にっぽん野球昔ばなし by 九時星

    第一回 べーすぼーる伝来

    第二回 悪童、アメリカを行く

    第三回 誕生!新橋アスレチック倶楽部

    第四回 ライバルはお殿さま

    第五回 魔球登場!



     第一回 べーすぼーる伝来


     『日本にベースボールが伝来した頃、アメリカにはもうプロ野球があった!』てなことを聞かされると「さすがは本場、日本なんかとは歴史が違う…」なんて思ってしまいますが、次のように言い換えるとどうでしょう?『日本にベースボールが伝来した頃、それはまだ素手でボールを捕るゲームであった!』どうです?日本の野球の歴史も結構古いでしょ。

     天保の改革の水野忠邦が失脚し、遠山の金さんがリリーフに、じゃなく江戸南町奉行に転じた1845年、カートライトと彼の所属したチーム“ニッカボッカーズ”によって、従来行われていたタウンボールというゲームに改良が加えられ、近代ベースボールの歴史が始まったのでありました。それから27年後、坂本竜馬暗殺から5年、五稜郭の戦いで土方歳三が戦死してから3年たった明治5年、ベースボールが日本にやってきたのです。

     これを初めて伝えたのは第一大学区第一番中学(現在の東大)のアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンといわれています。ウィルソン先生、その立派なヒゲから「なまず」とあだ名され、授業は厳しいが教室以外では優しく、放課後には生徒たちとノックを楽しむという、まるでどこかのドラマで見たような熱血先生でありました。

     もちろんアメリカ人で野球好きな教師は彼一人ではないので、同時期に北海道や熊本などでも他の人によって伝えられていたようでありますが、他の先生たちが「なまず」だったかどうかは定かではありません。

     当時のルールは、現在とはまだいくつかの大きな違いがありました。投手は下手からしか投げられず、しかも打者は自分の得意な高・中・低のどれかのコースを指定出来たのです。これが九球コースを外れると打者は一塁に歩きます。つまり四球ではなく九球。そしてグラブもミットもまだなかったのです。本場アメリカでもせいぜい革の手袋程度、根性で球を捕っていたのです。

     「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と歌われたこの頃の日本は、ちょんまげ頭もまだ残り、帯刀も禁止されておらず、名字を付けていない者なお多しという、未だ江戸時代を色濃く残した時代でありました。「汽笛一斉新橋を」と鉄道が開業し暦が太陽暦になったのがこの年。「切り棄て御免」が禁止され、藩に代わって県が、両に代わって円が登場するのが前年の明治4年。西郷どんが西南戦争をおこすのはこれからまだ5年後、もちろん上野で犬を連れてランドマークしていませんでした。

     そんな時代に、日本で暮らす外国人たちがその居留地でゲームを始め、各地の学校でアメリカ人教師たちがベースボールを伝え、アメリカ留学から帰省した人たちが新しいルールや道具を持ち帰り、また彼らからベースボールを教わった生徒たちがタンポポの種のように各地の学校教師として赴任し、そこの生徒たちにベースボールを教えたのです。この新しい遊びはたちまち当時の青少年たちを夢中にさせました。
     やがて線路が各地に伸びて、郵便、電信が発達し、新聞が盛んになるとベースボール熱は日本中に広がったのでありました。



     第二回 悪童、アメリカを行く


     前回のお話は、日本にやってきた米国人教師がベースボールを日本人生徒に教えたというものでしたが、その逆のケースもあります。すなわちアメリカに行った日本人が本場のベースボールに触れて、それを日本に持ち帰るというものです。

     “煕”…いきなり難解な漢字の登場ですが、この上の部分に更にニスイをつけた、パソコン泣かせの文字の読み方は“ヒロシ”。明治の初めに日本にベースボールを持ち帰った人物の名前であります。

