プレイボールとゲームセットの間に by 粟村哲志

    第6回 「野球審判員を取り巻く暗い現状」

    第7回 「世界で一番不幸な役回り」

    第8回 「マスク越しに色々思うこと」

    第9回 「後悔先に立たず」

    第10回 「アンフェアなプレイ」



     第6回 「野球審判員を取り巻く暗い現状」


     先月、連帯労組プロ野球審判支部がストライキの権利を行使する意向を示した件は、様々なメディアで取り上げられて話題になった。その後の交渉の結果、結局スト権の行使にまでは至らず、審判不在というかつてない事態を迎えることなくプロ野球が無事開幕されたことは記憶に新しいと思う。

     今回メディアが盛んに取り上げたのは、プロ審判員が報酬とその査定について不満を感じており、待遇の改善を要求したという部分であった。確かにそれも大きな要因であったようだが、しかし問題の本質にあるのは、日本野球界の将来的展望の欠如ではないだろうか。

     最近では一般にも知られるようになったようだが、プロ野球審判員という仕事は定期採用のある仕事ではない。現在はセ・パ両リーグともに約30名ずつの審判員を確保して一・二軍の全試合を担当しており、何らかの事情で欠員が出たときだけ補充される。補充は一般公募で行われることもあるが、現役を引退したプロ野球選手が球団から推薦されて採用される場合や、アマチュア野球の審判員がスカウトされるような形で採用されることもある。

     よく比較されるのがアメリカの事例である。アメリカには、現役の大リーグ審判員が開設する「審判学校」と呼ばれる専門の教育機関がある。1935年にジョージ・バーが初めて審判学校を開設して以来、何校かの審判学校が設立されてきたが、現在はジム・エバンスとハリー・ウェンデルステッドが開設した2校がある。
     この2校はマイナーリーグの審判員を統轄する組織であるPBUC(Professional Baseball Umpire Corporation)から公認された教育機関であり、アメリカでプロ野球審判員を志望する者は審判学校で5週間の訓練を受け、上位にランクされなければならない。2校で上位にランクされPBUCに推薦された者だけが上級トレーニングに進み、さらに順位をつけられ、マイナーリーグに欠員が出た人数だけ契約が行われることになっている。そして全てのプロ審判はマイナーリーグの最下層であるルーキーリーグからスタートし、1年ごとに厳しい査定を受けて昇級するか職を失うかが決まる。実力と運の両方を兼ね備えた審判員だけが、大リーグの晴れ舞台に立つことができるシステムになっているのである。

     球団数も違えば運営方式も非常に異なる日米のプロ野球を単純に比較して、生存競争の激しいアメリカと、一・二軍を行ったり来たりして育成される「ぬるま湯」の日本などという論を立てても仕方がないが、プロ審判を志す者が明確な目標を持ち、統一された教育カリキュラムを受講できるという点では、やはりアメリカ式の利点は大きい。しかし、もっと重要なのは、アメリカプロ野球界とて、最初からこのようなシステムを採用していたわけではないということである。

     1876年にウィリアム・マクレーンが初めて「プロ」審判員としてナショナル・リーグの試合を裁いて以来、2人制、3人制、そして4人制のシステムが徐々に確立され、2人制を基礎とした審判学校の教育方式も時間をかけて熟成されていった。そして現在、プロ審判界のヒエラルキーが完全に確立されるに至っているのである。

     それに比べて日本の野球審判員を取り巻く環境は厳しい。プロ球界では各球団れないまま、旧態依然とした状況が継続されている。アマチュア野球の審判運営も「学生野球のアマチュアリズム」「ボランティアの尊さ」といったお題目に縛られて野球の国際化から目を背けるうちに世界の流れから取り残され、ようやく国際標準のアメリカ式に統一しようという動きが出たばかりである。プロアマ協定の弊害でプロ審判とアマ審判の交流もままならず、統一された育成機関も育成方式もないまま、審判員の高齢化ばかりが叫ばれる事態となっている。

