にっぽん野球昔ばなし by 九時星

    第四十一回 三高、東上す

    第四十二回 熱狂早慶戦、その1

    第四十三回 熱狂早慶戦、その2

    第四十四回 熱狂早慶戦、その3

    第四十五回 豪傑、鬼菊地



     第四十一回 三高、東上す


     帝都の野球愛好家のみならず地元住民まで巻き込んで大盛況のうちに行われた早慶戦を傍目で見ながら両校への雪辱を誓い、練習に明け暮れていた一高野球部員たちでありますが、明けて明治39年2月、突如として一通の挑戦状を受け取ったのであります。それは関西の覇者を自認する三高からのものでありました。

     京都においてはハイカラ私学の雄・同志社が覇権を握り、三高は長らくその壁を破れずに切歯扼腕していたのでありますが、松山中学より入学した剛球投手・菊地秀治郎の活躍により宿敵同志社を打ち破り、多くの学生チームを連破し、ついには別格とされていた神戸クリケット倶楽部にも勝利し、関西最強の名を手に入れたのであります。
     古今東西を問わず、強くなればさらに強い相手と戦ってみたいのが世の常でありまして、当然にも必然にも無敵三高は好敵手を求めて遠征することになったのでありました。遠征となれば西に向かえば岡山の六高、山口の高商でありますがもはや関西覇者には物足りぬ、戦うとなれば最強の相手、というわけで一高に挑戦状を送り、事のついでに帝都4強と目される早稲田、慶応、学習院にも挑戦状を送ったのでありました。早稲田、慶応は応諾、学習院は断り、さて、一高はどうする。

     このころの一高の最優先課題は何を置いても早慶両校への雪辱でありまして、一高OB連には「戦っても利のない三高の挑戦は断るべし。」との意見が大勢を占めたのでありますが、難攻不落の要塞になぞらえて“老鉄山”の異名を取る名主将・中野武二が懸命に説得し、この遠来の敵を迎え撃つことになったのでありました。一高野球部史『向陵誌』に曰く、「彼は夙に関西の球界を従へ、覇業をなし、平安城下の重鎮を以て自ら任ず、而して今や懸軍百里、雄争して天下を得んとす。又我好敵手なる哉。汗決し、四月六日、校庭に於て相見ゆ…」

     明治39年4月5日、東上した三高が最初に対戦したのは早稲田でありました。豪腕菊地の剛速球も何しろ相手はアメリカ仕込みの最新野球術、バントやスクイズを多用すると三高守備陣は脆くも混乱に陥り0−8で敗北したのでありました。そして翌日はいよいよ一高戦、当時の様子を三高三塁手木下道夫氏が回顧録に残しておりますので、大和球士氏の著書「真説・日本野球史」から引用いたしましょう。

     「…当の敵たる一高と雌雄を決すべく、弥生が丘の陣頭に姿を見せた。野蛮さからいうと、万事一高の方がうわ手のようにみえる。
     三塁に立って眺めると、本塁一塁間の前列は先輩席、その後から本塁三塁間にかけては一高応援団…団という名称は良すぎる…弥次群と名づける方がふさわしいかも知れぬ。ネットの裏には、石油カンに石コロを入れた無数の雑音と、白旗が乱舞していた。
     三塁近くには、柔剣道部の猛者が、六尺余りの青竹を、めいめい持って、たむろしている。ゴロが来ると、この竹で地面を叩き砂煙をあげて初舞台のこの僕をへこませよう算段、三高の応援といえば、春の休暇に東京に帰省した十数人。それに一塁後方に早稲田の数十人が、弥次将軍として有名な吉岡将軍の音頭で三高のために声援をおくっていただけ…」

     昭和24年に旧制高校が廃止される前年まで続いた伝統の一高三高対抗戦の記念すべき第一回対戦は青竹の威力か石油カンの御利益か、一高5−4三高の結果となったのでありました。三高は8日の慶応戦にも0−4で敗れ、むなしく帰京する羽目になったのでありますが、もちろん捲土重来を期して最新野球術習得の猛練習に励むのであります。

