俺が好きなスポーツ by ダイスポ 日本スポーツ物語編

     日本スポーツ物語 日本ラグビー物語 〜その2〜


     ■連載第10回 「日本ラグビー物語:第5話」
     ■連載第14回 「日本ラグビー物語:第6話」
     ■連載第16回 「日本ラグビー物語:第7話」
     ■連載第18回 「日本ラグビー物語:第8話」



     第10回 「世界へのチャレンジ:日本ラグビー物語」第5話


    (5)大西ジャパンの戦士達


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。


     俺が好きなスポーツ、今回はラグビー日本代表物語の第5回です。大西鉄之祐監督率いる、ラグビー日本代表は遂に、ニュージーランドの強豪オールブラックス・ジュニアを破りました。このラグビー、いや日本のスポーツ史に残る金字塔を打ち立てた大西ジャパンの戦士達は、その後どのような人生を歩んで行ったのでしょうか?皆さんと一緒に振り返っていくことにいたしましょう・・・


     1968年6月3日に日本代表がオールブラックス・ジュニアを破ったという衝撃的なニュースは、瞬く間に世界中のラグビーファンに伝えられた。「ジャパンもなかなかやるじゃないか」。東洋の小国・日本のラグビーはこの日を境に、大きく世界へとはばたくことになったのである。


     特にこの試合で4トライを上げ、一躍NZでも有名になった日本のエース・坂田好弘に対する注目が高まった。小兵ながら巧みなステップで巨漢たちを振り切って走る走法には、世界の強豪も舌を巻き、トライの山を許すより術が無かったのである。しかし坂田は、そのニュージーランドへのラグビー留学を夢見るようになっていた。「日本よりレベルの高いラグビー王国で、じっくりとプレーしてみたい。本場で自分がどこまで通用するのか、もう一度確認してみたい」と言う、言わば熱病にも似た熱い思いが彼を支配していたのだ。
     この気持ちは、野茂やイチロー、またサッカーの中田英寿や小野など、現在海外で活躍している日本人選手にも共通する思いであろう。日本にいれば、第一人者として何も不自由の無い安定した地位を築いているにも関わらず、より「高い山」に登りたいと思うようになる。それが、競技の枠を越えたトップアスリート特有の思いなのだ。


     当時の坂田は、近鉄に所属するサラリーマン選手であった。坂田は帰国後、自分の思いを会社に伝える。しかし会社の反応は冷たかった。「ニュージーランド?なんでそんな所行かなあかんのや。ラグビーは日本でやっとればええやないか」と、取り付くしまもない。しかし坂田は諦めず、粘り強く交渉を進めた。そして遂に翌1969年、坂田の留学が実現したのである。


     カンタベリー大学のラグビーチームに入った坂田は、ここでも一軍のエースウィングとしてトライの山を築き、当地のラグビー関係者に再び衝撃を与えることになった。そして遂に、ニュージーランド学生代表(NZU)のメンバーにまで選ばれるのである。その走りっぷりから坂田は「フライング・ウィング・サカタ」とあだ名されるようになった。まさに空飛ぶウィングと言うわけである。


     残念ながら留学は短期間であり、坂田は間もなく帰国してしまうのであるが、もしあと少しでも現地に残っていたら、彼は間違いなく世界最強のオール・ブラックスに選ばれていたのであろうと言われている。それほど、坂田の能力は優れていたのだ。歴史に「たら、れば」は禁物であるが、もし坂田がそのまま残ってオール・ブラックスに入っていたら、一体どんな活躍をしたであろうか。世界のラグビー史に残る名選手にまで上り詰めていた可能性もあるのだ。


     次に、オールブラックス・ジュニア戦の出場メンバーにこそ選ばれなかったものの、フォワード山口良治は大西ジャパンにとって欠く事の出来ない貴重な戦力であった。最初に触れたイングランド戦に出場した山口は、日本の唯一の得点である貴重なペナルティ・キックを決めている。


     やがて現役を引退した山口は、社会人や大学チームからも監督として誘いを受けていた。そして京都にある伏見工業高校の校長からも「是非うちに来てくれ」と言う誘いがかかっていた。ところが山口は、その校長の依頼を何度も断っていた。元々は教員志望で、教育委員会に勤めていた山口だが、当時の学校の現状を知るにつれ「教師になりたい」というもともとの夢がどんどん萎んでいったのである。


