Team Chronicles 〜日本のプロ野球チームの歴史〜 東北楽天ゴールデンイーグルス編 by アトムフライヤー

    第11回 バファローズ編その8

    第12回 バファローズ編その9

    第13回 バファローズ編その10

    第14回 バファローズ編その11

    第15回 バファローズ編その12



     第11回 バファローズ編その8


     “江夏の21球”で日本シリーズに敗れはしたものの、1979年のシーズン、パ・リーグを見事に制した近鉄バファローズ。
     翌年もパ・リーグを制し、2年連続の優勝を果たします。
     そしてこの年も広島カープをあと一歩のところまで追い詰め、結局敗れはしたものの、この2年連続パ・リーグ優勝で、バファローズはダメチームではなく、何かやらかしてくれるチーム、というイメージが定着しました。
     しかし翌年、最下位に終わって西本監督が退団すると、それ以後は優勝争いにそれほどからむことなく、“いい選手はいるけどそこそこいいチーム”として1987年までが過ぎていきます。
     この時期は、本シリーズの第1回にも登場した根本陸雄が、事実上のGMとして辣腕を振るった西武ライオンズが広岡監督、森監督のもとでパ・リーグを7シーズンのうち6シーズン制しており、“西武ライオンズ王朝“が君臨していた時代だったのです。
     1982年には*48大石大二郎が1番に定着、47盗塁を記録して新人王を獲得、翌年には60盗塁を記録して世界の盗塁王・福本豊(当時阪急ブレーブス)の盗塁王タイトルの連続獲得記録を13年で止め、以後、守備の名手・パンチ力のある俊足巧打の2塁手としてバファローズに君臨、俳優顔負けのルックスもあってすっかり人気者となり、1986年にまた南海ホークスから移籍した*49新井宏昌が2番に定着。巧打をみせますが、チームとしてはなかなか上手く結果が出なかったのです。
     長年チームを支えてきたバファローズ史上最高の左ピッチャー、大エースの鈴木啓示も1985年限りで引退。世代交代の波がチームを襲いつつありました。

    *48 大石大二郎
     亜細亜大学から1981年、近鉄バファローズに入団。入団時は、同期の石毛宏典(西武ライオンズ)、原辰徳(読売ジャイアンツ)、竹本由起夫(ヤクルトスワローズ)、中尾孝義(中日ドラゴンズ)の影に隠れて騒がれなかったが、2年目の1982年に2塁手でレギュラーとなり、47盗塁で最優秀新人に選ばれた。翌1983年に60盗塁を記録。パ・リーグの盗塁王として君臨していた福本豊(当時阪急ブレーブス)の盗塁王獲得を13年目で止めた。その後も主力として活躍し、1989年の優勝に大きく貢献した。通算1824安打はバファローズ史上2位、415盗塁は同史上1位、俊足でありながら148本塁打と長打力も備えており、また守備の名人でもあった。654打点、盗塁王4回、ベストナイン3回、オールスター出場9回、3拍子そろった名選手で、バファローズだけではなく、パ・リーグを代表する選手のひとりだった。
     1997年引退。2005年からオリックス・バファローズの2軍、サーパスのコーチ、2007年からオリックス・バファローズのヘッドコーチをつとめ、2008年には監督に就任、低迷していたチームをパ・リーグ2位にまで躍進させた。

    *49 新井宏昌
     法政大学から1975年に南海ホークスに入団。1年目から一軍に定着し、主力として活躍した。1986年に近鉄バファローズに移籍。1987年には首位打者を獲得している。打席では自然体で構え、1番を打つ大石と組んで2番打者を主につとめながら3割を6度記録。通算2038安打。88本塁打とやや長打力に欠けたがバファローズだけではなく、パ・リーグを代表する選手のひとりだった。ベストナイン4回、オールスター出場4回。1992年引退。その後、オリックス・バファローズ、福岡ダイエーホークスのコーチをつとめた。

     ただ、この時代のバファローズは、“猛者のチーム”という印象を強烈に残しました。
     1980年代は、フジテレビの“プロ野球ニュース”にて“珍プレイ好プレイ”のコーナーがブレイク。みのもんたによる絶妙のナレーションが人気を博し、シーズンオフには特集番組が組まれ、フジテレビの看板番組になるほどのブームになります。
     そして、その“珍プレイ”の常連になったある外国人選手がいました。それが、リチャード・デイビスです。

     デイビスはもともと、ミルウォーキー・ブリュワーズのメジャーとマイナーを行ったり来たりするエレベーター選手でした。
     1979年のシーズンにはメジャーでキャリアハイの12本塁打を放っていますが、何しろ外野手としては守備が下手だったので、DHとしてしか使えなかったのです。
     そして、フィラデルフィア・フィリーズにトレードされましたが、ナショナル・リーグで指名打者制度のないフィリーズでは出場機会がなく、日本にやってきたのでした。

     デイビスが日本にやってきた1984年、バファローズは当初、大物外国人選手を獲得、4番に据えていました。ドン・マネーです。
     フィラデルフィア・フィリーズではショートストップとしてデビュー、3塁にコンバートされると鉄壁の守備を誇りましたが、バッティングはそこそこで、フィリーズは3塁のポジションを当時若手有望株だった*50マイク・シュミットにあけるべく、マネーをミルウォーキー・ブリュワーズにトレード、以後11年間ミルウォーキー・ブリュワーズ一筋で活躍し、その後、日本で最後の一花を咲かすべく、家族を伴っての、気合の来日だったのです。
     ところが、バファローズ側が用意した宿舎が、前年、独身のテリー・リーがいたアパートで、しかもその部屋は、リーの噛みタバコや飼っていたハムスターのフンで汚れ放題。狭い上に汚れていたことで夫人がノイローゼとなり、その上、藤井寺球場の設備がメジャーリーグの球場と比べると荒れ放題でひどかったことから、マネーは途中まで活躍していたにもかかわらず、すっかりやる気をなくして、シーズン途中の5月7日に、突然帰国してしまったのでした。
     その代わりとしてバファローズが獲得したのが、デイビスだったのです。