     ○○野球の審判はこう、△△野球の審判はこう、といったおかしな状況が打開され、各団体、各組織の閉鎖性も打破され、野球の審判になりたいという若者の確保のためにはどうすればいいのかが真剣に議論され、プロ審判になるための明確で公正な基準が定められ、審判法と育成の統一システムが確立される日が来るのかどうか、現状でははなはだ心許ない。

     アメリカの審判学校には、プロを志す者ばかりでなく、アマチュア審判で技術の向上を目指したい者も参加する。最近では日本人の参加者も多くなっているようで、実際にマイナーリーグでプロ審判として活躍している日本人もいる。アメリカ球界に流出しているのはプロ野球のトップ選手ばかりではない。日本球界の空洞化は、至る所から始まっているのである。



     第7回 「世界で一番不幸な役回り」


     審判員としての技術を評価するポイントはいくつもあるが、球審を担当する場合のストライクゾーンの問題は分かりやすい評価基準のひとつとなるだろう。
     ストライク、ボールを正確に判定することはもちろん大事なことだが、審判員としてもっと大事なことは、ストライクゾーンの一貫性である。その試合の中でゾーンが一定しているかどうか、そのシーズンの中で一定しているかどうか、といった一貫性のほうがより重要で、個人のゾーン解釈による差はあまりたいした問題ではない。
     よく言われることだが、ひとつめ、ふたつめのストライクと同じところでみっつめのストライクをきちんと取れるかどうかはその技量を問題にする上で非常に大きなポイントである。やはり自分の判断でアウトをひとつとることは責任の重さを感じる。しかし、その勇気がなくて選手の反応に迎合してしまうようでは審判員はつとまらない。

     現実問題として、投球判定の調子がいい日もあれば悪い日もある。1試合を通じて迷うことなく判定を続けられる日もあれば、どうも際どいところの見極めが難しいと感じる日もある。調子が悪いときは、ことさらに基本に立ち返り、投球を最後まで目で追う意識を高めたりするのだが、それでもストライクといいかけてボールと判定したりすることが全くないわけではない。

     そういう問題を克服するために、あるプロ審判がこんな話をしてくれた。いわく、彼は投手が投げてくる投球は全てストライクなのではないかと考えるのだそうである。ストライクがくる、ストライクがくる、そう念じ続けて投球を待つが、どうしたってストライクとは言いがたい投球が入ってくればボールとコールするのだという話だった。このような積極的な姿勢も大事かもしれないと思う。調子が悪いからといって、今度の投球はストライクかしら、ボールかしらと弱気に考えていても駄目で、さあストライクを投げていらっしゃいとばかりに待ち構えているような攻撃的な気持ちが、プラスの作用を生むのだろう。
     球審を担当することは、やはりそのクルーの中で「華」ではあるが、同時に大きな責任をもつ嫌なポジションでもある。前述の審判員とは違う別のプロ審判は、球審を担当するする日は世界中で一番不幸な役回りを背負い込んだような気持ちになると言っていた。そのプロ審判の友人の大リーグ審判は、球審を担当する直前に、「俺が今までやってきたことは間違っていない、俺は正しい道を歩んできた」と繰り返し繰り返しつぶやいていたそうである。それだけの責任を感じるからこそ、試合を終えた後の達成感と開放感もまたひとしおなのだそうだ。

     プロ、アマを問わず、球審を担当することは「抜擢」という意味合いもあって名誉な部分もある。しかし、経験する試合数がどうしても少なくなるアマ審判の場合は、球審を担当することが楽しい、嬉しいといった声が多いのに対し、仕事として毎日毎日審判をして、何日かに一度は球審が巡って来るプロの場合には嬉しさだけではないということなのだろう。プロとアマの違いのなかでも比較的顕著なものではないかと思っている。
     球審ももちろんストライク、ボールを判定する以外にもたくさんの仕事があるが、それでも一番目立つのはそこである。この技術を高めないと評価されないし、間違いはどうしても一番目立ってしまう。同じところを同じように判定し続ける確かな技術と、そしていくばくかの勇気をもって、今日もわれわれはグラウンドに臨み続けるのである。



