めじゃーりーぐ19XX by Shinorar

    第4回 VOL.4 1992年 カンセコ電撃移籍

    第5回 VOL.5 1948年 "THE MAN" IS MR."FIVE-FOR-FIVE"

    第6回 VOL.6 1988年 主砲の一振り

    第7回 VOL.7 1991年 "Good Night, St.Jack"

    第8回 VOL.8 1988年 "21-Consecutive Loss"



     第4回 VOL.4 1992年 カンセコ電撃移籍


     こんにちはshinorarです。メジャーリーグのトレードは7月31日を以って終了となりますが、今年も期日間際での駆け込み移籍、主力選手の電撃移籍等、いくつもの”サプライズ”トレードが起きました。

     先ずはドジャーズの正捕手のロデューカがマーリンズへ、ヤンキースのホセ・コントレラス投手がホワイトソックスへ、昨年のアメリカンリーグ最多勝のロアイザがヤンキースへ、そして一番のニュースは、レッドソックスの至宝ノマー・ガルシアパーラのカブスへのトレードが決まった事でしょうか。
     また、レッドソックスに関して言えば、エースのマルチネス投手も「来季以降、レッドソックスとは契約しない」とのコメントを発してます。至宝が去り、エースも抜けるとなれば、今シーズンから来シーズンに掛け、チーム再建に向けた大手術が敢行されるかもしれませんね。
     当チームのGMを務め、記録研究を目的としたSABR(アメリカ野球学会)のボスでもありますビル・ジェームス氏の手腕が試されます。

     このように、7月に入り、リーグ優勝が厳しいと見越したチームとなれば、主力、スター選手を放出し、来季を見添えて若手選手を獲得し、起用するケースがあります。
     今回の「めじゃーりーぐ 19XX」は1992(平成4)年、ホゼ・カンセコ選手の電撃トレードを振り返ってまいります。このトレードは、私自身が初めてメジャー主力選手の電撃移籍を目の辺りにした”大事件”でした。


    ◆バッシュ・ブラザース結成◆

     ホゼ・カンセコは1985(昭和60)年にメジャーデビューを果たし、1986(昭和61)年、33本塁打、117打点を挙げ、この年の新人王に輝きました。
     以後、マーク・マグワイアとのコンビは「バッシュ・ブラザース」と呼ばれ、相手から恐れられるコンビとなりました。
     そして、彼らが在籍してたアスレチックスは1988年から1990年にかけて、アメリカンリーグのチャンピオンとなり、全盛時代を迎えました。
     1991年、アスレチックスはリーグ優勝を逃したが、カンセコはこの年、44本塁打、122打点を挙げ、1988年以来2度目のホームランキングを獲得しました。


    ◆試合中での電撃トレード◆

     しかし、1992年は22本塁打を挙げるも、打率.250を切り、マグワイアと比べ見劣りがしました。そして、8月30日、地元・オークランドでのインディアンス戦ではノーヒットに終わり、ファンがいっせいブーイングをカンセコに浴びせたのです。
     すると8月31日の対オリオールズ戦。この日、3番・ライトで先発出場したカンセコはその裏の打席を前に、ブランケンシップとの交代を告げられ、同時に監督ラルーサから、テキサス・レンジャースへの移籍を告げられたのです。
     そして試合開始から約1時間を経とうとした3回裏、「午後8時からカンセコに関する記者会見を行う」とのアナウンスがオークランド・コロシアムに流れました。

     その日の午後8時、テレビカメラはアスレチックスの球団社長、サンディ・オルダーソンを映していました。オルダーソンはこう述べました。

     「我がアスレチックスはホゼ・カンセコをテキサス・レンジャースにトレードし、変わりにルーベン・シエラ、ボビー・ウィット、ジェフ・ラッセル両投手を獲得した。」

     このニュースは日本でも速報として取上げられた事を覚えています。
     全米のラジオ局、テレビ局は試合をそっちのけにして、カンセコの電撃トレードに関するニュースを何十回も繰り返して放送したそうです。

     のちにオルダーソン球団社長は、「このトレードは2、3日前から密かに考えていた事だった」と述べました。この日現在、アスレチックスが首位に立っていただけに、優勝への望みが薄いレンジャースへのトレードは、カンセコを失意のどん底へと落としいれたのは言うまでもありません。


     さて、今年の駆け込みトレードで吉を引く選手、凶を引く選手は誰になるでしょうか? トレードされた主力選手の動向を海の向こうから見守って行きましょう。

    ●参考文献

     メジャーリーグ紳士録 伊東一雄著 ベースボールマガジン社


     という訳で今回はここまで。
     来月にお会いしましょう。~(=^‥^)/~~~ またニャ!