    *50 マイク・シュミット
     メジャーリーグのフィラデルフィア・フィリーズ一筋で選手生活をすごした、名3塁手。1973年にメジャーデビュー、以降はトレードされたドン・マネーの後釜としてサードに入り、9年連続を含む10度のゴールデングラヴ賞を獲得。打者としても長打力を誇り、三振こそ多かったものの、6回の本塁打王を獲得、通算でも548ホーマーを放った。3度のナショナル・リーグMVPに輝き、1995年、メジャーリーグの野球殿堂入り。

     デイビスはシーズン途中からであったにもかかわらず、78試合に出場、打率.310を打ってホームラン18本をぶっ放し、4番に定着。陽気な性格ですぐ人気者となり、翌年には三冠王を獲得した落合博満の陰にこそ隠れましたが、打率.343、ホームラン40本、109打点を叩き出して、すっかりバファローズの顔になりました。
     ですが翌1986年、たまたま全国中継されていた対西武ライオンズ戦で、先発だった東尾修の内角攻めに怒り、東尾投手をポカポカ殴ったために10日間の出場停止となり、全国的にはすっかり“乱暴者”としてのイメージが定着。これについては、先述の珍プレイ好プレイでみのもんたがこの“東尾ポカリ事件”に抱腹絶倒のナレーションをつけ、デイビスはコミカルな無頼者として、マスコミで扱われるようになりました。
     その後も数字は残すものの、1988年には大麻を栽培していたかどで6月7日、日本の警察に逮捕され、即刻解雇。ですが、彼がバファローズの豪快なイメージをつくるのに貢献したのは間違いないのではないでしょうか。

     この時期のバファローズにはもうひとり、大物外国人選手がいました。
     それが元アメリカン・リーグ本塁打王、ベンジャミン・オグリビーです。ボストン・レッドソックスにてメジャーデビュー、デトロイト・タイガースに移籍してから才能が開花し、ミルウォーキー・ブリュワーズにトレードされてからは長打力を発揮して活躍、1980年には41ホーマーを放って本塁打王に輝き、1982年には34ホーマーを放ってミルウォーキー・ブリュワーズ史上初のワールドシリーズ進出に貢献します。
     日本ではバットをぐるぐる振り回す打法が人気を博し、お茶目な外国人選手として紹介されていましたが、上手さのある打撃術や野球に臨む真摯な姿勢は、他選手の模範となっていたのでした。

     その間、ピッチャーとしては大石とともにバファローズに入団した*51石本貴昭が1985年から1986年にかけて、抑えピッチャーとして大活躍。2年連続で最優秀救援投手のタイトルを獲得します。
     1985年には70試合に登板し、リリーフながら規程投球回に達して、最高勝率のタイトルも獲得。しかし1987年には登板過多がたたって球威がガタ落ち。以後、復活することはありませんでした。

     一方その1987年、彗星のように登場したのが*52阿波野秀幸です。
     亜細亜大学からドラフト1位で入団するとその年、いきなり15勝をマークして201三振を奪い、新人王に輝きます。
     以後3年間は絶対的なエースとしてバファローズに君臨。牽制球の使い方が巧みで、これを武器に2点台の防御率と安定した勝ち星・奪三振の数字を残します。

    *51 石本貴昭
     兵庫県滝川高校から1981年、近鉄バファローズに入団。1985年に1軍に定着し、主に救援投手として活躍した。同年にリリーフ専門ながら70試合に登板し、19勝をあげ最高勝率最優秀救援投手のタイトルを獲得。翌年8勝32セーブ40SPの日本記録を達成。最優秀救援投手を再び獲得した。酷使により1987年以降の成績は低迷し、1991年、中日ドラゴンズに移籍したが往年の球威は蘇らなかった。オールスター出場1回。1992年に引退。その後は近鉄打撃投手、スコアラーをつとめ、近鉄球団解散後はオリックス・バファローズの育成担当を務める。

    *52 阿波野秀幸
     亜細亜大学から1987年、近鉄バファローズに入団。1年目から15勝をマークし、西崎幸広(日本ハムファイターズ)と争って最優秀新人選手に選ばれた。入団前は巨人と大洋ホエールズを希望しており、クジで近鉄バファローズに決まったときは落胆したが、最優秀新人に選ばれた後は、「もうドラフトのことは何とも思っていない。」と語っている。以後安定した成績を残し、伝説の10.19のロッテとのダブルヘッダーに両試合共に登板した。1989年には19勝をマークしたが、先発と救援を両方こなし、時には連投してきた影響などで、1991年以降の成績は低迷した。1995年に巨人、1998年に横浜ベイスターズに移籍したが近鉄バファローズ時代のような活躍はできなかった。最多勝利1回、最多奪三振1回、ベストナイン1回、オールスター出場4回。200年に引退。その後は巨人、横浜ベイスターズのコーチをつとめた。

     しかし、この1980年代後半から1990年代前半にかけてバファローズで絶対的な存在感を誇ったのは、何といってもラルフ・ブライアントでしょう。
     次回は、この人と名将・三原脩の弟子たるダンディな男の話です。



     第12回 バファローズ編その9


    前回は1980年代前半から後半にかけてのバファローズについてご紹介しましたが、今回はラルフ・ブライアントのお話からです。

     ブライアントはもともと、ロサンゼルス・ドジャースにてメジャーとマイナーを行ったり来たりしていた選手でしたが、1987年以降ドジャーズと提携を結んでいた中日ドラゴンズに、1988年入団。
     ですが当時のドラゴンズには3番を打つゲーリー(・レーシッチ)と抑えのエースである郭源治という絶対的な存在がおり、2人しかない1軍の外国人枠を使えなかったドラゴンズとしては、ブライアントを2軍に置いておくほかありませんでした。ドラゴンズにとって、三振が多くて打撃の荒いブライアントは、この時点では確実性のあるゲーリーを押しのけて1軍に上がるほどの選手でなかったため、細かい配球のセ・リーグに対応させるため、2軍での調整を行わせていたのです。ドラゴンズとしては、ゲーリー後のクリーンナップとして、まだ若くて20代の彼を“育てて”いたのでした。
     ところが前回取り上げたデイビスが大麻所持事件によって突然逮捕。バファローズとしては、デイビスの代役を探さなくてはならなくなったのです。
     そんな中、当時2軍で調整していた佐々木修投手の、イースタン・リーグにおける対ドラゴンズ戦の登板にてどでかい一発を放ったブライアントに、バファローズのフロントは着目。西武ライオンズと優勝争いをしていた事情もあって、即金銭トレードをドラゴンズに申し込み、ブライアントのバファローズ移籍が決まります。

