にっぽん野球昔ばなし by 九時星

    第六回 のぼさんとベースボール

    第七回 続・のぼさんとベースボール

    第八回 野球翻訳物語

    第九回 野球の名付け親

    第十回 風雲児登場!



     第六回 のぼさんとベースボール


     不如帰・時鳥・子規・杜鵑・田鵑・霍公鳥・田長鳥・沓手鳥・妹背鳥・卯月鳥・杜宇・杜魂・蜀魂…ずらっと並べた漢字、これすべて『ホトトギス』なのであります。この『ホトトギス』を自らの号としたのが、正岡常規。幼名・升(のぼる)、のぼさん、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句で知られ、近代文学史上に偉大な足跡を残し、今年野球殿堂入りとなった正岡子規であります。今回は、のぼさん・正岡子規とベースボールとの関わりを見ていきましょう。

     のぼさんは慶応3(1866)年、愛媛・松山藩生まれ。明治16年上京、翌年東京大学予備門(のち一高、東大)入学、そして19年頃にはすっかりベースボールの魅力に取り付かれていたようであります。当時の一高寄宿新報に「赤組は正岡常規氏、岩岡保作氏交互にピツチとキヤツチになる」とありまして(飛田穂洲・著、『野球人国記』)、平岡ヒロシ君直伝の魔球・カーブをあやつる岩岡とのぼさんはバッテリーを組んで、なおかつ投手と捕手を交代しながら務めたわけであります。もしかすると、のぼさんもカーブを投げたのかも知れません。

     のぼさんがどれほどベースボールに夢中になっていたかと申しますと、随筆『筆まかせ』のなかで「運動となるべき遊技は日本に少なし(略)西洋にはその種類多く枚挙するわけにはゆかねども…」といいつつ、競馬、競走、競漕は早いか遅いかだけで面白くない、長飛(幅跳び)、高飛はなおさらつまらない、竿飛(棒高跳び)は少しは面白いがこれも高いか低いかだけ、柵飛(ハードル競走)もその場の慰めだけ、「そのほか無数の遊びあれども特別に注意を引くほどのものなし」テニスは「勝負も長く少し興味あれど」女性向きで「壮健活発の男児をして愉快と呼ばしむるに足らず」と、まさにいいたい放題で他のスポーツをこき下ろした挙句、「愉快とよばしむる者ただ一ッあり ベース、ボールなり」と断言し、いかにベースボールという競技が面白く素晴らしいものであるかということを力説しているのであります。

     当時のぼさんは『七変人』と称する仲間うちで遊び事のランキングをつけておりまして、漕艇や相撲、腕押し、カルタなどにまじってベースボールの番付ではのぼさんが第3位(東関脇)にランクされているのでありました。ちなみに西大関(第2位)にはのぼさんが「剛友」と呼ぶ松山時代からの友人、秋山眞之の名前があります。のちの海軍名参謀・秋山はやがて海軍野球の創始者となり、番付が伊達でなかった事を証明したのでありました。

     明治21年頃は「此頃はベースボールにのみ耽りてバツト一本球一個を生命の如く思ひし時」であったと後に述懐しておりますが、徐々に病魔がのぼさんに取り付いていった時期でもありまして、21年8月、最初の喀血、翌年5月にも喀血し、「鳴いて血をはくホトトギス」と呼ばれるところから『子規』と号するようになったのであります。もっともそれでベースボールをやめるのぼさんではなかったわけでして…というところで、のぼさんの俳句を紹介しながらこのお話は次回へと続きます。

     恋知らぬ猫のふり也球遊び
     まり投げて見たき広場や春の草
     球うける極秘は風の柳かな
     草茂みベースボールの道白し
     蒲公英(たんぽぽ)やボールコロゲテ通リケリ



     第七回 続・のぼさんとベースボール


     明治23年夏、松山。当時中学生だったキヨシ少年が仲間とベースボールに興じていると、見るからに東京帰りの書生さんという一団がやってきたのであります。その中の一人がキヨシ君に、「おい、ちょっとお借しの」とバットとボールを借りると、軽くバッティングを始めたのであります。本場仕込みのバッティングが見られるとワクワクして眺めていたキヨシ君の目の前で、その人は鋭い打球を飛ばして見せたのでした。そのうちに、たまたまキヨシ君の前に転がってきたボールを投げ返すと、その人は軽く「失敬」といってボールを受取ったのです。キヨシ君はその声に何となく心ひかれたのでありますが、その人こそ、のぼさん・正岡子規でありまして、キヨシ君(後の高浜虚子)との始めての出会いはベースボールだったのでした。