     第8回 「マスク越しに色々思うこと」


     中学生、高校生、大学生、社会人と色々な試合の審判をしていると面白いこともある。たとえば、年齢やレベルの差による野球の「質」の違いを体感できることも、そのひとつといえる。
     リトルシニアから上の年齢になると、ルール上はプロ野球と同じ規格のボール、同じ規格のグラウンドで試合をすることになる。もちろん、リトルシニアあたりではルールが定める要件を満たしていないようなグラウンドで公式戦を行うことの方が多いし、大学、社会人では木製バットが使用されていたりと、細かい部分では条件が異なるが、一応は同じ野球をやるわけである。
     よく質問されるのが、「シニアの3年生くらいになると、どのくらいのスピードのボールを投げるのか」ということだが、一概には言えないけれども、一般的には主戦投手でも120km/h前後といったところか。速い方では130〜135km/hくらいを投げる選手は、全国レベルになればある程度いる。しかし、高校生や大学生が投げる130km/hとは明らかにキレが違う。捕手の手許で伸びてくるようなキレのあるボールを投げられる中学生はほとんどいない。タマが速いだけで抑えられるものではないということは野球の常識だが、中学生あたりでは、球速を武器に三振の山を築くような投手は、まずいない。

     今まで球審を務めたことがある中で一番ボールのキレを感じたのは、早大時代の和田毅投手(現・福岡ダイエーホークス)である。数年前から縁あって早大野球部のオープン戦の審判を年間に15試合程度させていただいているが、今まで見た中で和田投手だけは別格であった。球速はさほど感じなかったが、低めに良くコントロールされたボールが、まさに打者の手許で伸びてくる。社会人チームとの対戦でも、打者一巡するまでは面白いように空振りを取っていたことを思い出す。また、昨年は東海大の久保投手(現・読売巨人軍)と和田投手との投げ合いも経験したが、当日早大打線を完封した久保投手の多彩な変化球のキレも素晴らしかった。

     もうひとつ、年齢が違うとこれほどまでに違うものかと感じさせられるのが、打球の角度である。大学生や社会人の打つ飛球は、角度が充分にあり、したがって滞空時間も長い。それに対して、中学生や、高校生でもまだ体力のついていない選手が打つ打球の角度は低い。いい当たり、といっても鋭いライナーのようになってしまうのである。その結果、審判にとって困るのは、打球に対してゴーアウトする(外野に走って行って打球を判定すること)かどうかの判断がしづらいのである。打球を見て、そして相方の審判を見てゴーアウトの判断をしようかという頃には、もう打球が着地してしまうということもしばしばなのである。
     塁審の誰かがゴーアウトすると、たとえば4人制審判なら残る3人の審判で4つの塁を見ることになる。そのために、外野に飛球が飛んだときのカバーリングの動きというものをマニュアル化してあって、1人審判が減っても大丈夫なようになっているのだが、普段やっているリトルシニアの試合では、その動きをするための時間が足りないことがしばしば起こるわけである。しかし、大学の試合などやると、普段では考えられないほど余裕を持って打球を判断しながらカバーリングの動きが出来るため、これが本当の野球の動きなのだなと実感できる。
     先日、久しぶりに高校野球のオープン戦の審判をしたが、片方のチームは全国的にも有名な、ある強豪校の3軍とのことであった。試合は序盤から双方が点を取り合う大味なものとなったが、失点の原因は両チームとも四球やエラー、その他のミスがほとんどであった。投手の球速は130〜135km/h程度あったと思うし、さすがに高校生ともなると中学生よりもひとまわり大きな体格をしていたが、野球の質はシニアの全国レベルの方が数段上だった。捕手の構えも上手いとは言えず、投球が見づらいことこの上なかったが、唯一感心させられたのはスピーディーな攻守交代と選手の礼儀正しさだった。様々な部分のバランスが微妙に違うから、色々なレベルの野球の審判をするのは面白いのかもしれない。