     第5回 VOL.5 1948年 "THE MAN" IS MR."FIVE-FOR-FIVE"


     こんにちはshinorarです。1週間配信が遅れまして申し訳ありません。
     先日放送された「田原総一朗の熱論90分スペシャル!」皆さんご覧になりましたでしょうか。自身は7月末都内某ホテルで行われた「竹中氏・ナベツネ会談」の真意を聞きたかったのですが、田原さんに先越され、しかも旨い具合に流されてしまいました。今後もこのような討論に参加出来る機会を頂けるのでしたら、ご覧の皆様と共に、参加していきたいと思ってます。そして今回のイベントにご賛同、ご参加下さいました編集長MBさん、副編集長であります高原成龍さん、そしてMAKIさんには厚く御礼申上げます。

     さて、1920(大正8)年にジョージ・シスラーが記録したシーズン257安打のメジャーリーグ記録を、84年もの時を経てイチローが塗り替えようとしています。今シーズンは日米通算で2000本安打に到達、月間50安打を3回記録、そしてメジャー史上初、デビューしてから4年連続でシーズン200安打以上を記録。安打製造器・イチローがストップする事はありません。今やボンズと同様、「勝負したくない選手」の一人に挙げられるスタープレイヤーとなりました。

     また、「FIVE-FOR-FIVE」(1試合で5打数5安打記録した事を意味する)を今年2回記録してます。そこで私はこの記録が気になったので調べてみたところ、1シーズンで実に4度も記録したつわものが、二人いました。
     一人は、デトロイト・タイガース一筋で通算4191安打を記録した「異端児」ことタイ・カッブ氏(1922年記録)、そして、「THE−MAN」の異名を持ち、セントルイス・カーディナルスで史上3位の通算3630安打を記録したスタン・ミュージアル氏です。

     ミュージアルはこの記録を1948(昭和23)年に記録したのですが、特に4回目を記録した際は「5スイングで5安打」という誰も真似できない神業を演じてくれました。
     今回の「19XX」は、ミュージアルがシーズン4度目の「FIVE-FOR-FIVE」を達成したこの年の9月22日の試合を振り返って参ります。

    ◆ 満身創痍での出場

     その年の7月23日、スタン・ミュージアルは3度目の5打数5安打を記録し、レフティ・オドール等が記録したシーズン記録に並びました。
     そして新記録を掛けて試合に出場し続けたのですが、22日の3日前の試合で守備の途中左手首をひねり、更に20日のドジャース戦では、投手の球を右手首に受け、試合後は殆どバットが振れない状況になってしまったのです。
     そんな中、23日はあと1勝でリーグ優勝が決まるボストン・ブレーブスとの対戦となりました。先発投手は、現役引退までに、メジャーリーグにおけるサウスポーの勝利数で通算1位の363勝を挙げることになる、ウォーレン・スパーン。
     そこで、バットスイングがままならない状況でシーズン4度目の5打数5安打達成となるか、ミュージアルのバッティングに注目が集まったのです。

    ◆ シーズン4度目の「5打数5安打」への挑戦

     試合前の練習で右へ引張れないと判断したミュージアルは、全打席流し打ちする事を、心に決めました。
     第一打席は、レフト前のヒット。第二打席は外よりのストレートを叩き、レフトオーバーの2塁打。第三打席には、スパーンから交代した右投げのパレットが投じたチェンジアップを、引張りました。
     するとその打球はライトスタンドへと消える、この年30号目のホームランとなりました。

     6回、第4打席目。手首の痛みは限界に達し、三遊間を狙ってバットを押出す以外になかったのですが、彼が放った打球はイメージどおり、三遊間を抜けていきました。
     そして運命の第5打席。ブレーブスは5番手に右腕のライオンを起用したが、如何せんノーコン投手でもありました。そこで、四球になるのでは、と恐れたミュージアルは、初球をとにかく打っていこうと腹を決め、打席に入りました。

