俺が好きなスポーツ by ダイスポ 現代USスポーツ人名録

     現代USスポーツ人名録 〜その3〜(連載第57回〜60回)


     ■現代USスポーツ人名録  第8回 現代USスポーツを熱くする人々
     ■現代USスポーツ人名録  第9回 A.J.フォイト(インディカー)
     ■現代USスポーツ人名録 第10回 セント・パトリックスデースペシャル
     ■現代USスポーツ人名録 第11回 UNC(ノースカロライナ大学)ターヒールズ



     連載第57回
     現代USスポーツ人名録 第8回 現代USスポーツを熱くする人々


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。昨年は皆様にご愛読いただきまして、誠にありがとうございました。今年も、日本ではあまり知られていなくてもアメリカでは有名、という優れたアスリートやコーチ、また名物オーナーなどをどんどん取り上げていきたいと思いますので、どうぞ「俺スポ」をごひいきいただきますよう、よろしくお願いいたします。


     さて、今月の本連載は新春スペシャルという事で、一人の人物に焦点を当てるのではなく、現在の米国スポーツ界をよりエキサイティングなものにしているホットな人物達をまとめてご紹介していきたいと思います。米国を代表するスポーツ総合誌の「スポーティング・ニューズ」誌が、今年の1月14日号で掲載した”ザ・パワー100”、つまりスポーツ界でいま最もパワフルな人物を紹介する特集記事の中から、今回特別に本連載が選んだ人々をまとめて取り上げてみようと思います。


     まずは2001年以来、3年ぶりに第1位に選ばれた、NFLコミッショナーのポール・タグリアブー。今やアメリカ最高、いや世界でも最高のプロ・スポーツリーグとしての地位を確固たるものにしたNFLですが、その最高責任者がこのタグリアブー氏です。1940年にニュージャージーで生まれたタグリアブーは、ワシントンDCにあるジョージタウン大学を卒業した後、NYU(ニューヨーク大学)のロースクールで法律を学び、弁護士として様々な活動を行ってきました。中でもNFLとの仕事の中でその優れた手腕を発揮したタグリアブーは、オーナー達からの信頼を得ていくことになります。


     NFLでコミッショナーとして長年君臨してきたのは、今や伝説的な存在となっているピート・ロゼール。1960年に弱冠33歳(!)の若さでコミッショナーに就任したロゼールは、NFLを近代的な組織に発展させてアメリカのNO.1スポーツに仕立て上げた偉大な功労者でしたが、1989年、引退を発表しました。そして後継者としてタグリアブーに白羽の矢が立ったのです。


     ところで、当時NFLを深夜放送していた日本テレビのアナウンサーが就任当時の彼にインタビューしている映像を見たことがあるのですが、そのときの筆者の第一印象は「背の高い人だなぁ」ということでした。だがそれもそのはず、タグリアブーはジョージタウン大時代、バスケットボールチームのキャプテンとして活躍していたそうなのです。ジョージタウンと言えば、名センターのパトリック・ユーイングや、アロンゾ・モーニング、そしてアレン・アイバーソンといった多くの名選手がプレーしていたことでも知られておりますが、タグリアブーは彼らの先輩に当たるわけです。


     前コミッショナーであるロゼールの強力なリーダーシップのもと、ライバルリーグだったAFLとの合併や最大のスポーツイベント「スーパーボウル」の開始など、素晴らしいアイデアを実現してメジャーリーグを凌ぐ優れた組織となったNFLでしたが、彼の後継者となったタグリアブーはこのプロリーグをますます発展させるべく、これまで精力的に活動してきました。彼を待ち受けていたのは、様々な難題だったのです。懸案となっていた選手会側との労使交渉妥結、特にフリーエージェント(FA)とサラリーキャップ制の導入。リーグ拡張に伴う新球団の誕生、そして既存球団の本拠地移転。さらには新スタジアムの建設や、老朽化した古いスタジアムの改築作業。球団数増加と移転に伴うリーグの地区再編成。

