俺が好きなスポーツ by ダイスポ 現代USスポーツ人名録

     現代USスポーツ人名録 〜その7〜(連載第72回〜)


     ■現代USスポーツ人名録 第23回 追悼・宿沢広朗氏
     ■現代USスポーツ人名録 第24回 クラウディオ・レイナ(サッカー米国代表主将&マンチェスター・シティ)



     連載第72回
     現代USスポーツ人名録 第23回 追悼・宿沢広朗氏


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今月はその23回目です。ただ今回は、日本スポーツ界にとっての衝撃的なニュースが飛び込んできましたので、アメリカスポーツという枠を離れて、ある偉大な方の足跡を振り返っていくことにいたします。


     先の6月17日、日本のラグビー界、いやスポーツ界にとって、大変残念な知らせが飛び込んできました。
     現役時代は早稲田大学のスクラムハーフとして活躍、引退後は日本代表の監督としても手腕を発揮して第2回W杯にも出場した、三井住友銀行取締役専務執行役員の宿沢広朗さんが亡くなられたのです。群馬県へ登山に出かけて下山時に体の不調を訴え、病院に運ばれましたが、心筋梗塞でそのまま還らぬ人となってしまいました。
     まだ55歳の若さ。ビジネスマンとしてはもちろんのこと、今後はラグビー界を背負って立つ存在になるはずだった宿沢氏の突然の死は、大変大きな損失となるものでした。22日は築地の本願寺で告別式が行われ、森喜朗日本ラグビー協会会長らラグビー関係者ら4000人の人々が参列。多くの人々が別れを惜しみました。


     この「俺スポ」では過去2度にわたって、ラグビー日本代表に関する連載を組んでおります。1960年代後半から70年代にかけて、世界の強豪に真っ向から挑んだ大西鉄之祐監督率いる日本代表の足跡を振り返った「世界へのチャレンジ:日本ラグビー物語」と、そして2003年に行われた第5回W杯における日本代表の戦いぶりをお伝えした「ラグビー・ワールドカップカウントダウン!」です。
      この2つの連載で描かれた時代の中間期にあたる、1989年から91年のジャパンを率いたのが、誰あろう宿沢氏でした。


     当時の日本代表もまた、世界との壁にぶち当たり敗戦が続く深刻な低迷期を迎えておりましたが、宿沢氏はそんなジャパンの救世主として颯爽と登場し、代表監督に就任。周到な準備で就任初戦のスコットランド戦(1989年5月28日、東京)に挑み、28−24の大金星を挙げてラグビーファンを驚かせました。かつて、世界のラグビー界をあっと驚かせた「大西魔術」。その大西氏の愛弟子である宿沢氏も、たった1試合だけで沈んでいたジャパンを蘇らせることに成功したのです。


     熊谷高校を経て早大に入学した宿沢氏のポジションは、攻守の要であるスクラムハーフ(SH)。身長162cmというラグビー選手としては小柄な体格ながら、優れた頭脳と的確な判断力、そして激しい闘志で大きな選手にも果敢に挑み、早大ラグビー部の黄金時代を築き上げる立役者となります。
     1970年、71年の日本選手権連覇にも貢献し、学生ながらラグビー界の頂点に経った宿沢氏は、卒業後は住友銀行(当時)に就職しました。そのため日本代表キャップは、わずか3試合に留まっています。一世を風靡した名選手にしては国際舞台での活躍が少なすぎたとも言えますが、「大学でラグビーを極めた」という思いも強かったのでしょう。ワセダの伝統ある赤黒のジャージーを脱ぎ、今度はスーツにネクタイ姿の銀行マンとして、宿沢氏は世界を股にかけた活躍を開始しました。ラグビー母国・英国の首都であるロンドンにも7年間に渡って勤務しています。


     そんな宿沢氏は、当時学生だった私にとってはもはや「伝説の人」でありました。彼の実際のプレーを見たことは、もちろんありません。そして国内での監督歴が無い氏の代表監督就任は、まさに驚き以外の何物でもありませんでした。「どうやら凄い人らしい」程度しか分からない、ミステリアスな突然の登場でしたが、私はなぜか吸い寄せられるように、スコットランド戦の行われた東京・青山の秩父宮ラグビー場へと出かけていました。日本代表は、もう地獄を見ている。これ以上悪くなることは無い。ならば、ここからは這い上がっていくだけではないか...そんな、祈りにも似た気持ちがどこかにあったかのかもしれません。