     その初球・・・。彼が叩いたボールはライト前へ抜け、この日5本目のヒットが生まれました。ミュージアルはついに、シーズン4度目の「1試合5打数5安打」の新記録を達成したのです。

    ◆ 5スイングで5安打を放つ集中力

     ところでこの5本のヒットについては、信じられない出来事がありました。ミュージアルは手首の痛みが激しく、打席に入る前、「一度のスイングで決めていこう」と考えていたそうで、このとき空振りはもちろん、ファール一本も打たないで、つまり、5回しかバットを振らないことを決めていました。そして、それが全部ヒットになるという離れ業を演じてみせたのです。
     彼は後に、1試合5本のホームラン、7回の首位打者、オールスターでの通算ホームラン数1位、通算3000本安打等、輝かしい記録を残しました。そして、今年は84歳を迎えたそうですが、その日の出来事は、まるで昨日起こったかのように鮮明に覚えているのだそうです。

    ◆ スコアテーブル(1948年9月22日)

    カーディナルス 012 401 000┃8
    ブレーブス   001 000 100┃2

    勝 ブレーズル
    負 スパーン
    ミュージアル 5打数5安打 3得点 2打点

    【参考文献】

    ・大リーグ 不滅の名勝負 宮川毅・訳 ベースボールマガジン社
    スタンミュージアル公式ホームページ

    ◆ 予告

     さて次回の「めじゃーりーぐ 19XX」は、ポストシーズンの中で印象に残ったあの試合を振り返ります。
     名勝負が詰まっている「THE GREATEST GAME」においても20位以内に堂々ランクインされてます。乞うご期待下さい。

     では、また来月お会いしましょう。~(=^‥^)/~~~ またニャ!



     第6回 VOL.6 1988年 主砲の一振り


     こんにちはshinorarです。日本ではパリーグのプレーオフ、そしてメジャーではリーグチャンピオンを掛けたプレーオフが本格的に始まりました。
     アメリカン・リーグはニューヨーク・ヤンキース、ミネソタ・ツインズ、ロサンゼルス・エンジェルス、ボストン・レッドソックスが、そしてナショナル・リーグは、アトランタ・ブレーブス、セントルイス・カーディナルス、ロサンゼルス・ドジャース、そしてヒューストン・アストロズがワールドチャンピオンを掛けて、プレーオフに挑みます。ご覧の皆さんはどのチームがチャンピオンを獲得すると予想されていますか?
     ヤンキース、ドジャース、カージナルスが絡んだワールドシリーズになれば日本人選手の活躍が見れるので、面白くなりますね。

     さて、今回の「19XX」は幾度もTV観戦したワールドシリーズの中で、1977(昭和52)年、レジー・ジャクソンのシリーズ3連発に次ぐ強烈な印象が残っている、カーク・ギブソンの「1988年の一振り」を振り返って参ります。
     この一打はMLB選定の「MEMORABLE MOMENTS(記憶に残る一瞬)」の投票でも、第9位に食い込む劇的なホームランでありました。

    ◆ ドジャース投手陣−アスレチックス打線

     ドジャース−アスレチックスの「カリフォルニアシリーズ」は、1974(昭和49)年以来。この時は全盛期のアスレチックスが4勝1敗で一方的に勝利したが、このシリーズは両チームとも戦力が拮抗、好勝負が予想されました。
     特にドジャースのオレール・ハーシュハイザーは、レギュラーシーズンで59イニング連続無失点というメジャー記録を樹立。ハーシュハイザー対アスレチックスのホゼ・カンセコ、マーク・マグワイアの「バッシュブラザーズ」を中心とした強力打線との対決が注目されました。

    ◆ 注目の第1戦

     1988年10月15日、アスレチックス先発デーブ・スチュアート、ドジャース先発ティム・ベルチャーで始まったワールドシリーズ第1戦。
     初回、ハッチャーの2ランでドジャースが先制。しかし2回表、カンセコの満塁ホームランでアスレチックスがあっという間に逆転します。この年、カンセコはメジャー史上初の40・40(シーズン40本塁打、40盗塁)を記録し、充実した中でシリーズを迎えていたのです。

     その後、ドジャースは6回裏に1点を返しますが、追加点を奪えずに、1点ビハインドのまま9回裏を迎えます。マウンド上にはアスレチックスの守護神、デニス・エカーズリー。
     右眼をつぶり、サイドから投げ込むストレート、スライダーを武器に、この年、リーグタイ記録となる45セーブを記録。アスレチックスの「勝利の方程式」は揺るぎないもの、と誰もがこのとき思いました。