     第9回 「後悔先に立たず」


     先日、リトルシニアの公式戦で二塁塁審を担当していたときのこと。
     守備側のチームがピンチを迎え、投手を交代した。一死二・三塁、守備側の内野陣は前進守備を選択して失点を防ごうという状況である。走者二・三塁なら、通常二塁塁審は内野内に位置するが、前進守備等で内野内に位置するのが難しいときは、守備の邪魔にならないように自己判断で外野に位置することがある。この場合も、私は二塁ベース後方まで後退して自分の位置をとった。

     前進守備は成功し、打者は内野ゴロを打って走者は釘付け、状況は二死二・三塁に変わった。守備体系も普通に戻ったので、私も内野内に位置し直した。それでもまだ緊迫した状況であることに違いはない。私は緊張感を持って投手を見つめた。

     ところが、この救援投手のセットポジションが、だんだん怪しくなってきたのである。一応両手を身体の前方であわせて軽く止めることは止めるのだが、少しその静止時間が短いように感じられてきた。最初のうちはそうでもなかったのに、私が内野内に戻ってきてから、なんとなく静止が足りないように思われてきたのである。

     しかし、私の解釈で言えば、このセットは「ギリギリ」セーフであった。走者が三塁にいるときに、静止時間が多少短いといった程度のボークをとるのは勇気がいる。「このくらいなら大丈夫かな」と考えている内に次の打者も打ち取り、結局この回は終わった。

     次の回も、その救援投手が続投したのだが、また走者が出た。ところが、この回のセットポジションは、前の回よりもますます静止時間が短くなっていて、今度は私の解釈でも「ギリギリ」アウトという感じになってきた。ところが不思議なもので、後になって考えれば、「あのとき勇気を持ってボークを宣告していれば」というタイミングが必ずどこかにあるのだが、そこを見過ごしてしまうと、それよりもっとひどいボークでも、「さっきはとらなかったから」とひどく弱気になってしまい、その試合中を悶々として過ごすことになりかねない。この試合がまさにそうだった。

     「少し早いよなあ」と内心イライラしている間にも試合は進行する。そのうち、三塁塁審がイニングの合間にこっそり寄ってきて、「あのピッチャー(セットが)少し早くない?」などと聞いてくる。先輩である私がとらないでいるものだから遠慮しているらしい。この悪循環を断ち切るためには、審判として本当はやってはいけない裏技を使うしかなくなる。その投手にこっそり注意するのである。

     この試合では、私が投手板を掃きにマウンドに行ったときにこっそり話しかけ、結果として次の回から静止時間を長くしてくれたのだが、なにしろ動機が全くの保身、自己弁護であるから後味が悪い。だいいち、片方のチームに手心を加えたような結果になってしまうから本当はそういう処理が正しいとはいえないのだが、後々トラブルに発展するよりはマシ、と開き直って注意することになる。

     審判を何年やってもボークを宣告するのは難しいと感じる。とりわけ少年野球では、投手も不慣れな部分があってボークが多いので、多少甘く見なければならない部分もあるから余計難しい。ボークルールは解釈の問題も大いにあるので、プロでも今年は厳しいとか、昔はこうではなかったとか、日米で解釈が違うとかいう声がよく聞かれるが、それは仕方のないことだと思う。

     公認野球規則8.05がボークの項だが、これは(a)から(m)まで13項目もある。(l)項は敬遠四球の際に捕手の足が捕手席から出てはいけないという、いわゆる「キャッチャーボーク」の規定だから、投手の禁止事項としては12項目となるが、それにしても多い。ボークというのは、投手が走者を騙して塁に釘付けにしたり、あわよくば塁で刺してやろうという気持ちから発生するものだから、とりわけ牽制球の際に正しく塁の方向に直接足を踏み出しているかどうかとか、セットの際の静止時間は適当かとかいうことに目を光らせてはいる。しかし、あきらかにうっかりミスで投手板に触れているときにボールを落としてしまったり、タイミングが合わなくて投球動作を中断してしまってもボークはボークだから気が抜けない。