     スコットランド戦の舞台となった秩父宮で私は、日本代表史上間違いなく五本の指に入る名勝負を目撃することになります。大胆な選手起用にも驚かされましたが、指名されてピッチに立った選手たちは、まるで飢えた狼のようにボールに食らいつき、そして激しいタックルで相手をなぎ倒していました。しかし、スコットランドも主力メンバーこそ欠いてはいましたが、そこはやはり世界の強豪。意地とメンツにかけてもジャパンに負けるわけにはいかず、猛反撃に出ました。一方、金星が欲しい日本も最後まで集中力を切らさず、厳しいディフェンスで持ちこたえ、逆転を許しません。会場で激しい戦いを見届けていた私にも、選手たちの緊張感が痛いほど伝わってきました。いよいよ勝ちが目前に迫ってきた終盤から、試合終了までの数分間が、どれほど長く感じたことか...ロスタイムに入っても、なかなか時計が進みません。「早く終わってくれ!」これが、私の偽らざる心境でした。
     しかし、レフリーのピアード氏が、遂に試合終了のホイッスルを吹きました。大歓声に包まれるスタンド、キャプテンの平尾誠二を中心に抱き合う選手たち。やった、遂にやったぞ!歴史の目撃者となった私たち観客も、喜びを爆発させました。対照的にうなだれるのは、金星を献上してしまったスコットランドの選手たちでした。この時、宿沢氏が胴上げされたそうですが、私の記憶からは完全に欠落しています。それだけ興奮していたのでしょう。


     宿沢監督率いるジャパンは、翌年に行われた第2回ワールドカップアジア・太平洋地区予選でもトンガと韓国を破り、見事本大会への切符を獲得します。この2試合も、私は秩父宮のスタンドで観戦しましたが、初戦のトンガ戦に先発出場したロック林敏之が試合前、自らを鼓舞すべく自分の顔を叩き、気合を入れていたのが印象的でした。
     W杯予選はお互いの国にとって、絶対に負けることの出来ない真剣勝負の場。スコットランド戦とはまた異質な、独特の緊張感が場内を支配していました。だが日本はトンガを破り、韓国にも苦戦しながら逆転勝利を収めて、第1回に続く出場権を獲得したのでした。


     ジャパンに必死の声援を送った私たちファンは、またしても喜びを爆発させました。そして試合後、本当に晴れがましい気分で会場を後にしました。あるファンが「これでサッカーファンにも自慢できるよ」と言っていたのを覚えています。当時のサッカー日本代表はまだ弱く、ワールドカップには一度も駒を進めたことが無い時代だったのです。今の若いファンの方には信じられないことでしょうが、当時はラグビーの日本代表の方が、サッカーよりもはるかに世界との距離が近い時代でした。いまやサッカー雑誌かと見間違えるようになった『Number』誌も、当時は盛んにラグビー特集を組んでいたものです。この15年の間に、日本のスポーツ界を取り巻く環境がガラリと変わってしまったことが良く分かりますね。


     それはともかく、本大会へと駒を進めたジャパンは、一次リーグでスコットランド、アイルランド、そしてアフリカ代表のジンバブエと同じグループに入ります。宿沢監督の本領である、的確な情報収集と分析で万全の準備を終えて、決戦の場である英国へ飛んだジャパン。だが、初戦で対戦したスコットランドには、相手のホームであるグラスゴーのマレーフィールドで、借りを返される形での完敗を喫します。続くアイルランド相手にも、必死に食らいつきながらも結局は敗れてしまいました。だが、最終戦のジンバブエ戦では大勝。日本は遂に、ワールドカップにおける初白星を挙げることが出来ました。そしてこの試合が、宿沢監督にとっても集大成となったのです。以後、日本がラグビーW杯で勝利を収めたことはありません。ベスト8の進出の夢は破れましたが、それでも私達ファンにとって納得できる成果を出してくれたと思います。


     伝説の大西ジャパンを知らない世代にも、世界への夢を見せてくれた宿沢氏。私が今もラグビーを愛し、すっかり世界から取り残されてしまった現在の日本代表に対する思いを断ち切ることが出来ないのも、あのスコットランド戦に始まる、強かった“宿沢ジャパン”の記憶が、どこかに残っているからだと思います。そして素晴らしい日本代表の思い出をくれた宿沢氏のご冥福を、心からお祈りしたいと思います。宿沢さん、本当にありがとうございました。


     (筆者注:今回はラグビー界での、しかも日本代表監督としての宿沢氏の功績のみを取り上げました。もちろん、本業である銀行での業績も素晴らしいものがありましたが、当連載の趣旨とは異なるため割愛させていただきました。いずれにしても、この人ほど豊かな才能を持ち、それをフルに活かして存分に活躍した人はそうはいないと思います。)