     移籍したブライアントは、いきなり長打力を見せつけます。
     74試合で34ホーマーを放ち、バファローズ躍進に大いに貢献。好不調の波はありましたが、1試合で複数本のホームランを放つ爆発力は、他球団の脅威となりました。

     また、この年からバファローズを率いたのが西鉄ライオンズの元名2塁手、仰木彬です。
     仰木は引退後、三原脩のバファローズ監督就任中の1970年、守備走塁コーチになりますが、以後バファローズのコーチとして残り続け、1984年にはヘッドコーチに昇格、この1988年からバファローズの監督になったのです。
     最初監督として知名度のなかった仰木は見事にチームを掌握、鉄壁の強さを誇った森祇晶率いる西武ライオンズを向こうに回して三原譲りの豪快な西鉄ライオンズ野武士野球を復活させ、優勝争いにからみます。
     シーズンを通じて終始2位につけ、9月の半ばの時点で6ゲーム差までライオンズに離されながら、そこから驚異的な巻き返しを見せ、ライオンズが全日程を終了した時点で、対ロッテオリオンズ残り3試合を残してマジック3が点灯。それから1試合勝ち、残りは2試合、ダブルヘッダーで行われることとなっていました。
     それがバファローズ史上最高の伝説とされている、例の10・19です。

     舞台は、2008年現在のいまとなってはなき川崎球場。普段は客が入らないこの球場に、この日は多くのバファローズファンが集まりました。
     パ・リーグ優勝がかかった試合なので、バファローズの優勝の瞬間を見よう、と詰め掛けたのです。
     第1試合は9回で打ち切ることが決まっていたため、9回の表まで同点だったこの試合で、この日の現役引退を決めていた梨田昌孝が起死回生のタイムリーヒットを放ち、なんとか4-3と勝ち越し。9回の裏にはリリーフエースの吉井理人からエースの阿波野秀幸へとつなぎ、2死満塁と追い詰められながらも、なんとか逃げ切りました。
     第2試合は3-3と来た8回の表にブライアントが1発を放って4-3とリードしますが、その裏にオリオンズは、この年首位打者のタイトルを争っていた高沢秀昭が、第1試合に続いて投入したエース阿波野から同点ソロホームラン。これで4-4となり、延長に入りますが、10回表を終わった時点で3時間57分、当時のパ・リーグは、4時間を越えたら同点試合でも試合打ち切りで引き分けだったため、この試合は引き分けに終わり、バファローズは勝率.002差で優勝を逸したのです。

     ですがこの試合における熱闘は、ギリギリのプレー、一進一退の攻防の熱さということもあって、多くの感動を呼びました。
     そのこともあってか、この時代は熱パと呼ばれ、パ・リーグは熱心なファンを獲得するのに成功しています。
     また、この試合を緊急に放送した朝日系列の地上波放送は、近畿地区でも46.7%、関東地区でも30.9%という高い数値を記録。2008年現在のように、BS放送やCS放送、あるいはインターネットというメディアが増えている状況と比べ、当時はテレビの地上波の持つ影響力が絶大でしたので、この10・19の持つインパクトは大きかったのです。

     そしてこの1988年、仰木彬は、名将としての評価を勝ち取り、一気にスターダムにのし上がりました。

     翌1989年は、阪急ブレーブスが身売りした結果生まれたオリックス・ブレーブスが、開幕から首位を独走しました。
     しかし途中からバファローズが、そして9月に入ってからはライオンズが猛チャージをかけ、途中では0.5ゲーム差の中に3チームがひしめくという大混戦に。そしてバファローズは首位ライオンズに2ゲーム差をつけられた時点で、残り対ライオンズ4試合のうちの2敗でもすれば優勝の可能性が消えてなくなるという状況の中、10月10日の対ライオンズ戦に勝ち、11日の試合が雨で流れた時点で、10月12日、西武球場での対ライオンズダブルヘッダーを迎えます。

     この2連戦はパ・リーグの優勝がかかっている上に、パ・リーグの中ではスマートな秋山・清原のAK砲に加え、渡邊久信、郭泰源、工藤公康といった全国区の人気ピッチャーを擁する西武ライオンズの本拠地ということもあり、フジテレビ系列にて、ゴールデンタイムに中継されることとなったのです。
     そしてこのダブルヘッダーで最高の輝きを放ったのは、ラルフ・ブライアントでした。バファローズは1敗でもしたら追い詰められるという状況の中、第1試合、ブライアントは4回表、0-4のビハインドからソロホームランを放ち、続く打席も打球をスタンドに放り込んで5-5に追いつく同点満塁ホームラン、続く打席も打球をライトスタンドに叩き込んで3打席連続ホームランで勝ち越し、第1試合はバファローズが6-5で快勝、完全に流れをバファローズに引き寄せました。
     続くダブルヘッダー第2試合は、第1打席こそフォアボールで敬遠されましたが、第2打席は打球を再びスタンドに叩き込み、奇跡の4連発を放ったのです。この試合ライオンズは14-4とバファローズの勢いに押され、息の根を止められる敗北を喫する一方、ブライアントはバファローズの伝説となったのです。
     なおこの年は、日本シリーズで巨人と対戦しましたが、第3戦の先発投手をつとめた加藤哲郎投手がヒーローインタビューで、優勝決定までの道のりがきつかったことを踏まえ、

