22歳だったロジャー・クレメンスでした。

     さて、今回の「19XX」はオールスターゲームが始まった1933年(昭和8)年を振り返って参ります。


    ● 少年からの一通の手紙

     「シカゴ・トリビューン」紙の運動部長を務めていたアーチー・ウォード氏は、この年、シカゴで開かれた万国博覧会の記念行事を検討してした。そこへ少年から「カール・ハッベルとベーブ・ルースの対決が見たい」という手紙が届きました。

     ハッベルは当時のニューヨーク・ジャイアンツのエース、ルールは言わずとしれたヤンキースのスター選手。彼らの対決を見る機会は、それぞれのチームが別のリーグに所属している為、ワールドシリーズしかなかったのです。
     そこで、少年の願いを実現させようと、ウォード氏は両リーグの一流選手が一堂に会して真剣勝負を繰り広げる「世紀の試合」を提唱しました。
     当初、主力選手の故障を心配したオーナー達はこの提案に対し難色を示しましたが、ランディス・コミッショナーの働きかけもあり、オールスターゲームが実現する事になったのです。


    ● 夢の球宴

     7月6日、シカゴ・コミスキーパークで、第1回のオールスターゲームが開催されました。49,000人の観客の多くはハッベルの投球を楽しみにしてましたが、ハッベルは4日前に18イニングを投げ切って完投をしたばかりで、十分な疲れが取れていなかったのです。
     そこでナショナル・リーグは彼の代わりに、カージナルスのビル・ハラセンを先発に起用しました。一方、アメリカン・リーグはヤンキースのレフティ・ゴーメッツを先発に指名。
     試合は2回裏にアメリカン・リーグが先制した後、3回にはルースのオールスター第1号となる2ランが飛び出して追加点を挙げ、観客から拍手喝さいを浴びました。
     一方、ナショナル・リーグは6回表、フランキー・フリッシュのホームラン等で2点を挙げ、反撃。ハッベルは終盤7回から登板。2イニングを1安打におさえる好投を見せるも、この年、ルースとの対決は見られませんでした。

     試合は4−2でアメリカンリーグが勝利を収めると同時に、このイベントは大成功の内に終了しました。
     そしてルースとハッベルの対決は翌年実現され、ハッベルはルースをはじめ、ルー・ゲーリック、ジミー・フォックス、アル・シモンズ、ジョー・クローニンというアメリカンリーグが誇る強打者たちから5連続三振という快挙を達成したのでした。


    ● ゲームスコア

    【日時】1933年 7月6日
    【球場】コミスキーパーク
    【観客】49,000人

    ナ・リーグ 000 002 000┃2
    ア・リーグ 012 001 00×┃4

    【勝】レフティ・ゴーメッツ
    【負】ビル・ハラセン
    【ホームラン】ベーブ・ルース、フランキー・フリッシュ


    ● ホームラン記録

     オールスターゲームではベーブ・ルースの第1号から昨年のハンク・ブレイロック(レンジャース)まで、計161本のホームランが出ています。そのなかで一番多く打っている選手は、「THE MAN」ことスタン・ミュージアル(セントルイス・カージナルス)で、6本です。1955年の延長12回に飛び出たサヨナラ本塁打は、打席に入る前、相手チームのヨギ・ベラ捕手に向かって、「俺はもう疲れたよ」と吐き出すように言った直後のホームランで、伝説になっている1本です。
     また、出場僅か9試合で4本打ったのがフレッド・リン(カリフォルニア・エンゼルス)。1983年のオールスターではいまだもってオールスター唯一の、満塁ホームランを放っています。

     さて、昨年までの対戦成績はナショナルリーグの40勝32敗(2分)でありますが、1997年以降、アメリカンリーグが引分を挟んで6連勝中です。今年はどんなドラマが繰り広げられるのか、はたして松井のホームランは生まれるのか、楽しみです。

     という訳で今回はここまで。
     来月お会いしましょう。~(=^‥^)/~~~ またニャ!