     またNFLは野球のようなピラミッド型のマイナーリーグ組織を持たない為、選手育成とアメフトの海外市場へのアピールを兼ねた「NFLヨーロッパ」の立ち上げ。90年代に飛躍的な進歩を遂げたIT技術、特にインターネットの活用とそのビジネスへの参入に加えて、薬物やバイオレンスなど、激しいスポーツには付き物でありまた社会的影響度の大きい諸問題。そして安定した収入源を確保するためには絶対不可欠な、テレビ放映権料に関する長期契約の締結。また時代の流れに合わせて合理的かつ迅速な意思決定ができるような、機構内の組織改革...やらなければいけないことは、それこそ山のようにありました。
     こうやって列記してしまえば何か簡単なことのようにも思えてしまいますが、実際にはひとつひとつが大変な難作業であることに違いはありません。もし舵取りを間違えてしまえば、もともと巨大な組織へと発展している為に、一気にリーグ自体の屋台骨が揺らいでしまう可能性がありました。特に1995年には、ロサンゼルス・レイダースがかつて本拠地を置いていたオークランドへ移転、またアナハイム・スタジアムをホームとして使用していたロサンゼルス・ラムズも中西部のセントルイスに移動と、ニューヨークに次ぐ全米第2のビッグマーケットから一挙に2球団が消えるという「異常事態」が発生してしまったのです。


     だがNFLはタグリアブーの下、これらの大きな仕事を確実に成し遂げ、そして1993年には選手会との労使交渉を締結し、良好な関係作りに勤めてきました。もちろん危機が無いわけではありませんでしたが、1987年のストライキ以来、労使間の決定的な決裂が無かったのは注目に値すると思います。
     また2003年からは、念願のNFL専門テレビチャンネル「NFLネットワーク」を設立し、放送を開始しました。ESPNの大物をトップに獲得し、さらにESPNの人気番組「スポーツセンター」のキャスターだったリッチ・アイゼンをキャスターに起用するなど、フットボール一色の番組編成でさらに優れたサービスを提供しています。
     そして忘れることが出来ないのが、2001年9月11日にニューヨークやワシントンDCを襲った同時多発テロでした。タグリアブーは熟考の末、その週の試合延期を決定。この決断は他のプロ・学生スポーツリーグにも影響を与えました。NFLというリーグの動向を、他のスポーツ組織・団体も無視することが出来ない何よりの証明になったと思います。


     タグリアブーの数々の業績はオーナーからも高く評価され、2007年までの続投が決まりました。テレビ放映権契約の更改という重要な仕事が待ち受けていた為、やはり彼抜きには難局を乗り切ることが出来ない、という判断があったのでしょう。年俸800万ドル(推定)という多額のサラリーを取る超大物ですが、その給料も仕事振りを考えれば決して高いとはいえません。就任時の青年コミッショナーとでも言うべき風貌から、いまやすっかり貫禄を増してきた感がありますが、タグリアブーのような優れたコミッショナーを先頭にいただく限り、NFLの未来は今後も明るいといえるでしょう。


     続いて2位にランクされたのが、NASCARの会長であるブライアン・フランス。日本では俗に「北米四大スポーツ(メジャーリーグ、NFL、NBA、NHL)」と呼ばれ、アメリカ独自のカーレースであるNASCARはあまり目立った存在であるとはいえません。しかし本連載では何度もご紹介してきたように、このNASCARというモータースポーツは近年最も成長を遂げ、今やメジャースポーツへの仲間入りを果たしました。中でも、その最高峰的存在である「ネクステルカップ」は、シーズン中はNBCやFOXなどの全国ネットワークで生中継され、そして巨大なレーストラック(サーキット)は毎週どこも超満員の人出となっています。もともとは、地方に強いスポーツで都市部では人気もそれほどではなかったのですが、最近ではニューヨークなどの大都会でも人気が上昇しています。そしてトップドライバーのジェフ・ゴードンやデイル・アーンハートJr,は、アメリカでも屈指の知名度と人気を誇るようになってきました。また2003年度の年間王者であるマット・ケンゼスについては、既に本連載でも取り上げております


     その、日の出の勢いとでも言うべきNASCARの若きリーダーがフランス氏。レースの世界に長年君臨してきたビル・フランスJr.の息子である彼は副会長として仕事をしていましたが、2003年に現在のトップの地位に就きました。NASCARは2004年、それまでタバコの「ウィンストン」がスポンサーだったカップ戦を携帯電話会社のネクステルに変更し、さらにMLBやNFLのような上位ドライバーによるプレーオフシステムの開始など、NASCARをよりエキサイティングなレースにするよう図っています。
     NASCARを作り上げた創始者である、祖父のビル・シニアから数えて3世代目に突入したわけですが、若き指導者であるブライアン率いるNASCARが今後さらに成功を収めていくことが出来れば、このアメリカ流のストック・カーレーシングはまずます発展を遂げていくことになるでしょうね。