    「今の巨人よりディアズ1人をマークしなければならないロッテの方が怖い」
    「こんなチームに負けたら、(ペナントレースで死闘を繰り広げた)西武やオリックスに申し訳ない」

     と発言したこともあったわけですが、当時の加藤投手のこの発言は、いかに当時のパ・リーグのペナントレースが充実していたかを物語るもので、巨人ファンの方々やセ・リーグに思い入れのある方々に対しては失礼かもしれませんが、この年パ・リーグにいた選手のみなさんの素直な気持ちだったのかもしれません。
     いずれにしてもこの年の日本球界は、パ・リーグ、そしてバファローズを中心に回っていたことは間違いないでしょう。バファローズ至福の年だったといえます。

     そしてこの年のドラフトで、日本のプロ野球を変え、日本球界の歴史に新たな金字塔を残した、日本球史上もっとも偉大なピッチャーのひとりが、バファローズに入団します。
     そのひとの話は、次回で。



     第13回 バファローズ編その10


     仰木バファローズのもとではさまざまな個性あふれる選手の才能が花開きましたが、このひとほどの特徴を持ったピッチャーはいなかったでしょう。
    それが野茂英雄。日米通算で200勝をマークし、2008年2月現在もカンサスシティ・ロイヤルズとマイナー契約とはいうものの、実質的には先発投手の一角を期待されている、日本球史でもっとも偉大なピッチャーのひとり。文字通りの“英雄”です。

     1989年のドラフトのことでした。
     この日は、当時の日本プロ野球史上もっとも多くの球団から指名を受けた野茂投手に、全国から注目が集まりました。
     野茂投手は日本のエースとしてソウルオリンピックで大活躍。ドスンとくるストレートと切れのあるフォークボールが武器で、一度打者に対して背中を向け、身体をひねって投げる投げ方は、トルネード投法と呼ばれていました。
     そして8球団それぞれの監督がくじを引く中、これを当てたのは仰木彬監督。満面の笑顔でくじの紙を高々と上げる仰木監督と、まだ初々しい若者であった野茂投手のテレビ前で結果を確認したときのはにかんだ笑顔が、その日のスポーツニュースの視聴者の脳裏に焼きついたのです。
     野茂は、“トルネード投法はいじらない”という契約の下、無事バファローズに入団しました。

     翌1990年。
     プロの壁はそれほど甘くなく、オープン戦で打たれまくった野茂は、コンディショニングコーチの立花龍司から自らのトルネード投法の問題点を指摘されると、コレを進化させるべく開幕前にきっちり調整、シーズンを通じて235イニングを投げ、18勝8敗、防御率2.91、287奪三振というとてつもない数字を残し、最多勝、防御率1位、奪三振王となり、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞します。
     そしてこの1990年から調子を崩してしまった阿波野秀幸に代わり、以後4年間、バファローズの絶対的なエースとして君臨。4年連続で最多勝と奪三振王のタイトルを手にします。
     しかしながらこの野茂の奮闘があったにもかかわらず、バファローズはAクラスの常連として奮闘はするものの、工藤・渡邊・郭・石井の4枚看板と鹿取・潮崎・杉山の鉄壁のリリーフ陣、そして秋山・清原・デストラーデの3枚の大砲を擁する西武ライオンズの絶対的な強さの前に屈し、パ・リーグを制覇することはできませんでした。

     また野茂にとって不幸だったのは、自分の理解者であった仰木彬が、1992シーズンで監督を辞してしまったことでした。
     その結果、1993年からは鈴木啓示が監督に就任。バファローズの大エースとして長年君臨してきた鈴木は、トルネード投法には大きな問題点があると考えており、野茂にこれを捨てさせようとしました。
     評論家時代から野茂をじっくりと観察してきた上で鈴木新監督が考えていたトルネード投法の大きな問題点は、

    ・身体に非常に負担がかかる
    ・コントロールが安定しない
    ・故障の原因となるから投手寿命が短くなる
    ・投球数が多くなり、野手の守備のリズムが悪くなる

    でした。そこで鈴木監督は野茂に、投手寿命を延ばすためにトルネード投法を止めるよう、指示したのです。
     またこれは、野茂のある種“唯我独尊的”ピッチングはおそらく、野手のリズムを崩してチームが勝てなくなる原因になるだろう、との鈴木新監督の野手に対する配慮でもありました。

     しかし、入団時にトルネード投法にあくまでこだわり、それを捨てたら自分の投手としてのアイデンティティは失われる、と危機感を持っていた野茂は、「これまでトルネード投法でやってきた、自分のことは自分で責任を持つ」と言って鈴木監督の指示を拒否しました。
     そこで鈴木監督は、トルネード投法を続けるなら仕方がないが、あの投法ではコントロールが安定しない、続けるならもっと下半身を強化する必要がある、現在のトレーニングは現状維持なら問題ないが、下半身の鍛え方が足りない、年齢を重ねたときに鍛え方が足りないと必ず下半身の衰えが投球に影響が出る、だから、もっと走り込み・投げ込みの量を増やし、特に下半身を鍛えてコントロールを安定させる必要がある、と再指示を出しますが、これに対し野茂は、「下半身の強化はバイクこぎで充分やっているし、今までトルネード投法で実績を築いてきた。トレーニング方法を変える必要はないし、もし必要なら実行する」と返答しました。自分が絶対的な信頼を置いている立花コンディショニングコーチと2人3脚でやってきた経緯があったからです。
     ところが翌1994年、立花コンディショニングコーチが、科学と経験のミックスによって総合的に選手のコンディションを個々に判断する自らの考え方が鈴木監督に受け入れられず、辞任すると、走り込みをまずは行うことで身体の基礎をつくり、それから選手の個々のコンディションを整えるという鈴木監督の考え方に沿った山下コンディショニングコーチが新たに就任、野茂はこれに大きなショックを受けました。そして、立花龍司という自分の考えに合わなかった人物が去ったことでチームを掌握した鈴木監督自身は、チーム成績を前年の4位から2位へと大きく伸ばしますが、立花という大きな理解者を失った野茂は、的確なトレーニングができないことから来る無理がたたった上に、優勝争いに貢献して結果を残すんだ、と意地を張り通したこともあり、シーズンの半分を棒に振ってしまいます。この年の6月に苦しんでいた肩痛を押して、7月1日の対西武ライオンズ戦、191球を投げぬいたためでした。