     今回の主人公、平岡ヒロシがアメリカに渡ったのは日本にベースボールが伝わる一年前の明治4年。若干16歳、当時は数え年ですから今でいうと中学3年生くらいでしょうか。青年というよりは少年といったほうがふさわしい年齢でありました。
     当時のヒロシ君は天衣無縫、茶目っ気があっていたずら好き、といえばなんだか可愛い少年のようですが、近所で迷惑を受けた人たちにとっては『悪童』でありました。維新前には徳川御三卿のひとつ田安家の付家老まで出世していた彼の父もこの悪童振りにはほとほと手を焼いたようで、家督を継ぐヒロシの留学は英才教育というだけではなく、未知の世界に放り出せば少しはおとなしくなるという考えもあったようであります。

     さて、ヒロシ君、アメリカはボストンへと留学いたしますが、そこで人生を変える二つのものと出会います。一つは蒸気機関車。2年前に開通した大陸横断鉄道に乗ってサクラメントからニューヨークに向かった彼は、すっかりこの巨大で力強い乗り物に魅せられていったのでした。
     そしてもう一つはベースボール。ヒロシ君が留学した明治4年、つまり1871年は、奇しくもアメリカ初の野球組織、ナショナル・アソシエーション・オヴ・ベース・ボール・プレイヤーズ(NABBP)がプロフェッショナル部門とアマチュア部門とに分離し、そのプロ部門が、球史初のプロリーグとして成立した年でもありました。また留学先の地元チーム、ボストン・レッドストッキングス(のちのボストン・ブレーブス、現在のアトフェッショナルランタ・ブレーブスの前身)は、その翌年から4年連続優勝を成し遂げる強豪チームであります。
     もっとも当時は、ニューヨークのブルックリン・エクセルシオールズで初の全米的人気投手となったジェイムズ・クレイトンが、1862年にはじめて上手から速球を投げたぐらいだったので、投手は下手から投げるのが一般的で、野手も素手に近い装備しかありませんでしたが、このチームにはヒロシ君より6才年長の名投手アルバート・スポルディングが在籍、全米で人気を博しておりました。

     初等学校を1年半で卒業し、ハイスクールを3ヶ月で中退したヒロシ君は機関車製造工場の工員として働き、そこの仲間たちとベースボールに興じておりました。彼は主に投手としてチームのレギュラーになっており、地元では中々の人気者であったようです。工員としても優秀で、後にフィラデルフィアの大会社からスカウトされるほどでした。

     鉄道技師としての技術を身につけたヒロシ君は明治9年、帰国の途につきます。数えで21歳、5年間の留学生活を経てもう立派な青年になっておりました。初等学校時代にボストンを訪れ、面識のあった伊藤博文の口利きで鉄道局勤務になるのが翌々年の明治11年、そこで日本初のベースボール・チーム『新橋アスレチック倶楽部』を作ります。
     次回の『にっぽん野球昔ばなし』はヒロシ君の帰国後の活躍についてのお話です。



     第三回 誕生!新橋アスレチック倶楽部


     帰国したヒロシ君は持ち帰ったバットとボールで弟の寅之助と遊んでおりましたが、平岡家は来客が多く、「おもしろそうだからやらせてくれ」といいだす人も現れてきました。そうなると庭では狭いので神田の練兵場に毎日のように出かけては平岡家の使用人なども加わったにぎやかな練習をするようになりました。すると、神田周辺の学生たちが本場直伝のベースボールを見ようと集まってきて、更ににぎやかになったのでした。

     明治11年、ヒロシ君の鉄道局勤務が決まり、新橋工場へ出仕するようになっても、学生たちはベースボールを習いにきておりました。さらに仲間の工員や技師、駅員なども汐留停車場南の広い野原でベースボールを楽しむようになり、やがて2チームに分かれて試合のような形式も行なわれるようになり、ついに日本で初めてのクラブチーム『新橋アスレチック倶楽部』が誕生するのです。
     『新橋アスレチック倶楽部』の面々は白い帽子、白い上着は襟付きでしゃれたリボン状のネクタイ、膝までの白いズボンにストッキングというニッカボッカースタイルで颯爽とベースボールを楽しんでおりました。もちろんヒロシ君が作らせたものですが、これが日本で初めてのユニフォームでもありました。
     それではそれまではどのようなスタイルだったかというと、「気の利いたところで襦袢下かシャツ1枚、ひどいのは暑い折は素裸体に六尺褌一本、朴歯の下駄という珍な姿の時もあれば、寒い折は羽織袴をつけて平気でいた時すらある」(国民新聞社・日本野球史より)という有様でしたから、新橋倶楽部のユニフォームは当時としては非常にハイカラなものでありました。