     さて、明治39年も夏が過ぎ秋も終わりに近づくといよいよ早慶戦の季節が再びやってきます。次回にっぽん野球昔ばなしは「熱狂早慶戦、その1」です。



     第四十二回 熱狂早慶戦、その1


     明治38年に行われた早慶3回戦は、第1回戦に慶応が5−0で快勝すると、第2回戦で早稲田が1−0で雪辱、雌雄を決する第3回戦は延長戦にもつれ込み11回で3−2早稲田勝利と大熱戦を繰り広げ、両校の人気を不動のものにしたのであります。その後両校ともに一高を破り三高を下し、早稲田が学習院との3回戦に2勝1敗すれば慶応は横浜外人倶楽部に勝利し、共にその技量に磨きをかけていたのでありました。
     そして迎えた明治39年10月28日、早稲田の連覇なるか、慶応の雪辱なるか、帝都の注目を一身に受け早稲田戸塚球場は4万とも5万とも報じられる観客を飲み込み、いやまあ、それはさすがに大げさすぎて実数はその1/10程度でありましょうが、ともかく当時としては空前の大観衆がこの大イベントをいまや遅しと待ち構えていたのであります。

     早稲田の投手は前年と変わらず“アイアン・コーノ”こと河野安通志、中堅には主将の押川清、二塁を守るは先代主将の橋戸信、慶応の容貌魁偉巨漢豪腕櫻井彌一郎主将は肩を痛め2塁に退き、マウンドに上るは青木泰一、応援席に目を転じるとさすが本拠地、三塁から外野にかけて海老茶にWUの字を抜いた旗で埋め尽くす早稲田応援団、その中心には『将軍』の異名をとる名物応援団長吉岡信敬、さらに主将の実兄春浪センセイが「清、しっかりやれ」の大声援、方や一塁の片隅に追いやられた慶応応援団の旗には紫に白くKの文字、両軍かねて準備の応援歌を大合唱、この試合を仕切る球審は一高主将にして“老鉄山”の異名を取る名選手・中野武二、役者は揃い、いよいよ試合開始であります。

     さすがにこの日に備えて鍛錬を重ねた両軍、試合は予想にたがわぬ大接戦。3回早稲田2死2塁に河野、慶応捕手の投手への返球の緩慢を見て取り本邦初のディレードスチールを敢行、どよめく観衆、投手青木動揺して悪送球となる間に本塁を陥れ1点先制。対する慶応も4回2死から四球に盗塁を絡め安打とエラーで2点を取って逆転、その後両軍塁をにぎわせバントを用い本塁をうかがうも共に堅守に阻まれ得点を挙げるに至らず、ついに2対1をもって敵地早稲田戸塚グラウンドで見事慶応の先勝となったのでありました。

     さあ、慶応応援団の喜ぶまいことか、「櫻井」といっては涙を浮かべ「青木」と叫んでは狂喜する。その有様を横目で見ながらひっそりと引き上げる早稲田軍。慶応応援団は喜び勇んで凱旋の途につくべく戸塚球場を出たところでばったり出会ったのが同じ慶応の庭球部の選手たち、実は彼らは東京高商(現在の一橋大学)との試合に勝利したばかり、野球のほうはどうなったか、とやってきたところでありました。「野球も勝った」「テニスも勝った」「慶応万歳」となるのは必然でありましたが、出会った場所が悪かった。「慶応万歳」を高唱した彼らの目前に建つのは大隈重信候の邸宅だったのであります。

     この報を聞いて憤慨する早稲田応援団、よし、次にわが校が勝利した暁にはきっと福沢邸前で、と堅く心に決めるのでありました。なにやら不穏な空気が流れ始めた早慶戦、第2回戦は中4日おいた11月3日、慶応三田綱町球場。名物応援団長吉岡将軍にあやしげな秘策あり、早稲田雪辱なるか、次回にっぽん野球昔ばなしは「熱狂早慶戦、その2」です。