     これ以下では、3位:バド・シリグ(MLB)、4位:デビッド・スターン(NBA)、5位:ジョージ・ボーデンハイマー(ESPN&ABCスポーツ社長)となっております。またオーナー部門ではボストン・レッドソックスの共同オーナー、フロント部門では同じくレッドソックスのエプスティンGM、さらにコーチ部門ではニューイングランド・ペイトリオッツのビル・ベリチェックHC(ヘッドコーチ)など、黄金時代が到来したボストン勢が選ばれているのが印象的でした。


     アメリカのスポーツ界は、刻一刻と変化を遂げております。今年も本連載では、いま最高にのっている「旬」のスポーツ人を取り上げることで、皆さんとその楽しさを分かち合っていきたいと考えております。来月もまた、この時間に、パソコンの前の、あなた!とお会いしましょう。



     連載第58回
     現代USスポーツ人名録 第9回 A.J.フォイト(インディカー)


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今月はその9回目です。


     2月といえば、ニューヨークではまだまだ寒い日々が続き、かなりまとまった量の雪が降る日もあります。しかしそこは広いアメリカ、南部のほうにいきますと、ニューヨークの感覚ではまるで初夏を思わせるような陽気で、人々はさんさんと降り注ぐ太陽光線を浴びて散歩を楽しんだり、スポーツに興じたりしております。かくいう私も、先週はフロリダ州の南端であるマイアミまで出かけ、NBAマイアミ・ヒートの試合を見たりビーチで寝そべるという、優雅な?バケーションの日々を楽しんでおりました。ところがこちらへ帰って来て早々、NYとフロリダの温度差にやられたか、いきなり風邪を引いてしまったのです。アメリカ大陸の大きさを、ハダで感じたというわけですね。そんなエエもんか。


     まぁ、私の間抜け話はさておきまして、本題に入りましょう。アメリカではいよいよ、今年のモータースポーツシーズンが幕を開けました。20日には、フロリダ州デイトナビーチでNASCARネクステルカップのビッグレース「デイトナ500マイル」が行われ、現代のNASCARを代表するスター・ドライバーであるジェフ・ゴードンが見事優勝を遂げました。最後まで目を離すことの出来ないエキサイティングなバトルを制したゴードンにつきましては、いずれ本連載でも取り上げてじっくりご紹介していきたいと思いますので、どうか楽しみにしておいてくださいね。
     でも本日のテーマは、NASCARではなくてインディカーです。アメリカ本国では、今やNASCARに人気面で差をつけられてしまったインディカーですが、アメリカを代表するフォーミュラカーシリーズの一つとしてその知名度は海外でも高く、日本ではむしろNASCARを超える人気があります。そしてインディカーの年間総合チャンピオンを決める「IRL(インディ・レーシング・リーグ)」は、3月6日にマイアミのホームステッド・スピードウェイで開幕し、今季17戦を戦う予定になっています。またシリーズ第4戦の4月30日には、栃木県のツインリングもてぎで「インディ・ジャパン300」も行われますので、アメリカ流のオーバルレーシングが、今年も日本で居ながらにして見られるというわけですね。


     しかし、そのIRLの中でも頂点として君臨しているのが、5月の末、メモリアル・ウィークエンドに行われる「インディ500マイル」。アメリカの、いや世界最大のレースとして多くの人々に愛され続けてきたインディ500は、レーサーならば一度で良いから出走したい、そしてあわよくばこの手に勝利を収めたい...という、憧れのビッグイベントになっています。近年では、ライバル的な存在であるチャンプカー・シリーズとの分裂、対立が長引いている事も響いてか、シリーズの不振が顕著になっていますが、それでもインディ500の歴史と格式だけは別格といえるでしょう。ヨーロッパがF1なら、アメリカはこのインディカー。日本でも、F1ほどではないにせよ、インディカーの根強いファンもけっこう多いのです。