     現代も学校の荒廃が叫ばれる時代であるが、当時(1970年代)もまた、校内暴力などの問題が深刻化していた。腕に覚えのある山口は、生徒の暴力など怖くは無いが、そんなどうしようも無い学校になど勤めたく無いと思うようになっていたのだ。だから、社会人チームの監督にでもなるか、と当初の夢から方向転換する寸前だったのである。
     そんな山口に、ある転機が訪れた。ひょんな事から子供たちと触れ合う機会があったのだ。その子達もいわゆる問題児であったが、彼らと接していくうちに「やはり俺は子供達と向き合う教職を選ぶべきだ。俺なら、この不良たちに何かしてやれることが出来るはず。それが本来、自分がやりたかった事じゃないか」と思い直すようになったのだ。そして彼は、断っていた伏見工教諭の話を一転承諾し、1974年同校に赴任していくのである。


     いかがでしたか?この後は、山口監督のその後を追ってみましょう。しかしお時間がまいりました。続きは、次回の講釈で。


     【参考文献は、当シリーズ終了時にご紹介します】



    第14回 「世界へのチャレンジ:日本ラグビー物語」その6


    (6)「泣き虫先生」山口良治の戦い


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。


     俺が好きなスポーツ、今回はラグビー日本代表物語の第6回です。大西鉄之祐監督率いるラグビー日本代表のメンバーは、引退後は指導者として大きくはばたいていきました。特に伏見工業高校元監督の山口良治氏は有名です。山口氏のラグビー人生とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?皆さんと一緒に振り返っていくことにいたしましょう。


     山口は現役引退後、多くのチームから監督として誘いを受けていた。一時は志した教師への道を諦めかけた山口ではあったが、ひょんな事から問題児達と接しているうちに「やはり俺は子供達と向き合う教職を選ぶべきだ。俺なら、この不良たちに何かしてやれることが出来るはず。それが本来、自分がやりたかった事じゃないか」と思い直すようになり、いったんは断っていた伏見工教諭の話を承諾。1974年、同校に赴任していくのである。


     情熱に燃える山口であったが、当時の伏見工の荒廃ぶりは凄まじいものであった。授業など聞くものはごく一部、オートバイで校内を走り回る生徒がいるなど、もはや全く手の施しようがない状態だったのだ。そして止むことの無い校内暴力…最初は学校改革に燃えてやってきたほかの教師たちも、この現状を見るやすぐに諦めてしまい、熱意を失っていくのが常であった。


     だが、山口だけは違っていた。荒れ果てた学校に対し、敢然と立ち向かっていったのである。不良達を鍛え上げる場所はもちろん、ラグビー部であった。しかしいきなり結果が出るはずも無く、山口率いる伏見工ラグビー部は、緒戦で100点差を付けられる惨敗を喫する。それでも山口の熱血指導のもと、伏見工フィフティーンは少しずつ実力を付けていく。


     そんなある年の入学試験でのこと。山口は、大きな体を揺すりながら、学校に入ってくる一人の受験生を見つけた。その巨体を一目見るなり、山口の全身に電流が走った。「コイツや!世界に通じるサイズをもつ、この男をラガーマンに育ててみたい…」山口は不敵な面構えの少年を呼び寄せ、彼の受験票を見た。「大八木」と書かれた受験票を持つその子に山口は「受験頑張れよ。合格したら、ラグビー部に入れ」と声をかけた。大八木少年は「はい、そのつもりです」と答えた。その一言がとても嬉しくて、山口は大八木の名をメモ帳に控えた。


     後に伏見工から同志社大学を経て、日本代表のロックとして活躍する大八木淳史と山口の運命的な出会いであった。山口は言う。「出会いとは、ときめきである。どんな子とでも出会いは嬉しいものだけど、しかし自分が『日本代表選手になれる』と思う子と、それもスカウトしたわけでもなく校門の前でバッタリ出会えた。こういう出会いは大切にしたい」。そして大八木は山口の厳しい指導に耐え、やがて世界に通じるラガーマンとして大きくはばたいて行ったのは周知の通りである。


     山口が育てたもう一人の天才・平尾誠二は、中学時代からその素質を大いに注目されていたラグビー選手であった。同じ京都の名門・花園高校への進学が決まっていた平尾であるが、山口は半ば強引に説き伏せ、伏見工に進路を変更させてしまった。それほどまでに、平尾の能力にほれ込んでいたのである。だが入学後の平尾は、あまりにも過酷で単調な伏見工の練習にすっかり嫌気が差してしまった。あれほど好きだったラグビーを、平尾は辞める決心をした。練習をサボるようになったのである。平尾は、山口がきっと自分を殴って練習に連れ戻すだろうと思っていた。だが山口は、平尾を殴ろうとはしなかった。それどころか「大丈夫か、無理するなよ」と声をかけたのである。平尾にとっては意外な一言であった。そして「俺は、いったい何をやってるんや…ラグビーするために、この学校に入ったんとちゃうんか」と思い、自分が情けなくなった。やがて平尾は、また練習に参加するようになったのである。