     第四十三回 熱狂早慶戦、その2


     朝まだ空けぬ静寂の、芝園橋に集いしは、千をも越える大軍団、駿馬にまたがり指揮するは、その名も高き野次将軍、吉岡信敬ここにあり、目指すは三田の決戦場、朝霧を突き行軍し、不意を襲いて占拠せん。
     てなわけで、慶応先勝で迎えた第2回戦、吉岡将軍が考え出した秘策が慶応三田綱町グラウンドの応援席を早稲田勢で占拠することでありました。事前の打ち合わせで慶応が用意した250人分の応援席に対し、少し人数が増えるからと了解を取っていたのではありますが、早稲田選手の出身校である郁文館中学や青山学院、早稲田中学や早稲田実業まで動員し、その数は実に1200人にも達したそうであります。
     秘策は見事成功し、応援席は早稲田のエンジ色に染まってしまったのでありまして、慶応応援団が紫の三角旗を持って現れたころにはわずかばかりの応援席しかあいていない状態となってしまっていたのであります。慶応側としては当然吉岡将軍に猛抗議をしたのでありますがもはやこの大軍団を動かすすべもなく、殺気をはらみつつ決戦のときを待つばかりでありました。

     さて第2回戦、投手は前回と同じく早稲田河野、慶応青木、早稲田の先攻で試合は始まったのであります。1回の表裏両軍三者凡退、2回の表早軍三者凡退、その裏慶軍無死で走者を出し犠打で2塁に送り、さらに死球を得て1死1,2塁、ここでまたも犠打を試みるも3塁封殺、続く打者が一飛に倒れ無得点、3回表早軍またもや三者凡退、その裏慶軍先頭打者吉川が「果然一撃すれば熱球地上を走って、左翼に至り、小川身を斜めにして及ばんとせしも能はず。吉川奔躍して一挙三塁に至る」(日本野球史・国民新聞運動部編)快打で無死3塁の大好機を得たのであります。しかしながら次打者の大右翼飛球、その次の左翼飛球にも本塁突入かなわず、むなしく塁上にとどまったのでありました。
     古今東西を問わずこういう流れは概ね劣勢の側に利するものでありまして、快投青木の前に無安打無走者に抑えられていた早軍でありましたが4回表、先頭河野が敵失をついて一挙2塁に進塁、続く巧者橋戸のバントは自らも生きて無死一三塁、獅子内さらにバントで牽制し一塁に歩きついに無死満塁の好機を得たのであります。ここで主将の押川がまたもや絶妙のバント、河野ついに本塁を陥れ早稲田の先制となったのでありました。
     その後両軍時折塁を賑わすも河野、青木両投手の力投冴え渡り得点を許さず、迎えた8回表二死二三塁、主将押川の打撃一閃するや球は外野に落下し一挙二走者が生還、3対0となってはもはや勝負あり、河野の13奪三振の力投の前に慶応は一敗地にまみれたのでありました。

     噂に違わぬ熱戦に観客は大喜び、そしてまたベースボールの魅力に取り付かれた人物が一人、

    「午後から三田にゆく 慶応と早稲田と ベースボールの競技を見に 中ゝ盛大で秩序アルには驚いた 見るもので芝居と言はず角力と言はず是程面白いものは又と世界にあるまい、慶応の0、早稲田三点で三田が負けたのが残念だ…」

     そう日記に記したのは若き日の小林一三でありまして、のちに阪急グループを創立し、その総帥として野球界の発展にも大きく貢献するのであります。

     小林青年のような一般観客には「秩序アル」とは見えても渦中の応援団たちにとってはまさしく死活問題でありまして、1回戦の雪辱を晴らした早稲田応援団の喜びは大層なものでありました。まずは福沢諭吉邸前に押し寄せて「早稲田万歳」の大合唱、先の大隈重信候邸前の慶応万歳の敵を討つとそのまま三田界隈を「ワセダ勝った、ケイオウ負けた」と叫びながら踊りながら示威活動を繰り返したのでありました。