     この1994シーズンのオフは、バファローズにとっての、そして、日本プロ野球にとっての波乱の幕開けでした。
     シーズンが終わって契約交渉の段になると、前年最多勝のタイトルを獲得したにもかかわらず年俸アップが認められなかった野茂は、メジャーリーグですでに認められていた代理人交渉と複数年契約を、バファローズのフロントに要求します。
     これは、選手を近鉄本社の契約社員扱いして見下す風潮があった、といわれるバファローズのフロントの上意下達式のサラリーマン感覚によって、自分がバファローズという組織の論理につぶされるのではないかという危機感が当時の野茂にあったからだと推測されますが、あまりにも野茂が活躍するためにもはや野茂に大きな年俸を払えないと感じていたバファローズのフロントは、この交渉の行き詰まりを年俸を下げるためのチャンスととらえ、このことを逆手にとり、保留権のメリットを最大限駆使し、バファローズ以外の日本の球団と契約できない状況に野茂を追い込んだ上で野茂を任意引退扱いにし、年俸の大幅ダウンを野茂に呑ませようとしました。
     プレイする環境がなければ、野球選手は能力を発揮する機会を与えられません。バファローズのフロントはこうやって、野茂を追い込み、会社自身にかかるコストを減らそうとしていたのです。
     一見合理的に見えて実はピントがずれているという、スポーツビジネスという特殊なビジネス形態に一般会社の論理と手法をあてはめる悪い癖が、またここでも出てしまったのでした。

     しかし、このとき野茂を支えていたのは、代理人ビジネスに将来性を見込んで、その分野に乗り込んでいこうとしていた団野村でした。
     団野村は、当時ヤクルトスワローズの監督だった野村克也の義理の息子で、野村監督の2度目の結婚相手だった野村沙知代とアメリカ人の父との間に生まれており、スワローズにて選手経験がある上に英語を使えたのですが、すでに兵庫県の滝川二高を中退し、アメリカの独立リーグチーム、サリナス・スパーズにてプレイしていた鈴木誠の代理人としての活動をはじめていました。
     そして団野村が、日本進出のビジネスチャンスとして目をつけたのが野茂。野茂と団野村は、サラリーマン的“上意下達”の感覚から抜け切れず、法と個人の権利の意識の甘い日本プロ野球界に旋風を巻き起こそうとしていたのです。

     野茂と団野村はこのバファローズフロントのやり方を受け、あることを決行します。
     それが、電撃的なロサンゼルス・ドジャースとの契約でした。
     当時の日本プロフェッショナル野球協約では、メジャーリーグにて日本人選手がプレイすることは想定されていなかったので、任意引退となれば、メジャーリーグのどの球団と契約してもよいこととなっていたのです。
     団野村は、その“法の盲点”を突きました。
     しかし、村上雅則以来メジャーリーグでプレイした日本人選手はおらず、野茂が勝ち取れたのはマイナー契約。年俸980万円からの出発でした。

     ですが野茂は翌1995年、選手生活の頂点を極めます。
     すぐマイナーからコールアップされ、5月2日にはサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地、キャンドルスティック・パークのマウンドに。
     この年驚異の防御率1点台を記録してサイ・ヤング賞に輝いた*52グレッグ・マダックスがそのとき、たまたま故障者リストに入ってしまっていたという幸運もあり、メジャーリーグのオールスターでも先発投手をつとめるという栄誉に輝き、13勝6敗、防御率2.54、236奪三振を記録して、奪三振王、新人王に輝いたのです。
     これに加え、ロサンゼルス・ドジャースは野茂の活躍もあって地区優勝し、野茂自身は日本人選手としてはじめて、プレーオフのディヴィジョンシリーズにて投げています。

    *52 グレッグ・マダックス
    メジャーリーグのシカゴ・カブスにてデビュー、1988年に18勝をマークすると、以後はずっと15勝以上のハイレベルな勝ち星を2004年まで続ける。1992年にフリーエージェントでアトランタ・ブレーブスに移籍してから数年間が絶頂期。1994年、1995年は2年連続で防御率1点台を記録。以後ふたたびカブスに戻り、ロサンゼルス・ドジャースに移籍後、2008年はサンディエゴ・パドレスを経てドジャースに戻り、このシーズンをもって現役引退。2007シーズンも14勝を記録、その姿勢は若い投手の手本になっている。通算355勝227敗、防御率3.16、3371奪三振。

     一方これとは対照的に、鈴木バファローズは最下位に低迷、8月9日からはヘッドコーチの水谷実雄が代わりに指揮を執り、鈴木監督はこの年限りで退団しました。
     前年、1994年とで、鈴木と野茂の立場は逆転したのです。

     ただし後日談にはなりますが、野茂の持つ宿命、つまり、コントロールが安定しないで投球数が多くなり、野手のリズムが狂う、という問題は、メジャーリーグでも変わりませんでした。
     トルネード投法は日本時代に比べると、はるかにコンパクトになり、進化しましたが、メジャー2年目からは落差のあるフォークボールに慣れられて投球数が多くなり、投球数が多くなることでコントロールが乱れ、さらに投球数が多くなることで野手の守備のリズムが崩れることから、当時ドジャーズのチームキャプテンだったエリック・キャロス選手に“何とかしてくれ”と文句を言われたこともありました。
     やはり鈴木監督はさすがに大投手だっただけあって、慧眼だということはいえますし、鈴木監督自身ものちに、

    「三原、西本という大監督の下でプレーしながらそれを生せかなかったのは自分が悪かった。伝え方が悪くて選手に自分の真意が伝えられなかった」

    と言っているところからみると、つくづくお互いの感情的行き違いが2人の対立を生んでしまったのが惜しまれてなりません。
     これは、当時の日本プロ野球において、監督、コーチ、選手の間の三者間でのコミュニケーションがおざなりになっていたからで、野茂自身はメジャー1年目に、こう言っています。