     ヒロシ君は新橋アスレチック倶楽部の写真を添えて、アメリカ時代に地元チームの名投手として活躍していたある選手に手紙を出します。自分がボストンに滞在していたことを告げ、「・・・当時、ボストン・ナインが全米チャンピオンであり、ピッチャーは貴方スポルディング選手、キャッチャーはホワイト選手でした・・・」そして自分が日本にボールとバットを持ち帰り、球団を作ったことを報告したのです。
     手紙を受け取ったスポルディングは、すでにこの時選手を引退して、自分が設立した運動用具店の社長になっておりました。そう、彼は現在に続くスポーツ用品メーカー、ゴルフ関係で有名なスポルディング社の創始者なのです。彼はヒロシ君の手紙に感激してアメリカでも出来たばかりのマスクやミットを含む最新の野球用具一式を送り、さらに毎年のようにルールブックを送り続けてくれたのでした。



     さて、野球用具が一通り揃い、最新ルールが手に入ると、次は正規のグラウンドが欲しくなります。ヒロシ君はさっそく当局から許可をとって品川停車場そばの広場を整備し、塁間90フィートの正規ダイヤモンドを備えたグラウンドを作ります。明治15年完成したこのグラウンドは『保健場』と命名されました。この頃になると「わからないことは平岡さんに聞け」とばかりにいろんな学校の学生達が出入りするようになっておりました。ところがその時すでに、アスレチック倶楽部のライバルチームが誕生していたのです。
     「にっぽん野球昔ばなし」次回はこのライバルチームのお話です。



     第四回 ライバルはお殿さま


     田安のお殿さまといえば、清水、一橋と並んで徳川御三卿、将軍に最も近い家柄でありますが、文明開化のご時世、英語のひとつも出来なきゃいけないってなことで、家庭教師に選ばれたのが元・田安家付き家老、平岡家の悪ガ・・・いや、嫡男ヒロシ君であります。この時の田安家当主は徳川達孝(1865−1941)伯爵、のち大正11年から昭和2年にかけて侍従長を務めた人物ですが、当時はまだ10代半ばの若殿様でした。

     このときヒロシ君は当然のように英語だけではなく、ベースボールもお殿様に教えたのであります。思いもかけず、といいましょうか、予想通りといいましょうか、若きお殿様はこのゲームに夢中になってしまいました。何しろお殿様ですから、夢中になり方が半端じゃありません。どこか空地はないものかなんて考えないのです。あたりまえのように三田にあったご自分の大邸宅の庭園をつぶしてしまったのです。使用人たちが呆れている間に、築山を壊し、池泉を埋め、林を切って、あっという間に数千坪はあろうかという、だだっ広い運動場が出来上がったのでありました。

     やがて駒場農学校の学生にして佐賀鍋島家十二代当主である鍋島直映侯爵をはじめ、多くの仲間や学生たちが集まりだすと、殿様はヒロシ君の新橋アスレチック倶楽部に対抗してチームを結成することにしました。チーム名もアスレチックスより立派なものを、との要望で執事が頭を捻って古今東西の文献に目を通し、ギリシャ神話の英雄の名前を見つけ出し言上すると、殿様もいたくお気に召されました。すなわち、明治13年、徳川ヘラクレス倶楽部の誕生であります。

     ユニフォームも白一色のアスレチック倶楽部に負けまいと赤と緑の2種類を用意しましたので、紅白戦の折などは色の対比が鮮やかでした。殿様は道具にも凝り性なところを見せて、ある日、職人に命じて作らせた、それはそれは見事な桐の柾目のバットを持って現れました。軽くて美しいそのバットがどうなったか、大和球士氏が著書『野球百年』のなかで実に簡潔に表現されておりますので以下に引用します。