    ◆ 満身創痍のギブソン

      そんな状況の中、8回の攻防が始まった時、スタメンから外れたカーク・ギブソンがトレーナ室に備えてあったテレビで、こんなアナウンサーの実況を耳にします。

     「今シーズンのドジャースを支えた男は、ベンチにも入ってません」

     そこで、これを聞いたキャプテン・カーク(スタートレックのカーク船長から採ったアダ名)は奮起。すぐにアツくなる男は「いまからそこに行ってやる」と一声叫ぶと、氷の入った袋を両ひざに押し付け、バッティング練習を始めたのです。このシーズンのギブソンは、公式戦では25本塁打・31盗塁とチームを引っ張り、リーグMVPに選ばれ、メッツとのリーグチャンピオンシップでも2本塁打を放っていましたが、、両膝を痛め、ワールドシリーズ出場は絶望的と見られていました。ギブソンの体はまさに「満身創痍」だったのです。

    ◆ 主砲の一振り

     9回裏、エカーズリーは簡単に2アウトを奪い、アスレチックスの先勝は確実と見られましたが、ここで代打、マイク・デービスが四球を選び、同点のランナーが出ました。するとドジャースのラソーダ監督は、代打にギブソンを送ったのです。
     ギブソンは、初球から3球続けてファール。エカーズリーのサイドハンドから繰り出す絶妙なコースからの変化球に何とか食らいついていこう、とするギブソンのガッツにさすがのエカーズリーもじれたのか、2−3のフルカウントにまで粘られます。そして、エカーズリーが自信を持って投じた真ん中低めのスライダーを、ギブソンは強振。打球はライトスタンドへと消え、なんと逆転サヨナラホームランで、ドジャースが先勝したのです。
     右手を大きくつき上げ、ひざの痛みが引かない中、左足1本で飛び跳ねるようにベースを回るギブソンを、守護神エカーズリーは呆然と見送ったのでした。

     結局このシリーズ中、ギブソンが打席に立ったのはホームランを放ったこの第1戦だけだったのですが、このホームランが無言の威圧感を相手チームに与え、それに脅えた当時MLBの最強チームだったアスレチックスは、ワールドチャンプを逃してしまいました。「キャプテン・カーク」はその存在だけで、ドジャースにチャンピオントロフィーをもたらしたのです。

    ◆ スコアテーブル(1988年10月15日)

    アスレチックス 040 000 000┃4
    ドジャース   200 001 002┃5x



    勝 ペーニャ 1勝
    負 エカーズリー 1敗
    ホームラン <ア>カンセコ(1号満塁・2回)
          <ド>ハッチャー(1号2ラン・1回)、ギブソン(1号2ラン・9回)

    【参考文献】

    ・スーパースターに学ぶ ベースボール 山中 正竹 監修 ナツメ社

    ◆ 予告

     さて次回の「めじゃーりーぐ 19XX」は、日米親善野球の中から印象に残った試合を紹介して参ります。次回も乞うご期待下さい。
     では、また来月お会いしましょう。~(=^‥^)/~~~ またニャ!



     第7回 VOL.7 1991年 "Good Night, St.Jack"


     日本プロ野球において前年、最下位だったチームが日本一となったケースは1960(昭和35)年に日本一となった大洋ホエルーズのみではありますが、前年が最下位同士による日本シリーズはまだありません。
     が、メジャーリーグにおいては1991(平成3)年に対戦したアトランタ・ブレーブス−ミネソタ・ツインズという組み合わせがあります。

     このワールドシリーズにおいて、ツインズの本拠地・ミネソタのメトロドームでは純白のタオルがスタンド全体を覆う一方、南部にあるブレーブスの本拠地、アトランタのフルトンカウンティスタジアムでは「トマホーク・チョップ」が出現。ちなみにツインドームでの”トリブル・タオル”はもともとNFL起源のもので、1998年のワールドシリーズでも、サンディエゴ・パドレスの当時の本拠地、クアルコム・スタジアムでやっておりましたが(これが日本にも入ってきて、千葉ロッテマリーンズ経由で巨人へと伝播しました)、トマホーク・チョップは以後、ブレーブスの名物となっており、いまでは新本拠地で同じくアトランタにあるターナー・フィールドでの中継がありますと、観客のみなさんが独特の掛け声とともに、ウレタンの斧をゆっくりと上下させるパフォーマンスを目にした方も多いと思います。