     連載第73回
     現代USスポーツ人名録 第24回 クラウディオ・レイナ(サッカー米国代表主将&マンチェスター・シティ)


     スポーツを愛する皆様、ご機嫌いかがでしょうか。
     アメリカのスポーツ界を代表する選手やコーチを紹介しております「現代USスポーツ人名録」。今月はその24回目です。


     世界中を熱狂の渦に巻き込んだサッカーのワールドカップ(W杯)ドイツ大会も、イタリアの優勝という結末に終わりましたね。ジーコ・ジャパンの思わぬ不振、そして決勝戦におけるジダンの頭突き退場と、今回のW杯も我々の胸に残るドラマを残して閉幕しました。「ぼーる通信」読者の皆様は、どのような感想をお持ちになったでしょうか。


     1勝も挙げられずにドイツを去った日本と同様、ファンの期待を裏切って1次リーグ敗退という結果に終わったのが、ブルース・アリーナ監督率いるアメリカ代表でした。前回の2002年日韓大会では、共同開催国である日本を上回るベスト8という素晴らしい成績を残し、今回も北中米カリブ海地区代表として本大会まで駒を進めてきたアメリカ。1次リーグでは、優勝を飾ったイタリア、欧州の強豪チェコ、そしてアフリカの雄ガーナという「死のグループ」に入ってしまったアメリカですが、日韓大会でも韓国やポルトガルと同じ組に入りながら、組織化されたサッカーでグループリーグを突破しただけに、今回もアリーナ監督が同じ結果をもたらしてくれる、と期待したサッカーファンも多かったのです。
     そのアメリカ代表チームで主将を務めてきたのが、今回の主人公であるMF、クラウディオ・レイナでした。レイナは1973年、ニュージャージー州にあるリビングストンという街で生まれました。父親は、アルゼンチン出身のもとサッカー選手であり、母はポルトガル生まれ。子供の頃からサッカーに親しんできたレイナは、10代の頃からその才能が開花します。U−17(17歳以下)アメリカ代表メンバーに選ばれると、1989年にはイギリスのスコットランドでおこなわれたU−17世界選手権に出場します。この時のレイナはまだ、16歳の誕生日を迎えておりませんでした。
     アメリカは、アバディーンでブラジルのU−17代表と対戦することが決まりましたが、試合前日にレイナは、あのサッカーの神様ペレと対面します。レイナの自伝「More Than Goals」によりますと、ニューヨーク・コスモスでもプレーしたことがあるペレは、レイナ達に「世界中の人々に、アメリカ人だってサッカーが出来るんだ、ということを見せてやりなさい」と言ったそうです。そしてレイナたちは、その言葉を翌日実践しました。なんとアメリカは、1−0のスコアでブラジルを破ったのです。この大会でアメリカはグループリーグを突破することが出来ませんでしたが、それでもレイナ達にとって「あの」ブラジルに勝ったという経験は、何物にも代えがたいものとして残りました。


     やがてレイナはヴァージニア大学に進むと、ある指導者のコーチを受けることになります。その人こそ、のちに米国代表を率いることになるアリーナでした。この時から、二人の名コンビは始まっていたのです。アリーナ監督の元で着々と力を付けたレイナは、3年連続でのNCAA(全米大学体育協会)トーナメント優勝の偉業を達成します。
     また代表レベルでも、1992年に開催されたバルセロナ・オリンピックへの出場を果たした後、1994年の1月には早くもフル代表に招集されて、ノルウェー戦で初キャップを獲得しました。この年、アメリカはワールドカップの開催国として本大会に出場、レイナもメンバーに選ばれていたのですが、負傷のため試合に出場する機会を得られることが出来ませんでした。それでも、ここまでのキャリアはまさに順風満帆だといえるでしょう。


     レイナはより大きな活躍の場を求めて、ヨーロッパへ進出します。最初はドイツの名門バイヤー・レバークーゼンへ入団したものの、あまり活躍の場を得られずに同国のVFLヴォルフスブルグに移籍。ここで持ち味を生かして活躍を見せたレイナは、米国人としては初めてブンデスリーガの1部クラブでキャプテンに選ばれました。
     また1998年にはW杯フランス大会に出場していますが、この時のアメリカは3戦全敗に終わり、大会終了後、恩師のアリーナが代表監督に就任しました。そして1999年には、レイナはいよいよサッカー母国の英国へ移ります。
     最初はスコットランドの強豪、グラスゴー・レンジャーズでプレー。リーグ、カップの国内2冠獲得に貢献しましたが、2001年シーズンからはイングランド・プレミアシップに所属していたサンダーランドへと移籍しました。