     その前年、明治22年の夏にも、のぼさんは友人・竹村鍛に頼まれて、彼の弟・ヘイゴロウ君のために東京からバットとボールを持ち帰り、ベースボールを教えたのであります。このヘイゴロウ君が後に河東碧梧桐と名乗り、自由律俳句の道を切り開いていくのであります。子規が俳句を指導し、後の俳句界に大きな足跡を残した虚子と碧梧桐、両人とも俳句よりも先にベースボールの指導を受けたということは、いかにものぼさんらしいエピソードであります。余談ながら虚子・キヨシ君によるのぼさんの初印象は「他の東京仕込みの人々に比べ余り田舎者の尊敬に値せぬやうな風采」(『子規居士と余』)だそうで、これもまたのぼさんらしいと言えるでしょう。

     明治22年5月に喀血したあと、のぼさんは、自身が地獄へ行って閻魔大王の法廷で裁判を受けるという戯曲風の夢物語『喀血始末』を著しますが、その中で青鬼検事、赤鬼検事の取調べに、「ベース・ボールという遊戯だけは通例の人間よりもすきで 餓鬼になってもやろうと思っています 地獄にも矢張り広い場所がありますか 伺いたくございます」と答えているほど、のぼさんのベースボール好きは病気になっても一向に衰えず、ますますのめり込んでいくのです。キヨシ君やヘイゴロウ君へのベースボール指導も、養生を兼ねて帰郷している時の出来事でありました。

     明治29年、のぼさんは新聞「日本」の随筆『松羅玉液』の中で本格的なベースボール論を掲載します。そこにはベースボールのルールばかりか、技術論から観戦術に至るまで詳しく解説されているのです。少しその例を抜粋してみましょう。

    「とにかくランナー多き時は、人は右に走り、左に走り球は前に飛び、後ろに飛び局面忽然変化して観者をして要を得ざらしむることあり。球戯を観る者は球を観るべし。」

    「(ピッチャーは)その正投の他、アウトカーヴ、インカーヴ、ドロップ等種々あり。けだし打者の眼を欺き悪球を打たしめんとするにあり。」

     この中でのぼさんは様々な訳語に挑戦しております。投者(ピッチャー)短遮(ショートストップ)本基(ホームベース)などから打者、走者、死球など、現在まで使われる訳語まで考え出しているのです。では、ベースボールの訳語はどうだったのでしょう?次回は「野球翻訳物語」です。最後にのぼさんの和歌を紹介しましょう。

    久方のアメリカ人(びと)のはじめにし
           ベースボールは見れど飽かぬかも

    九つの人九つの場を占めて
           ベースボールの始まらんとす

    >打ち揚(あ)ぐるボールは高く雲に入りて
              又も落ちくる人の手の中に

    今やかの三ツのベースに人満ちて
              そぞろに胸の打ち騒ぐかな



     第八回 野球翻訳物語


     サッカーの「蹴球」、バレーボールの「排球」、バスケットボールの「篭球」などがほとんど使われなくなっている中、今もごく一般的に使われる「野球」は、まさに名訳といえるでしょう。ではこの名訳は、いつ頃、どうやって生まれたのでしょうか。
     ベースボールをはじめて日本語に訳したのは明治4年10月発行の『和訳英辞林』であります。ここではベースボールは「玉遊ビ」と訳されております。これはいくらなんでも大まか過ぎではありますが、ベースボールが日本に伝わったとされる明治5年以前に出版された辞書ですからまだどのような遊びか知らない人がほとんどという状況でありまして、こういう訳になるのもやむを得ないといえましょう。

     明治16年にお雇い外国人教師のストレンジ氏が日本の学生達のために、ベースボールを初めとするスポーツをわかりやすく紹介した『アウト・ドア・ゲームズ』という小冊子を出版いたしました。英文で書かれたこの小冊子を日本語に翻訳したのが下村泰大氏でありまして、明治18年3月にそれは『西洋戸外遊戯法』という名前で出版されたのです。この本の中で使われたベースボールの訳語が「打球鬼ごっこ」でありました。ベースボールを知らない人にも何とかゲームのイメージを伝えたいという苦心の跡がみられる訳ではありますが、もしこの訳が定着していたならば、現在のアナウンサーは「打ちました!カブレラ、日本プロ打球鬼ごっこタイ記録の55号本塁打!」てな具合に実況していたことでありましょう。
     前回ご紹介いたしました正岡“のぼさん”子規が東京に出てきてベースボールに夢中になるのもちょうどこの頃でありまして、明治19年にはベースボールの訳語として、ボールを弄(もてあそ)ぶ、「弄球(ろうきゅう)」という用語を考えております。しかしながら「弄球」と書いて「ベースボール」とふり仮名を当てるなど、いまいちお気に召さなかったご様子で、明治29年に至っても「ベースボールは未だかつて訳語あらず」という文章を新聞「日本」に書いているのであります。