     結局この観客の熱気とともにはじまったシリーズはもつれにもつれ、6試合を終わった時点で3勝3敗の5分、そのうちサヨナラゲームが3試合、延長戦が2試合。そして最終第7戦を前に、シリーズのボルテージは最高潮に達したのです。

    ◆ 息詰まる投手戦

     前日・第6戦の延長11回裏に至宝であるカービー・パケットのサヨナラホームランで逆王手を掛けたツインズは、翌日第7戦、スプリットフィンガードファストボールを武器に長らくデトロイト・タイガースのエースとして君臨したジャック・モリスを先発に指名、一方、ブレーブスは若き豪腕投手、ジョン・スモルツに先発を託しました。

     この第7戦は息詰まる投手戦となり、7回までは両チーム無得点が続きました。そして8回表、ヒットで塁に出たロニー・スミスに続くテリー・ペンドルトンが2塁打を放ち、ブレーブスがノーアウト2・3塁という決定的なチャンスをつくると、ここまで好投を続けていたツインズの先発のモリスは、次の3番、ロン・ギャントは内野ゴロに仕留めたものの、4番のデーヴィッド・ジャスティスを敬遠で歩かせ、1アウト満塁にしてしまいます。
     ここで迎えるバッターは、5番のシド・ブリーム。が、ブリームは高めのチェンジアップを引っ掛けてしまい、ボールはファースト→キャッチャー→ファーストと渡ってダブルプレー。ここで最大のピンチを乗り越えたモリスは、もの静かな彼にしては珍しくガッツポーズをつくり、感情を露にしたのでした。

     するとその裏、ツインズが逆に、ブッシュのヒットを皮切りに1アウト1、3塁とすると、ブレーブスのボビー・コックス監督は2番手ピッチャーとして、ワンポイントのマイク・スタントンをマウンドに送り、3番のカービー・パケットを敬遠して満塁策をとって、アメリカン・リーグ・チャンピオンシップシリーズでは打率.143、ワールドシリーズでは打率.120と不調だった4番のケント・ハーベックと勝負。スタントンはストレートを打たれますが、打球はセカンド正面へのハーフライナーとなり、名手、マーク・レムキーがこれを掴んでそのままセカンドベースカヴァーに入った結果、セカンドランナーだったチャック・ノブロックは帰れずにダブルプレー。
     こうして1点を争う試合は、今季3度目の延長戦に突入したのでした。

    ◆ 息詰まる投手戦

     この後9回を終了しても、ツインズのトム・ケリー監督はモリスを続投させました。
     するとモリスは、延長10回に入っても球威が衰えることなく、ブラウス、ロニー・スミス、ペンドルトンを3者凡退に抑え、ここまで球数125球、被安打7で史上二人目となる「先発投手10回無失点」を記録しました。
     そしてその裏のツインズは、9回の裏に送りバントの打球を追って負傷したスタントンのあとを受けた3番手ピッチャー、アレハンドロ・ペーニャから1番のダン・グラッデンが2ベースを放ち、ノブロックがバントで3塁まで送り、サヨナラのチャンスを掴みます。そこでブレーブスは3番・パケット、4番・ハーベックを敬遠、満塁策を採ります。
     ここでトム・ケリー監督が代打にジーン・ラーキンを送ると、ラーキンは見事期待に応え、左中間へとペーニャの球を弾き返します。すると3塁側ベンチからは、先発のモリスが真っ先にホームプレートへと駆け寄りました。あまり感情を表に出さなかった彼にしては珍しく、ホームインするグラッデンの姿をより間近で眺め、自らの勝利とシリーズの優勝を確かめたかったのでしょうか。

    ◆ モリスへの敬意

     「これほど凄いモリスの投球を見たのは初めてだよ。」

     試合後、ツインズのケリー監督は真っ先にこう述べました。そして4番のハーベックは、

     「10回で降板することも考えていたらしいが、とんでもない。モリスは25回は投げれたよ。」

     とコメント。また、当時のツインズのオーナーであったポーラッド氏は、

     「これまでこのチームに随分とお金を掛けてきたが、今年モリスと契約したことが、最高のいいお金の使い方となったよ。モリスがいなければこんなことは不可能だった」

     とオーナーとしては最高の賛辞をモリスに贈りました。

     翌日、モリスの故郷、セントポールの地元紙「パイオニア・プレス」の一面見出しには、横全段で、

     "Good Night, St.Jack"