     特別編1 1995年 ボビー、マリーンズ監督へ


     皆さんこんにちは、shinorarです。
     今回はめじゃーではなく、自身のメルマガから配信してます「日本やきゅう19XX」をお送り致します。
     めじゃーファンの皆様、わがままをお許し下さい。^^;

    ◆ ボビー、マリーンズ監督就任

     10年連続Bクラスに低迷した1994年のシーズンオフ、マリーンズは広岡達朗氏を当時では画期的なGM(ゼネラル・マネージャー)に就任しました。
    そして広岡氏は監督人事に入り、メジャーリーグ・テキサスレンジャースにて1992年まで監督を務めたボビー・バレンタインを監督として招聘しました。
     またその就任後、バレンタインのコネクションからレンジャースのフリオ・フランコ内野手、フィリーズのピート・インカビリア外野手、エリック・ヒルマン投手を獲得し、Aクラス奪取に向けての選手補強を行ったのです。

    ◆ 広岡GM、バレンタインを批判

     オフシーズンを賑やかしたマリーンズだが開幕後、4番に座ったインカビリアの不振からか打線が繋がらず、チームは1試合2点弱の貧打が続き、4月で早くも借金生活に突入。
     加えて、バレンタインの要求するサインプレーに選手がついていけず、三塁コーチも含めミスを連発。連日、広岡GMを含め、首脳陣の議論が続きました。
     しかしバレンタインは、「2ヶ月待ってくれ。6月には必ず上昇する。戦力を把握するのに2ヶ月かかる。」とコメントしました。ただシーズン開始当初は打線を幾度か組替えたでも効果が出ず、4月は借金6の最下位で終えました。

    ◆ 広岡GM、現場に介入

     すると5月のある試合前、この結果に業を煮やした広岡GMはグラウンドに入り、現場を指揮したのです。
     GMはコーチの人選、戦力補強等、現場が気持ち良く野球に集中出来る環境をフロントに提案する位置にいなければならないはずなのですが、この越権行為ともいえる行動の結果、バレンタインと広岡との間に溝が生まれてしまったのです。
     更に5月に入り、主力選手が風疹で続々と倒れ、ある試合ではベンチ入りの選手が21人しかいない事態となっただけでなく、6月には7連敗を記録し、借金は11まで膨れ上がりました。チームはどん底へと墜ちたのです。

    ◆ 快進撃始まる

     しかし、この7連敗を止めてからマリーンズの快進撃は始まりました。オールスター前までに18勝6敗を記録、借金を返済したのです。投手陣は伊良部を中心に小宮山、ヒルマン等の先発陣が序盤から中盤にかけて抑えると、あとはこれを受けた吉田、河本、成本が踏ん張るという勝利の方程式を確立。先発ローテーションの谷間では、この年ルーキーであったジョニー黒木も初勝利を挙げました。

    ◆ ブルーウェイブ3連戦、3連勝

     「がんばろうKOBE」をキャッチフレーズにパリーグを独走したブルーウェイブ。優勝マジックが「1」となり、9月15日からのマリーンズを迎えた神戸3連戦で地元優勝を目指したのではありますが、ここでマリーンズは地元優勝を阻止すべく、伊良部、小宮山、ヒルマンの先発3本柱で挑み、その結果、ブルーウェイブに3連勝。胴上げを阻止しました。
     その後、ブルーウェイブは9月19日、所沢球場でのライオンズ戦で優勝を決めたが、最後まで諦めなかったマリーンズとの戦いは、今もって野球ファンの脳裏に刻まれています。

    ◆ バレンタイン解任

     しかしシーズン終了後、練習方針などで広岡GMと対立、バレンタインは監督を解任される結末となりました。かつて広岡GMは、ライオンズの監督時代、GM的存在の根本陸夫氏に「監督がフロントの仕事の領域に入ってきた」として解任されたのですが、今度は広岡GMがバレンタイン監督のやり方に納得いかず、監督の仕事の領域に入り込んだ末、監督を解任したのです。
     バレンタインが去ったマリーンズは翌年、江尻コーチが監督に就任しましたが、外国人補強の失敗、前田、愛甲の放出、伊良部のメジャー移籍騒動などで5位に低迷。球団は広岡GMを解任する結末となりました。