     これで両軍一勝一敗、もはやただでは済みそうもないほど加熱した両軍応援団、はたして第3回戦は如何に相成るか、次回にっぽん野球昔ばなしは「熱狂早慶戦・その3」です。



     第四十四回 熱狂早慶戦、その3


     慶応先勝、早稲田追撃、ともに一勝一敗となれば否が応にも盛り上がる第三戦、両軍応援団がさらに熱狂していくのは避けられないことでありまして、それに加えて両校地元の対抗意識も過熱していったのであります。それを危惧した三田署が慶応の学監局に注意を与えれば、新宿署も早稲田の安部教授を呼び寄せ事情を聞くという事態となり、両校教授連は応援を制限、あるいは中止することは出来ないか、といろいろ思案をしていたのでありますがなかなか有効な手立ては見つからないのでありました。

     そんな思惑も学生たちは一向にお構いなしで学業を休んでまで応援の練習に明け暮れ、応援席の配分について激しくやりあっていたのでありました。戸塚、三田の市井のファンも巻き込んで、早稲田の合宿所に頻繁に脅迫状が届けば慶応にも同じように脅迫状が届くといった有様で、三田の大親分までが「なあに、応援をさせていただけりゃ三四百人も集めて、刀やピストルも用意しますから」と言い出し、あわてて丁重にお断りするなどという騒ぎでありました。
     さらに試合が近づくにつれて慶応には「早稲田応援団は指揮者を馬六頭に乗せ、ヘルメットをかぶり、刀を持って応援指揮をするらしい」「早稲田では兵隊にまで応援依頼をしたらしい」「早稲田では応援席が十分に手に入らないときは早稲田中学、実業、その他の学校まで動員して力ずくでも手に入れるつもりらしい」などなど、真偽不明の噂が飛び交っていたのであります。
     かわいそうなのは騒ぎに巻き込まれた審判の学習院・三島彌彦でありまして、学習院にも脅迫状が届いたのみならず、電話口に呼び出されては『ヘマな審判をすれば命はないぞ』などと脅迫される事態になりまして、怒った学習院長・乃木季典が「そんなところへ大切な学生を出すわけにはいかない。どこか他で審判を探してくれ」と言い出し、たちまち審判不在の事態に陥ったのであります。
     事ここに至り慶応はもう一刻の猶予もないとばかり名古屋に講演に出ていた鎌田塾長を急遽呼び戻し善後策を打ち合わせるのでありました。

     決戦前夜、いつものように練習を終え、近くの食堂に夕食を食べにいった帰りに慶応選手たちが見たものは、三々五々集まってあるいは三田山上を目指し、あるいは品川に面した寄宿舎横にたむろし、赤々と篝火を焚いて夜明けの応援席争奪戦のための野宿の準備をしている数百、いや数千人の学生たちの姿であります。そのころすでに早稲田応援団の先発部隊も芝園橋付近に集結し、野宿をして夜明けの決戦に備えていたのでありました。
     緊迫の光景を目の当たりにした慶応選手たちが合宿所に帰ると塾長からの呼び出しがあり、そこで意外な決定を告げられたのであります。

     『今度の試合はなかなか大変である。そして両方の応援団の熱狂はその極に達し常軌を逸している。学生ばかりではない。市井のファンもこれに雷同している。これがためもしも不祥事が起こると諸君ばかりでなく私共、学生を預かるものはその保護者に対して申し訳ない。で今日私は出先で電報を受け取って急遽帰京すると新橋駅から直ちに早稲田に赴き、大隈伯、高田博士、安部部長と面会してこの試合を延期することにして来た。諸君は一年の年月を唯この一戦に集中して練習して来られたのであるから、さぞかし残念であろうが中止して頂きたい』

     同じ頃、早稲田では安部教授から選手たちに同様の説明がおこなわれておりました。早慶ともに選手たちは何とかならないものかと食い下がったのではありますが、もはやすべはなく、やがて応援団にも中止が伝えられたのでありました。

     『同校(早稲田)の安部部長は之を不穏なりとし、慶応方へ当日は双方とも一切応援団を出さヾるやうにと申し込みたるに、慶応方にては応援隊として双方二百五十名を限り出すことにしては如何との返答あり。されど早稲田学生連はさる制限は無用なりと主張し、既に爆裂団、霹靂団、猛烈団など云へる三個の応援隊を組織して用意をさをさ怠りなき模様なりければ、ベース審判の三島氏は斯る不穏の審判は御免を蒙りたしと之を辞したり。此に於て止むを得ず双方協議の上遂に無期延期と決したる次第なり』(東京朝日新聞、明治39.11.14)