     と書かれていました。St.(聖なる)という称号を与えることで、1980年代、もっとも多くの勝ち星を挙げた偉大なる投手、ジャック・モリスに対する最大の敬意を、地元メディアとしての誇りの気持ちをこめて、表明したのです。

    ◆ スコアテーブル(1991年10月27日:ワールドシリーズ・第7戦)

    【ツインズ4勝3敗】
    ブレーブス 000 000 000 0┃0
    ツインズ  000 000 000 1┃1x

    球場:メトロドーム
    観客:55118人
    勝:モリス 2勝
    負:ペーニャ 1敗

    【参考文献】

    メジャーリーグ紳士録 伊東一雄著 ベースボールマガジン社


    【予告】

     配信が遅くなり申し訳ありませんでした。
     あと、先月予告した内容と異なったこともお詫び申上げます。
     次回も、印象に残ったゲームを取り上げて参ります。

     では、また来月お会いしましょう。~(=^‥^)/~~~ またニャ!



     第8回 VOL.8 1988年 "21-Consecutive Loss"


     公式戦の開幕戦ほど、ワクワクドキドキする日はないのではないでしょうか。ある意味”正月を迎える気分”となっている選手のみなさんにとっては無論そうでしょうし、我々ファンとしても同じ気持ちでは、あります。
     また開幕戦に、贔屓にしているチームが勝てば、「こりゃか今年は優勝するかも・・・」と妙な興奮とともに期待をも抱くのですが、一方負ければ、「今年は無理かなぁ」と思って、ガックリしてしまいます。そしてその数(連勝、連敗)が続けば続くほど、その想いは日に日に増していくのではないでしょうか。

     ちなみに、日本プロ野球における開幕からの連勝記録は、1954年の西鉄ライオンズ、1999年の中日ドラゴンズが打ち立てた11連勝です。一方連敗記録は、1955年のトンボユニオンズ、1979年の西武ライオンズの12連敗。
     ですが、メジャーリーグにおける開幕からの連勝・連敗記録はさらにすごいです。連勝記録は1982年のアトランタ・ブレーブスの13連勝がありますし、連敗記録は1988年、ボルティモア・オリオールズの21連敗があります。このときは至宝、カル・リプケンのお父さんのカル・リプケン・シニアが監督を解任され、日本の一般地上波のニュースでもこれが流れたのですが、私はNHK・BSよりライヴで見てたこともあり、シーズン初勝利までの出来事を今でも鮮明に覚えています。
     そこで本日の「19XX」は1988年、オリオールズのシーズン初勝利までの22試合を振り返ってまいります。

    ◆ 不安がぬぐえない開幕

     ボルティモア・オリオールズは1983年に優勝して以来、アメリカン・リーグ東地区において5、4、7、6位と低迷していました。そこで1987年からは、チームの至宝、カル・リプケンの父であるカル・リプケン・シニアが監督に就任したものの、9月7日から26日までの18試合で1勝17敗と負け続け、シーズンを終えました。
     そしてオリオールズはそんな嫌なムードを前シーズンから引きずる中、1988年の開幕試合を迎え、前年10勝を挙げたボディッカーを先発として立てましたが、ミルウォーキー・ブリュワーズの打線に捕まり、0−12で大敗。ここからオリオールズは出口の見えない黒星街道を突っ走る事となってしまったのです。

    ◆ 黒星街道まっしぐら

     そこでオリオールズのフロントは、開幕から6連敗したところでリプケン・シニアを監督から解任し、新たな監督としてフランク・ロビンソンを据えましたが、監督が代わってからもカンサスシティ・ロイヤルズに1−6で負け、チームの開幕からの連敗記録を、あっさりと更新してしまったのです。
     また9連敗目からは3−4、2−3、0−1と1点差で3連敗を重ね、11連敗。さらに15日のインディアンズ戦では、途中まで2−1とリードしながら8回に逆転され、12連敗。16日には先発のマイク・モーガンが9回を無失点に抑える力投を見せながら打線が応えられず、延長10回、ウィリー・アップショーにチーム3本目のヒットを許してしまい、この結果インディアンズに決勝点を与え、この試合を落としてしまいました。
     すると4月20日のブリュワーズ戦でも破れ、オリオールズはさらに、1904年のワシントン・セネターズ、1020年のデトロイト・タイガースによる13連敗のメジャーリーグ記録も、あっさりと更新してしまったのです。