     一度でいいから完全試合に立ち会ってみたい。ボークの心配をする必要がないからである。



     第10回 「アンフェアなプレイ」


     リトルシニアの全国大会が東京で開催されている(8月4日開幕式、9日決勝戦)。神宮球場をメイン会場に、全国から32チームが集まって優勝を目指す、高校野球でいうところの「夏の甲子園」に匹敵する大会である。筆者も初日、2日目と2試合出場した。

     そのうち、どちらの試合でもちょっと気になるプレイがあった。まず初日、球審を務めた試合でのこと。初回から先攻チームの打撃が好調であっという間に3点を先制し、なお二死走者一塁という場面で一塁走者が盗塁を試みた。スタートも良く、悠々セーフかと思われるような好走塁だったのだが、打者がいわゆる「援護のための空振り」をした後、本塁上にかぶさるようによろけて捕手の送球動作を完全に邪魔するような動きを見せたのである。

     残念ながらこの手の妨害行為は中学生の野球でもままあることなのだが、気のない空振り程度ではこちらもある程度大目に見ることにしている。そのような行為を推奨するような指導者が多いことも承知しているし、少々の空振り程度では現実にはあまり妨害にならないことが多いからだ。しかし、この打者は明らかに捕手の動きを見ながらよろけて、捕手に身体を預けるような動きを見せた。私は二塁でのプレイを見た。すると、送球は大きく逸れてしまい、盗塁は完全に成功した。
     そこまで見届けてから私は大きな声で「タイム」を宣告し、プレイを止めた。そして、打者の方に向き直り、打者を指さして「That's interference! The batter's out!(守備妨害があったので打者アウト)」とコールした。打者は驚くでもなく、少し薄笑いを浮かべてダグアウトに下がっていった。中学生がこのようなあからさまな守備妨害をして、それを審判にとがめられたときに、「妨害なんてしてませんよ」と言い訳をしたり、しまったという表情を見せるのならまだ理解できる。しかし、このとき打者が見せた表情は、「あきらめ」とも「失敗」ともつかぬ曖昧なもので、私は正直なところ失望させられた。
     ダグアウトでは監督さんが「余計なことすな! 誰がそんな汚いこと教えたんや!」と選手を大声で叱っていたが、野球界ではまだまだこういうアンフェアな行為がまかり通っている事実を知っているだけにその叱責を額面通り受け取ることができず、そのような思いを巡らせている自分に気付いて苦笑するほかなかった。

     もうひとつは一塁塁審を務めた試合でのこと。試合の中盤になるまで気付かなかったのだが、片方のチームの遊撃手が、二塁に走者がいるときにわざと走者の視界をふさぐような動きをして牽制球に対する反応を遅らせようとしたり、実際に牽制球を投げられて二塁に帰塁しようとする走者の前に巧妙に身体を入れて邪魔をしたりしているように、私には見えた。気付いてからは気を付けて見ていたのだが、まず間違いなくそういう動きをしていた。
     これも遊撃手の動きとしてはよく見られることで、場合によっては注意をすることもあるのだが、なにしろこの試合で私は一塁塁審なのだから、実際にプレイがあって二塁塁審が「セーフ」をコールした後で出かけていって遊撃手に注意をするということになると、これは完全に越権行為だからそこまではできない。監督さんに注意をしようかとも思ったが、現実にアウトになってもいないのに余計なことを言いに行ってしこりを残すのもどうかと思ったので、結局この件に関しては誰にも言わずに試合を終えた。

     こんなことはアマチュア野球全体の中でもきわめて日常的に見られることで、もちろんあちらこちらで問題になってはいるのだが、実際にはなくなることはない。ただ、各地域を代表して全国大会に出場し、東京までやってきて試合をするのにそんなことをして楽しいのかなと思っただけである。ルール違反以前のアンフェアな行為に関しては、審判としてどれだけのことができるのだろうかと、いつも考えている。

現連載

過去の連載

リンク