     そして平尾を擁する伏見工ラグビー部は、1981年1月7日、第60回全国高校ラグビー決勝で、大阪工大高を7対3で下しみごと初優勝を飾った。無名の学校が、強豪を倒しての日本一。それは現実から目をそむけず、子供たちに全力でぶつかっていった男が勝ち取った、大きな勲章であった。


     山口率いる伏見工ラグビー部は1990年、ニュージーランドに初めて遠征した。それはもちろん、オールブラックス・ジュニアを22年前に破った思い出の地であった。山口があの時体験したラグビー王国の素晴らしさを、生徒にも味合わせてやりたい。ラグビーが文化として深く根付いているこの国を、自分が教師になったら子供たちに見せてやりたい。そんな昔の夢を、遂に現実のものとすることが出来たのである。ラグビーを通じて得てきた興奮や感激を、いまの子供たちにも体験して欲しい。そして自分が本当に素晴らしいと思ったものは、一人でも多くの後輩に伝えていかなければならない。これこそが自分の責任なのだ…山口がラグビーを通じて得た、ひとつの結論である。


     いかがでしたか。この後は、大西監督のその後を追ってみましょう。しかしお時間がまいりました。続きは、次回の講釈で。


     【参考文献は、当シリーズ終了時にご紹介します】



    第16回 「世界へのチャレンジ:日本ラグビー物語」その7


     (7)再び起こった奇跡


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     俺が好きなスポーツ、今回はラグビー日本代表物語の第7回です。日本代表の監督として不滅の足跡を残した、大西鉄之祐の「その後」を振り返っていきたいと思います。大西のラグビーに賭けた情熱は、ナショナルチームの監督を退いたのちも健在だったのでしょうか?皆さんと一緒に見ていくことにいたしましょう。


     大西が監督を退任してから、日本代表の苦難の時代がはじまった。1973年には、当時屈指の強豪であったウェールズへ遠征するが、日本は62−14と惨敗を喫してしまう。ウェールズはさらに2年後の1975年に来日したが、ここでも日本は全く歯が立たなかった。選手個人の能力の差、サイズの差…「あんなデカくて、速くて、しかも上手な奴らが相手じゃ、日本が勝てる訳ないよ」。


     だがしかし、それは大西の時代とて同じことであった。オールブラックス・ジュニア戦、そしてイングランド戦…絶望的に思えた彼我の実力差を独創的な戦法で埋め、相手をとことん研究し尽くした上でスリリングな接戦を演じてきたのが、ほかでもない大西ジャパンだったのだ。


     その後もときたま、世界の強豪相手に善戦を演じることはあった。しかし基本的には日本のラグビーが、世界のトップから次第に引き離されていくことを痛感せざるをえない日々が続いていた。


     1981年、大西は請われて再び母校・早稲田の監督に就任することになった。日本代表と同様に、この頃の早稲田もまた低迷していた。早稲田が無敵を誇った昭和40年代から、昭和50年代に入ると永遠のライバル・明治がようやく復活を遂げ、早明争覇の時代が再び到来していた。だが次第に、明治の誇る「重戦車フォワード」に早稲田が後れを取り始め、苦杯をなめる日々が続いていた。特に昭和52年から早稲田は、4年連続で早明戦に敗れていたのだ。もう、これ以上の敗北は許されない…早稲田を救うことができるのは、やはり知将・大西を置いて他に無かった。


     だが、いかに大西の手腕をもってしても、当時の明治を破ることは不可能に思われた。自慢の強力FWに加えてバックスにも好選手をそろえる明治に、死角は全く見当たらなかった。そして当の大西自身が、健康面での不安を抱えていた。心臓に持病を抱える大西に、かつてのような采配の冴えを期待することは出来なかった。下馬評でも「明治圧倒的有利、早稲田の早明戦5連敗は確実」という声が圧倒的であった。特にフォワードの平均体重は公称9キロ、実際には15キロ近くの差があったという。ラグビーにおいて、この差は絶望的であった。


     1981年12月6日。師走の東京は寒い。だが国立競技場には、そんな天候をものともせず、6万人を超える大観衆が詰め掛けていた。試合前から、両校のファンがヒートアップし、激しい応援合戦を繰り広げていた。早稲田も、そして明治にとっても、この日の為に1年間の猛練習があったと言ってもけっして過言ではなかった。「今年も勝つ!」「いや、今年こそは」…これこそが、早明戦の持つ独特の雰囲気であった。


     やがて両校のフィフティーンが、グラウンドに姿をあらわし、場内は割れるような大歓声に包まれた。いよいよキックオフ!