    ◆ チームが勝つまで・・・

     このオリオールズの不甲斐なさに、地元ボルティモアのラジオDJを務めてたボブ・リヴァーズが、「こうなったらオリオールズが勝つまでぶっ通しで放送を続ける」と宣言。2時間のBGMで休息を取る以外、1日20時間以上しゃべり続け、チーム奮起を促しました。
     しかしチームは負け続け、さらにその連敗記録が伸びるにしたがって、この椿事がボルチモアのみならず、全米での関心事となっていったのです。そして、18連敗を記録した25日には、当時のロナルド・レーガン大統領がロビンソン監督に直接電話し激励するような事態まで起きました(日本ではまずあり得ない話でしょうかね)。

     このように、現職の大統領から激励を受けるほど全米からの注目を一手に引き受けた感のあったオリオールズではありましたが、ミネアポリスのツインズ戦(26日)も2−4で敗れ、なんと19連敗。この時、リヴァーズの放送は200時間に達し、このリヴァーズのがんばりぶりも、全米で話題になりました。
     翌27日の試合では4−7と負けていましたが、9回に2点を返して6−7と1点差まで詰め、連敗脱出かと思われました。しかし反撃もここまで。オリオールズは力尽き、リーグの連敗記録(20)に、肩を並べてしまいました。そして28日の試合でも2−4で敗れ、とうとうリーグ記録を更新。残るは、フィラデルフィア・フィリーズが1961年に記録したメジャー記録、23連敗だけとなってしまったのです。

    ◆ 22試合目の歓喜。

     4月29日、オリオールズはシカゴに移動してホワイトソックスと対戦しました。
     この日は1回表2アウトからカル・リプケン・ジュニアを1塁に置いて、主砲エディ・マレーの2ランで先制しました。不振だった打線がようやくつながったのです。一方、投げては先発マーク・ウィリアムソンが立ち上がりから快調に飛ばし、ホワイトソックス打線を6回、3安打無失点に抑える好投。そして9回、リプケンのホームランでさらに2点を加えると、最後はデイヴ・シュミットがハロルド・ベインズをセカンドゴロに討ち取って試合終了。9−0の完勝で、オリオールズはついに長い長いトンネルを抜けたのでした。

     試合後、ロビンソン監督は「もうこれでキミ達に追いかけられなくなると思うと、ちょっと寂しいよ」とジョークを飛ばしましたが、翌日はまたしても打線が5安打で沈黙し、1−4で敗戦。オリオールズはこの4月を、1勝22敗という惨憺たる成績で終えました。その勝率.043は、1916年、フィラデルフィア・アスレティックスが7月に記録した月間最低勝率.067(2勝28敗)を下回り、メジャーワースト記録を塗り替えてしまったのです。
     しかし5月2日、2週間ぶりに地元に戻ってきたチームを、ボルティモアのファンは温かく迎えました。チームもその声援に応え、9−4でレンジャースに快勝。なお、この試合で始球式を務めたのは、勝つまでDJを続けたリヴァーズだった事を付け加えておきます。

    ◆ 1988年4月29日 テーブルスコア

    ボルティモア 200 010 402┃9
    シカゴ    000 000 000┃0

     勝 ウィリアムソン 1勝
     負 マクダウェル  1勝2敗
     セーヴ シュミット 1セーヴ
     ホームラン リプケン3号 マレー2号

    【参考文献】

    メジャーリーグ 栄光の大記録 スポーツスピリッツ21 NO.20 ベースボールマガジン社

    ◆ 予告

     今年も残り1ヶ月を切りました。4月から参加させてもらいましたが、ご愛顧いただき誠に有難うございました。
     メジャーリーグは奥深いです。まだまだ若輩者ではありますが、来年も皆様にメジャーリーグの魅力を出来る限り紹介させて頂きます。

     では、また来年1月お会いしましょう。ご覧の皆様、どうぞ良い年をお迎え下さい。~(=^‥^)/~~~ またニャ!


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