     ベースボールというゲームが徐々に人々に知られてきますと、従来のようにあまり説明的な訳語は必要なくなってきますので、文字のまま直訳しようという考え方が試みられました。「ボール」は早くから「球」と訳されておりますので、「ベース」をどう訳すか、これを「底」と訳して「底球」、あるいは「基」と訳して「基球」などという訳語が登場してくるのであります。「底球」などというとテニス(庭球)と混同しそうでありますが、実際に京都の三高が初期に「底球部」と称しておりましたし、「基」もホームベースを「本基」と訳したりしておりましたので決して奇抜な発想ではなかったのであります。

     しかしながら若き明治のベースボールプレーヤーたちはあまりこのような訳語に興味を示さず、もっぱら「ベースボール」あるいは単に「ベース」と呼んでいたようであります。この「ベース」という略語、実は現代まで生きておるのでありまして、皆さんの中にも少年時代、人数が少ない時に二塁のない野球をした覚えのある方もおいでるでしょうが、あのゲーム、本塁や一塁は本式の野球と同じ形をしているのになぜ「三角ベース」と呼ぶのでしょうか。つまり「三角ベース」の「ベース」は塁という意味ではなくて「ベースボール」の略語、すなわち野球という意味なのであります。

     「野球」という用語は、のぼさん・正岡子規がベースボールの訳語に苦心しながら第一高等中学校の予科を卒業した年に、入れ替わり入学してきた青年がのちに考え出したものであります。青年の名は中馬庚、そしてこの「野球翻訳物語」は次回に続きます。



     第九回 野球の名付け親


     中馬庚、一般的には“ちゅうま・かのえ”と呼ばれていますが、中馬の出身地、鹿児島の研究家、城井睦夫氏の著作「“野球”の名付け親・中馬庚伝」によりますと、“ちゅううまん・かなえ”と呼ぶのが正しいようであります。のぼさん・正岡子規は明治21年に神田一ツ橋の第一高等中学校予科を卒業し、9月本郷の本科に進学しますが、まさにそれとすれ違うようにちゅうまんどんは鹿児島から上京して同年同月、第一高等中学校予科に入学しました。そしてちゅうまんどんもまた、入学とともにベースボールに夢中になっていくのであります。

     ちゅうまんどんは現役選手として活躍する一方、たびたび校友会雑誌にベースボールについての文を載せるという筆の立つかたでしたので、明治26年に第一高等中学校を卒業する際に「ベースボール部史」執筆を依頼されたのであります。快く引き受けたちゅうまんどんは明治27年1月起草、同年10月に脱稿したのでありますが、もっとも頭を痛めたのはベースボールを何と訳するかという問題でありました。
    この難問に日々頭を痛めていたちゅうまんどん、執筆も完成に近付いた27年秋のある晩突然ひらめき、興奮に息を弾ませながら後輩の元に駆け込んできてこう言ったそうであります。「青井、よい訳を見つけたぞ。Ball in the field―野球はどうだ」名訳誕生の瞬間であります。この間に第一高等中学校は学制改革で第一高等学校となり、『一高野球部史』は明治28年2月に発行されたのでありました。

     ところで、のぼさんが幼名の升(のぼる)をもじって「野球(の・ボール)」という雅号を使っていて、ちゅうまんどんはそれを参考にしたのではないか、という説があるのですが、ただものではないのぼさんは他にも「能球(の・ボール)」、「野暮流(のぼる)」、さらに「竹ノ里人」、「走兎」、「風廉」、「漱石(後に友人、夏目金之助が使う)」、「丈鬼(本名の常規をもじって)」、「情鬼凡夫(さらに当時の最新機械、蒸気ポンプをもじって)」、などなど、実に百を越える雅号を使っているのであります。