     早稲田のバックス陣には、攻撃の司令塔・スタンドオフに本城和彦、そしてセンターには吉野俊郎という逸材が揃っていた。試合前に大西は、本城をはじめとする選手全員に細かな指示を与えていた。だが吉野には、一言の注意を与えなかったという。なぜか?大西は、吉野のことを信頼していなかったのであろうか。


     いや、決してそうではなかった。 大西は他の選手達に「吉野に勝負させろ」という指示を出していたのだ。この試合、勝つも負けるも吉野次第、吉野になんとかしてボールを回せ。大西は、それだけ彼の実力を信じ、その走りに賭けていたのである。もし吉野が、日本代表で活躍したエース・坂田好弘のようにグラウンドを縦横無尽に駆け抜けてくれたら・・・


     試合は、9−3と早稲田6点のリードで前半を折り返した。ハーフタイムの指示を出すために、大西がフィールドに下りてきた。だが大西は、何も具体的な指示を出すことは無く、ただ「がんばれ!」と選手に檄を飛ばした。理論派の大西が、ただただ声を嗄らして叱咤激励する。それは一見、無策にも思えた。しかし選手達は、大西の力のこもった言葉に魂を揺さぶられた。そして、燃えるような勇気と力を授かった気分になった。事ここに及んで、技術や戦術的なアドバイスなどものの力にもならない。とにかくもてる力を全て出し切れ、そうすれば必ず明治に勝てる!


     早稲田フィフティーンは大西の期待に応え、明治相手に一歩も退かぬ激しいプレーを続けた。それはまるで手負いの狼が、荒れ狂う巨象に立ち向かっていくかのようであった。
     本城がたくみにバックスを統率する。この試合に抜擢されたフォワード渡辺隆は、明治の巨漢フォワードに渾身のタックルを続けた。自分を起用してくれた、大西の期待になんとかこたえようとするかのように。


     スコアは15−15の同点、残り時間は10分を切っていた。明治がパントキックを上げようとする。だが早稲田がそれをブロックした。こぼれた球を吉野が拾い、そのままインゴールに飛び込んだ…トライ!この決勝トライにより、早稲田は明治に21−15と快勝した。歓喜の渦に包まれる大観衆。抱き合う早大の選手達。大西が、またしても奇跡を成し遂げた瞬間であった。


     「大西魔術」


     ひとは大西の采配を、いつしかそう呼ぶようになった。しかしそれは選手を信じ、相手を研究し、厳しい練習に裏打ちされた緻密な作戦にどんな強豪にもひるまず立ち向かう勇気がブレンドされた、まさに信念と魂のラグビーであったのだ。大西は言う。


     「信は力なり」「戦術に絶対は無い。だが絶対を信じないものは必ず敗北する」
     「新聞が何を書いとるか知らんが、新聞と俺のどっちを信じるんだ。俺を信じれば勝てる」


     いかがでしたか。次回は、いよいよ「日本ラグビー物語」の最終回です。どうぞお楽しみに。


     【参考文献は、当シリーズ終了時にご紹介します】



    第18回「世界へのチャレンジ:日本ラグビー物語」終章


     (終)一冊のノート


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。


     俺が好きなスポーツ、今回はいよいよ、ラグビー日本代表物語の最終回です。日本代表監督として世界に日本ラグビーの名を知らせしめた、大西鉄之祐の生涯を振り返ってまいりました。いよいよ、その幕が下りようとしております。皆さんと一緒に見ていくことにいたしましょう。


     国立競技場のフィールドに、世界最強のラグビー軍団「オールブラックス」の走る姿があった。1987年10月、遂に彼らが日本にやってきたのである。大西率いる日本代表が、現地でオールブラックス・ジュニアを破ってから20年近い年月が既に過ぎ去っていた。第1回ラグビー・ワールドカップを制し、まさに向うところ敵無しのオールブラックス。若手の多い来日メンバーではあったが、それでも日本が勝てる相手では全く無かった。圧倒的なパワーとスピードで敵陣に侵入するや、15人が一体となったパス攻撃でトライの山を築き上げるブラックス。日本は記録的な大敗を喫した。「あーあ、やっぱり強いわ…」観客席では、そのあまりの強さにどよめきが起こっていた。