     さて、さきほどご紹介しましたゴードンが、当代最高のアメリカン・レーサーであるとするならば、本日取り上げますAJ.フォイトは、20世紀のアメリカを代表する最も偉大なドライバーだったということになります。なぜならフォイトは、一度でも優勝すれば孫の代まで語り継がれそうなインディ500を4度も制した「伝説の男」だからです。
     1935年にテキサス州ヒューストンで生まれたフォイトは、3歳の時には父親から小さな車を与えられていました。そして父親がミジェットタイプのレースカーを組み立てると、それを運転する幼いフォイトは大人相手にも勝利しました。大変な早熟振りですが、これがフォイトの、栄光のレーシング人生のスタートでした。レースにかける過激なまでの情熱と、車に関する豊富な知識は、少年時代から父によって授けられたわけです。


     彼が本格的にモータースポーツでのキャリアを歩みだしたのは、高校を中退し、18歳の時に地元のレースに出場して最初の勝利を得た時でした。そして1958年には最初のインディ500に出場、16位という成績をマークします。そんなフォイトの豊かな才能が本格的に花開いたのは、1960年のこと。待望のシリーズ初勝利を決めただけでなく、なんとUSACのナショナルチャンピオンシップも獲得しました。続く61年には、インディ500で自身初の優勝を収めたフォイトは、チャンピオンシップ連覇までも達成するという偉業まで達成しています。以後、1967年までには5度の「国内王座」を獲得し、インディに3度優勝(1961,64,67)、タフなトップレーサーとしての地位を確立しておりました。


     だが好事魔多し。1972年、レース出場中に給油を受けていた時ホースが壊れてしまい、フォイトの頭に燃料が降り注ぎ、車体から火がでて頭が炎に包まれました。フォイトは車から脱出、父親が消火器を持って駆けつけ、なんとか火を消すことができましたが、他にも1965年のカリフォルニアでのクラッシュをはじめ、何度と無く危険な事故に見舞われて負傷しました。
     しかしフォイトは、過酷なアクシデントに遭うたびに、それらにもめげずに復活を遂げます。そして1977年、フォイトは10年ぶりにインディ500を制し、通算4度目の優勝を果たしました。1993年にはついに現役引退を表明しますが、それまでにフォイトは、実に35年間にわたってインディに出場を続けていたのです。


     シリーズ制覇は7回を数え、そしてインディカー(USAC-CART)での通算勝利数は、2位のマリオ・アンドレッティより15回多い、史上最多の67勝を記録しています。もちろんインディカー以外のレース・カテゴリーでも広くサーキットで活躍したフォイトは、デイトナ500(1972年)、ル・マン24時間(1967年)にも優勝、インディ500とあわせて「三冠王」の偉業も達成しました。
     極限のスピードの中でライバル達としのぎを削り、心身ともにタフであることが求められるレースの世界。一瞬の油断が自らの命を断つことにもなりかねない世界で、これほどの長きに渡ってトップクラスでの活躍を続けられたことは驚嘆に値します。まさに「サーキットの鉄人」と呼ぶべきでしょうね。


     レースを引退して後も、現役時代と変わらぬ熱い闘志を見せるフォイトは、自らのチームであるAJフォイトエンタープライズを率いてIRLに参戦を続け、今では孫のA.J.フォイト4世がサーキットで活躍しています。引退してからすでに10年以上の月日が経過しましたが、時がたってなお、フォイトが成し遂げてきた功績はますます光り輝いているといえるでしょう。多くの人々から「史上最高のレーシングドライバー」と評価されるのも、当然のことなのかもしれません。


     いかがでしたか。来月もまた、この時間に、パソコンの前の、あなた!とお会いしましょう。



     連載第59回
     現代USスポーツ人名録 第10回 セント・パトリックスデースペシャル


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今月はその10回目です。


     3月17日、ここニューヨークでは毎年華やかな雰囲気に包まれる1日ということになっています。この日は、アイルランド系の人々にとって大切な祝日である「セント・パトリックスデー」なのです。セントパトリックとは、アイルランドにキリスト教を広めた守護聖人のこと。この命日である3月17日に、ニューヨークの五番街で毎年パレードが行われます。パレードには、伝統的な民族衣装に身を包んだバグパイプのバンドを中心に毎年多くの人々が参加しますが、沿道を埋め尽くす人々もまたお祭りムード。みなアイリッシュのナショナル・カラーである緑の帽子や服装、そして国花であるシャムロックをかたどったアクセサリーなど思い思いの装いで、セント・パトリックスデーを祝うのです。パレード自体は世界中で行われていますが、とりわけ大掛かりなニューヨークでは、早春の風物詩としてなくてはならないものになっています。