    「ピッチャー第一球、投げた、打った、折れた。」

    ・・・哀れ超高級素材の桐バットは、つかの間の命でありました。

     このような具合ですから、両チームの対抗意識も強く、たびたび対抗戦を行って雌雄を決しようとしたのです。

     惜しむらくは観客が少ないこと。困ったお殿様は見物客に茶菓子を用意するなど、観客集めには苦労されたようです。とはいえ当時の最高級の試合ですから、学生たちは多く出入していました。そのなかに、工部大学(現・東大)の学生、岩岡保作もおりました。彼はヒロシ君からある秘法を聞き出そうと必死になっていたのです。その秘法とは・・・次回のにっぽん野球昔ばなしは「魔球登場!」です。



     第五回 魔球登場!


     魔球!なんて素晴らしき響き!というわけで今回は日本で初めて投げられた魔球のお話です。新橋アスレチックスを作った平岡ヒロシ君がアメリカから持ち帰ったものの中にこの魔球がありました。当時下手から投げられた球を打つルールでありましたが、ヒロシ君の魔球はそうそう簡単には打てない代物でありました。何しろまっすぐ飛んでくるはずの球が途中から曲がるのですから。そう、今でいうカーヴが魔球の正体でした。このカーヴ、1860年代にキャンディ・カミングスというひとがはじめて投げて以来、ようやっとアメリカでも普及しはじめたばかり。まさにヒロシ君は、最新の秘法を持ち帰ったわけであります。

     この魔球、当時の選手たちにとっては大きな驚きでして、『あれは切支丹バテレン式の魔法であろう』などというものまで現れる始末でありました。しかし現実に球は曲がる、曲がれば打てない、秘伝があるならぜひ知りたいと願うのは世の常でして、学生選手諸君はこぞってヒロシ君に魔球の奥義を教えてもらおうと懇願したのでありますが、ヒロシ君ももったいぶって教えない。曰く「平岡家の秘伝である」、曰く「普通の技量を磨けばおのずと秘法は身につくであろう」、曰く「奥義のみを知りても害ありて益なしである」云々・・・かくして学生諸君は魔球の秘法解明へと悪戦苦闘するのでありました。

     魔球の解明のために特訓をした人物の話が『日本野球史』(国民新聞運動部・編)に載っておりますのでご紹介しましょう。開成学校の学生で酒屋の若主人でもあった市川延次郎氏、彼はカーブの秘法を武芸十八番の奥義のようなものと考え、酒蔵の白壁に的をつくり、その手前二間(約3.6m)ばかりのところに竹竿を立て手ぬぐいを縛りつけ、日々奥義解明の研究をしていたのでありますが、『竹の棒の先の手拭いが時に動けばそれは千住からふいてくる川風である。遂に彼は球をその場に投げ出してヨヨと泣くばかりであった。遙かにこれを見ていた倉庫の若い衆は、若主人の狂態に唯呆れているばかり。』(引用・前掲書)という有様でした。

     多くの学生たちが大なり小なり同様の悪戦苦闘を続ける中、工部大学の学生・岩岡保作氏は学業を捨ててまで毎日執拗にヒロシ君に秘法伝授をせがみ倒し、遂に根負けしたヒロシ君は彼に球の原理、握り方を教えたのです。当時(明治10年代後半)は岩岡氏の工部大学(現・東大)ほか、駒場の農学校(現・東大)、青山英和学院(現・青山学院)、波羅(ポーロ)大学(現・明治学院)、立教、慶應、第一高等中学(現・東大)、商業学校(現・一ツ橋大)などにチームが出来始めた頃でもありました。

     こうして岩岡氏は教わった秘法を自らのものとすべく、夜も寄宿舎の廊下でロウソクの明かりを頼りにピッチング練習を続け、魔球の名手と呼ばれるようになったのでありますが、他の学校にもアメリカ人教師やアメリカ帰りの学生を経て、カーヴの秘法が少しずつ伝えられていったのであります。ところでこの岩岡氏とバッテリーを組んだ人物は非常な有名人です。『草茂みベースボールの道白し』俳句界の革命児、若き日の正岡子規。次回のにっぽん野球昔ばなしは「子規とベースボール」です。


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