     だがそこに、年老いた大西の姿があった。大西は、怒っていた。


     「いくらオールブラックスと言っても、やってくることは分かっている。それなのにやられすぎだ。指導者たちは、本当にラグビーを研究してないんじゃないか?」


     歯がゆかったのであろう。世界に勝負を挑みつづけた者として、現在の日本代表の姿は、戦う前から戦意を喪失しているかの様に見えたのかもしれない。そして対照的に、大西の燃えるような闘争心に衰えは全くなかった。


     1995年9月19日、大西鉄之祐は、その79年の生涯を閉じた。


     彼の母校である早稲田大学は、2002年シーズンに入り快進撃を続けている。日本ラグビーのルーツ校、慶應義塾大学を圧倒的な攻撃力で粉砕。更にその勢いを持続したまま臨んだ最大の宿敵・明治との対戦でも、前半明治の堅いディフェンスに苦しみながらも後半突き放し、24−0とライバルを完封勝利。関東大学対抗戦を制し、全国大学選手権の優勝候補筆頭にも挙げられている。


     この早稲田を率いているのが若き指揮官、清宮克幸だ。サントリーで日本最高のラグビーを吸収した清宮は、母校・早稲田の監督に就任するや、低迷していたチームに新たな息吹を与え、再び強豪の地位にまで押し上げることに成功したのである。


     その清宮が、ある時亡き大西鉄之祐の家を訪れ、その遺品に目を通した時のことである。大西が若い頃書いたラグビー分析ノートを手にした清宮は、その詳細な分析に目を見張った。ノートには、白黒の連続写真が何枚も貼り付けられていて、この選手はここではこういう風に動くべきだ、という分析が書き込みされていたり、また試合中にポジション別のボールに触れた回数や、選手ひとりひとりの詳細な個人データまで事細かに記載されていたのだ。清宮は驚くほかなかった。今ならさして珍しくもないデータだろうが、あの当時にここまでラグビーを追及し、研究していた人がいたということが意外であった。ラグビーに関する情報もほとんど無かった時代だ。来日した海外のラグビー選手に技術書を借り、夢中でむさぶり読んだ大西は、そうやって50年も前から、理論と実戦の間で苦闘していたのだ。


     大西は命の炎が燃え尽きるその日まで、ラグビーのことを考えつづけた。予想を覆す奇跡的な勝利を何度も演出した彼の采配を、世間は「魔術」と称えた。だが大西は、決して天才指揮官では決してなかった。ラグビーと真正面から取っ組み合いになり、もがき苦しみながら戦い続けた生涯だったのである。彼の功績が無ければ、現在の日本ラグビーの姿はもっと違ったものになっていたことであろう。


     そしてラグビー日本代表は、来年秋にオーストラリアで開催される、第5回ワールドカップに出場する。日本が入る予選グループは強豪揃い、予選突破は早くも絶望視されている。だがその予想を覆す、日本の決勝トーナメント進出を期待しようではないか。そう、あのイングランド戦やオールブラックス・ジュニア戦のように、もう一度日本ラグビーが世界を驚かす日がやって来てほしいものだ。
     大西はいまも、きっとどこかで日本代表チームを見守っているに違いない。(完)


     いかがでしたか。いままでご愛読ありがとうございました。なお参考資料は、来月のこのコーナーで全てお知らせしますのでご了承ください。次回からは、また新しいシリーズが始まります、どうぞお楽しみに。


    <日本ラグビー物語 参考文献・資料一覧>

    ・『ザ・ラグビージャパン』 佐野克郎著 フットワーク出版社
    ・『イメージとマネージ』 平尾誠二・松岡正剛著 集英社
    ・『ラグビー伝説』 スポーツグラフィック・ナンバー編 文春文庫
    ・『ラガーメン列伝』末富鞆音編 文春文庫
    ・『21世紀のラグビー』 中尾亘孝著 双葉社
    ・『ラグビー 荒ぶる魂』 大西鉄之祐著 岩波新書
    ・「常勝の将物語:熱き情熱。勝利への執着の継承」 松瀬学、ラグビーマガジン2002年11月号
    ・「追悼・大西鉄之祐」 ラグビーマガジン1995年12月号
    日本ラグビー協会HP「昭和56年 万人の予想覆しライバル明大破った!ラグビー早大理論と情熱と信頼これが大西魔術」
    ・サンケイスポーツ公式サイト:Ashi No.5(大八木淳史氏ホームページ)=「Ashi Meets Mr.Yamaguchi すばらしい”出会い”が教えてくれたこと」


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