     早慶戦の復活にはさらに長い年月を必要とするのですが、明けて明治40年の春には古豪一高と三高の第2回定期戦が行われました。次回にっぽん野球昔ばなしは「豪傑・鬼菊地」です。



     第四十五回 豪傑、鬼菊地


     早慶の後塵を拝しているとはいえいまだ帝都の強豪の一角を占めるバンカラの本家一高、その一高を前年あと一歩まで追い詰めた西のバンカラ家元三高、定期戦第2回戦は明治40年4月8日に行われたのでありました。
     三高にとって忘れられないのは西の雄として意気揚々と望んだ前年の東征、一高にこそ4−5と善戦したものの最新野球術を駆使する早慶両校に惨敗したことでありまして、雪辱云々よりも目の当たりにした最新野球術を我が物にせねば時代についていけぬとばかり猛練習に明け暮れ、バントやスクイズを習得、足袋、脚絆も靴と靴下に履き替えて意気揚々と一高グラウンドに登場したのであります。

     対する一高応援団は白幟たなびく元に金ダライ、石油カン、竹ざおを持って集結し、三高選手にあらん限りの圧力をかけようと待ち構えているのでありました。
     さてさて最新野球術を身につけた三高、いかに対処するか、といえばさすがに西のバンカラ家元、とてつもない投手を繰り出してきたのであります。ユニフォームにヘコ帯、足は裸足に滑り止めの荒縄巻き、豪腕を持って鳴るこの投手こそ菊地秀次郎、その顔面半分を覆う赤痣とあいまって、ついた呼び名が鬼菊地。前年の東征でもエースを務め、最新野球術の前に敗れたものの今回はすでに習得済み、不敵な笑みをこぼしながら試合開始を待つのでありました。

     試合開始。マウンドに立つは鬼菊地、豪腕を持って打者を打ち取り、たまのピンチには自軍ベンチに向かって大声で「おおい、こいつは何番だ」「9番です」「なんだ9番か」と答えるとニタリと笑ってやおらヘコ帯から紙片を取り出し「ふむふむ」といってはまた打者を見てニヤリ、見られた打者はたまったものではありませんで何か弱点でも書かれているのかとドキドキしておりますが一高選手のほとんどは前年と入れ替わっており鬼菊池といえど如何なる選手か知りようもないのでありますが、そこは彼一流のハッタリ、ニヤリと笑えばもはや蛇ににらまれた蛙のようなものでありました。
     バンカラ本家をもって任じる一高応援団がこのような振る舞いを許すはずもなく、金ダライ、石油カンの大音響、竹ざおを打ち付けての砂埃、野次雑音をもって攻め立てるのでありますが、鬼菊地少しも騒がずマウンド上にどっかとあぐらをかくと平然と一高応援団を睨みつけ、騒ぎが収まるまで動かぬ構え、これにはさすがの一高応援団もなすすべもなく試合はすっかり鬼菊地率いる三高のペースで進み、ついに9−4で三高の勝利となったのでありました。

     一高三高定期戦の特徴は年一回戦制であること、勝ったチームのグラウンドで翌年の試合を行うことでありまして、翌年の定期戦は一高が京都に遠征し、三高グラウンドで戦うことになったのでありました。この第3回定期戦において三高応援団は白幟を押し立てて遠征してくる一高に対抗すべく源平の昔に習い赤幟をそろえて迎え撃ち、金ダライ、石油カンの準備もおさおさ抜かりなく、これより一高三高名物バンカラ応援合戦が始まるのでありました。

     さて明治40年といえば早稲田にとっては記念すべき創立25周年、慶応義塾にとっても記念すべき創立50周年でありまして、この記念すべき俊の前年に早慶戦が中止のやむなきに追い込まれたのは至極残念なことではありますが、この年、慶応はあるチームを呼び寄せます。次回にっぽん野球昔ばなしは「米国チーム来日す」です。


     第四十六回〜はこちら


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