     「僕は近鉄のことしか知らないですけど、おしなべて日本では、まだまだ首脳陣と選手がフランクに話し合えない雰囲気があると思います。事実、近鉄にいた2年間で鈴木監督と話した時間よりも、この数ヶ月でラソーダ監督と話した時間の方が長いんですから」

     しかしこれは鈴木監督に限らず、当時の日本のどの球団にもあったことだったので、この点で鈴木監督だけが悪かったのかといえば、必ずしもそういうわけではありませんでした。
     当時の日本プロ野球そのものが抱えていた、非常に致命的な問題だったのです。

     ちなみに鈴木監督は退団後、NHK-BSの日本プロ野球中継において、選手時代のスタイルそのままに、武骨ではありますが、的確な解説を2008年3月現在に至るまで、視聴者のみなさんに届け続けています。鈴木監督の人柄がにじみ出ている、なかなか好感度の高い解説であることも付記しておきます。

     次回は、鈴木監督退任後の時代についてのお話です。



     第14回 バファローズ編その11


     前回は、選手としての評価は高くても、野茂退団のトラブルのスケープゴートになってしまったために監督としての評価は意外に低い鈴木啓示の実績を紹介し、監督としても決して悪いわけではなかった事実を指摘しましたが、今回はその鈴木監督の後釜に座ったある熱血監督の時代の話です。

     鈴木啓示の次の監督には、西本バファローズのもとでのパ・リーグ優勝メンバー、佐々木恭介が就任します。
     すると佐々木はこの1995年のドラフトに早速登場、当時有望株だった*53福留孝介をくじで引当て、そのとき喜びのあまりに発したヨッシャーという掛け声とともにすっかり全国人気になりましたが、福留には、佐々木本人は尊敬しながらも自分はパ・リーグ向きではないという理由で入団を断られるなど、多難な出発となります。
     結局初めて指揮を執った1996年は最下位を脱出しますが、シーズンオフには、かつての主砲であった*54石井浩郎の契約問題で悩まされることになります。

     石井は1990年からバファローズの主砲として活躍し、1995年には4番打者の連続試合出場記録を達成しましたが、ケガのため1995年以降は低迷し、1996年は故障でわずか2試合の出場にとどまっていました。
     そこでケガによる衰えからこの先、石井に大きな年俸を払えないと感じていたバファローズのフロントは、成績の極端な低下を理由に、契約更改にて年俸50パーセントダウンで出来高払い8500万円か、60パーセントダウンで出来高払い1億円、という条件選択を提示しました。
     当時の日本プロフェッショナル野球協約における、

    「年俸1億円以上の選手は翌年の年俸を30パーセント以上減額しない、ただし、選手の同意があればこの限りではない」

     という条文の但書を利用、野茂のときと同様に、保留権のメリットを最大限駆使し、バファローズ以外の日本の球団と契約できない状況に石井を追い込んだ上で、年俸の大幅ダウンを石井に呑ませようとしたのです。というのも選手自身に減額条件を呑ませれば、年俸の30パーセント以上の減額が可能になるからです。
     つまりフロント側は、契約する側としての有利な条件を目一杯利用して、単なる一契約社員にすぎない石井選手に、年俸のカットを呑むか呑まないかを迫ったのです。

     これは、条文上は野球協約やぶりにはなっていませんが、その法条文の存続意義を冒すやり方で、事実上の脱法ともいえる悪質な行為でした。つまりバファローズのフロントは、事実上の最高決定機関である実行委員会や、名実ともに最高決定機関であるオーナー会議の基礎をかたちづくる基礎中の基礎である野球協約を、ないがしろにしたのです。
     またこれは、石井選手の“侠気”にある種甘えた、選手側の情実を計算に入れてしまうという致命的なミスを最初から犯したやり方でもありました。

     しかし、フロント側のこの目算は、完全に外れました。
     というのも、石井選手はまさに、侠気があったからこそケガを押して出場し続け、バファローズを支えてきたからです。そしてフロント側のこの行為は、石井選手の目に、自分のいままでの侠気、あるいはチームに対する忠誠心をまったく認めてくれないように映ったのです。
     そこでこのフロント側のこの不誠実なやり方に、石井は裏切られたと考え、激怒し、この提示を突っぱねました。

     ところがフロント側も石井選手の足元を見て、そういう態度に出るならということで、トレードを通告。すると石井選手は、

     「この提示は戦力外ということだろう。ただ、トレードしか選択肢しかないのは疑問。自由契約でいけないのか。」

     と主張。戦力外になるのなら、球団は事実上保留権を放棄したのとは同じではないかという主張をします。しかしこれに対し、フロント側は保留権を放棄したわけではなく、石井選手を“使って”なんとかお金をかけずに新戦力を獲得しようと目論んでいたため、

    「契約が決裂した以上、トレードしかない。金銭ではなく、交換トレードで考える。」

     とこれに対して答えました。減額については事実上の脱法をやっておきながら、こちらの面ではしっかりと協約の条文を守り、最大限金銭面での損失が出ないように画策したのです。

     するとこのバファローズのご都合主義の法解釈に基づいたえげつないやり方は、各方面からの反響を呼ぶことになります。
     まず日本プロ野球選手会が、

    「球団が年俸の30パーセント以上の減額を提示し続けることは問題だ。それに年俸の2倍もの出来高払いは球界の秩序を乱す行為で認められない。」

    とコメントを出します。
    というのも、実は額の違いはあれ、成績低下を理由に極端な減俸や無理な出来高払いを強要される選手も過去にあり、この手のトラブルを以前から問題にしていたからです。
     また、チームの功労者の石井に対するフロントの冷徹な扱いに対して、ファン、そして、マスコミをはじめとする世間から球団に非難が集中し、フロント側は立場が次第に悪くなっていきます。身から出た錆であるとはいえ、協約と石井選手の侠気を甘く見た失敗のツケが回ってきたのです。