     パレードが終わった後は、アイリッシュ・パブへと繰り出します。ニューヨークには、専用のガイドブックが出版されているくらいたくさんのアイリッシュ・パブがありますが、どのお店もこの日は大賑わいです。店内に人が入りきらず、店の周辺にもパレードに参加していた人々がたむろして大騒ぎしています。まだ日も暮れきらない夕刻には、皆かなりの量のビールを飲んでいると見えて、顔は真っ赤。そして夜遅くになっても、マンハッタンではバグパイプの音色があちこちから聴こえてきました。セント・パトリックスデーは、米国の公式な休日には定められておりませんが、そのお祭りムードは普通の祝日をはるかに凌ぐ物があると言っても過言では無いでしょう。


     アイリッシュ・パブには、私もしょっちゅう通っています。なんと言っても、気軽に美味しいビールが飲める事が最大の理由です。アイルランドのビールと言えば「ギネス」というのがすっかり有名になりましたが、私もギネスの持つ独特の味わいがとても好きです。東京に住んでいた頃、初めてギネスを飲んだ時は「う、苦い!」と思っただけでしたが、今では最も好きなビールの一つになってしまいました。他にも、様々な種類のビールやアルコール類を飲むことが出来ますが、しかし私がアイリッシュ・パブに足繁く通うもう一つの理由は、スポーツ観戦ができるからです。アメリカに住んでいると、サッカーやラグビーといったいわゆる英国系のスポーツを観戦する機会がかなり限られてしまいます。でもニューヨークにある多くのアイリッシュ・パブでは、この欧州サッカーやラグビーのビッグマッチをライブ中継しているところが多いのです。
     時差の関係で、ヨーロッパのお昼の試合だと米国東海岸では早朝と言うことになってしまいますが、土曜の朝ともなるとブランチを食べながら、この時期はラグビー観戦に興じる人々も多いです。ちなみに3月19日には、北半球最大のラグビーイベントである「6ネーションズ(6カ国対抗ラグビー)」が最終週を迎え、アイルランド代表はここまで全勝の首位ウェールズと対戦します。アイルランドの試合がある日は、緑のジャージーに身を包んだアイルランドのファン、またライバルであるイングランドの試合がある日は、純白のユニフォームを着たイングランドファンがバーに大勢駆けつけ、朝からハイテンションでの声援を繰り広げます。
     特に、イングランド対アイルランドの一戦が行われる日になると、私の住んでいる家からすぐ近くにあるパブでは、もう立錐の余地もないくらい超満員の観客でごった返す状態になってしまうのです。ラグビーにまるで関心のない一般のアメリカ人から見れば、朝早くからいったい何が行われているのか、全く理解する事が出来ないことでしょうね。私も昨年、立ち見ながらこの大一番をパブで観戦したんですが、どちらのユニフォームも着ていなかったからか、キックオフ前にある男性から質問を受けました。「ところで、君は今日どちらが勝つと思うのかな?」その男性もユニフォームを着ていなかったので、私は正直に「うーん、ワールドカップ・チャンピオンのイングランドが勝つと思うよ」と言ったのですが、フタを開けて見れば試合はアイルランドの快勝。すると試合後、私の姿を見つけた件の男性は、満面に笑みを浮かべながら「ハハハ、ゴー・アイルランド!」と叫び、私の肩を叩いて店を去りました。要するにアイルランドのファンだったんですね。いや、参りました。


     このように、アイルランドのサッカーやラグビーは、近年目覚しい発展を遂げております。特にサッカーでは、1990年のイタリア・ワールドカップにアイルランド代表が初出場を遂げていきなりベスト8に入る快進撃を見せると、それ以降も本大会出場の常連となった感があります。記憶に新しい2002年の日韓大会でも、アイルランドは決勝トーナメント1回戦で強豪のスペインと対戦。PK戦の末惜しくも敗れ去りましたが、ファイティングスピリットを前面に押し出した戦いで多くのサッカーファンに強烈な印象を残しました。現在は、2006年ドイツ大会出場を目指して、欧州予選4組でフランスやイスラエル、スイスらと激しい戦いを繰り広げています。アイルランドでサッカーと言えば、あのジョージ・ベストを輩出した北アイルランドが元々は有名だったんですが、現在ではアイルランド(共和国)の方がロビー・キーン、ロイ・キーンなど有名選手も増えていますね。
     だがサッカーやラグビーは、アイルランドの人々にとって最も大事なスポーツというわけではありません。なぜならアイルランドには、彼らにとって民族スポーツとも言うべき「ゲーリック・フットボール」や「ハーリング」などと呼ばれる独自のスポーツがあるからです。そして、これら独自の競技を統括する「GAA」(ゲーリック・アスレティック・アソシエーション)という組織もあるのです。サッカーやラグビーは英国人の作り上げたスポーツなので、やはりアイリッシュはアイリッシュのスポーツをプレーするべきだ、と言うことだったのですね。