    ◆ バレンタイン、10年ぶりに日本へ

     その後、バレンタインは1996年からニューヨーク・メッツの監督に就任。2000年にはナショナルリーグを制し、ヤンキースとワールドチャンピオンを争いました。結果は1勝4敗で敗れはしましたが、低迷していたメッツを常勝チームへと押し上げました。
     2001年にはメジャー監督として通算1000勝を記録。2002年、メッツを辞任するまで通算1117勝(1072敗)の実績を引っ提げて、2004年、マリーンズと3年契約を結んで10年ぶりに監督にカムバックしました。
     バレンタインが一度離れた1995年以降、マリーンズはBクラスに低迷していますが、彼のマリーンズ再生術をじっくりと拝見したいと思っています。

    ◆ 次回予告

     さて次回は、通常の「めじゃーりーぐ19XX」をお送りします。現時点で何を取上げるかは決めてませんが、おもろい記事を取り上げて参ります。
    では、また来月お会いしましょう。~(=^‥^)/~~~またニャ!



     特別編2 オリックス・近鉄合併


     ブルーウェイブとバファローズの間で合併合意が表面化したニュースは驚きましたねぇ。
     一部の新聞を見ると「1リーグ・10球団制」とか、「5チームに縮小しても2リーグ制のままで」等の報道が流れているようですが、どの方向で収まりそうなのか、非常に気になります。
     今後の流れですが、今週17日に行われるパリーグ緊急理事会が行われ、議題として承認された後、7月7日に行われるオーナー会議にて承認が下りれば、合併に向けた話が本格的に進行するものと思われます。

     このニュースは、先週の土曜日に日経新聞がスクープで取上げたのを機に広がりました。我が友人からは、『shinorarは、この合併のニュースを事前から知っとったの?』、『知るわけないやん(^^;)』とか、『パリーグはこれからどうなるの?』等、電話が掛かったり、メール等もいくつか受けました。
     正式に決まってないですからツベコベ言えませんが、私見としては、「プロ野球の終わり」に向けての時限爆弾装置が発火した感がしますね。合併により、もしパリーグが5球団になった場合、「試合が組めないからもう1つ削ろう」となり、やがて1リーグ制という縮小路線になる事は間違いないでしょう。

     もし、年俸高騰が赤字の理由だとすれば、身の丈にあった経営に改善すれば済むだけの話、の気がします。Jリーグもかつてはプロ野球と同様な査定方式を採用し、カズ、武田と言った選手は2億ないし、それを超える年俸を貰ってましたが、1990年代後半になり、球団の相次ぐ身売り、破産を目の当たりにし、危機感を募らせた川淵チェアマン(現在はキャプテン)は、需要と供給のバランスの改善・修正を各球団に通達し、球団減少を食い止めました。
     それに比べ、プロ野球の年俸はFAだの、メジャーリーグへの流失防止を理由に、うなぎ上りに歯止めが掛かってないですし、メジャーリーグの年俸高騰に日本プロ野球が乗ってしまい、そのツケが回ってきたのでしょう。
     「お金が安い・・・」って駄々をこねるロートル選手を潔く切り離したり、活躍出来なかった選手の減俸範囲を広げたり、経営を改善する選択肢は幾つもあります。

     また、合併を模索する今回の動きは会社の屁理屈が全面に出ており、何度も言うが、近畿日本鉄道、オリックスをはじめ、プロ野球球団を持つ親会社は地域に根付いたファンがいることを忘れてるし、無視し続けてる。これじゃぁ「助けて下さい」ってマスコミを通じて罵ろうが、誰も見向きゃぁしないのは当然。
     少しでも発展を望むのであれば、球団経営が可能な参加条件を緩和する努力が必要でしょう。そのためにはまず、プロ野球機構への加盟料(30億円)の廃止、そして、コミッショナー主体による放映料の一括管理・分配、そして、読売ジャイアンツに脛をかじってる現状のぬかるんだ組織形態を根底からぶち壊すことが、再建に向け必要不可欠でしょう。


     第4回〜はこちら


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