     結局この騒動の顛末については、事態を重く見たコミッショナー、セ・パ両リーグ会長の三者会談が行われ、「減額は30パーセントまでという野球協約に基づいた条件で交渉のやり直しを求める」ことで一致。原野パ・リーグ会長からもフロント側にこの意向が伝えられ、球団も了承し、交渉は先へと進むことになったのです。

     その後、バファローズと石井選手の交渉は当然のごとく不調に終わり、決裂したため、球団はトレードを前提にして年俸の30パーセント減で契約更改、移籍先を探すことになります。そしてヤクルトスワローズ、横浜ベイスターズ、西武ライオンズ等多くの球団がその獲得に名乗りをあげましたが、戦力強化のため選手を集めている巨人が、石毛博史と吉岡雄二を交換要員にして、トレードが成立させました。
     その後石井はレギュラーにこそなれなかったものの、巨人にて代打、あるいは準レギュラーとして活躍し、3年間巨人に在籍してのち、千葉ロッテマリーンズにて3年間、横浜ベイスターズにて1年間同様の活躍をしてから現役生活を終えましたが、後に、バファローズというチームには愛着があるが、フロント側には言いたいことが山ほどあると語っています。
     実際石井は、野球協約に移籍選手の年俸は据え置きとするという条文があったにもかかわらず、巨人入団時には年俸の30%の減額という内容のバファローズとの契約を破棄し、前年50パーセント減の年俸で契約を行う、と宣言しているのです。
     やはり、野球選手のチームに対する熱い想いをないがしろにし、日本一の私鉄であるというエリート意識でもって居丈高な態度で契約交渉に臨んだバファローズのフロント、いや、近鉄グループ本体の認識の甘さが、またしても問題となってしまったのです。
     こうやってバファローズはフロントの不手際で、関根、野茂といった選手のときと同じく、またもや貴重な生え抜き選手を失ってしまいました。

     幸い、このときに移籍してきた吉岡は、元ドラフト1位であったその野球選手としての豊かな素質を如何なく発揮、主力として活躍し、佐々木バファローズは1997年、3位とAクラス入りに成功します。
     しかし残念ながら、以後は5位、6位と低迷し、1999年でもって佐々木は監督を辞任したのでした。ただし佐々木は、野手を育てるのは上手かったので、この時代に3塁手として中村紀洋、外野手として磯部公一らが育っています。

    *54 福留孝介
    PL学園時代から活躍、バファローズの入団を断ってからは社会人の日本生命に進み、1996年当時史上最年少でアトランタオリンピックの代表チームに選ばれ、銀メダル獲得に貢献。代表チームの調整試合として行われたミネソタ・ツインズ戦で、ツインズの本拠地であるメトロドームにてホームランをかっ飛ばし、そのことが話題になった。
    日本のプロでは1998年、中日ドラゴンズに逆指名で入団。2002年から外野に転向して素質が開花、2002年と2006年には首位打者のタイトルを獲得、2007年オフにはシカゴ・カブスと4年、総額4,800万ドル(約53億円)で契約。2008年よりメジャーリーグに挑み、4年間アメリカに在籍後、2013年からは阪神タイガースにてプレイすることになった。

    *55 石井浩郎
     プリンスホテルから1990年、近鉄バファローズに入団。肝炎と風疹で出遅れたが、後半は1軍に定着。規定打席不足ながら新人で22本塁打を記録した。1991年にレギュラーとなり、一塁、三塁を守った。1994年には打点王を獲得。パ・リーグを代表する打者になった。豪快な打撃とその威圧感あふれるフォームは侍の異名を取り、バファローズのチームカラーにぴったりだった。四番打者の連続試合出場記録を達成したがケガを押しての出場であり、その影響で試合出場が減った。1995年以降はケガのため、低迷し、球団との確執で巨人に移籍。その後千葉ロッテマリーンズ、横浜ベイスターズへ移籍したがケガのため、往年の豪快な打撃は蘇らなかった。打点王を1回獲得。オールスター出場3回。ベストナイン2回。2002年に引退。その後は西武ライオンズの2軍監督をつとめた。

     次回は最終回、いよいよバファローズがその歴史に幕を閉じて、継承球団ともいえる楽天イーグルスが誕生したときの話です。


     第15回 バファローズ編その12


     さて前回は、4番としてバファローズの顔になったにもかかわらず、心ならずも“追い出される”形になってしまった石井浩郎のトラブルの話を中心に佐々木監督時代を紹介しましたが、今回はいよいよ最終回、新監督就任、最後の優勝、そして球界再編騒動から東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生するまでのお話です。

     佐々木が監督職を離れると、後釜には梨田昌孝が座りました。
     梨田が監督に就任した2000年当時、バファローズには佐々木前監督の“遺産”、ともいうべき中村紀洋や磯部公一、あるいは、日本に来てからはじめてホームラン王のタイトルを獲得したタフィ・ローズがいました。
     しかしながら投手陣は、最後を締める抑えのピッチャー、赤堀や大塚以外パッとせず、低迷していたのです。
     吉井理人のような、先発でも抑えでも活躍できるピッチャーを1995年にトレードで出してしまっていたことも問題でした。
     そのこともあって、梨田バファローズは1年目、前年から続く最下位となってしまいました。中村紀洋がホームラン王・打点王の2冠に輝きながら、ピッチャーが打たれまくったのです。

     ですが翌年は、打線が大爆発します。
     ピッチャーがいくら打たれても、打線がこれをカヴァー。チーム防御率が4.98という惨状ながら、ローズが日本プロ野球にて王貞治が持つシーズン最多ホームラン記録と並ぶ55本を放てば、中村紀洋もホームラン46本を放ち、チーム全体で211本のホームラン、打率.280を記録するという超強力打線でパ・リーグを制覇、日本シリーズでは若松監督率いるヤクルトスワローズに敗れましたが、梨田監督は栄冠を手にしたのです。