     ゲーリック・フットボールは、サッカーよりも大きなフィールドで行われますが、ボールは楕円球ではなく球体で、プレイヤーはボールを手にすることも出来ます。そしてサッカーとラグビーのゴールを合体させたような独特のゴールポスト(ラグビーのH型ゴールポストの、クロスバーの下の部分にゴールネットが付いていると考えてみてください)にボールを入れるのが得点方法となっていますが、ネットの付いた下の部分に入れると3点、ラグビーのようなクロスバー上部に入れると1点になります。ハーリングでも同じですが、ハーリングはフィールドホッケーの一種であり、スティックで硬いボールを打ち合って敵陣に迫っていきます。毎年秋に行われるゲーリック・フットボールとハーリングのオールアイルランド・チャンピオンシップ決勝では、アイルランドの首都ダブリンにあるクローク・パークという大きなスタジアムに大観衆を飲み込んで熱狂に包まれます。
     そして実はアメリカでも、このGAAがあります。ニューヨークにもグラウンドがあり、ゲーリック・フットボールやハーリングが盛んにプレーされているようですので、是非一度試合レポートを書いて、この「俺スポ」でもまた皆さんにご紹介してみたいと思います。


     最後になりましたが、「ぼーる通信」なのですから、アイリッシュと野球に関する事もちょっと書いておきましょうね。
     19世紀に、アイルランドから多くの移民がこの新大陸へやって来たのは、皆さんもよくご存知だと思います。多くのアイルランド移民は警察官や消防士などの職業につきましたが、その頃出来たばかりのスポーツであるベースボールに魅せられて、プロ野球の世界で活躍する選手も増えていきました。以来メジャーリーグでは、多くのアイルランド系選手が野球の歴史に残るような足跡を残しています。簡単に言えば、メジャー歴代最多勝監督1・2位(コニー・マック、ジョン・マグロ−)がともにアイルランド系なのです。
     そして現代のアイリッシュ・アメリカンでメジャーリーガーと言えば、「ポーリー」の愛称で親しまれニューヨーク・ヤンキースの黄金時代を築き上げた、ポール・オニール元外野手を私は思い出します。自身も野球選手だったオニールのお父さんは、彼に野球の魅力を授けてくれましたが、同時にアイルランド系としての誇りをも、子供たちに何時も教えてくれたそうです。そしてオニールは、両親にアイルランドへの旅行をプレゼントしました。お父さんは既にこの世を去りましたが、生きているうちに祖先の国を見ることが出来てとても喜んでいたそうです。父から子へ、そして子から孫へ。アメリカ野球の素晴らしい伝統と同様に、誇り高きアイリッシュの伝統と歴史も、また同時に受け継がれていくわけですね。ポーリーが現役時代に見せてくれたガッツ溢れる激しいプレーを思い出すたびに、私はそのことに思いをめぐらせずにはいられません。


     いかがでしたか。来月もまた、この時間に、パソコンの前の、あなた!とお会いしましょう。



     連載第60回
     現代USスポーツ人名録 第11回 UNC(ノースカロライナ大学)ターヒールズ


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
    アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今月はその11回目です。


     「マーチ・マッドネス」。
     こんな言葉を、アメリカのスポーツをお好きな方ならきっとお聞きになったことがあるでしょう。3月とは、カレッジバスケットボールの頂点を決める「NCAAトーナメント」が開催される月なのです。朝から晩まで全米中のスポーツファンが、この大学バスケ選手権の勝敗に一喜一憂し、テレビの前に釘付けになることから、この名が付けられました。
     今年も、一発勝負につき物のビッグ・アップセット(大番狂わせ)続出と、波乱の続いたNCAAトーナメントでしたが、その中から激戦を勝ち抜いてきた4校が、ミズーリ州セントルイスで行われた「ファイナル・フォー(準決勝)」へと駒を進めました。その4校とは、イリノイ大学、ノースカロライナ大学、ミシガン州立大学、そしてルイヴィル大学です。