     いかに高名な先輩といえどもちゅうまんどんがのぼさんの雅号のすべてを知っていたとは思えず、したがって「野球」という雅号を知っていたともちょっと考えにくいわけであります。しかも、のぼさんがすでにベースボールに「弄球」という漢字を当てている事にも触れていないわけでありますから、のぼさんとちゅうまんどんの間にはさほどの交流がなかったのであろうと考えるのが自然ではないかと思うのであります。

     事実、のぼさんは明治29年に新聞「日本」で連載した随筆『松羅玉液』の中で「ベースボールいまだかつて訳語あらず」と述べており、ちゅうまんどんがベースボールを野球と名付けたことを知らなかったことが明らかなわけであります。とはいえ、これが日本で初めて一般向けに書かれたベースボールのルール、技術論、観戦術の解説であり、のぼさんの野球に対する大きな貢献の一つであるといえましょう。ちなみにちゅうまんどんの一般向けの野球専門書、その名も『野球』が出版されたのは翌30年の5月のことでありました。こうして「野球」は「ベースボール」の訳語として登場したわけですが、一般的な認知を受けるのはもう少し時間がかかったのでありました。

     次回の「にっぽん野球昔ばなし」は、のぼさんを生んだ四国・松山からやってきた快男児をご紹介します。「風雲児登場!」さて、誰でしょう?



     第十回 風雲児登場!


     世界漫遊中の青年旅行家がイタリアからの帰国途中のインド洋上で海賊船に船を沈められ、小船で漂流しフカと格闘しながらやっとの思いで絶海の孤島にたどり着くと、息つくヒマもなく獰猛なゴリラに襲われ、あわや危機一髪というところを助けに入ったのが、兵器開発の天才的な才能を持ちながら謎の失踪をとげた海軍の桜木大佐とその部下達でありました。彼らが人目を忍んで開発していたものこそ帝国海軍の秘密兵器、船首に巨大なドリルを装備し、新型魚雷で武装した海底軍艦「電光艇」だったのです。自動冒険鉄車での猛獣たちとの戦いあり、軽気球での大脱出あり、やがて完成した海底軍艦によってインド洋の海賊船団と一大決戦を行い、これを粉砕したのであります。

     …え?今回は何の話かって?これこそが明治33(1900)年に刊行された本邦初の冒険小説『海底軍艦』でありまして、この小説の作者、押川春浪が今回ご紹介する人物なのであります。余談ながらこの『海底軍艦』、艦名を「轟天号」、戦う相手をムウ帝国とするなど、設定を変更して63年後の昭和38(1963)年に映画化されたので、一部特撮ファンのかたには結構有名な作品なのであります。

     さて、本題に入りましょう。ちゅうまんどんの『野球』が刊行されたのが明治30年、この『海底軍艦』はその3年後の刊行でありますが、作中に「野球競技(ベースボールマッチ)」と題された1章があり、主人公に「遊撃手の位置に立たせたら本国横浜のアマチュア倶楽部の先生方には負けぬつもり」と言わせたり、「熱球(ダイレクト=速球)」と「9種の魔球(カーブ)」をあやつる海軍の投手が登場したり、その投手に、実際に一高チームを破った米国海軍オリンピア号のチームと対戦させたいという記載があったりと、春浪先生、並々ならぬ野球狂ぶりを見せているのであります。

     もっとも、この時代に野球人気がどれほどであったかということを考えますに、春浪先生も文中で「(桜木大佐は)日本人には珍しい迄かかる遊戯(スポーツ)を好んで…」と書いておられますので、まだまだ一般的な人気とまでは至っていなかったようでありまして、それだけに春浪先生の野球への熱の入れようは尋常ではないわけであります。

     押川春浪、本名方存(まさあり)、明治9年、愛媛県松山市で生まれる。父・押川方義は日本キリスト教界の元老にして仙台・東北学院の創立者、弟・押川清はのちに日本初のプロ野球チーム・日本運動協会設立の中心メンバーとなる。父の伝道活動に伴い4歳で新潟、5歳で仙台に移る。明治23年、14歳で上京し明治学院に入学。さらに東北学院、札幌農学校、東京・水産講習所を経て明治28年、東京専門学校(現・早稲田大)入学。在学中に発表した『海底軍艦』が大ベストセラーになる。

     春浪先生は小柄で腕力は実に弱かったと友人が回想しているのでありますが、スポーツを愛し、酒に強く、行動力があり、反骨精神と義侠心に富んだ憂国の士でもありました。しかしながら少年時代は行く先々で問題を起こし、なかなか一つのところに収まらなかったのでありました。

     次回はこの春浪先生と、野球とのかかわりを見ていくことにいたしましょう。


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