     が、この時期、バファローズにとっては、あまり喜べない状態が続いていました。
     というのも、関西随一の鉄道会社と呼ばれていた親会社・近鉄本社が、1980年代から続いていたリゾート投資のツケにずっと苦しみ続けていたからです。
     野茂英雄の退団騒動、あるいは石井浩郎問題の裏には、次第に近鉄本社からカネを引き出せなくなってきたために球団経営が苦しくなっていった、フロント側の事情があったのです。
     無論契約社員として野球選手を見下し、あの手この手で財政の引き締めをはかった無節操な姿勢は糾弾されてしかるべきですし、野球選手を中心とする現場側の怒りは当然すぎるほど当然と言えましたが、この事情を考えると、コストカットは仕方なかったともいえます。
     まずいのは、あくまでそのやり方であったということです。

     近鉄本社こと近畿日本鉄道株式会社は、日本経済の土地バブル期(1986〜1991)を端緒にした時代、さまざまな事業拡大策を行った結果、バブルが1990年代中盤から崩壊しはじめるとともにそれら事業のことごとくが採算悪化を招く事態となり、特に2つの崩壊が、近鉄本社、あるいは近鉄グループ全体を揺るがします。

     ひとつは、志摩スペイン村事業の失敗です。
     この志摩スペイン村は、1987年に国会で成立した総合保養地域整備法、通称リゾート法の施行を受けて、開発事業がスタートしました。
     そのメリットは、都道府県が策定し、国の承認を受けた計画に基づき整備されるリゾート施設については、国及び地方公共団体が開発の許可を弾力的に行えたり、税制上の支援、政府系金融機関の融資を行う等の優遇措置が受けられることにあったのです。
     これは観光事業による地域の経済活性化、あるいはそれに伴う雇用の増大を狙うと同時に、会社側からしてもさらに事業の拡大を進めることで、売上全体の拡大を狙っていました。
     また当時の日本経済はカネ余り状況にあり、それまで滅私奉公的に企業にて働いてきたひとびとに生活面での余裕をもたらすことで、盛んに『人間らしさの回復』や『心のゆとり』が叫ばれた事情もあったことから、近鉄本社は21世紀初頭における1大リゾート地を志摩半島一帯に築くことで、この2つをテーマに、事業拡大に乗り出したのです。

     しかし結果は、土地バブルの崩壊とともに工事建設に遅れが目立ちはじめ、事業は縮小・再編を余儀なくされ、結果的には2008年現在も完成に至っていません。
     また入園者数も、1994年のオープン時には3,755,500人あったのに対し、2002年には約半分の1,861,000人にまで落ち込み、運営の日常的な売上状況を表す営業利益や経常利益も、2002年の時点でそれぞれ19億1千万円、22億5千3百万円を計上、そこで何とか事業を成功させようと2003年2月に資本金を48億円から120億円にまで増額し、テコ入れを行いますが、先が見えない状況にありました(のちに2006年、資本金を9千万円にまで減額)。
     もうひとつは、近鉄グループ内中堅建設会社で、東京証券取引所1部にも上場していた大日本土木株式会社の倒産です。
     この大日本土木は、数多くのゴルフ場建設を上記の土地バブル期に行っていた関係からゴルフ場経営に進出、6箇所のゴルフ場をオープンさせましたが、土地バブルの崩壊や日本経済の低迷によるゴルフ会員権の暴落や事業自体の低迷により、全ゴルフ場が軌道に乗らないうちに債務超過(2003年3月時点で50億円超)。
     また、公共工事受注の際の買い叩きや受注低迷によって極度に収益が悪化。2002年7月5日に民事再生法の適用を申請、同年12月25日にこれが認可を受け、会社の整理に入ったのです。
     大日本土木単体の負債総額は、2712億円にのぼりました。

     こうして近鉄本社は2002年3月、創業初の無配に転落しました。
     そこで2003年6月から近鉄グループの総帥となった山口昌紀は、近鉄グループのリストラクチャリングを開始。球団にも経理部のエース、小林哲也を球団社長として送り込み、ネーミングライツを売り出して毎年40億円といわれたバファローズの赤字を減らそうと努力しますが、周囲やファンからの反発を受け、これを断念。紆余曲折もあって球団合併せざるを得ない状況に追い込まれ、2004年8月10日、ついに合併基本書に調印、近鉄バファローズの消滅は決まりました。

     しかしながら以後、さらに紆余曲折があり、東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生、いまでも関西にベースを置くCSチャンネルのスカイ・Aにて年間で中継が行われ、“近鉄”バファローズの命脈はしっかりと息づいています。

    【参考文献】

     プロ野球人名辞典2003 森岡浩編集 日外アソシエーツ
     プロ野球データ事典   坂本邦夫著  PHP出版
     別冊週刊ベースボール プロ野球新・トレード史
     プロ野球 新ドラフト史 1993年版
     背番号のそれぞれの人生 週刊ベースボール連載
     戦後プロ野球五十年、プロ野球比較選手論
     プロ野球トレード光と陰 背番号の消えた人生 近藤唯之著 新潮文庫
     魔術師 決定版 立石泰則著 小学館
     猛牛一代の譜 千葉茂著 ベースボール・マガジン社
     監督たちの戦い 浜田昭八 日経ビジネス文庫
     ハロー、スタンカ、元気かい―プロ野球外人選手列伝 池井優著 創隆社
     読売新聞縮刷版 1996年12月−1997年1月分
     わが熱球60年史 芥田武夫著 恒文社
     和をもって日本となす ロバート・ホワイティング著 玉木正之訳 角川書店
     1988年 10・19の真実 佐野正幸 新風社
     僕のトルネード戦記 野茂英雄 集英社文庫
     球界再編は終わらない 日本経済新聞社編

    【参考web】
     近鉄バス百科:近鉄歴代社長
     > http://kinbus.s35.xrea.com/kingrnews/president.html
     NIKKEI NET:特集 ゼネコン経営
     > http://www.nikkei.co.jp/sp2/nt28/20020705EIMI102505028001.html


現連載

過去の連載

リンク