     五大湖地方を中心とした中西部の雄、ビッグテン・カンファレンスに所属するイリノイ大学は、レギュラーシーズンの成績での敗戦がわずか「1」という、殆ど無敵に近い圧倒的な強さを見せて、文句なしの第1シード獲得。トーナメントに入ってからもアリゾナ大学との激闘を制するなど、順当な勝ちあがりを見せました。ルイヴィル大学は、ケンタッキー州にある学校ですが、元ケンタッキー大学のヘッドコーチで、NBAの名門ボストン・セルティックスでも指揮を取ったリック・ピティーノに率いられて強化を進めており、侮ることの出来ないチームです。またミシガン州立大学は、イリノイと同じビッグテンに所属。ロサンゼルス・レイカーズで一時代を築いた、マジック・ジョンソンの出身校としても知られています。


     そして、ノースカロライナ大学(UNC)。「ターヒールズ(Tar Heels)」のニックネームを持つUNCは、大学バスケットボール界でも屈指の名門校として、その名は日本をはじめ世界中のバスケファンに知られています。あの「神様」マイケル・ジョーダンや、現在はニュージャージー・ネッツで活躍しているビンス・カーターなど多くの名選手達が、このターヒールズでバスケットボール選手としての技術を磨き、プロの世界に進んでもスターの地位を勝ち取りました。その基礎は、UNCで叩き込まれたものであるといっても過言ではないでしょう。


     準決勝の組み合わせは、イリノイ対ルイヴィル、そしてUNC対ミシガン州立大。イリノイは、フォワードのロジャー・パウエルJr.とガードのルーサー・ヘッドという、シニア(4年)2人が揃って20得点を挙げる活躍を見せると、ディフェンス面でも相手の攻撃をよく抑えてルイヴィルを圧倒。終わってみれば、72対57とレギュラーシーズン以来の強さを見せ付ける形で、決勝戦への切符を手にします。一方のUNCは、前半は33−38と5点のリードを許す苦しい展開となりますが、後半は逆転。最終スコアは87対71とミシガン州立大を圧倒する形で、実に12年ぶりとなるチャンピオンシップ進出を決めました。
     エースであるショーン・メイは、この試合で22得点を挙げています。
     ちなみに、UNCが前回決勝へ進んだ1993年大会では、クリス・ウェバー(現フィラデルフィア・76ers)らを擁する強豪ミシガン大学とファイナルで対戦。史上に残る激闘の末に、3回目の大会制覇を果たしています。そしてこの時が、ジョーダンを育てた名伯楽、ディーン・スミス元ヘッドコーチにはとって最後の栄冠という事になりました。


     4月4日、いよいよ決戦の日、舞台は準決勝と同じセントルイス。ターヒールズは、強豪イリノイ相手にも臆せず立ち向かいます。前半は強固な守備でイリノイのオフェンスを抑え込み、40-27と13点リードで折り返すと、後半もしばらくは試合を優位に進めます。だがここから、イリノイの意地をかけた猛反撃が始まります。そして終盤には、遂に試合を振り出しに戻してしまいました。こうなると、もう精神力の勝負です。どちらが最後まで、普段通りのプレーをすることが出来るのか。勝つのはイリノイか、それとも、UNCか?


     最後に勝利の女神が微笑んだのは、ターヒールズの方でした。UNCは最後まで、集中力を途切らせること無くプレーを続けて着実に得点を重ねると、試合終了間際に相手が放った3ポイントシュートも防ぎます。終わって見れば、両チームの得点は75-70。試合終了のブザーが鳴り、この瞬間UNCが、遂に12年ぶりの全国制覇を達成しました。ロイ・ウィリアムスヘッドコーチや、選手たちは喜びを爆発させます。そしてメイは、この大一番でも26得点、10リバウンドの活躍を見せて勝利に貢献しました。敗れたイリノイもあと一歩及びませんでしたが、今季の大学バスケットボール界を沸かせ、そして最後まで素晴らしいプレーを見せたことは称賛に値すると思いますね。


     いかがでしたか。来月もまた、この時間に、パソコンの前の、あなた!とお会いしましょう。


     ※現代USスポーツ人名録、第12回〜15回はこちらから。


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