     翌2002年、代表主将としてW杯日韓大会に臨んだレイナは、アリーナ監督の元類まれなキャプテンシーを発揮します。優勝候補の一角にも挙げられていたタレント軍団のポルトガルを撃破したアメリカは、続く韓国戦でも圧倒的なアウェーの雰囲気の中、冷静さを失わずに1−1のドローに持ち込む健闘を見せました。負傷のためポルトガル戦に出られなかったレイナは、この試合にはキャプテンマークをつけて出場しています。そしてグループ2位で決勝トーナメントへ駒を進めたアメリカは、1回戦で宿敵メキシコと対戦。苦戦が予想されたアメリカでしたが、レイナの突破からチャンスをつかんだアメリカが、ブライアン・マクブライドのゴールで前半に待望の先制点。後半にも1点を追加してメキシコを突き放し、終わってみれば2対0の快勝で、ベスト8へと進んだのでした。
     準々決勝の相手はサッカー大国、ドイツ。レイナにとっては、かつてプレーしていた国を代表する選手との対戦になったわけですが、アメリカチームは欧州屈指の強豪を敵に回しても一歩も譲らず、力強いプレーを続けます。レイナも中盤でチャンスを演出しますが、ドイツの守護神であるGKカーンのセーブにより、なかなか得点を奪うことが出来ません。逆に前半39分、ドイツのエース、バラックにGKフリーデルがゴールを割られてしまい、アメリカは欲しかった先制点を奪われてしまいました。
     後が無くなったアメリカは、後半に猛反撃を開始、レイナも64分、センターサークル付近から強烈なボレーシュートを放ったが、ボールは惜しくもゴールをそれてしまい、同点ならず。そしてそのまま時間だけが過ぎ去ってしまい、アメリカは大健闘を見せながらも、ドイツの軍門に下ってしまいました。W杯初制覇の夢が破れたアメリカ。しかしレイナのプレーは高く評価され、大会オールスター・チームに選ばれています。これは、アメリカの選手としては初めてのことでした。


     その年、ヒザを故障したレイナは思うようなプレーが出来ず、翌2003年にはマンチェスター・シティへ移籍。攻守に渡る全力プレーの結果か、レイナには常にケガの暗い影が付いて回りますが、それでもアリーナ監督のレイナに対する信頼は、揺らぎませんでした。そしてW杯ドイツ大会の北中米カリブ海地区最終予選に臨んだアメリカは、2005年9月にオハイオ州コロンバスで因縁のメキシコと対戦。見事に勝利を収め、ドイツ切符を獲得したのです(なお、このメキシコ戦につきましては、本連載の第17回をご参照くださいませ)。


     ドイツ大会の出場権を獲得したアメリカ。そしてアリーナ監督は、またも故障していた32歳のレイナを主将に指名しました。これにはさすがのレイナ本人も驚きを隠しませんでしたが、アリーナは彼のリーダーシップと豊富な経験を、かけがえの無いものとして考えていたのです。
     しかし、大学時代から続く二人のパートナーシップはドイツでも如何なく発揮されるはずだったのですが、米国は初戦のチェコ戦で、0−3というまさかの大敗を喫してしまいます。続くイタリア戦では、退場者を出す死闘になって1−1で引き分けに持ち込み、リーグ最終戦のガーナ戦へと望みをつないだのですが、そのガーナ戦でレイナは相手にボールを奪われ、先制ゴールを許した後、前半40分で途中交代。チームも完敗を喫し、ここでアメリカの2006年W杯は終わりを告げました。


     このように、不本意な形でW杯のフィールドを後にしたレイナは、自ら代表からの引退を発表しました。重ねた代表キャップ112は、まさに米国サッカーの発展の歴史そのものであると言っても過言ではないでしょう。そしてアリーナも、監督を退任しています。


     この7月20日に33歳の誕生日を迎えたレイナですが、今年もプレミアリーグでは、まだまだ元気な姿を見せてくれることでしょう。そんなレイナを英国のファンは、「キャプテン・アメリカ」と呼ぶそうです。まさにレイナにぴったりのネーミングだと言えるでしょう。レイナとアリーナは代表チームを去りましたが、アメリカ代表の新たな挑戦が、もうすぐ始まろうとしています。私は今後もアメリカ代表の動向に注目し、本コラムで取り上げていきたいと思います。


     いかがでしたか。レイナの素晴らしいプレーについてもっと語りたいところではございますが、

     ♪あまり長いは皆さんお飽き ちょいとここらで変わり〜まぁす〜

     それでは、また来月!


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